(続き)

住江製作所(1950〜1956) / フライングフェザー
1955年に「もっとも経済的な車を」という思想から生まれた軽自動車。
「羽のように軽い」をモットーに必要最小限のメカニズム、超軽量化により、重量は425kgまで抑えられた。
だが、あまりにも徹底的に無駄を省いた結果、前輪ブレーキがなかったり簡素すぎるデザインなど行き過ぎた
設計は中々市場に受け入れられることがなかった。
また、メーカー側にも体力がなく遂に1956年、たった1年間、48台を生産しただけで生産中止となる。
タッカー / タッカー’48
伝説級の車だがあまりにも不運な車
当時はアメリカンドリーム真っ盛り。
中小企業にも多くのチャンスが巡ってきていた最中のお話である。
戦後の米自動車業界はゼネラルモーターズ、クライスラー、フォードのBIG3が支配していた。
そこへBIG3へ立ち向かう者が現れた!
「自分はもっとこういう車を作ってみんなに乗って欲しいんだな」
そんな野望を胸にBIG3への対抗馬として現れたのが車好きのセールスマンであり技術者(?)
「プレストン・タッカー」である。
そしてあまりにも革新的な革新的な車を生み出してしまう。
「タッカー・トーピード(魚雷)」である。
だがトーピードは戦争を思い出すからと後に「タッカー’48」と呼ばれる。
流線型の美しいボディにはアメリカ初のリアエンジンを搭載。
当初のエンジンは9650cc水平対向6気筒でエンジン音が大きく、
ステージに自走で登場する時はバンド演奏を最大にするようタッカーから指示があったほど。
何よりこの車が素晴らしい点は当時としては異例の安全性を兼ね揃えた車なのだ。
強化ガラスは衝撃を受けると前に飛び出す仕組みで前席は衝突時の安全性を確保するため
クラッシュ・コンパートメントに納められダッシュボードには緩衝バッドが装備されていた。
1948年、タッカーは人々の前に現し、とてつもないほど大きな反響を受けることになった。
だがそれを面白くなく見つめる者がいた。
そう、BIG3である。
「あいつ何だか面白くないわね」
「ええ、お姉さま」
というようなやりとりがあったかは定かではないが、BIG3にとってタッカー48は驚異となる可能性を秘めた車であった。
「ちょっと懲らしめてやりなさい」
それを皮切りに露骨な政治妨害活動が始まる。
タッカーの悪評はみるみるうちに広がっていった。
そして極め付けがデッチ上げのような詐欺罪で起訴されてしまう。
その容疑が「説明所とは異なる内容の車を売りつけた」という理由である。
1950年、タッカーには晴れて無罪判決が下されたが中小企業が悪評を鎮める体力もなく再起不能の状態で
やむなく倒産してしまう。
それでも車作りの夢を諦めなかったタッカーであったが1956年、肺がんの為死去。
タッカー’48は51台という少ない生産台数であったが、叶わなかったアメリカンドリームの象徴として今なお語り継がれる存在である。
※BIG3の妨害について:実際にあったかどうか定かではないらしいが可能性が高いという説なので真に受けないようお願いいたします。
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Posted at
2014/11/17 18:58:59