• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

Cyber Xのブログ一覧

2013年08月24日 イイね!

近江商人の故郷 近江八幡・彦根紀行 < 八幡山城、八幡堀、近江商人町、彦根城 >

近江商人の故郷 近江八幡・彦根紀行 &lt; 八幡山城、八幡堀、近江商人町、彦根城 &gt;夏休み最終は、滋賀県近江八幡市と彦根城です。近江八幡は、天正13年(1585)の豊臣秀吉の甥・豊臣秀次による城下町建設が始まりでした。旧城下町に残る八幡堀や、近江商人と呼ばれる豪商たちの旧家が残っている近江八幡と、国宝・彦根城を訪れてきました。






八幡山ロープウェイ
豊臣秀次の八幡山城は、標高271メートルの山頂まで所要時間4分の八幡山ロープウェイで登ることができます。早速、琵琶湖が見渡せる八幡山に登ってみました。


八幡山山頂には、村雲御所 瑞龍寺(むらくもごしょ ずいりゅうじ)という寺院があります。途中にある石垣は秀次時代の八幡山城の名残です。紅葉の青葉がたくさん見られます。ここは、紅葉でも有名な名所です。


村雲御所 瑞龍寺
瑞龍寺は慶長元年(1596)、秀次の母・とも(日秀尼)が秀次と処刑された妻子らの菩提を弔うために、後陽成天皇から京都嵯峨・村雲に寺地と、寺号「瑞龍寺」を与えられ創立した寺院でした。瑞龍寺は日蓮宗寺院では唯一の門跡寺院で、別名を村雲御所と称し、以後、代々皇女や公家の娘を貫首として迎えました。昭和36年(1961)に、八幡山城本丸跡に移築され現在に至っています。
毎年7月15日の秀次の命日には、現在の住職により供養がとり行われています。


霞んでいますが、西の丸跡からの琵琶湖南部大津・比叡山方面です。反対方向、北の丸跡からは、信長の城跡・安土山が見えます。


ロープエイ乗り場にあったポスターです。近江八幡市には、安土城と観音寺城もあります。


八幡堀
豊臣秀次が城下町建設と同時に掘らせた濠が八幡堀です。琵琶湖とつな
がっており、当時の琵琶湖は京・大坂への米や物資の一大流通ルートでした。


明治橋から新町堀まで川沿いの石畳を歩いてみました。


新町堀です。今でも時代劇のロケで多く使われる場所だそうです。


新町通りの近江商人旧家へ向かいました。


近江商人の町並
近江商人は、八幡商人、日野商人、湖東商人という地域によって呼ばれ方も違っていたそうです。その内、八幡商人はここ近江八幡を拠点に、江戸、京、大坂へ出店し活躍しました。


青い目の近江商人、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
明治38年(1905)、近江八幡市に英語教師として赴任したヴォーリズは、近江八幡を拠点に多くの西洋建築を手がけました。心斎橋大丸や、関西学院大学、同志社大学の一部はヴォーリズによって建てられたものです。また、近江八幡市内に近江兄弟社を創設し、メンソレータム(現メンターム)を普及させたのがヴォーリズそのひとでした。
近江八幡市内にもヴォーリズが手がけた洋館街や郵便局、学校などが今でも残っています。


彦根城
琵琶湖畔を北へ、彦根城にやってきました。


彦根城から見える佐和山城です。佐和山城は天守をもつ城でしたが、石田三成の亡霊が彷徨っているという噂がたつと、徳川家康は徹底的に破却するよう命じました。


国宝・現存天守
元和8年(1622)に完成した彦根城の天守閣です。何といっても日本に12しか残っていない現存天守です。


今回の紀行ドライブは、最後に願ってもいないこの人(猫?)に出会うことができました。
ひこにゃんですっ!(^-^)/



司会者いわく、「ひこにゃん、体力がないので、ときどき皆さんの前でひと休みしますが、許してやってくださいね」 。 午後3時定刻どおり、ひこにゃん登城!

うわぁっ~、ひこにゃ~~ん、ひこにゃ~ん


これぞ一期一会と申しますか、今年夏休みの最後は、ひこにゃんでした!(^-^)/
Posted at 2013/08/24 18:00:00 | コメント(4) | トラックバック(2) | 史跡 | 日記
2013年08月17日 イイね!

備中岡山紀行Ⅱ < 岡山後楽園、岡山城、備中松山城 > 

備中岡山紀行Ⅱ &lt; 岡山後楽園、岡山城、備中松山城 &gt; 岡山紀行は二日目、岡山後楽園と岡山城、現存天守の備中松山城です。









岡山後楽園
岡山後楽園は、岡山藩主・池田綱政が家臣の津田永忠に命じて、貞享4年(1687)に着工、元禄13年(1700)に完成しました。日本三名園として、水戸偕楽園、金沢兼六園とともに地方では数少ない大名庭園です。


入園してまず驚いたのは、その大きさと園内の端から端までが全部見渡せることでした。とても手入れが行き届いた綺麗な庭園でした。あと、偕楽園や兼六園との大きな違いは、岡山城の天守閣が正面に見えることです。これぞ、大名庭園といったところでしょうか。


右からぐるりと廻ると、左手の建物が「延養亭(えんようてい)」といい、藩主が後楽園を訪れたときの居間として使われた建物で、右手が「鶴鳴館(かくめいかん)」という建物です。





この日も岡山市は最高気温が37℃だったでしょうか。気持ちよさそうです。



「井田(せいでん)」といい、かつて園内の大半は田畑でした。今のように芝生に変わったのは、明治以降でした。


後楽園の真ん中にある「沢の池」です。その向う側の小高い山を「唯心山(ゆいしんざん)」といい、藩主はこの眺望を眺めてくつろいだようです。池が真ん中にある庭園を回遊式庭園といいます。





岡山城
岡山城は天正18年(1590)、宇喜多秀家によって築城が開始されました。子供のころから秀吉に可愛がられた宇喜多直家の子、八郎は秀の一字を譲り受け秀家と改名すると、57万4000石という大封を与えられ、この地に岡山城を築城することが許されました。

岡山城は数少ない現存天守をもつ城として残されてきましたが、惜しくも昭和20年(1945)の空襲で焼失してしまい、現在の天守は昭和41年(1966)に市民の要望で再建された鉄筋コンクリート製の復元天守です。黒壁は豊臣期に築城された城の特徴で、別名「烏城」とも呼ばれています。


天守から見える後楽園です。旭川が間を流れています。天守内はエアコンがよく利いていて快適でした。


月見櫓
本丸で、唯一戦火を免れた建造物がこの月見櫓です。17世紀初めの建造物です。櫓とは倉庫や物見に使われた建物でした。


築城時(宇喜多時代)の石垣
宇喜多秀家は、義父・前田利家とともに秀吉の重臣(大老)として君臨しましたが、秀吉、利家が相次ぎ亡くなると、徳川家康と対立、関ヶ原の戦いでは石田三成に味方をしましたが敗れ、一時薩摩国・島津義弘のもとに身を隠しましたが、やがて捕縛され、息子らとともに八丈島へ流され、そこで生涯を全うしました。経緯はわかりませんが、本丸内地中にあった宇喜多秀家当時の石垣です。


午前8時台にホテルを出て、一目散に後楽園、岡山城に来ましたが、だんだん気温が上昇してきました。全身汗びっしょりでした。



暑いときはやっぱりこれに限ります。しばし、岡山城を眺めながら休憩しました。



後楽園と岡山城、素晴らしい観光名所でした。


備中松山城
岡山観光二日目最終は、備中松山城です。岡山県の山間部、高梁市にある海抜430メートルの山城です。山城といっても、備中松山城の天守は現存天守です。1680年代の築といわれています。


日本100名城、現存天守と揃えば、無料なわけはありません。入場料を払って天守に向かいます。


現存天守
天守は寛永19年(1642)に5万石で備中松山藩主となった水谷家二代・勝宗によって、1681年から1683年にかけて修復されたものです。その水谷家は四代で跡継ぎがいなく断絶改易、城代として赤穂藩家老・大石内蔵助が城に入りました。城の受け取りは赤穂藩藩主・浅野内匠頭でした。


天守内部です。


備中松山藩と新島襄
今年の大河ドラマは、新島襄の妻・八重の物語ですが、襄自身は当時の藩主・板倉家と接点があったようです。新島襄は安中藩士の息子で神田で生まれましたが、安中藩主・板倉氏は、備中松山藩・板倉氏の分家でした。要するに親戚同士でした。

襄は二度目の挑戦で凾館から米国へ渡りますが、一度は安中藩主の反対により凾館行を断念しますが、二度目にその手助けをしたのが備中松山藩の板倉勝静藩主でした。当時5万石の小藩としては稀な快風丸という西洋式帆船をもっていた備中松山藩は、襄の乗船を許可。襄は米国へ渡ることができました。

襄は帰国後、京都に同志社英学校を設立しますが、板倉勝静の行為を恩と思い、備中松山藩があった岡山県高梁市にキリスト教の伝道にやってきました。その襄の教えに感動したひとたちによって、日本で京都に次いで2番目のプロテスタントの教会が高梁にできました。


夏休みを利用して岡山県の城郭を訪れてみました。とくに現存天守のある備中松山城は、行ってよかったという感が強く残っています。時期は知りませんが、兵庫県の竹田城と同じくして、「雲海」がみられる城だそうです。一日目の備中高松城、鬼ノ城、二日目の、後楽園、岡山城、そして最後に訪問した備中松山城は、またいずれ機会があれば行って見たい、そんな私のお城めぐりでした。

備中松山城 三の平櫓東土塀(重要文化財)

日本三大山城 備中松山城 石垣群
Posted at 2013/08/17 03:00:04 | コメント(5) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年08月14日 イイね!

備中岡山紀行Ⅰ < 備中高松城、鬼ノ城 >

備中岡山紀行Ⅰ &lt; 備中高松城、鬼ノ城 &gt;お盆休みを利用して岡山県の城郭を訪れてみました。その一日をブログにしてみました。









備中高松城水攻め
天正10年(1582)3月15日、織田軍中国方面司令官・羽柴秀吉は、織田軍と毛利軍の国境・備中へ向け進軍を開始しました。亀山城(岡山市東区)の宇喜多勢を加え、4月15日総勢3万の羽柴軍は毛利方の備中高松城を包囲しました。
しかし、4万の毛利勢が備中高松城救援のために援軍を出したという知らせを聞いた秀吉は、一日も早く備中高松城を攻略するため、軍師・黒田官兵衛の奇策を取り入れ、低湿地帯にある備中高松城に対して、水攻めを敢行しました。

『備中高松城水攻めの図』より


5月8日に着工した堤防工事は、現在のJR足守駅から蛙ヶ鼻(かわずがはな)まで東南約3キロメートル、高さ8メートル、底部24メートル、上幅12メートルにわたる堅固な長堤で、足守川の水をせきとめようとするものでした。秀吉は蜂須賀正勝、浅野長政、堀尾吉晴らに堤の各箇所を担当させると、農民や士卒らも動員させ、わずか12日で完成させました。
折しも、梅雨の時期にあたり降り続いた雨によって足守川が増水して200haもの湖が出現。備中高松城を孤島と化すことに成功しました。


蛙ヶ鼻築堤跡
石井山の麓にある蛙ヶ鼻築堤跡です。この辺りに当時の堤の跡を見ることができます。中央のわずかな膨らみが堤跡です。ちょうどここが堤の東端にあたります。



備中高松城跡
天正3年(1575)以来、毛利輝元は備中高松城に清水宗治を配置し、毛利領最東端のこの地まで支配を及ぼしていました。毛利輝元は後に秀吉の五大老に就任しますが、この時期はまだ対立関係にあり、備中高松城攻防に対しては、叔父にあたる吉川元春、小早川隆景に全軍の指揮を任せていました。毛利輝元は毛利本家・毛利元就の孫で、吉川元春は元就の次男、小早川隆景は元就の三男でした。
備中高松城の本丸です。今は綺麗に整備された公園で、周囲に蓮が多く見られます。



宗治蓮
昭和57年(1982)、岡山市が歴史公園復元計画で沼の復元をしたところ、400年前地中に埋められていたはずの蓮が自然発生しました。水上に散った城主・清水宗治の霊がそうさせたものかもしれません。


清水宗治首塚
毛利方は外交僧・安国寺恵瓊を黒田官兵衛のもとに派遣し、和睦の条件を提示しましたが、一旦拒否されると、清水宗治は安国寺恵瓊を城内に迎え入れ、自らと兄と家臣の4人の首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託しました。
天正10年(1582)6月3日のちょうどこの日、信長が明智光秀の謀反により本能寺で討死したという密書を手にした秀吉は、毛利方との和睦を急ぎ、翌4日この和睦条件を受け入れると、城から小舟で出た清水宗治らの切腹を石井山本陣から見届けました。


清水宗治 辞世の句です。

浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して



羽柴秀吉
本能寺の変を伝える知らせが毛利方に届いたのは、宗治の切腹直後である6月4日の夕刻でした。吉川元春は秀吉軍の追撃を主張しましたが、小早川隆景は和睦を遵守すべきと反対したため、交戦にはいたりませんでした。秀吉は、毛利軍の出方を一日見極めた上で、6日の昼過ぎに京に向けて軍勢の移動を開始しました。備中高松城に杉原家次を置き、光秀との決戦に向け、山陽道を東へ驀進しました。
これが世にいう「中国大返し」で、秀吉軍は現在の岡山市から京都府大山崎町まで、わずか数日で行軍し、13日には光秀軍をわずか半日で下しました。秀吉の「備中高松城水攻め」、「中国大返し」は天下統一へ邁進する羽柴秀吉のウルトラCだったといえます。


この日は岡山市で37℃、高知県四万十市では観測史上最高の41℃を記録した日でした。また、お盆で渋滞も激しく、名神高速西宮ICから阪神高速を経由して神戸を抜けるまで2時間以上もかかりました。
まさに、あっちちの一日でした。


岡山市高松町を後にして、次は総社市の鬼ノ城に車を走らせました。最上稲荷参道にある大鳥居です。


鬼ノ城

備中高松城から車で半時間ほど走ると、標高397メートルの切立った山頂に見えてくる城が見えてきます。ここが日本100名城に登録されている鬼ノ城(きのじょう)です。


西門に行ってみました。


鬼ノ城西門(復元)です。平野からも見えますが、近くから見ても神秘的にも見える古代遺跡です。



山頂から見える備中高松城方面です。ちょうどまん真ん中あたりが備中高松城、その少し右に大鳥居があります。山の向う側に少し見えるのは、岡山市中心街です。


今回は行きませんでしたが、福山城方面です。


この日は岡山市のこのホテルで一泊、5月に予約を入れていました。


夕食の懐石料理です。この後、一品料理が次々とでてきます。







お盆休みを取って、備中・岡山まで行ってきました。みんカラ登録以来初の中国遠征でした。翌日、岡山を代表する名所・名城を見てきましたが、続きはまた後日にします。

Posted at 2013/08/14 17:00:01 | コメント(4) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記
2013年08月10日 イイね!

八重の桜 京都紀行 ~新島家、山本家の人びと~

八重の桜 京都紀行 ~新島家、山本家の人びと~大河ドラマ八重の桜は舞台が京都に移りました。今回は新島家と山本家に関する史跡を訪ねてきました。












山本覚馬邸
山本覚馬は『山本覚馬建白(管見)』が京都府に認められ、現在の河原町御池下ル付近の大邸宅に住むことが許されました。この邸宅に隣接していたのが、京都府大参事・槇村正直の邸宅でした。当時の面影はありませんが、この辺りが覚馬の邸宅だったようです。
明治4年(1871)10月、上洛した八重ら山本家はここで覚馬と再会、しばらくこの覚馬邸で暮らすことになりました。


御池通りのすぐ北にあったのが、長州藩邸でした。現在はホテルオークラが建っています。また、河原町通り側には本能寺があり、三条河原町、四条河原町までは徒歩30分以内で行ける好立地でした。


女紅場
鴨川にかかる丸田町橋西詰にあった女紅場(にょこうば)跡です。無職であった八重に女紅場勤務を勧めたのは覚馬でした。女紅場というのは女学校で、八重は明治5年(1872)4月、女紅場の教師となりました。校舎は旧九条家邸で、御殿と呼ばれる大きな建物でした。
ところが明治8年(1875)11月18日、八重は女紅場を突然解雇されてしまいました。その年の9月、新島襄と覚馬が連名で京都府に提出していた「私学開業願い」と「外国人教師雇入れ許可願い」の認可が下りた矢先の出来事でした。


同志社英学校
同年10月、襄は公家の高松保実から御所の東、寺町丸太町上ルにある屋敷(後の新島邸)を仮校舎として借り受ける契約を取り交わすと、同月15日かねてより知り合いであった八重と婚約しました。
しかし、襄が雇い入れた外国人宣教師が神戸から京都にやってくると、京都の僧侶らは一斉に反発、外国人宣教師の追放を訴え、京都府大参事・槇村の元に抗議のため押し寄せました。

すでに2年前、キリスト教は解禁されていましたが、仏教色の強い京都では僧侶らの同意を得られないと判断した槇村は、八重が女紅場でしばしばキリスト教を教えていたこと、また八重が槇村のもとに何度も助成金の増額をせがみに来ていたことを理由に、襄と八重が婚約したことを知ると、その報復手段として八重を女紅場から追い出し、覚馬の京都府顧問を解きました。
さらに襄に対しては、高松保実に働きかけ、襄との仮校舎の契約を破棄するよう命じました。しかし、11月襄と槇村は、学校で聖書の授業は行わないという約束を交わすと、同月29日に無事、高松邸に同志社英学校仮校舎を開校することができました。

当時の日本は、日本人が外国人を雇用することは許されていましたが、その逆を禁じていました。
また、槇村の黒幕は、外務卿(外務大臣)の寺島宗則という人物で、寺島は同志社英学校を外国人が設立した学校とみなし、槇村に直接圧力をかけていたものでした。
同志社英学校は、実質アメリカン・ボードという外国人宣教師団体の資金による学校で、襄は設立当初から苦難に立たされることになりました。


新島八重
明治8年(1875)4月、襄は槇村と覚馬のところに参上し、覚馬から京都で学校をつくるよう勧められ、一時、河原町の覚馬邸に住んでいました。襄の結婚観は、「亭主が東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人は御免です」と槇村に話したところ、槇村は「それならちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬の妹で、どうだ、この娘と結婚しないか、仲人は私がしてあげよう」といわれたと、後に八重は回想しています。

明治9年(1876)正月2日、八重はキリスト教の洗礼を受け、翌3日めでたく夫婦となりました。御所近くのディヴィス邸で行われた結婚式には、覚馬、母・佐久、姪・みねが列席し、八重の結婚を祝いました。その年の10月、八重は女子塾(同志社女学校)の教師になりました。


新島旧邸
この敷地は、幕末まで幕府の御用大工棟梁中井家の屋敷があり、明治初年公家・高松保実が所有していました。明治8年(1875)11月29日、新島襄はこの高松邸の半分を賃借して、生徒8名で同志社英学校を開校しました。翌年、学校は旧薩摩藩邸に移りますが、新島は高松邸を購入し、自宅を建築しました。
これが今の新島旧邸です。



台所です。キッチンの高さは八重の背丈に合わせたものです。また、画期的なのは井戸が併設されていることです。襄の設計の気配りがうかがえます。


食堂です。八重は学生をしばしば呼んで、食事を提供していたそうです。当時食材の調達が難しかったロールキャベツやステーキを作って、ふるまっていたそうです。ただ、薩摩出身の学生にはやはり、冷遇をしていました。これを襄に咎められ、改心したという話が伝わっています。


応接間です。八重は正月になると、会津で流行っていた板カルタを学生たちとやるのですが、相当強かったそうです。百人一首を下から読み上げる独特のカルタ取りで、今では北海道の一部でしか残っていないカルタなのだそうです。


オルガンです。今でもちゃんと音がでるそうです。年二回の御所一般公開で使用されたことがあるそうです。


襄がしばしば寝そべっていたというソファです。今も残っているということ自体、新島襄と八重の存在の大きさが垣間見てとれます。


襄が使用していた書斎です。


襄の死後、八重が板間を改装してつくった茶室「寂中庵」です。女紅場時代の八重は同僚教師に、後に裏千家13代圓能斎宗室(えんのうさいそうしつ)の母がいました。明治27年(1894)、裏千家の門をたたいた八重は、圓能斎宗室から大正12年(1923)、79歳のとき「奥秘(おうひ)」を授かりました。


新島旧邸の見学は来年3月までインターネットによる予約が必要です。


徳富蘇峰
同志社英学校に在学中の若き徳富猪一郎は、八重と襄が互いに、「八重さん」「ジョー」と呼び合うことや、八重が和服に西洋式のブーツを履くその格好にただらなぬ反感をもっていました。ある日の演壇上、ふたりを目の前に学生たちが聴衆するなか、八重を鵺(ぬえ)と罵りました。
また、自責の杖事件では、中途入学者と正規入学者のクラス合併問題に腹をすえ、授業を集団欠席させる首謀者となりました。襄はすべての責任は自分にあるといって、学生たちの面前で、左手を木の杖が折れるまで叩き続けました。徳富猪一郎はこれを機会に自ら退学しました。
明治23年(1890)1月、神奈川県大磯の旅館百足屋(むかでや)で襄が危篤になった知らせを聞くと、襄の元に駆けつけ、襄に謝罪し、臨終を見とどけました。


山本みね
覚馬と前妻うらの娘・みねは、同志社女学校を卒業後、徳富蘇峰の従兄にあたる熊本藩士・横井小楠の息子・横井時雄と結婚しました。時雄は同志社英学校卒業の一期生でした。ふたりはキリスト教の洗礼を受け、各地に伝道活動を行っていました。
明治20年(1887)1月、二人めの子供を産みましたが、産後の肥立ちが悪く、早世してしまいました。墓は横井家の菩提寺、南禅寺にあるそうです。向かって右側の女性です。


山本時栄
山本覚馬の後妻・時栄は慶応年間に覚馬の知り合いであった兄の勧めで、目が不自由になった覚馬の身の回りの世話を行い、明治4年(1871)に長女を出産、河原町で生活を共にすることになりました。ところが、明治18年(1885)、山本家で「一寸むつかしいこと」が起こりました。

『徳冨蘆花 黒い眼と茶色の目』から

明治18年(1885)山本家は養子として、会津から18歳の男子を迎えた。時栄さんは35歳で、その青年

は同志社の寄宿学生で、時々山本家でも寝泊りしていた。時栄さんは私が17のときに生れた子とい

い可愛がった。

そのうち、時栄さんは病気になった。ドクトル・ペリーの診断を受けたら、思いがけなく妊娠であった。

ドクトル・ペリーはおめでとう、もう五か月です、といった。

声が山本さん(覚馬)の耳に入って、俺は覚えがない、と言い出した。

山本家は大騒ぎになった。

新島家と横井家はその処分に苦心した。

相手はすぐ養子の青年と知れた。

時栄さんは最初、養子を庇ってなかなか白状しなかった。

鴨の夕涼みにうたた寝して、見も知れぬ男に犯されたといった。

その口、実が立たなくなると、今度は非を養子に投げかけた。

最後に自身養子を誘惑した一切の始末を白状して、涙とともに許しを乞うた。

永年の介抱をしみじみ嬉しく思った山本さん(覚馬)は、許す心であったが、八重とみねが否応なし

に時栄を追い出してしまった。

山本久栄
明治19年(1886)2月19日に離婚が成立し時栄には、覚馬との間に久栄を残していました。久栄に送られてくる手紙は、新島家が厳重に管理していました。
明治19年(1886)9月、自責の杖事件で兄・徳富蘇峰とともに同志社英学校を退学した弟の健次郎(後の徳冨蘆花)が再入学してきました。従兄の横井時雄(みねの夫)邸に寄宿していた健次郎は、みねの異母妹・久栄に恋をします。久栄は健次郎より3歳年下の17歳、同志社女学校の学生でした。ところが、久栄には女学校で盗みをしたなど、よからぬ噂がつきまといます。

ある日健次郎は、手紙を差し出し、久栄を御所近くの寺に誘いだしました。ところが、健次郎が久栄に差し出す手紙はすべて、従兄の横井時雄らの知れるところとなっていたのです。横井家は久栄との交際を反対しますが、すでに健次郎は久栄と婚約をしていました。

しかし、横井家だけではなく、新島家からも反対され、久栄と会うことを禁止されてしまいます。やがて、学校中知れ渡ってしまった健次郎は同志社の退学を決意します。久栄に一旦別れの手紙を差し出した健次郎でしたが、一目顔を見ようと同志社女学校の門をたたきます。そこに現れたのが八重でしたが、八重は襄と久栄と4人なら新島邸で会わせてもよいと承諾します。結局、失恋をした健次郎は久栄と言葉を交わすことなく京都を去りました。

この後、健次郎は東京の雑誌社に就職し、別の女性と結婚しますが、久栄は父・覚馬が亡くなった翌年明治26年(1893)、病気を患い23歳という若さで亡くなりました。



熊野若王子神社

熊野若王子神社(くまのにゃくおうじじんじゃ)26代宮司・伊藤快彦は山本覚馬が京都顧問をしていた関係で新島襄のことも知っていました。ある時、覚馬から同志社英学校の宣教師が亡くなり、埋葬場所に困っているという話を聞いた伊藤快彦は、当神社の社領地を墓地として新島襄に提供をしました。
さらに、明治23年(1890)、新島襄が亡くなると、葬儀前日に埋葬予定をしていた南禅寺から断られたことから、先の縁で新島家、山本家に墓地を提供しました。


同志社墓地
左京区鹿ヶ谷にある同志社墓地は、新島夫妻をはじめ、山本覚馬、久栄、戊辰戦争で亡くなった山本三郎、権八をはじめ、佐久ら同志社関係者の人たちが集められています。


新島襄と八重夫妻


山本覚馬と徳富蘇峰


山本権八、佐久、三郎


山本久栄


このブログを書くにあたって、同志社大学、女子大学の新島旧邸内の配布資料や、徳冨蘆花の『黒い眼と茶色の目』岩波文庫、熊野若王子神社29代伊藤快忠さんの直筆資料を参考にしました。

Posted at 2013/08/10 23:59:54 | コメント(2) | トラックバック(0) | 史跡 | 日記

プロフィール

「関東で一番遅い紅葉 =亀山湖紅葉狩りクルーズ 2017 = http://cvw.jp/b/9733/40797129/
何シテル?   12/02 20:00
オートビレッジ時代の2001年11月に登録しました。みんカラもメジャーになり、国産車から外国車まで、いろんなオーナーカーを見て楽しませてもらっています。2015...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2013/8 >>

    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

リンク・クリップ

350S G's ~納車から1年インプレッション~ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/08/26 21:01:12
*紅葉めぐり* ~河口湖の畔にて~ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/12/05 20:01:55
*秋色水鏡*  ~南アルプスのふもと 南伊奈ヶ湖より~ 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/12/05 19:52:36

ファン

31 人のファンがいます

愛車一覧

トヨタ マークX G's トヨタ マークX G's
2015年4月7日登録のマークX 350S”G's”です。G'sのエクステリアと、3. ...
トヨタ チェイサー トヨタ チェイサー
2001年式最終型JZX100チェイサーツアラーV TRD Sportsで、2015年4 ...
トヨタ チェイサー トヨタ チェイサー
この前期100系ツアラーSにそもそも乗り換えたキッカケは、当時所有していた91年式C33 ...
日産 ローレル 日産 ローレル
グレードはツインカムターボ・メダリスト。同じRBエンジンのR32スカイラインGTS-tと ...

過去のブログ

2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2013年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2012年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2011年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2010年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2009年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2008年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2007年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2006年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2004年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2003年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2002年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2001年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
©2017 Carview Corporation All Rights Reserved.
閉じる