
高崎市の箕輪城の次は、みなかみ町の名胡桃城まで走りました。案内所はが16時までのため、遠い城から攻めることにしました。
この判断も、後からロスに繋がりました。
まずは、案内所でスタンプと御城印購入し、ビデオで事前学習です。
【名胡桃城】
以下パンフレットより
⚫︎戦国時代が終わるきっかけとなった小さな山城
○名胡桃館(なぐるみやかた)
名胡桃城は室町時代に沼田氏の一族・名胡桃氏が館(般若郭・現在の駐車場、一枚目の写真)を築いたのがはじまり。
○真田昌幸が築いた名胡桃城
1578年(天正6年)3月、上杉謙信が急逝すると北条氏政は上野に侵攻します。武田勝頼も侵攻しました。天正7年には、勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に侵攻。小川城の小川可遊斎と名胡桃館を攻略。沼田城を攻撃する前線基地として、館の隣に名胡桃城を築いた。
1582年(天正10年)3月に武田氏滅亡。6月に織田信長が暗殺。同年10月に北条氏政と徳川家康は「利根・吾妻の2郡は北条に甲斐の都留、信濃の佐久郡は徳川氏に」との約定をかわした。
天正11年、昌幸は家康の支援を受けて上田城を築城。
天正13年、昌幸は約定を知らされておらず、利根・吾妻の2郡を北条に渡すという家康からの要請を拒否した。昌幸は上田城を攻めた家康軍を撃破。第一次上田合戦)
天正17年、昌幸は秀吉の臣下となつていたが、嫡子信幸は、家康に出仕。
秀吉の裁定で沼田領の利根川以西(名胡桃城)は昌幸方が、東部は(沼田城)鉢形城主北条氏邦の重臣が入りました。同年、10月沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を不法に攻略。
秀吉はこれに激怒して北条に布告。
国内最大となる小田原攻めが始まります。
馬出し
三の郭
2の郭
2の郭北虎口
コンパクトな城ですが、遺構としても整備が行き届いていました。
本郭中央に建つ石碑・徳富蘇峰による揮毫
ささ郭
本郭が外に対して剥き出しにならないように設けられた。
撮る人を撮る。
利根川を挟んで、沼田城と対峙しています。
このことは、沼田城から見てもよくわかりました
コンパクトな城ながら、歴史においても、遺構にしても大満足の名胡桃城でした👍
御城印は歴史を変えた名胡桃城。
ブログ一覧
Posted at
2025/05/19 16:52:13