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2015年07月19日 イイね!

過激派 デモ隊?

Posted at 2015/07/19 12:26:28 | トラックバック(0) | 日記
2015年04月20日 イイね!

防衛大学校卒業式 訓示







【平成26年度 防衛大学校卒業式 内閣総理大臣訓示】

言葉尻を捉え、揚げ足を取っていないで、安倍総理の国防に対する決意と自衛隊員への想いの先にある我々国民への愛情、こういう訓示こそマスコミは広く世間に報道すべきで、国民も国防への認識を新たにして頂きたいと思います。

http://youtu.be/iLheT8gtPks
以下全文を書き出しました

本日、伝統ある防衛大学校の卒業式に当たり、今後我が国の防衛の中枢を担う諸君に対して心からのお祝いを申し上げます。卒業おめでとう。

諸君の礼儀正しい誠に凛々しい姿に接し、自衛隊の最高指揮官として大変頼もしく誇りに思います。本日は卒業生諸君が幹部自衛官としての新たな一歩を踏み出す門出の日でありますので一言申し上げたいと思います。

その日のガダルカナル島には70年前と同じように雲一つなく強い日差しが降り注いでいたそうであります。昨年秋、練習艦「かしま」のタラップをのぼる諸君の先輩たちの胸には、かの地で収容された百三十七柱の御遺骨がしっかりと捧持されていました。そして御遺骨に無事祖国へと御帰還いただく、今回の練習航海ではその任務にあたってくれました。
遠い異国の地において祖国の行く末を案じ家族の幸せを願いながら戦場で倒れられた多くの尊い命、そのご冥福を戦後70年という節目の年に幹部自衛官への道を踏み出す諸君たちと共にお祈りしたいと思います。そしてこうした尊い犠牲の上に我が国の現在の平和がある、そのことを私たちは改めて深く胸に刻まなければなりません。

二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。私たちにはその大きな責任があります。

戦後我が国はひたすらに平和国家としての道を歩んできました。
しかしそれは「平和国家」という言葉を唱えるだけで実現したものではありません。自衛隊の創設、日米安保条約の改定、そして国連PKOへの参加、国際社会の変化と向き合い、憲法が掲げる平和主義の理念のもと果敢に「行動」してきた先人たちの努力の賜物であると私はそう考えます。

「治に居て乱を忘れず」

自衛隊 そして防衛大学校の創設の父でもある吉田茂元総理が防大一期生に託した言葉であります。

「昨日までの平和」は「明日からの平和」を保障するものではありません。大量破壊兵器の拡散やテロの脅威など、国際情勢は私たちが望むと望まざるとに関わらず絶えず変転しています。「不戦の違い」を現実のものとするためには、私たちもまた先人たちに倣い決然と「行動」しなければなりません。いわゆるグレーゾーンに関するものから集団的自衛権に関するものまで、切れ目のない対応を可能とするための法整備を進めてまいります。

「行動」を起こせば批判にさらされます。過去においても「日本が戦争に巻き込まれる」といったただ不安を煽ろうとする無責任な言説が繰り返されてきました。しかし、そうした批判が荒唐無稽なものであったことは、この70年の歴史が証明しています。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって任務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえる」、この宣誓の重さを私は最高指揮官として常に心に刻んでいます。

自衛隊員に与えられる任務はこれまで同様危険の伴うものであります。しかし、その目的はただ一つ、すべては国民の命と平和な暮らしを守り抜くため、そのことにまったく変わりはありません。その強い使命感と責任感をもって、これから幹部自衛官となる諸君にはそれぞれの現場で隙のない備えに万全を期し、国防という崇高な任務を全うしてほしいと思います。

東日本大震災をはじめ相次ぐ自然災害のたび、自衛隊は昼夜を分かたずまた危険を顧みず救助活動にあたってきました。自衛隊に対する国民の信頼は今や揺るぎないものとなっています。

「軍事力は戦うためだけのものである」という発想はもはや時代遅れであります。災害救援に加えて紛争予防、復興・人道支援、あらゆる機能を備えた軍事力の役割は、国際社会において大きく広がりつつあります。

24年前ペルシャ湾における掃海活動から自衛隊の国際協力活動の歴史は始まりました。湾岸戦争で敷設された1200個もの機雷が我が国にとって死活的な原油の輸送を阻んでいました。
「『爆破成功』の声で世界は日本の存在を知った」。
派遣された隊員の言葉からは当時の誇らしげな気持ちが伝わってきます。気温50度にも及ぶ厳しい環境、それも海の中では石油パイプラインが縦横に走る緻密さが要求される現場で、3ヶ月以上にわたり稼働率100%、自衛隊の高い士気と能力を見事に世界に示してくれました。
内戦によって傷ついたカンボジアでは初のPKO活動に臨みました。自衛隊が作った道路や橋が平和を取り戻し、復興するための大きな力となったことは間違いありません。部隊がタケオの町から撤収する日には感謝し別れを惜しむ現地の皆さん、大勢の子供たちで沿道は溢れていたそうであります。
今この瞬間も自衛隊は灼熱のアフリカにあって、独立したばかりの南スーダンの自立を助けるためPKO活動にあたっています。ジュバの町で自衛隊員が通う病院、その運営はカンボジアのPKO部隊が行っています。内戦から復興したカンボジアは今PKO活動に積極的に参加し、共に汗を流すパートナーとなっています。その隊長が現地の自衛隊員にこう語ってくれたそうであります。
「UNTACでの日本の活躍は母国カンボジアの人々の記憶に今も鮮明に残っている。このカンボジア病院も本当は誰よりも日本人に使ってほしい。私たちは日本人ためならば24時間いつでも診療する用意がある」 。これまでの20年以上にわたる自衛隊の国際協力は間違いなく世界の平和と安定に大きく貢献している、大いに感謝されている、私は自信を持ってそう申し上げたいと思います。そしてのべ5万人にのぼる隊員たちの揺るぎない使命感と献身的な努力に心から敬意を表したいと思います。

海の大動脈・アデン湾における海賊対処活動では、本年5月戦後初めて自衛隊から多国籍部隊の司令官が誕生します。これはこれまでの自衛隊の活動が国際的に高く評価され信頼されている証に他なりません。

世界が諸君に大いに期待しています。世界が諸君の力を頼みにしています。その誇りを胸に自衛隊にはより一層の役割を担ってもらいたいと思います。

本日ここには、インドネシア、カンボジア、タイ、大韓民国、東ティモール、フィリピン、ベトナム、そしてモンゴルからの留学生の皆さんもいらっしゃいます。言語や習慣の異なる中での生活や学びの日々は大変なものであったと思いますが、この日を迎えられたことを心からお慶び申し上げます。それぞれの母国に戻ってからもどうかこの小原台で培った絆を大切にしてほしい、皆さんの母国と我が国との防衛協力を更に発展させていくため、皆さんの活躍を期待しています。そして日本は皆さんの母国をはじめ国際社会と手を携えながら、戦後70年を機に「積極的平和主義」の旗を一層高く掲げ、世界の平和と安定にこれまで以上に貢献していく覚悟であります。

南太平洋に浮かぶパラオ・ペリリュー島、この美しい島は70年前の大戦において1万人を超える犠牲者が出る激しい戦闘が行われた場所であります。守備隊長に任ぜられた中川州男中将は本格的な戦闘が始まる前に、1000人に及ぶ島民を撤退させその命を守りました。いよいよ戦況が悪化すると部下たちは出撃を強く願いました。しかし、中川中将はその部下たちに対してこのように語って生きて持久戦を続けるよう厳命したそうであります。
「最後の最後まで務めを果たさなければならない」

諸君の務めとは何か。
それは二度と戦争の惨禍を繰り返さないこと。そのために自衛隊の中核を担う幹部自衛官として、常日頃から鍛練を積み重ね隙のない備えに万全を期すことであります。そしていかなる事態にあっても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くことであります。私は諸君の先頭に立ってこの責務を全うする決意であります。どうか諸君におかれても全身全霊をかけて、この国民への務めを果たしてほしいと願います。

御家族の皆様、皆様の御家族を隊員として送り出して頂いたことに自衛隊の最高指揮官として感謝に堪えません。皆、こんなに立派な若武者へと成長いたしました。これは防衛大学校での学びの日々だけでなく、素晴らしい御家族の背中を彼らがしっかりと見て育ってきた、その素地があったればことだと考えております。本当にありがとうございました。大切な御家族をお預かりする以上、しっかりと任務を遂行できるよう万全を期すことをお約束いたします。

最後となりましたが、学生の教育に尽力されてこられた國分学校長をはじめ、教職員の方々に敬意を表するとともに平素から防衛大学校に御理解と御協力を頂いている御来賓御家族の皆様に心より感謝申し上げます。

卒業生諸君の今後益々の活躍、そして防衛大学校の一層の発展を祈念して、私の訓示といたします。

内閣総理大臣 安倍晋三








Posted at 2015/04/20 20:42:44 | トラックバック(0) | 日記
2015年03月27日 イイね!

スーパー耐久 2015



いよいよ今週末 スーパー耐久2015 開幕戦 茂木 はじまります。



今シーズンは 心機一転 ST4クラス 牧口エンジニアリング


FINA ADVAN サントラント BRZ にて 一年間 乗車いたします









エントリー台数 クラス最多の中 たった一台の BRZ!


頑張りま~す(^。^;)





Posted at 2015/03/27 06:50:53 | トラックバック(0) | 日記
2015年03月11日 イイね!

日本大虐殺




【大空襲
  ~日本全土ホロコースト】

本日3月10日は東京大空襲の日です。
大空襲といえば東京だけであったと誤解している日本の若い人達、
また戦争屋が牛耳っている犯罪大国・アメリカの国民もまた、
原爆は知っていても、大空襲の存在や、自国の罪の大きさを自覚する
アメリカ国民は皆無ではないでしょうか!

だから、彼らは繰り返す!
必ず、繰り返す!

移民政策等々彼らの傀儡である売国政治家を通し、日本を襲うのです。

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●東京大空襲 ~ その投下方法(正統史観年表)
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html
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●ねずブロ「3月10日は東京大空襲の日」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1823.html#more
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●日本全土空襲を計画&実施した
カーチス・ルメイ少将(東京大空襲指揮官)
https://www.youtube.com/watch?v=hOCYcgOnWUM
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●写真はこちらからも見られます
http://cb1100f.b10.coreserver.jp/air_raid_on_tokyo.html
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●昭和20年3月10日 史上最大の虐殺
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html
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日本全土がまさにホロコースト(焼き殺す)だったんですね。

数年前、近所のあるお年寄りから聴いた言葉が
とても印象的で、耳を離れません。
「原爆で、一瞬で死ねた人は良かった。」
と心底「よかった」という表情で
繰り返し言われたのです。

そして…
「私たちは焼け苦しんだ。
その苦しみは言葉ではとても言い表せない。地獄だった」
  ↓

◆アメリカの大罪:日本主要大都市へのホロコースト(焼き殺す)

東京
1942年(昭和17年)4月18日 ドーリットル空襲。
1944年(昭和19年)11月24日 マリアナのB29による初空襲。B29・111機が出撃し、途中故障で引き返した機を除き88機が爆撃に参加。中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野市)が目標。 東京はこれ以後、以下の大空襲を含む106回の空襲を受けた。
11月27日 中島飛行機武蔵製作所2回目の空襲。中島飛行機武蔵製作所は初回から最後の翌年の4月12日まで11回空爆される。
1945年(昭和20年)2月15日 - 米空母機動部隊艦載機による本土初空襲(ジャンボリー作戦)。関東の軍需工場が標的。
3月10日 東京大空襲(下町大空襲)。死者約8万-10万。負傷4万-11万名。焼失26万8千戸。
4月13日 城北大空襲。B29・330機。死者2459名。焼失20万戸。主として豊島・渋谷・向島・深川方面。
4月15日 城南京浜大空襲。B29・202機。死者841名。焼失6万8400戸。主として羽田・大森・荏原・蒲田方面。隣接している川崎市も同時に空襲を受けた。
5月24日 B29・525機。死者762名。焼失6万5千戸。主として麹町・麻布・牛込・本郷方面。
5月25日 山手大空襲。B29・470機。死者3651名。焼失16万6千戸。主として中野・四谷・牛込・麹町・赤坂・世田谷方面。国会議事堂周辺や皇居の一部も焼失。

名古屋
1944年(昭和19年)12月13日以降、名古屋は軍需工業地帯が集中していたため下記の大空襲を含む63回の空襲を受けて死者8630名、負傷者11164名、罹災者52万3千名の被害を出した。実際には死者は1万名以上にのぼるとみられる。
1945年3月12日 名古屋大空襲 B29・288機。死者602名。負傷者1238名。全焼2万9千戸。
3月19日 死者1037名。負傷者2813名。焼失3万6千戸。
5月14日 B29・480機。この日の空襲で名古屋城が焼失した。
6月9日 熱田空襲 B29・43機。死者2068名。負傷1944名。
6月21日 B29・120機。死者426名。負傷者327名。

大阪
大阪は1945年(昭和20年)1月9日以降、 下記の大空襲を含む33回の空襲を受けた。
1945年3月13日 大阪大空襲 B29・279機。死者3115名。焼失13万2459戸。
6月1日 B29・474機。死者3150名。焼失6万戸
6月7日 B29・250機。死者1594名。負傷者4967名。焼失5万6千戸。
6月15日 B29・469機。死者418名。負傷者1842名。焼失4万9千戸。
6月26日 B29・約100機。死者592名。負傷者1102名。焼失約9千戸。
7月24日 B29・約400機を含む大小二千機。死者187名。負傷317名。焼失554戸。
8月14日 B29・約100機。死者173名。負傷89名。焼失二千戸。大阪城にあった砲兵工廠が目標であった。

神戸
詳細は「神戸大空襲」を参照
神戸は1945年(昭和20年)1月3日以降、下記の大空襲を含む83日・128回、死者8841名、負傷18404名、焼失12万8千戸の被害を終戦までに受けた。同年3月17日の大空襲で旧市街地の西の地域を中心に焼失する。
1945年3月17日 神戸大空襲 B29・309機。死者2598名。負傷者8558名。全焼6万5千戸。罹災人口23万6千名。
5月11日 B29・92機。死者1093名。負傷者924人。
6月5日 B29・481機。死者3184名。負傷者5824名。全焼5万5千戸。罹災人口21万3千名。

京都
京都は1945年(昭和20年)1月16日以降、合計20回以上の空襲を受けて死者302人、負傷者561人の被害を出した(京都空襲)。
1945年1月16日 死者41人
3月19日
4月16日
4月22日
5月11日 京都御所へ空襲。
6月26日 死者43人、負傷者66人、被害家屋292戸(全壊71戸、半壊84戸、一部損壊137戸)。被災者850名
主要地方都市
1944年

1944年6月15日 八幡空襲 中国の成都の基地から初めてB29が本土を空襲した。
10月10日 十・十空襲 沖縄県全域に対しての米艦載機による空襲(フィリピン進攻の準備作戦)。那覇市街での被害が大きかったため、那覇空襲とも呼ばれる。
10月25日 大村大空襲 当時東亜最大規模と言われた第21海軍航空廠があった長崎県大村市を狙った空襲。死者約500名。

11月21日 熊本初空襲
1945年2月
2月12日 鎌倉空襲 神奈川県鎌倉市の市街地を爆撃。
1945年3月
3月1日 台南初空襲 日本統治時代の台湾台南市
3月18日朝 大分空襲 航空隊施設を狙ったものと見られ、宇佐・大分・佐伯が空襲を受けた。
3月18日朝 鹿児島初空襲 グラマン・カーチス等の艦載機40機が桜島上空に現れ、郡元町にある海軍航空隊を急降下爆撃。
3月19日 アメリカ軍機動部隊、室戸岬沖80キロの近海に来襲。米艦載機350機が呉軍港空襲を敢行。航空母艦3巡洋艦2敷設艦2が大破沈没。これに対しての日本軍の反撃で、九州沖航空戦が生起した。
3月27日 小倉大空襲
1945年4月
4月8日 玉野空襲
4月12日 郡山空襲
4月15日 川崎空襲 死者約1000人、負傷者15,000人。罹災人口10万人。全半壊33,361戸。同工場287戸。川崎は7月13日、25日、8月1日、13日にも空襲を受けた。
4月21日  鹿児島空襲 鹿児島市電上町線の一部区間が被害を受けた。時限爆弾が投下され、5月末ごろまで昼となく夜となく爆発を続けたため、熊本第6師団から歩兵1個中隊と工兵隊1分隊が、時限爆弾とこの不発弾処理にあたった。
1945年5月
5月10日 徳山大空襲 第三海軍燃料廠を狙った空襲。B29・117機。死者500人以上、負傷者約1000人。
5月29日 横浜大空襲 B29・475機、P51・約100機。死者3787人。重傷者1554人。軽傷者10,837人。罹災人口323,000人。焼失約3万戸。その後の調査で、死者は8千-1万人にのぼることが確実と考えられている。
5月31日 台北大空襲 B24・117機日本統治時代の台北市、死者約3000人。
1945年6月

6月1日 尼崎空襲 死者231人。奈良空襲。
6月10日 日立空襲 死者1200人。
6月10日 千葉空襲 B29・約100機。死者152人。
6月17日 鹿児島大空襲 B29・117機、焼夷弾810トン。死者2,316人、負傷者5,000人以上、家屋被災約11,600戸。
6月18日 浜松空襲 死者1720人。焼失家屋15,400戸。
6月18日 四日市空襲 B29・89機。死者736人、負傷者1500名、行方不明63人、被災者47,153名、焼失家屋11,390戸。
6月19日 福岡大空襲 B29・239機。罹災人口60,599人(うち死者902人)。罹災家屋12,693戸。
6月19-20日 静岡大空襲 B29・137機。死者1,952人 罹災人口127,119人 焼失家屋30,045戸。静岡市(現在の葵区・駿河区)は、計26回の空襲を受けたが、それ以外にも数えきれない程の機銃掃射など小規模な爆撃を受けている。
6月19-20日 豊橋空襲 B29・136機。死者624人
6月22日 姫路空襲(川西航空機姫路製作所とその周辺) B29・約60機、死者341人、罹災者10220人。
6月22日 水島空襲(現倉敷市) 死者11人、重軽傷者46人。
6月22日 各務原空襲(現航空自衛隊岐阜基地付近)B29・44機。死者169人
6月22日 呉空襲 工廠への爆撃[8] 死者1600人。
6月26日 奈良空襲
6月28日 呉大空襲
6月29日 佐世保大空襲 B29・141機。焼夷弾約1200トン。死者約1300人、罹災人口約65,000人。当日は雨で「今日は来ないだろう」という市民の不意を突き深夜に空襲された。
6月29日 岡山空襲 B29・137機。死者1737人。罹災人口12万人。罹災家屋25,000戸。(『岡山市史』)空襲警報が出されずまったくの不意打ちであったため被害が増大した。
1945年7月

呉軍港空襲。7月28日に江田島小用沖で爆撃を受ける戦艦榛名

空襲後の青森市街
7月1-2日 熊本大空襲
午後11時以降の深夜から空襲、B29 154機(米軍資料):60機(日本軍部発表)[9]市街地の約20%を焼失。死者数469人、負傷者数552人、罹災家屋総数11,000戸、罹災者数43,000人[10]。
7月1日-2日 呉市空襲 B29・150機。死者3,700人。[11]
7月2日 下関空襲 B29・143機。死者324人。罹災人口38,700人。罹災家屋8,600戸。6月29日に続く2度目の空襲。
7月3日 姫路大空襲 深夜から4日未明にかけ、B29・約107機。死者173人、罹災者45,182人。姫路城は焼失を免れる。
7月4日 高松空襲 B29・116機。死者1359人、罹災人口86,400人、罹災家屋18,913戸。高松市の約80%が焦土と化した。
7月4日 徳島大空襲 B29・129機 死者約1,000人、けが人は約2,000人、被災者約70,000人。徳島市(当時)の62%が焦土と化した。
7月4日 高知大空襲 B29・120機 死者401人、罹災家屋約12,000戸。
7月6日 千葉空襲 B29・124機。死傷者1,679人。
7月6日 甲府空襲 B29・131機。死者1,027人。全焼17,920戸。
7月7日 清水大空襲(現在の静岡市清水区)
7月9日 和歌山大空襲 B29・約100機。死者約1200人。
7月9日 堺空襲 B29・約100機。死者1860人。焼失18,000戸。
7月9日 岐阜空襲 B29・約130機。死者約900人。
7月10日 仙台空襲 B29・124機。死者828人。負傷者385人。焼失家屋23,956戸。詳細は項目記事を参照。
7月12日 宇都宮大空襲 B29・133機、焼夷弾12,704発。死者628人、負傷者約1,150人。焼失家屋9,490戸。鹿沼空襲 死者9人。
7月12日 敦賀空襲 死者109人。負傷者201人。日本海側初の空襲[12]
7月14日 釜石艦砲射撃。一回目。少なくとも死者515人。
7月14-15日 北海道空襲 米機動部隊艦載機約2,000機による空襲。被害は北海道全土と青森県に及んだ。青函連絡船全12隻も被害に遭い、青函航路が途絶した。
7月15日 室蘭艦砲射撃。死者436人。室蘭は前日にも空襲を受けたばかりだった。
7月16-17日 大分空襲 16日夜半頃B29編隊(約30数機)が襲来、市の中心部を約6,000発の焼夷弾爆撃。2,358戸が焼失。
大分はこの他にも4月21日、5月5日、8月10日など本土空襲での米軍の通り道であったため度々空襲を受けた。また公式記録には残っていないものの、別府市浜脇地区も被弾したといわれている。[要出典]一連の空襲での死傷者は1,193人。
7月16日 平塚大空襲 B29・136機 焼夷弾10,961発、死者343名
海軍火薬廠、日本国際航空工業、第二海軍航空廠平塚分工場、横須賀海軍工廠造機部平塚分工場がターゲットであったとされ、人的被害は比較的少ないが大規模な爆撃。当時の市域における面積の約8割、戸数の約6割を焼失。
7月17日 沼津大空襲
7月17日 桑名空襲
桑名は7月24日にも空襲を受けた。
7月17日 日立艦砲射撃。死者317人。アメリカの戦艦5隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦9隻とイギリスの戦艦3隻によるもの。
7月18日 野島崎(千葉県白浜)艦砲射撃。死者6人。巡洋艦4隻、駆逐艦9隻によるもの。
7月19日 福井空襲 B29・120機。死者1,576人。
7月19日 日立空襲 B29・127機、死傷者2,199人。
7月19日 銚子空襲 B29・91機。死傷者1,181人。
7月19-20日 岡崎空襲 B29・126機。死者203人。
7月24日 半田空襲 B29・78機。死者269人。中島飛行機半田製作所を標的とした攻撃。
7月24日、28日 津大空襲 死者1,239人。旧市街の全域、及び、橋北地区の工場地帯が焼失。
7月24日、28日 呉軍港空襲 米艦載機950機、B29・110機[13] 航空母艦3 巡洋艦5が大破沈没 死者780人。
7月25日 保戸島空襲(大分県津久見市)米軍グラマン戦闘機が投下した3発のうちの1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)を直撃し、児童125人、教師2人が即死し、70数人の児童が重軽傷を負った。
7月25日 串本艦砲射撃。潮岬も含め、周辺は何度となく艦砲射撃を受けている。
7月26日 松山大空襲 B29・128機による午後11時から2時間10分に及ぶ夜間空襲。死者・行方不明259人、負傷者把握不可の大惨事となった。全戸数の55%である14,300戸を焼失。全人口の53%の62,200人が罹災し、市のシンボルである松山城へも焼夷弾攻撃を受けたが、大天守は焼失を免れる。米軍機の損失はなかった(「アメリカ軍松山爆撃報告書」による)。
7月26日 平空襲
7月26日 徳山空襲 B29・約100機。死者482人、負傷者469人。市街地の90%を焼失。5月10日の空襲と合わせて旧徳山市街地は壊滅した。
7月27日 2度目の鹿児島空襲。昼12時45分頃、3梯団からなるB29の爆撃を受けた。
7月28日 青森大空襲 B29・61機。死傷者1767人。焼失家屋18,045戸(市街地の88%)。新型のM74六角焼夷弾が使用され、東北地方では最大の被害を出した。
7月29日 浜松艦砲射撃。死者177人。周辺の被害も含む。
7月29日 大垣空襲。死者50人、負傷者約100人、全半壊家屋約4,900戸、罹災者約30,000人。大垣城、開闡寺などが焼失。
7月29日 津市の国宝建造物である観音寺本堂、大宝院本堂(阿弥陀堂)、西来寺奥殿が戦災で焼失。
7月31日 清水艦砲射撃。死者44人。7隻の駆逐艦によるもの。
1945年8月
8月1日 水戸空襲 B29・99機。死者242人。負傷者1293人。罹災人口5万605人。
8月1日 八王子空襲 B29・169機。死者445人。負傷者2000人以上。焼失家屋14,000戸。罹災人口77,000人。
8月1日 長岡空襲 B29・125機。死者1470人余。焼失家屋11,986戸。
8月2日 富山大空襲 B29・174機。死者2737人。負傷者7900人。焼失家屋24,914戸(市街地の99.5%)。罹災人口109,592人。広島・長崎の原爆を除けば地方都市として最大の被害。
なお、8月1日から翌2日未明にかけて行われた水戸・八王子・長岡・富山に対する一斉空襲は、司令官カーチス・ルメイが自身の昇進と陸軍航空隊発足記念日を祝う目的で一斉に行われた戦略上特に意味のない作戦で、1日の弾薬使用量がノルマンディー上陸作戦を上回るように計算されていた。
8月5日 前橋・高崎空襲 B29・92機。死傷者1323人。
8月5日 佐賀空襲
8月6日 広島原爆
8月7日 豊川海軍工廠空襲 死者2477人。
8月8日 福山大空襲 B29・91機。死者354人、負傷者864人、焼失家屋数10,179戸、被災人口47,326人(福山市民82%が被災)。同年6月にはグラマンF6F艦上戦闘機によって福山海軍航空隊への機銃掃射が行われていた。
8月8日 八幡大空襲。B29・127機。死者2952人、焼失家屋数14,380戸。このときの火災による煙が、翌日の原爆の投下目標を小倉から長崎に変更させる一因となった。
8月9日 長崎原爆
8月9日 大湊空襲。死者129名、負傷者300名以上。敷設艦常磐などが大破。
8月9日 釜石艦砲射撃。2回目。少なくとも死者301人。爆音は秋田市まで響いたという。
8月10日 花巻空襲、熊本空襲
8月11日 久留米空襲。日中、B-24が市街地を空襲し、久留米駅が全焼。死者約210人[16]。焼失家屋4,506戸。
8月11日 加治木空襲 ダグラスA-20爆撃機18機による2回目の空襲。死者26人。役場をはじめ、諸官庁、学校がほとんど焼失。送電線・電話線も焼け、ラジオも聞けなかった。
8月13日 長野空襲 長野市、上田市に艦載機62機による空襲。
8月14日 熊谷空襲 B29・82機。死傷者687人。
8月14日 岩国大空襲 この空襲の帰りに光にも空襲があった。
8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
8月14-15日 小田原空襲 死者30-50人。伊勢崎と熊谷を空襲したB29が帰路に余った爆弾を投下した[17]。
8月14-15日 土崎空襲 B29・132機。死者250人超、製油所全滅。最後の空襲。
Posted at 2015/03/11 12:21:52 | トラックバック(0) | 日記
2014年12月25日 イイね!

南京事件とは…





《来年こそ、正しい歴史観の重要性が問われる年》

来年は大東亜戦争に敗戦して丁度70年の節目の年である。戦勝国と戦勝国を騙る特亜の国どもは、捏造史観に基づいた数々のプロパガンダ イベントを開催して、悪意に満ちた捏造史観の定着と創作を企図するだろう。日本人は猛烈な反日プロパガンダに晒される事を覚悟しなければならない。

東京裁判史観を受け容れてしまった今の平和呆け日本国民に、果たして捏造反日プロパガンダを撥ね退ける気概はあるだろうか?甚だ疑問と言わざるを得ない。日本政府は、日本政府に対する批難の大合唱を避ける為に、沈黙し、ひたすら「今まで謝罪した事実」を以って言い訳とするのではないだろうか。

日本は東京裁判に於いて、判決は受け容れたが、裁判という名の私刑のセレモニーまで受け容れてはいない。敗戦国として「刑罰」だけは甘んじて受け容れたのだ。そして、数々の冤罪で刑は執行された。執行された段階で罪(冤罪)は消滅する。真面な裁判なら同じ罪で二度も三度も裁かない。特亜の主張は嘘だから、終わりが無い。被害者人数も非現実的に段階的に変容してきた。

だから、もうこれ以上 嘘を許してはいけない。心ある日本人は、この節目の年こそ、「正しい歴史の重要性」を再認識しなければならない。「捏造性奴隷問題」の事実・証拠・証言は、既に出尽くしている。米軍慰安婦問題を始め、韓国の嘘をこれを機に暴かねば、日本は生涯、下衆の嘘に苛(さいな)まれる事になる。直接、米国を批難しては、力尽くで深みに嵌られるだけで日本に得はない。韓国の嘘を暴く事に専念すべきだ。

「南京大虐殺の捏造」にも、黙していては駄目だ。当時の人口動態、厳然と残る資料を以って、徹底的に反証すべきだ。米国の原爆投下の大罪を相対的に矮小化する為の嘘である事は承知の上で、米国ではなく支那の嘘を史実を以って淡々と暴いていけばいい。

1966年(昭和41年)9月に岸信介元首相の名代として5名の日本人台湾使節団が訪台し、蒋介石と面談している。そして面談の際、その5名の中の一人である田中正明氏が松井大将の秘書であった事を思い出した蒋介石は、田中氏の手を堅く握り締めて涙を流しながら「南京に虐殺などなかった。松井閣下には誠に申し訳ない事をした」と告白している。

日本人訪台団、通訳、蒋介石の側近らが全員耳にした歴然なる事実であり、所謂「南京事件」は存在しなかった事を中華民国(南京事件が発生したとされた当時は1949年建国の中華人民共和国は無かった)当事者が認めた貴重な証言である。
『日本人の知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』深田匠著より

同じく…蒋介石は「松井石根」という名を耳にした瞬間、顔色がさっと変わり、目を真っ赤にし、涙ぐんで「松井閣下には誠に申し訳ない事をしました」。手が震え、涙で目を潤ませてこう言った。「南京に大虐殺などありはしない。ここにいる何應欣将軍も軍事報告の中でちゃんとその事を記録してある筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にした事はない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と言ったという。
『騙される日本人』(PHP刊)より

南京は中華民国の首都であり、蒋介石は同国の総統であった。一国の最高責任者が明言するのであるから、その言には耳を傾けるべきであろう。「南京大虐殺」など無かったのは明白である。東京裁判の場で米国側が原爆を投下されて当たり前の大罪国家に日本を仕立て上げる為に捏造した架空の事件である。

日本人は自らの祖父、曽祖父を、何故もっと信じてあげられないのか?連綿と続く日本の歴史の中で、何十万単位の虐殺など無かったのは、総ての日本人が知っている筈だ。20万人の少女を拉致して、薬物を注射して、集団強姦する文化も歴史も日本には無い。
…連綿と続く日本人の歴史の中で、何故、己れの祖父、曽祖父だけが、南京と朝鮮で、いきなりそんな残酷な事をしたと信じ込むのだ!

全ては、戦勝国と戦勝国を騙る特亜の国どもが、捏造した冤罪である事を、現代の日本人、一人ひとりが気づく事から始めねばならない。私達の祖父、曽祖父にそんな有りもしない罪を被せて、平気で居られる我々の方がおかしいのだ。日本軍に転嫁された大罪は、戦勝国と戦勝国を騙る特亜の国どもが繰り返してきた野蛮な伝統的文化・歴史ではないか。

戦後70年の節目の年は、日本人が日本人の伝統・文化に誇りを持ち、自分の祖父や曽祖父を信頼できるかが問われる年となろう。自らの肉親を信じられない国民は、他国が捏造した嘘に潰されてしまうだろう。日本の未来は、今の日本人の心の有り様にかかっている。

--------------------
▪️映画 南京の真実 記録映画編(南京陥落後)
http://youtu.be/AAJhJnYH7yU
▪️【観覧閲覧注意】「南京大虐殺の証拠」として使われたニセ写真
http://youtu.be/18l4BHZ_nBA
▪️【日本・中国】南京大虐殺 100人斬りの真実
http://youtu.be/oWOnFIhxCtY
Posted at 2014/12/25 01:20:16 | トラックバック(0) | 日記

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