すっかり更新が遅くなってしまいましたが!!3日間の旅も最後となりました。
朝起きると雲量は8程度、天候の回復を祈りつつテントの撤収をはじめました。
キャンプ場には内地ナンバーの2台のハーレーがおり、そちらも出発準備中でした。
荷物を積載し縛着していると、ハーレーのオーナーが「ナナハンでしょ!凄いね~」と
話し掛けてくれたので、少しばかりお話しました。
準備中に少しずつ雲が切れ始め、キャンプ場を出発した9時頃には
厚い雲は文字通り雲散霧消し、素晴らしい晴天が広がりました。
これによって3日連続の晴天という、本当に天候に恵まれた旅となりました。
バイク旅の雨ほど哀しいものはないのです。
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・・・エンジンの音轟々と CBは征く 道の果て・・・
キャンプ場を出発し、山を下りて軽い朝食を取ったのち、
再び急峻な坂を駆け上がって、天狗山の頂へと向います。
天狗山は標高532.5m、山頂にはロープウェイで接続された展望台があり、
小樽市街と石狩湾を一望することが出来ます。
特に夜景は「北海道三大夜景」として広く知られています。
また、冬にはスキー場として賑わいます。
国鉄の「DISCOVER JAPAN」ポスター
ロープウェイの通路に、有名な「DISCOVER JAPAN」のポスターが展示されていました。
天狗山スキー場を紹介しており、当時、実際にここで掲示されていたものと思われます。
「DISCOVER JAPAN~美しい日本と私~」キャンペーンは、個人旅行客の増大を目指して
1970年10月より開始された、国鉄による大規模企画でした。
1964年10月1日、東京オリンピック開催にあわせて戰前の「彈丸列車計画」を引き継いだ
新幹線が遂に開業、1968年10月1日には大阪万博開催を睨んで
”ヨンサントオ”白紙ダイヤ改正が実施され、在来線の輸送力向上が図られました。
当時の日本では団体旅行が一般的でしたが、高度経済成長の中で個人旅行が注目を
浴びるようになり、大阪万博後の旅客需要の確保も狙ってのタイミングで始まったのが、
このディスカバー・ジャパン・キャンペーンでした。
この企画は成功し、多くの人達が日本中を旅しました。
人々は旅の中で、高度経済成長の中で忘れかけていた古き良き日本、
変わらぬものの良さに気付き、故郷の美しさを再発見することとなりました。
80年代に入ると、自動車の普及と航空機の一般化、そして極左集団によって
惹き起こされた各種の非合法・反社会的行為が原因で、国鉄離れが急速に進行、
民営化による国鉄の消滅へと繋がりました。
ディスカバー・ジャパン・キャンペーンは、国鉄最後の光芒でした。
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展望台の外にはリス園がありました。
が、最初に会ったのはうさぎでした
もそもそとレタス食べたり器用にヒゲのお手入れしたりと、仕草がいちいち可愛かったです。
ちゃんとリスもいました
シマシマ模様と毛バタキみたいなしっぽが可愛いです。
網走の呼人リス園のよりは警戒心が強いカンジでした。
入口にエサの自販機があったのですが、使われているガシャポンの筐体がどう見ても古い!
たぶん平成ヒトケタの頃では??
小学生の頃、カンヅメの中に塩ビ製の虫が入ったヤツとか買った記憶があります。
昔住んでいた家の向かいに、「坂本ホーマ」なる地場ホームセンターがあって
そこでガシャポン廻してました。
ゴジラの塩ビ人形とか結構集めたなぁ~、全部どっかにいってしましましたが。。
網走のリス園のリスは人慣れしており、撫でたり手に載せたりもできますが
こちらのリスは割と警戒心が強く、触れられるとすぐに退散してしまいます。
リス園だけど、うさぎが一番触り易いというオチ。
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蒼い空と青い海、森に囲まれた市街地・・・自然溢れる小樽を一望する
好天に恵まれ、暖かな陽射しを受けて満足の行く写真が撮れました
しかしながら機材の性能の限界を感じるのも確かで(腕の無さの言い訳でしかありませんが)
来年には一眼を投入しようと計画しております。
急な傾斜の山腹には、ロープウェイとスキーリフトが見えます
次は夜景と、雪化粧の冬の街を見てみたいです。
以前、真冬にグロリアで小樽を訪れた際には凍結した急坂に苦労しましたが、
RRのレックスであれば然したる問題にはならないでしょう。
天狗山山頂にはリス園、展望台の他にスキー資料館と「天狗の館」なる、
全國各地の天狗の面を飾っている資料館がありました。
スキー資料館の展示の中では、日本で初めて本格的なスキー指導を行った
オーストリア=ハンガリー帝國の陸軍武官、テオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐の
紹介が興味深かったです。
天狗の館の展示の中では、数多の武将・軍人達が怨敵調伏を祈願した、
烏天狗の飯縄大権現が印象的でした。
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天狗山を降りた後、11時に朝里川温泉で入浴しました。
駐車場には、1980年代後半~1990年代初頭頃の年式と思しきロールス・ロイスがいました。
冒頭のスピリット・オブ・エクスタシーはその車輛のものです。
入浴後、小樽郊外のヴィンテージ・モーターサイクルやクラシック・カーを展示してある
カフェに立ち寄り、カフェラテを飲みながら展示車両を眺めました。
1937年式 Velocette MSS
ヴェロセットを製造したヴェロセ社は、1905年創業のイギリスのモーターサイクル・メーカーです。
1905年と云えば、日本では明治三十七八年戰役(日露戰爭)に於いて
熾烈極まる奉天会戰や日本海海戰が行われた、歴史的に重要な年です。
ヴェロセ社は企業としての規模はとても小さく、家族経営による典型的な
イギリスのバックヤード・ビルダーでした。
ハンドメイド故に生産台数も少なかったですが、後世に大きな影響を与えた
数々の革新的な技術開発を成し遂げ、レースでも圧倒的な速さを見せつけました。
1935年にデビューしたMSSは、1933年に登場したOHVエンジン搭載の
Mシリーズの拡大発展型となります。
貨物サイドカー用途にも耐え得るよう余裕を与えた重厚なフレームに、500ccエンジンを搭載。
高い剛性を持つフレームはレース用ベースとしても最適であり、戰前から戰後にかけて
ヴェロセットがサーキットを席巻する原動力となり、大きな利益と誇り高い名誉をもたらしました。
「馬具」の香りを色濃く感じさせるサドル・シート、フィッシュ・テールのマフラー・エンド、
今やアンティークと呼ばれる磨りガラスのようなヘッドランプ、メカニカルな魅力に
溢れるエンジンなど、戰前車にしかない格調高いディティールに満ちています。
他のイギリス系メーカーと同じように、戰後の日本製オートバイの躍進によって
1971年、ヴェロセットは長きに渡る偉大な歴史に幕を閉じたのでした。
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スカイライン1500デラックス 4ドア・セダン(S70D-1)
こちらは珍しい、最初期(1型)のスカイライン1500デラックス(日産呼称型式C-10)です。
合併後の1968年8月1日デビュー、悲しいかな車名は「”ニッサン”スカイライン」に変更されました。
ハコスカは大きく分けて3度のフェイス・リフトを経験しましたが、最も人気が高いのは
”睫毛”がついてツリ目になり、凄みの増した最終型です。
それに対しこの初期型、大人しい顔付きの通称”3ピース”はあまり人気がありません。
しかしなが合併前より設計が進められ、最もプリンスの血が濃く、
ライト・ベゼルの中央にガラスのレンズが組み込まれるなど、細部まで徹底した
デザインを施されているのがこの初期型です。
以降はマイナー・チェンジの度にコスト・ダウンが行われてしまいます。
ハコスカの原点にして本質、それはGT-RでもGT-Xでもなく、この最初期型1500DXにあります。
扱い易いサイズ、広々とした空間、個性的なデザイン、ダイナミックなディティール、
パワフルなエンジン、優れた走行安定性、細部まで気を配った安全性、保守の容易さや経済性。
どれかひとつを突出させることは容易ですが、これら総てを高い次元でバランスすることは
”一点豪華主義”のわかりやすいクルマよりも、遥かに実現することが難しいのです。
スカイライン1500デラックス、1度は乗ってみたいクルマのひとつです。
「2年クルマに乗ると、スカイラインが欲しくなる」
そのコピーが偽りないものか、確かめてみたいのです。
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カフェを後にして、小樽の街中を抜けて札幌方面へと向かう途中、
ハーレー・ダビットソンの販売店に、面白いクルマが多数入庫していたので
慌ててUターンして覗いて来ました。
このショップは以前からマスタング・マック1やリンカーン・コンティネンタルなどを
入庫しており、オーナーの趣味が感じられます。
1956年式 陸王RQ750
1953年から1955年にかけて生産された陸王の代表的車種、それがRQ750です。
この個体は1955年度生産分の1956年登録車と推測されます。
陸王には1200ccの”V型”系統と、750ccの”R型”系統、
350ccの”A型”系統(グローリー)、250ccの”F型”系統がありました。
このRQ型は、1937~1949年のR型、1951~1952年のRO型の後継車です。
V型2気筒サイド・バルブ750cc、22馬力、手動進角、手動油圧ポンプ、前進3段ハンド・シフト、
フット(スーサイド)クラッチという、大凡現代のライダーのは乗りこなせない機構を持ちます。
それ以前に、知識と経験がなければエンジンを掛けることすら不可能です。
陸王は國策として生まれた経緯から、その主たる”顧客”は帝國陸軍であり、
一般人にとっては雲上の存在でありました。
その他の”顧客”も、海軍陸戰隊や天皇陛下の車列を警備する皇宮警察など
極一部に限られており、「陸の王者」の名に恥じぬ威容を以て路上に君臨していました。
たまに「ハーレーのコピー」とか言われますが、違法コピーの類ではなく
正規の契約に基づいた「ライセンス生産」です。
外板にプラスチックなど使っていないホンモノの「鉄馬」、それがこの陸王です。
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1968年式 シボレー・カマロSS
ハイダウェイ・ヘッドライトによって演出される無機質な表情が精悍な、68カマロSSです。
鮮烈なレッドのペイントに、レーシーなホワイトのストライプが雰囲気です。
フードの下に秘めたる大パワーを主張するかのように大きく膨れ上がったボンネットが強烈です。
ホワイトレターのファットなタイヤに、ケツ上げのスタイルがセクシーな
コークボトル・ラインとマッチして、大変蠱惑的です。
日本では、どちらかと言うと第二世代のカマロ(通称サメカマ)が人気ですが、
個人的には第一世代の”baby camaro”の方が好みです。
シャープなウィンドウ・グラフィックスと、グラマラスなウェスト・ラインの
コントラストの美しさと来たら!
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トヨペット・コロナ マークⅡシングルピックアップ
トヨタの最高級車(別格のセンチュリーを除く)クラウンには、3代目50系まで伝統的に、
シングルとダブルの2種のピックアップ(乗用トラック)が設定されていました。
今考えると凄いハナシだ。
しかしクラウンの高級化と車種の多様化を受け、1971年デビューの4代目”クジラ”以降は
セダン・ハードトップ・バン・ワゴンに絞られました。
従来のクラウン・ピックに代わるモデルが、1968年デビューのコロナ・マークⅡピックアップでした。
シングルとダブルの2種が用意され、前半分は高級車/後ろ半分はトラックという構成でした。
旧いコロナ・マークⅡと云えば、”ブタ目”の愛称で知られる3代目X30/40系の残存数が
圧倒的に多く、この初代(T60系)と2代目(X10/20系)はかなり珍しいです。
マークⅡのピックアップは初代限りで消滅し、以降はハイラックスが担当しました。
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マツダ・キャロル360(KPDA型)
キャロルは、マツダがR360クーペに続いてリリースした軽乗用車です。
R360は軽規格での4名乗車は不可能であると割り切って、2by2のクーペとし、
低価格を武器にしてスバル360に対抗しましたが、スバルの牙城を崩すことは叶ませんでした。
キャロルでは一転し、4名乗車に加え3BOXセダン、水冷4気筒オールアルミ・エンジンを採用。
2ドアに加え、クラス初となる4ドアを設定しました。
R360の空冷V型2気筒エンジン、2ドア・クーペという構成とは真逆をいっています。
空冷2ストローク2気筒のスバルに対し、静粛性とヒーター能力で大きく上回る
水冷4ストローク4気筒エンジンは、上級クラスのパブリカ(空冷4ストローク水平対向2気筒)さえ
凌駕する贅沢なメカニズムでした。
後席への乗り込みが容易な4ドア、”乗用車”感覚を発揮する3BOXセダンのスタイリング。
エンジン・ボディともに1クラス上と言える贅沢な構成のキャロルでしたがその反面、スムース
だが非力なエンジン、豪華故に重すぎる車体によって総合性能は低くなってしまいました。
垂直に切り立った個性的なクリフ・カットのリヤ・ウィンドウや、キュートなフェイスなど
魅力的なスタイルと、意欲的(すぎた)な設計など、360cc軽の中でもかなり好きな車種です。
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渋滞の多い札幌市内を抜けて、主要國道である12号線に並行する國道275号線を北上。
275号線は郊外に位置しているので、信号が少なく交通量も少なめなので走り易いです。
ただ、先日ありがたい切符を頂戴したばかりなので、さすがに飛ばす気にはなりませんでした。
ダットサン・サニー1000デラックス4ドア・セダン(B10)
途中、整備工場の入り口に事故でクラッシュした模様の初代サニーが置いてありました。
販売店ステッカーの”日産サニー札幌”が残っていたので、塗装もオリジナルと思われます。
B10はこのグリーンが多いように感じます。
オペル・カデット風のクリーンでストレートなスタイリングは健康的で好ましいです。
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ニッサン・キャブオール(手前)とトヨタ・ダイナ(奥)
その工場の裏手には、2台のトラックがありました。
手前のキャブオール(C240)はそんなに珍しくないのですが、奥のダイナ(K170)は
ちょっと珍しいと思います。
2代目ダイナは1963年3月にフルモデル・チェンジ、1968年まで生産されました。
この個体はグリル・パターンからして後期型と思われます。
キャブオールはホーンリング付の朝顔型ステアリングを持つ、見るからに古そうな
トラクタ・シャシを積んでいました。
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275号線から道道81号線を通って、新篠津村にあるFLAMINGO CAFEへ。
50sスタイルで統一されたオシャレなこのお店は、1955年式フォード・フェアレーン ヴィクトリアと1975年式三菱・デボネア エグゼクティブを所有するオーナーの経営するカフェです。
時間はもう4時でしたが、まだまだ暑くアイスコーヒーを戴きました。
カフェを後にして、岩見沢市に出た頃には時計の針は5時を廻っており、
もう釧路に向って帰らなければ間に合わない時間だったのですが、
芦別の先輩のところに挨拶してから帰ることにしました。
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岩見沢市内の國道12号線から、三笠市を抜けて桂沢湖へと至る道道116号線を走り、
そこから富良野・芦別方へと國道452号線を進みます。
ひたすら樹海を走ること70km余、1時間程度で芦別に到着しました。
その後先輩の御家族と共に焼肉を戴き、クルマ談義に花を咲かせているうちに
あっという間に夜になってしまいました。
結局、軽く寝てから釧路に向かうようにというお言葉に甘えて仮眠させていただきました。
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深夜2時半に起床。
わざわざ起きてくださった奥さんにお礼をして、静かに家を出ました。
騒音が迷惑にならないよう國道までバイクを押して移動した後、エンジンを始動しました。
コンビニに移動し、軽食で体力をつけて防寒装備をきっちりとして3時に出発しました
山々の稜線はすでに明るくなり始めています
見上げれば一片の雲もない、満天の星空が広がっていました。
芦別市は「星の降る里」というキャッチコピーを掲げていますが、納得できる光景でした。
最終行程、芦別~釧路間265km、時間にして概ね4時間半。
良い旅だった、と言う為には人車共に無事に家まで帰投することが肝要です。
グリップを握る手にも力が入ります。
・・・実際には寒さで手が悴んでいるだけですが。
真夏とは云え、さすがに深夜から払暁前にかけての樹海は冷え込んでおり、
ビバンダム君並の着膨れ厚着も虚しく、冷たい風が身を切るようでした。
まぁ、10~11月の深夜に走る時みたいに指先の感覚が無くなり、レバーの操作も
難しくなるようなコトはありませんでしたが・・・。
空冷エンジンには、多少寒いくらい方が冷却的には良いので我慢我慢。
CB750のエンジンは、フレームから両端がはみ出ており夏場の真昼間には
ストーブに跨って走っているみたいな状態になります。
更に酷いのは6気筒のCBX1000で、乗り手が良いカンジに
ボイルされそうなレイアウトになってます。
冷たい風を切り裂き、山中を直走ります。
さすがに深夜ともなると対向車とすれ違うことは稀で、ライトの切換の頻度が少なくて楽です。
CBのヘッドライトがオーバーラップ式になるのはK-2型からで、K1型では
スイッチングが巧くいかないと、完全に灯火が消えてしまいます。
現代のバイクのように常時点灯ではなく、off/low/highの3接点式で
しかも横にスライドする操作系統なので、正直言って遣り辛いです。
まぁ、アメリカ人向けに作ってあるバイクなので自分の指の長さでは不足なのかも知れません。
途中、速度計の針が沈黙していることに気付く。
どうやらケーブルが断線したようです。
これらのワイヤー類も、ヘタしたら新車時から交換されていないことも十分有り得るので、
40年の耐久性を持っていた、とポジティブに考えておきます。
(ちなみに、後日スロットルのケーブルも断線しました。)
走行距離が加算されなくなり、現在発揮している速度が不明となりましたが、
タコメーターの示す回転数で、おおよその速度は予想できます。
切符を切った直後ということで、もともと速度は控え目だったのであまり影響はありませんでした。
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結局、家に着いたのは明るくなってからでした。
昨年の利尻・礼文に続き、2度目の離島遠征に挑んだ今回の旅でしたが、
スケジュール的にも前回より余裕があり、終始好天に恵まれ素晴らしい旅となりました。
早朝の山中、昼下がりの高速、夜の離島、渋滞する都市部と、刻々と変わる
気象・道路条件を総て軽く熟し、1500km余の全行程を一切のトラブル無く、
見事走破して見せたCB750には感謝の言葉もありません。
いよいよ道内で未踏の離島は天売・焼尻を残すばかりとなりました。
来年の夏の訪問を予定しています。
その次は内地、さらに次は外地を目標に走り続けられるようにCB750を労わっていきたいです。
走りながら各種の部品交換を進めていく、ランニング・レストレーションを目標としています。
さぁ、来季は轍をどこに残すかな。