この記事は、
とある人物の、許しがたい世界観について。について書いています。
世の中にはいろんな神様がいて、
それぞれの信者があーだコーダ言っている。
それでキリスト教とイスラムみたいに、同じ宗教の筈なのに
見事に殺しあいを太古より行っていて
アホじゃないかと思わなくもない。
しばしば勘違いされるけど、神様と宗教は違う。
崇高な存在と、信仰とは別物なんだよね。
もっと言えば信仰とは幻想であり、宗教とは集団幻想である。
集団幻想とは価値観の創造であり
価値観の創造と組織化こそ、力である。
力の行使として、暴力がある。
と言うのが自分の見解だったりする。
じゃあ、唯一神って何?って聞かれれば
自分は神じゃなく、それは質量であり、重力であり
質量ごとに生じる引力が、一つの神だと捉えている。
要するに意思なんかなく、法則であり
それらが集合して今度は相対性な理論を構築し
更には、ニュートリノ等の見えないエネルギー
(最近拾え出してるけど)が理論構築され、
そして実在しているだろう、なんて考えている。
無神論者に思考は近い。
じゃあ、神様って何よ?って言われれば
基本的には先人なんだよね。
色々な困難や災害を、さまざまな知恵で
乗り越えたり、克服したり、取り組んだ人達
また、自然と一体化し、その自然のリズムをも
伝えるのに成功した人達や、
どういうメカニズムかはしらないけど
意思や情報を伝えうる存在がいるらしい(苦笑)
いるらしい、と言うのは、
自分は預言者じゃないので、伝聞です(笑)
神憑りは才能ないです。
簡単に言えば、知恵や考え方、視点
取り組み方、タイミングそういうものの
ヒントを得にいくようなものかな?
なんにせよ、ヒントを得られたりすれば
自分はちょっと恩返しがしたい。
それには、神社に手を合わせる人が
増えたらいいな、と思っている。
結局は人の脳とその仕組みに
信仰は宿るわけで、信仰そのものが
多くの場合、神様を形作るわけで、
それはそれで構わない、なんて思っていたりします。
皮肉にも信仰と力は結び付きやすく、
信仰による正義と粛正は力となりやすい。
正義なき力は暴虐であり
力なき正義は無力である。
故に正義そのものをコントロールする方法として
宗教、特に一神教は、発達した、ととらえると
分かりやすくて、
宗教の数だけ正義がある、
なんて言えるのかもしれない、
そしてそのコントロールのツールのひとつに
いわゆる経典、すなわち聖書があると
位置付けると分かりやすいかな?
故に定義と正義に小うるさい
社会主義は、より宗教的であり
猜疑の、じゃなくて正義の名の元に
粛清にものすごく熱心である、と捉えていたりする。
その他にも習合なんかの技術もあって、神様と言うモデルが
形作られていたりして、その一部は毛沢東みたいな輩も
いなくはない(苦笑)
人の欲望が具現化すると、あんな神様?が出現する。
極端な話、神様と宗教は信仰する人の写し鏡であって、
どうあろうとするか?が、多分凄く大事なんだよね。
そういう意味では暴力とは定量化できる尺度に過ぎず
いわばお金みたいなもの、とも言える。
仮にルーブルにしておくか。
しかし価値観とは、おかねみたいなもので、
ルーブルでなく元であればまた、
価値観が違うし、買えるものも違うし
その暴力性すら違う。
ここに秦の始皇帝が、なぜ度量衡と通貨を
統一しようとしたかが見てとれる。
皮肉にも軍事は貨幣と極めて近い。
軍隊には燃料と食料の補給が不可欠だから、
決済と価値の統一は
兵站における基本となるからだ。
思想と兵站を結びつける統一が
秦の基本であり、統一されて
始皇帝を失って政権は瓦解した。
何故なら、イデオロギーを失ったから
なんだよね。
と言うわけで、そういうのに反感や矛盾を
感じても、神道の神様と言うのは
かなり自由だから、そういう神様も
いたりする。
人には人の、自分には自分の神様が
いるかもと考えると分かりやすい。
つまり宗教とは価値観の統一であり、
統一することによる組織化と
労働力の低コスト化は、力の発動と行使に
効力を発揮する。
一言で言えば宗教は使い方次第で
力の行使における錬金術になる。
と言うと元も子もないけど
信仰が組織化すると、大抵は神の冒涜なのが
不思議ではあるよね。
とにかく、万物の各法則と向き合う方が
大事でその視点や心掛けを
教えていただく存在に
海を割ったり、嵐を呼ぶのを
期待するのは実はちょっと的はずれだったりする。
Posted at 2015/04/29 20:28:00 | |
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