
辞書を引きながらいろいろ考えてみました。
「プライド」を日本語に訳すと、誇り、自尊心、自負心。
自分のことを誇りに思う気持ちですね。
「プライドが高い」などは、良い意味の言葉であることが分かります。
よく
「プライドを捨てられない」という言い方をしますが、良いモノをわざわざ捨てる必要があるのかな?と思います。
ということは、
「プライドが邪魔をする」あるいは
「プライドが許さない」という言い方も、あまり正しい使い方ではないのかもしれません。
では
「プライドを傷付けられる」という言い方はどうでしょうか?
「自尊心」の意味は、自分の人格を大切にする気持ち。また、
自分の思想や言動などに自信をもち、他からの干渉を排除する態度。となっています。
おや? まったく良い意味、というわけではなさそうです。
自信過剰になって、他人の意見に耳を傾けられなくなった場合は、自尊心というよりも、
「利己心」の方が近いような気がします。
利己心の意味は
「自分の利益だけを考え、他人の迷惑を省みない心」とあります。
ですから「プライドを傷付けられる」のは本人にとっては受け入れがたく、苦しく感じるのだと思います。
「自分を誇りに思う気持ち」は、ちょっとしたことで自分だけを愛する気持ちに変わってしまう、という危険性がありそうです。
そうなってしまうと、
もう「プライド」は捨てられないモノに変化し、円滑な人間関係を邪魔し、他人を許すことができなくなるネガティブなものになってしまいます。
それが
「エゴ」(エゴイズム=利己心)の正体ではないかと思います。
男は敷居を跨げば7人の敵がいる、などと言いますが、本当でしょうか?
確かに現代の競争社会ではそういう見方もできるのかもしれません。
しかし、私はそうは思いません。
自分の敵は自分しかいないと思っています。
私達は自由意思を与えられた生き物ですから、
常に選択を繰り返しながら人生を歩んでいます。
どっちを選ぶか?
どんな人間、たとえ主体性が無く、周囲の人間に左右される人だとしても、最終決断は自分でしているはずです。
ラクな道を選ぶのも、苦しい道を選ぶのも本人の自由ですが、
自分の撒いた種は自分しか刈ることができないという基本原理だけは、ごまかしがききません。
常に
「自分との闘い」であるということなのです。
たとえライバルがいるように見えても、それは外の世界に仮の敵を想定しているだけであって、「ライバルがいないと燃えない」という人は、単に自分を甘やかしているだけなんだと思います。
自分と真正面から向き合っているつもりでも、なかなか自分の本当の姿は見えてきません。
オレンジのようにスパッと半分に切って中を確認するには、痛い思いも必要なのでしょうね。
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精神世界 | 日記
Posted at
2014/04/22 23:30:11