1995年3月20日と言う日付を聞いてピンと来る人こない人、両方あるだろう。僕も、いきなり日付だけを聞かされて「わかる?」と問われても、恐らく首を横に振るだけだ。
けれども、この日に起きたことを知らない人は、まずいない。
この日起きたのは、いわゆる「地下鉄サリン事件」である。
(写真は山梨県上九一色村にあったオウム真理教のサリン製造施設、通称「第7サティアン」)
僕自身はこの日、たまたま普段より多少のんびり出勤しても大過ない状態だったことに乗じて、まさしくのんびり出勤した。
だが、もし仮に定刻に間に合うように電車に乗っていたとしたら、通勤経路から考えて僕自身も被害者名簿に名を連ねていても何ら不思議はなかった。
事実、母の友人が僕の名前とちょっと似た被害者がいることをニュースで知り、(勘違いではあったのだが)大慌てで母に電話をしてきたくらいである。
あの集団が、なぜああいう事件を起こしたのかについては、事件からほぼ9年、さまざまな分析や評論がされている。
カルト、マインドコントロール、洗脳、閉鎖的な集団内での思考停止などなど。それらは、確かに理由の一端ではあるのだろう。
けれども僕は、報道など(恐らく公判でも)で述べ立てられるそれらの「理由」では納得しきれないでいる。それらの理由では、あの集団の幼稚でマンガ的な側面を説明できないと感じるからだ。
オウムと言う集団は、(改名してアーレフとなった今がどうかは知る由もないが)カルトとひと括りにされる中でも、どうも他とは違うように思う。
どう違うかと言うと、最近マスコミを賑わした白装束集団や、「定説です」で有名になった連中は、その言動の端々に精神を病んでいるかのような気配を感じさせるのに対し、サリンでサティアンな集団からにおって来るのは、狂気性ではなくて「幼稚くささ」なのだ。
いわく「コスモ・クリーナー」、いわく「ヘッド・ギア」、いわく「CIAの陰謀」さらには「ホーリーネーム」…60年代後半から80年代にかけての少年マンガや筒井康隆・平井和正などのSF小説に原典を求めないネタなど、ただの一つもありはしない。
それらの創作世界を丸のまま鵜呑みにして、丸のまま現実世界に投射して、丸のままフィクションの主人公の行動原理を実践して…。
そう言う種類の幼稚くささがあの集団とあの事件には付きまとっていて、とても気色悪い。
そしてそれを「幼稚くさく気色悪い」と感じるのは、彼らが僕とは異質で異様なものだから、ではない。
なぜならアレは、僕ら「マジンガーZ」や「宇宙戦艦ヤマト」をほぼリアルタイムで経験した世代が、子供時代に慣れ親しんだ他愛なき空想世界なのだから異質でも異様でもないのだ。
ただ、成人の年齢に達してなお空想にしがみついていることが果てしなく気色悪い。
思いに任せぬ現実と、自分の内面との間にある大きな不整合を、マンガやSF小説の主人公に自らをなぞらえたヒロイックなフィクションで埋め合わせる。
そうした行為自体は、ごっこ遊びや現実逃避(あえて、逃避とする)の一類型で、子供時代には恐らく誰しもが経験したことだろう。けれども「オトナ」になれば、そんな方法では、結局、現実に立ち向かうことなんて出来ないということを知って、オトナなりの対処方法で現実と対峙するなり折り合うなりして行く筈だ。
それが出来なければ―フィクションの繭で自らを守ることから抜け出すだけの成長が出来なければ―人間的に破滅するか、繭に篭り続けて「ひきこもり」にでもなるしかない。
しかし、もし仮に、そういった幼児性を殆ど克服できないままオトナになった人物がいて、その目の前に幼児性を認めてやるソサエティが存在したとしたら…?
以前、いちど元自衛官のオウム事件被告の公判を傍聴したことがある。
いまでは誰の裁判だったかを思い出せないが、そのとき被告人が語った、オウムに入信した理由、事件に関与した動機を、僕は今も忘れることが出来ない。
それは何故だか報道されなかったのだが、彼は自らの口でこんなことを言った。
「自分は、いわゆる被差別部落の出身だ。進学、就職など人生のあらゆる局面でいわれなき差別を受け続けてきた。隊内でも他の隊員や上官から差別を受けた。こんな理不尽な社会は許されるべきではないと思っていた。そんな折、世間に復讐をしても許される、それは正義だと教えるオウム真理教に出会った。だから入信し事件に関与した」。
このとき、もの凄く納得がいった。
「世の中」への仕返しをしたい連中がいて、そう言う報復感情を容認し奨励してやる教義・教団(=ソサエティ)があって、だからそこに所属して…そして、実際に仕返しをした。
(念のため書いておくが、僕は社会的な差別は、それがいかなる種類のものであれ、容認するつもりは微塵もない。ただ、差別を受けたことを理由に報復する、報復が許されると考えることは―この文脈の表現を用いれば―幼稚で甘ったれた大間違いの考えだ、と言いたいのだ)
科学の知識や道具立てがなまじ大人のそれだっただけに、事件では幾人もの人が生命を奪われる、悲惨極まる事態に至ったのだが、根っ子を突き詰めていけば「あいつさえいなけりゃ、自分は(世の中は)もっと幸せになるのに」「あいつら、自分にこんな酷いことをした。復讐してやる」…つまり、そういうことなんだろう。
だから、弁護団がしきりに主張する宗教性だとか言うようなものは(そういえば、中沢ナントカとか吉本ダレソレとか言う一部「知識人」どもは、その辺を大仰に取り上げて礼賛していたっけ)、全然本質ではないと、僕は思っている。
もしかしたら宗教性を云々し得る側面もあったのかもしれないが(僕個人は、そんなモンを見出すことは全く出来ないが)、こと一連の事件に関して検討する限りにおいては、宗教だの信仰だのと言うのは所詮うわべだけの後付けの屁理屈だ。
そして今週末、一連のオウム事件の中核にいる「教祖」、麻原彰晃こと松本智津夫被告の、第一審判決公判が開かれる。どのような判決理由によって、どのような判断を司法が下すのか、確かに注目している。
しかし、僕は思う。
この一連の無差別殺傷事件の異様な側面ばかりに目をやっていると、たぶん、見誤る。いまの世の中で、特に若年層を中心に起きている、余りに短絡的で後先考えないような凶悪事件が、どうしてこうも続くのかを。
その根底に、おそらくはこのオウム事件と同根の「気に食わないから・いやな目に逢わされたから、仕返しにやっつけてやる」と言った幼児的な短絡性があることを。
オウム事件だけの特異な事象だと言うことにしてしまっては、世の中が、どうやら途方もなく幼児的になっていることの危うさに、きっと気づかない。
(ああ、でも9・11後の合衆国の対中東行動方針は、まさにこれなんだな…)