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惰眠のブログ一覧

2006年03月31日 イイね!

君(たち)と夜明けまで

君(たち)と夜明けまでタイトルは艶っぽいかも知れないが、世の中そんなに上手くはできていない。シンデレラ嬢がかぼちゃの馬車で逃げ帰る時間に集まった6人は、揃いも揃ってみな男
 しかも車が足だから、アルコールを入れることもできない。辛い現実から逃げてきたはずなのに、現実と言う奴はどこまでも辛いものなのであった…。

 ついさっき3月が終わったばかりの横浜は、人通りも殆んどなく風が冷たい。数年前はニギヤカな音を立てるように殊更手を加えられた「ちょっと旧い」国産のセダンがバリバリ走ってたこともあるMM21界隈も、随分と静かなものだ。
 先着していたREOパパさんとKahan氏は、開口一番「惰眠さんは絶対に500では来ないと思ってた」と口をそろえる。見透かされたようで悔しい。きょうは日中500のほうに乗ってたんだからいいじゃん…。

 集まったのは山下公園のほど近く。一応観光地でもあるけれども、中華街だってそんなに夜遅くまで営業しているわけではない。横浜は、新宿や渋谷のような不夜城ではないのだ。
 寒いこともあって近場のファミレスに移動して四方山話に花を咲かせる。横浜港まで来てファミレス…疲れきったオジサンたちには、そう言ううらぶれた舞台設定がお似合いかもしれない。
 あ、でもPhanさんはまだ20代の好青年。30の中盤をすぎ白髪もチラホラ見えるようになった我々と一緒くたにしてしまっては申し訳ない。

 コーヒーなどで3時間あまり粘るという、由緒正しいファミレス利用のお作法を全うし、まだ寒い未明の街へ繰り出す。REOパパさんが「桜の写真を撮りたい」と言うので河岸を変え、気がつきゃ観覧車の時計は午前4時を回っていた。



 もう少ししたら明るくなるよとは、ここしばらく完徹が続いたらしいkahanとゆきぞうさんの言葉。5時を前に解散したが、実際、帰る道すがら空が白んできた。

 こういう夜の明かし方をするのは、学生時代以来かもしれない。仕事で朝まで……と言うのならば、この15年の間に散々経験したけども。
Posted at 2006/04/02 16:34:57 | コメント(3) | トラックバック(2) | ユーノス500関係 | 日記
2006年03月30日 イイね!

その手柄は誰のものか・後編 ~日本のJ.Z.デロリアン~

その手柄は誰のものか・後編 ~日本のJ.Z.デロリアン~ (承前)
 さて2000GT。トヨタからプロジェクトに参画しヤマハに駐在したのはわずかに4人。彼らがいくら精鋭だとしても、4人きりで量産車は開発できない。ヤマハ技術陣の力は不可欠だった。

 最終的にトヨタ2000GTは、ヤマハの磐田本社に新設された3号館の工場で生産されることになる。けれどもヤマハにしたって当時はこんな自動車を生産した経験なんぞありゃしないのだ。
 昭和41年、ヤマハは社内に新たに自動車部を置いて2000GT「生産型」の開発に注力することになるのだが、やはり一筋縄では行かなかったようだ。
 自動車部初代部長となった長谷川武彦氏はヤマハ社内誌のインタビューに対して「いくらやっても合格品ができなかった」と述懐している。
検品で指摘された問題点を修正しようとするとかえって製品をいためてしまい、手直しするごとに倍々ゲームのように問題箇所が増えていったと。そして、それを乗り越える方策がどうにも見つからなかったのだと。

 結局、トヨタから「イタリアにあるカロッツェリアを視察してきたらどうか」と示唆された長谷川氏は、現場が困ってるときに外遊とは何事だとの社内の反発を振り切って渡欧する。
 レースで知己のあったジャガーを手始めに、わらしべ長者式に「どっかいいとこ紹介して」とその日暮らしに各国・各社を行脚したと言う。長谷川氏の視察の目的は、まず「カロッツェリアではどんな道具をどう使っているのか」を知ることだった。

 今でこそ世界に冠たる日本の自動車産業だけれども、たった50年前は「自動車って、どんな道具でつくるんですか?」という水準だったわけだ。その会社がバブルの頃にはF1のエンジンを積んだスーパー・スポーツまで市販前提で開発していたのだから、まったく時の流れと言うのは恐ろしい。

 ともあれ、曲折はあったもののトヨタ2000GTは昭和42年に発売された。定価238万円。この年の大卒平均初任給が2万とんで900円ほどだったそうだから、それを基準に考えると今なら2千万円を超える正札を下げてたことになる。ただ、昭和42年ごろの自動車の普及状況から想像すると、当時の人たちは僕らにとっての2千万円カーよりもはるかに手が届かないと感じた筈だ。

 ま、そんなお値段の車だから、買える客など数は知れている。製造されたのは全部で337台。コストダウンを図ったりもしたが焼け石に水、仕舞いにはセンチュリーやS800を開発・生産している関東自動車工業で、恰好のよく似た廉価版(2300GT)を作って売ろうとまで計画したようだが、これも頓挫。昭和45年に2000GTの生産は終了する。オリジナルの2000GT開発に携わった人の一人は「廉価版を作るなんて大愚行。頓挫してホッとした」などと言ってもいるようだが。

 そこで一番最初の問題に立ち返る。トヨタ2000GTは、誰が作った車なのか。
外形的にはトヨタとヤマハの共同開発である。だが生産開発の実働部隊の殆んどはヤマハ発動機の社員が占めた。工場も道具も生産もヤマハだ。
けれどもプランニングや舵取りをしたのはトヨタの河野氏、スタイリングはやはりトヨタの野崎氏、テストドライブはトヨタの細谷氏だから、トヨタが終始手綱を握っていたとも言える。
 でもトヨタ本体は2000GTのプロジェクトに積極的関与をしなかった。ヤマハの安川氏の回想から推測すると、河野氏が腕ずく&口八丁手八丁で自分の会社が首を突っ込まないようにしたようだが、いずれにせよトヨタ自動車工業本体は、脇役以下に見える。

 では、ボンド・カーにまで採用され日本の自動車産業史に燦然たる輝きを残したこの車を生み出した手柄は、誰のものなのだろうか。

 僕は、こう思う。トヨタ2000GTは、トヨタの車でもなければヤマハの車でもない。これは河野二郎の車なのだと。
 河野二郎と言うエネルギッシュで破天荒な人物が、自分の勤め先を炊きつけ利用して作り上げた、彼が個人的に夢見ていた「ホンモノのGTカー」なのではないか、と。その破天荒さを会社が許容した背景には、多分「もはや戦後ではない」と言う高度成長の波に乗った時代だったということもあるだろう。

 僕には河野二郎と言う人物が、GMを辞めて自分の理想の車を作ろうとしたロマンチスト、ジョン・ザッカリー・デロリアンと二重写しになって見える。もちろんそう結論付けるには、河野二郎氏がどういう人物だったのか、もっとよく知らなければならない。
 だけれども、男の胸には浪漫のかけらが欲しいのだ。会社を焚きつけ、ほとんど誰も買えないような値段の、自分のドリーム・カーを思いのままに作っちまった熱い男がいた。そう思うと、何だかワクワクするではないか。
Posted at 2006/03/31 03:04:18 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日本の車 | 日記
2006年03月30日 イイね!

その手柄は誰のものか・中編 ~トヨタ2000GTの野崎喩~

その手柄は誰のものか・中編 ~トヨタ2000GTの野崎喩~(承前)
 1996年8月2日号のmonoマガジンに、級数の小さな細かい活字でビッシリと5ページにわたってトヨタ2000GTに関する記事が掲載されている。当時の関係者複数にあたった、とても興味深い内容の記事だ。

 2000GTはトヨタとヤマハのジョイント・ベンチャーで開発されたのだけれども、ヤマハではトヨタに事業提携を持ちかけるよりも前に日産と組んで、こちらもやはり2000GTと言う名前の車を開発しかかっていた。
 日産との事業は、2輪の売り上げが落ち込んだところに新規エンジン開発にも失敗して苦境に立たされたヤマハ発動機救済の意味もあってか、銀行が仲立ちして実現したものらしい。しかし会社上層部同士が仲たがいをして提携関係は破局、日産とヤマハが組んでの『2000GT』は生まれ出ることはなかった。

 そういう「トヨタ2000GT前夜」があったことから、記者は「トヨタ2000GTの企画は、ヤマハがお蔵入りになった『日産2000GT』案を元にトヨタに売り込んだのではないか」と考え、これを2000GTの設計・試作責任者だった安川力氏ににぶつけている。安川氏はヤマハの人だ。
 彼の答えは「いや、それはないでしょう。企画が全然違いますからね」と簡潔明瞭だった。

 まあ、時代が昭和30年代だったにしても、別の会社と組んで仕掛かっていた商品企画を、そこと競合関係にある企業に持ちかけるなんて仁義に悖ることをする会社だったならば、ヤマハ発動機は信用を失ったことだろう。

 ではトヨタ2000GTはどうやって生まれたのか。安川氏の話は続く。
 1950年代のトヨタに、河野二郎と言う人がいた。数年前に亡くなったが、日本のモーター・スポーツ草創期にトヨタのレース部門を統括していた人物だ。この人が、本格的なGTカーを熱烈に作りたがっていた。
 また、野崎喩氏はコロナHT(1600GT)を手がけたあと、こちらももっと本格的なスポーツ・カーを作りたいと思っていた。歯車が噛みあい企画骨子を煮詰めていたところに、ヤマハ発動機の川上社長(当時)からトヨタに対し、業務提携が持ちかけられる。昭和39年ごろのことだそうだ。トヨタ2000GTの開発は、こうして実作業段階へと進む。

 トヨタからこのジョイント・ベンチャーに関わったのは河野氏、野崎氏ほかエンジンや艤装の高木英匡氏、足回りを担当した山崎進一氏の計4名。開発を取り仕切る河野氏以下の4名は、ヤマハの工場に駐在して「’65年のモーターショーに試作車を展示せよ」との社命を果たすべく開発にいそしむ。それにしても「試作車」だ。コンセプトではない。

 テスト・ドライバーとしてトヨタから参加していた細谷四方洋(しほみ)氏は取材に対し、彼自身も製図器具を持って野崎デザイナーのアシストをしたことを明かしている。ドライバーが、設計を!?いやいや、さすが昭和30年代。少数精鋭の「やれることなら何でもやる集団」が、熱情に突き動かされるままキグチコヘイの「死ンデモ喇叭ヲ離シマセンデシタ」的な開発に突っ走ったことが伺われる。

 スーパーCG33号(奇しくもmonoマガジンと同じ1996年の刊だ)には、野崎氏の手記が載っている。
それによるとトヨタ2000GTのデザインは、氏がアメリカ・GMのデザイン・センターで研修を行っていたころに思いつき、ずっと暖めていたアイディアが基になっているのだそうで、その頃のスケッチの図版も見ることができる。
 余談ながら野崎氏によると米国のデザイン手法は、アイディア・スケッチをもとにまず側面図を描き、それを実寸大まで拡大してから立体モデルの作成に入る手順を踏む由。日本の自動車メーカーもそれに倣ったということだが、野崎氏は「その弊害によるものか、日米の自動車は立体としての抑揚に乏しくなってしまった」と言う趣旨のことを述べている。言われてみれば「そりゃそーだ」という話だ。
(この項さらに続く)
Posted at 2006/03/31 02:31:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本の車 | 日記
2006年03月30日 イイね!

その手柄は誰のものか・前編

その手柄は誰のものか・前編当たり前のことだけれども、今、自動車のデザインは集団作業で行われている。
 例えば僕が乗っているユーノス500の場合、荒川健チーフデザイナーがいくつもいくつも描いたコンセプト・イメージ案の中から1案を福田成徳デザイン本部長が了承し、その荒川原案に沿って岡崎純デザイナー(後にルノーに移籍)がアドバンス案を作成した。これを生産レベルのデザインに昇華したのが小泉巌デザイナーである。集団作業だから「チーフ」デザイナーがいるわけだ。

 ところでこの場合「ユーノス500をデザインした」のは、一体誰ということになるのだろうか。平場で作業した担当だろうか。それとも、原案を出し監修した人だろうか。映画で言えば、「このシャシンはキャメラマンの作品なのか監督のものなのか、はたまたホン屋のものなのか。或いはプロデューサーのものだろうか」と問うのに近いかもしれない。
 まぁ映画ならば「作品は監督のもの」と言われているのだけれども、車のデザインに関して、この答えは容易には出ないと思う。ささきいさお氏の歌うように「みんなその気でいればいい」だけなんだけど、中々そうは行かないのが人の世の常。西崎義展氏と松本零士氏が「俺こそがヤマトの著作権者だ」と法廷で泥仕合を繰り広げたことも記憶に新しい。その気でいるみんながそれぞれに「あれは自分の手柄だ」と口に出すと収拾がつかなくなる。

 けれども、今ほど職制が専門化し分業化する前の「古きよき時代」までさかのぼれば、そういう仕事のできる人の数が限られることとも相まって、結構「誰の作品」かが見えて来やすい。スバル360の佐々木達三とか、Rクーペやキャロルの小杉二郎などなど。ま、そう書いてる僕にしたってこの2人は「言われてみりゃどっかで聞いたことあるかもなぁ」という程度にしか知らない名前なんだけど。

 日本の企業文化のなせる業か、ことほど左様に日本人の自動車デザイナーの名前は知られていない。日産にヘッド・ハントされた中村史郎氏が大々的に宣伝戦略の表舞台に立たされたことが、殆んど唯一の例外のような気がする。

 幻の名車とまで言われるトヨタ2000GTですら、そのスタイリングを賞賛する声は高くてもデザイナーの野崎喩(さとる)氏の名前にまで言及されることは、あまりない。強力な検索能力を誇るグーグルで調べてみると、野崎氏の名前が出てくる記事としてヒットするのはわずか42件、しかもその大半がいのうえこーいち氏の上梓した本の書評と言う有様だ。同様に「トヨタ2000GT」で検索すると約18万6千件が見つかる。野崎:2000GT比は0.02%少々といったところだ。
 試しにガンディーニ:カウンタック比を調べてみると2万0600:33万9000だから、6.07%強。いくら野崎氏が宮仕えのサラリーマンだったにしても、この数字は哀しすぎる。
(この項続く)
Posted at 2006/03/31 02:13:18 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日本の車 | 日記
2006年03月27日 イイね!

当事者の話に勝るものなし

当事者の話に勝るものなし最近見つけたのだけれども、自動車雑誌の『モーターファン』がウェブ上に「モーターファンダイアリーズ」というコンテンツを展開している。その中に『名車をつくった人たち』という記事があって、これが実に読み応えがある好企画なのだ。

 いま「名車」として取り上げられているのは、プリンス(日産)スカイライン、マツダ・コスモスポーツ、トヨタ・カローラ、ホンダ・シビックの4車種。車好きが言うところの「名車」とは若干温度差もあるだろうが、ニッポンの自動車産業史における画期と言う意味では、いずれ劣らぬ重要なモデルである。
 それぞれ、当時の開発に直接関わったキー・マンたちに長いインタビューをして、ライターの解釈を交えないカギカッコ入りの言葉として伝えられていることが実に素晴らしい。

 ノスタルジーや思い入れの色眼鏡、或いは某ドキュメント風番組のように感動させてやろうという演出意図を交えることなく、等身大の技術者たちの肉声を聞くと、巷間自動車メディア発の情報としてまことしやかに語られてきた事柄に、いくつもの「誤解」やバイアスがかかっていたことがよく分かる。

 例えばトヨタの「80点主義」などはその最右翼の一つだろう。カローラの項でインタビューを受けている、何でもかんでもアレは自分の発案だと己の先見の明を誇る幹部氏(事実そうなのかもしれないけれども、ものの言い様がちょっと鼻につく)によると、巷間トヨタ批判の材料に持ち出される「80点主義」は、本来の意味とは違う使われ方をしているらしい。
 ま、それでも「販売(営業=商品企画)のトヨタ」という印象は変わらないのだけれども。

 スカイラインの櫻井眞一郎氏の記事など、まるでロードスターの貴島孝雄氏のインタビュー記事を読んでいるような錯覚にさえ陥る。
 勿論、日本の自動車史的な観点で言えば「何もなかった」ところから数々のエポックを物してきたスカイラインのほうが明らかに大物ではあるのだけれども「こういう車を作りたいんだ」という技術者の想いの強さという点で、両氏はとても似ているように感じる。

 ライターが「あーでもない、こーでもない」書く記事も面白いけれども、評論家やジャーナリストが百万言を費やしたところで、実際に現場でそれを作ってきた人たちの言葉にはやっぱり敵わない。当事者の話に勝るものはないと思うのだ。
関連情報URL : http://www.motorfan.jp/
Posted at 2006/03/27 14:11:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日本の車 | 日記

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何シテル?   09/17 23:51
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