大河ドラマ八重の桜にあやかって、戊辰戦争で戦った会津戦士たちの足跡と、関連する史跡を訪ねてきました。その一日をブログにしてみました。
新島八重と日向ユキ
明治20年(1887)7月14日、会津戦争以来19年ぶりに再会した幼なじみの八重とユキです。ふたりの父は元会津藩士で、家は斜め向かい、互いに「おユキちゃん」、「お八重ちゃん」と呼び合う仲でした。ふたりはもう一人の幼なじみ高木時尾(元新選組斎藤一夫人となる)の家で、小さいころ時尾の祖母から裁縫を習っていました。
八重は会津戦争終了後、京都へ上洛し、兄・覚馬と再会後、新島襄と再婚。襄と覚馬の3人で同志社英学校を運営する傍ら教壇に立っていました。一方、ユキは会津戦争中、小山に逃れ、戦後、斗南藩野辺地村、函館へと移住しました。明治5年(1872)、ユキは北海道開拓使で旧薩摩藩士の男性と結婚、会津・薩摩の敵味方同士のブライダル第一号となりました。
この度の再会は、八重が体調の良くない襄のために、医師の勧めで避暑をかねて襄と北海道旅行に出た際に札幌のユキと再会したといういきさつがありました。八重43歳、ユキ37歳でした。
八重は襄とともに故郷会津にも寄ったことがありましたが、ユキは会津戦争の出来事を一切口にすることはなく、また再び会津の地を踏むことなく、北海道でその生涯を全うすることになりました。
山本覚馬
文久2年(1862)12月、上洛した覚馬はその後目を患い失明しますが、薩摩藩邸で捕虜となった際、日本の将来像を書き綴った『管見』が西郷隆盛の眼にとまり、戊辰戦争後に釈放、身の回りの世話をしてもらった小田時栄と再婚し、一女をもうけました。
国際感覚豊かであった覚馬は京都府の要職に就き、新島襄から私立学校の相談をもちかけられると、維新後自らが購入していた旧薩摩藩邸(二本松薩摩藩邸)の土地を襄に譲渡、同志社英学校の設立に協力しました。
山本覚馬・新島八重生誕の地
鶴ヶ城の西側、現在の米代2丁目にある山本覚馬・新島八重生誕の地です。現在は会津史家・宮崎氏の邸宅に看板があるのみです。ただ、会津戦争当時と道幅は変わっていないそうです。
当時の米代2丁目付近の住宅地図です。
拡大してみるとこんな感じです。山本覚馬・八重(山本権八)宅があり、すぐ隣は八重が鉄砲を教えた白虎隊士中二番隊・伊東悌次郎(伊東俊吾)宅、斜め前は日向ユキ(日向左衛門)宅、その隣が高木時尾(高木盛之輔)宅があったことがわかります。
西郷頼母
会津藩家老であった西郷頼母は、会津戦争時が始まると、長男・吉十郎を残し母や妻子を一度に亡くすという不幸に遭い、その後箱館戦争にも参戦しましたが敗れ、吉十郎を連れ学習塾を経営するなど諸国を渡り歩いていました。しかし、吉十郎にも早世されてしまいました。
最娩年の明治32年(1899)、再び会津に戻り、長屋暮しを始めましたが、明治36年(1903)に死去、享年74歳でした。
墓は頼母の意思で、自刃した千恵(子)とともに会津若松の善龍寺に入りました。
会津藩の家老が次々と自刃していくなか、最後まで自らの命を絶つことなく、故郷会津でその生涯を全うしたことになりました。
また、養子とした甥の志田四郎に柔道を教えたことにより、四郎は講道館で活躍。姿三四郎のモデルになりました。
甲賀町通りにあった西郷頼母邸、現在の会津武家屋敷です。
当時の西郷頼母邸は、甲賀町通り鶴ヶ城の真正面にありました。
なよ竹の碑
なよ竹の 風にまかする 身ながらも
たわまぬ節の ありとこそきけ
慶応4年(1868)8月23日、西郷邸で自刃した頼母の妻・千恵(子)が最期に残した辞世の句です。
句の意味は、か弱い婦女子の心をたわまぬ竹の節になぞらえながら、会津婦女子の精神の強さを歌いあげたものです。千重子は34歳でした。
二十一人之墓
『西郷隆盛一代記』に、薩摩藩士(かつては土佐藩士といわれていた)の川島信行が、西郷邸の玄関より入り、書院とおぼしき所を通り、奥の部屋に進むと、男女が環座で自殺していたという。
長女で16歳の細布子(たいこ)はわずかに息があり、「その所に参らるるは、敵か味方か」と尋ねたところ、川島がとっさに「味方だ、味方だ」と叫んだ。
細布子は、その場に倒れ、懐剣を出し、咽喉を刺そうとするが出来ず、川島が不びんに思い介錯をしたという。
そして、千恵子らの辞世の短冊を持ち帰ったという。
会津戦争後、焼け落ちた西郷邸に頼母の姪がやって来て、千恵子らの遺骨を掻き集め、ここに埋葬したのが二十一人之墓です。
私もこの場で手を合わせたことはいうまでもありません。
西郷頼母・千恵子の墓
西郷家は藩祖・保科正之以来代々の家老職の家柄で、保科正之の分家でした。先祖よりも小さい墓石に、晩年に用いた号「八握髯翁」の文字が刻まれています。
また、飯沼千恵子とは、千恵子の旧姓でした。
善龍寺
保科正之が寛永20年(1643)に会津に入封すると同時に創建されたのが善龍寺でした。この山門は他が会津戦争で全焼するなか唯一残った山門です。小田山の麓にあります。
中野竹子
会津藩江戸詰勘定役・中野平内の長女・竹子は薙刀の名手で、娘子軍(じょうしぐん)の隊長格として新政府軍に果敢に薙刀で挑みましたが、新政府軍の銃弾に倒れました。
むしろ会津では八重の桜が始まるまで、八重より竹子のほうが有名であったかもしれません。
慶応4年(1868)年8月23日、鶴ヶ城に籠城できなかった竹子は、同じく入城できなかった依田まき子・菊子、岡村ます子、母・孝子、妹・優子とともに義勇軍を結成しました(娘子軍は後に命名されたもの)。
容保の義姉・照姫が城下の坂下(ばんげ)にいるという情報を得た竹子らは、護衛のため坂下に向かったところ、誤情報であるということが判明。鶴ヶ城へ戻ろうとしたところ、高瀬村に駐留していた家老・萱野権兵衛の軍と鉢合わせました。
竹子らは従軍を願い出ましたが、女を戦場に出すことにはいかぬ、と権兵衛が一旦拒否するも、竹子らの意志は固く、結局権兵衛が折れ、従軍の許可を取りました。
柳橋(涙橋)の戦い
8月25日、ここ柳橋で長州兵と大垣兵と出くわした竹子らは戦闘に加わりました。ところが、一発の銃弾が竹子に命中、竹子は絶命しました。
薙刀の剣先に自らの歌を付けて戦いに挑んだ竹子でしたが、その歌が辞世の句となってしまいました。
柳橋(涙橋)から続く旧越後街道沿いに中野竹子殉節の碑があります。
中野竹子の墓
会津坂下町にある竹子の菩提寺法界寺には、竹子の遺品のひとつ、柳橋の戦いで使用した薙刀が公開されています。撮影の許可が取れなかったのは残念でしたが、故郷会津のため命を賭して戦った中野竹子は会津戦士の誇りといえる武士です。竹子の首は介錯され、ここ法界寺に埋葬されました。
母・孝子は娘子軍に加わらなかった八重に不信感を抱いていたのですが、城に戻るや妹・優子に鉄砲を教えて欲しいと、八重に嘆願したそうです。
武士の猛きこころにくらぶれば
数には入らぬ我が身ながらも
小田山
鶴ヶ城の東南標高372mの小田山は、古くは会津の戦国大名・蘆名氏の山城・小田山城がありました。会津藩校日新館を創立した名家老・田中 玄宰(たなか はるなか)や、北方警備軍事奉行・丹羽能教の墓があり、会津戦争時には会津藩の火薬庫も小田山にありました。
西軍小田山砲台跡
新政府軍の城下侵入後、城の東にあった極楽寺の僧侶は、小田山の地形が軍事的に優れていることを密告します。城までは直線距離でおよそ1.5km、十分な射程距離でした。城下侵入から3日後、新政府軍は小田山を占拠。この時、籠城していた新島八重は、最初の夫である川崎尚之助と共に、城南にあった砲台から小田山の砲台へ反撃しています。
明治元年(1868)9月14日、苛烈なアームストロング砲の攻撃が開始され、家老・山川大蔵の妻ら大勢の籠城兵が命を落としました。会津藩はこの小田山を占拠されたことが致命傷となりました。ちなみに西軍とは今でも会津のひとたちがいう言葉で、新政府軍のことを指します。
今晩の八重の桜では、遂に会津藩は降伏してしまいました。この後、藩は解体され、ある者は斗南藩(青森県・岩手県境)、また頼母のように箱館戦争へと続く者もおり、結局会津藩は消滅します。
歴史的には、その後も朝敵の汚名を60年近く負わされるようですが、会津戦争を生き永らえた藩士たちの人生は必ずしも暗転したものではないということが最近この本などでわかりました。
細部に大河ドラマとは違う描写がありますが、八重の桜は、ほぼ史実に乗っ取った展開のようです。
従来幕末ものはあまり面白味がない、というのが正直な感想でしたが、会津戦争を映像で見て、会津のひとたちがいかに必死だったか、共感するものがありました。
私は八重さんとは少なからず縁があるわけで、これからも八重の桜を応援していきたいと考えています。