2010年07月05日
激闘ツィタデレ作戦
1943年7月5日東部戦線において1943年の第3次ハリコフ攻防戦により出現したクルスク突出部に対してドイツ軍が攻撃を開始した、此の戦いは両軍合わせ6000両以上の戦車が激突した世界最大の戦車戦である。
当時ブラウ作戦において大幅に戦力を消耗したドイツ軍はもはや全面攻勢に出る事は出来ず局地的に攻勢を掛け東部戦線の安定化をはかり後々に予想される西側連合軍の大陸反攻に備える戦力予備を用意する必要がありそこでクルスク突出部のソ連軍に先制攻撃をかけ撃滅する案が承認された、此の作戦を「ツィタデレ(城塞)作戦」と命名された。
ドイツ軍の装甲部隊は、過去二年の東部戦線の激戦で消耗し切っていたが、1943年3月にその生みの親であるハインツ・グデーリアン上級大将が装甲兵総監に就任し、装甲部隊の再建にあたることとなった。これまでドイツ軍はソ連のT-34中戦車やKV-1重戦車に苦戦を強いられてきたが、1942年下半期にティーガーI重戦車が投入されたのを皮切りに、ツィタデレ作戦の為にパンター、フェルディナント、フンメルなどの新兵器が配備され、既存の戦車にも改良が加えられて、装甲部隊は自信を取り戻していた。ドイツ軍はこの作戦に東部戦線の戦車及び航空機の内6割から7割を動員し、最終的な参加兵力は兵員90万人、戦車及び自走砲2,700両、航空機1,800機に及んだ。
一方赤軍はルーシーによってドイツ軍の作戦を早期に察知し、クルスク周辺一帯に大規模なパック・フロント(対戦車陣地)を構築。ここに兵員133万人、戦車及び自走砲3,300両、火砲2万門、航空機2,650機に及ぶ大兵力を配置してクルスク一帯を要塞化した。さらに兵員130万、戦車及び自走砲6,000両、火砲2万5000門、航空機4,000機を超える予備兵力をその後方に待機させた。
作戦は当初作戦発動は1943年5月中旬と予定されたが最終的には7月5日となった。作戦発動日前日の7月4日、南部では午後から第LII軍団、第XXXXVIII装甲軍団が、深夜から第IISS装甲軍団が観測所を確保するため小規模な攻撃を開始した。
5日未明、ドイツ軍の準備地域にソビエト軍は大規模な破砕射撃を行った。しかし若干の損耗と、北部で作戦開始が僅かに遅れただけだった。突出部北部を担当していたヴァルター・モーデル上級大将率いる第9軍は、何重にも作られたソ連軍防御陣地に対し第20戦車師団だけを投入し、突撃砲に支援された歩兵師団主体による攻撃を開始。7,200名の損耗を出しながらも8km前進し1日目を終えた。一方南部ではエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる南方軍集団(Heeresgruppe Süd)は戦車の集中運用でソ連軍防御線の外周部分を突破し、10km前進(損耗6,000名)。ソ連軍は待機させていた予備兵力を投入しこれに対処した。
開始から5日目の7月10日、北部では歩兵の損耗増加と戦車師団の逐次投入により、12km進出したのみで完全に停止。南部でも天候悪化と損耗により前進が鈍くなる。第4装甲軍司令官ヘルマン・ホト上級大将は、ソ連軍の東方からの増援を阻止するケンプ軍支隊の前進が遅れた為、クルスク南部の小都市プロホロフカの奪取を第IISS装甲軍団に下命した。ここで後に「史上最大の戦車戦」であるプロホロフカ戦車戦がおこった。(プロホロフカ戦車戦につては後に別個で上げたいと思います)
結果十分な防御体制を整えて待ち受け、ドイツ側に損害を与えたソ連軍ではあったが、ドイツ軍を上回る損害[8]を受け、特に南部ではドイツ軍の突出を許し、プロホロフカで消耗したステップ方面軍は危機を迎えていた。しかし、ソビエト軍が北部で逆攻勢『クツゥーゾフ作戦』を開始し、また米英軍も『シチリア島に上陸』を開始。ヒトラーはこれにイタリアの枢軸離脱、地中海戦線の崩壊の危機を感じ、作戦はわずか一週間で中止されてしまう。 しかしマンシュタインは南部での攻勢をヒトラーに承諾させ続行するが、7月17日にイジュームとミウスの防御線が突破され部隊の派遣の為についに中止した。 ドイツ軍は最終的にはプロホロフカを占領することもクルスク突出部を殲滅することもできず、戦略的な目的を達成することはできなかった。
後衛戦闘を行いつつ撤退したドイツ軍に対し、ソ連軍は予備兵力をまとめて反撃を開始した。これにより、前線で修理中のドイツの損傷車輌で後送の間に合わないものは自爆させられ、全損車輌の台数がかなり増えてしまったともいう(そして、戦場に留まったソ連軍は逆に損傷車両を修理再生、戦力を回復した)。ドイツ軍は秩序立った後退と兵力温存には成功するが、天然の要害ドニエプル川の渡河を許してしまい、クルスク進撃どころか要衝キエフまで奪回された。
クルスクの戦いは独ソ戦でドイツ軍が攻勢に回った最後の大規模な戦闘であり、これ以降、独ソ戦の主導権は完全にソ連軍のものとなった。
上記に書いた様に此の戦い後ドイツが大規模攻勢にでることは無く今後は今までの鬱憤をはらすかのごとくソ連軍の怒濤の攻勢が始まるのである、此の戦いにおいて本格的にティーガー重戦車やパンター中戦車等の有名なドイツ軍戦車が表舞台に出てくるのだが・・・この戦車達は攻勢に出るのではなく守勢の中でその火力と防御力を生かしドイツが敗北するまで東部後に起こる西部両戦線において獅子奮迅の活躍をみせる事となる。
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2010/07/05 20:35:12
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