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2010年10月20日

久方ぶりに軍事ネタ

 最近引きこもりネタか東方ネタしか書いてなかったな(汗) てことで久しぶりに軍事ネタでww

今回は少しマイナーな作戦をご紹介します、 1944年4月17日場所は中国大陸にて当時交戦状態に在った大日本帝国(日本)と中国国民党軍+共産党軍(中国)の間に起こった戦い作戦名は「大陸打通作戦(一号作戦)」といった。

 当時の日本の戦況は日々劣勢に立たされつつあった、特に太平洋方面における度重なる敗北により連合軍は次第に日本本国へと近づきつつあった、そんな中開始されたのが「大陸打通作戦」でありその目的は、
 1華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保することで、南方資源地帯と日本本土を陸上交通路で結ぶこと。
 
 2通商破壊により日本の海上交通は被害を受けつつあった。鉄道確保は、減少しつつある中国戦線の兵力の機動力を高めて、小兵力での戦線維持を実現する狙いもあった。

 3アメリカ陸空軍の長距離爆撃機B-29基地に使用されると予想される航空基地を占領し、本土空襲を予防すること。1943年11月に台湾の新竹市が空襲を受けており、北九州空襲への危機感があった。

 4蒋介石の率いる中国国民党軍の撃破とその継戦意思を破砕すること。

 5戦況悪化の中で勝利のニュースを作り、国民の士気を維持すること。

 等々当時日本の抱える不安要素を少しでも取り除こうとした大胆な作戦であり、さらに驚くのは作戦距離が2400キロと相当広大であったことも上げられる。

 此の作戦にあたり作戦を担当する支那派遣軍は度重なる太平洋方面への兵力抽出により太平洋戦争開戦当初の90万から62万まで減少していましたが大陸より出撃する戦略爆撃などの不安要素から作戦を決意、当時支那派遣軍の指揮下にある25個師団と11個旅団のうち、歩兵師団17個と戦車師団1個、旅団6個が投入されることになり、太平洋戦争開始以来最大の作戦となった。

 第一段階 コ号/京漢作戦
そのころ京漢線(北京-漢口)の黄河鉄橋は敵の砲撃により破壊されていた。
 この大作戦は在支各軍間の陸路連絡の確保が大前提であり、まず黄河の鉄橋の修復が第一である。
 黄河鉄橋は全長3073M、この大橋の修理はかなりの困難が予想されたが、鉄道第6聯隊(聯隊長 小玉鉄太郎中佐)は異常なる努力をもってこの難工事にのんだ。
 第二野戦鉄道司令官 村冶敏男少将(25)、派遣鉄道監/鉄道練習部研主事 加藤肇大佐(35)らの協力を得て3月25日 遂に大修理を完了、北支方面軍以下の作戦遂行に自信を加えるに至った。

 第12軍は昭和19年4月17日夜 黄河を渡河、ここに『一号作戦(大陸打通作戦』は開始された。

 第12軍を主力とし、これに第11軍が協力し、南部京漢(北京-漢口)沿線を占領確保することが目的である。
 先遣隊は敵陣地を撃破し1部をもって19日夕までに鄭州を占領した。

 華南方面は艦船護衛の関係上約半月の遅延のやむなきに至ったが、華中方面は揚子江の増水期に入り運航効率があがり
 順調に進捗していた。
 この間第5航空軍は戦爆の各1部と直協隊の主力を新郷、彰徳ほかに展開してこれに協力した。
 殊に中牟付近の戦闘においては敵砲兵をほぼ壊滅させていた。

 4月29日 第37師団は許昌の攻略を開始した。
 許昌は三国志以来の軍の拠点で、その城には湯恩伯将軍率いる第29師団が守備していた。

 5月 1日 第12軍主力は許昌を占領 第11軍の一部は長台関から確山付近に向かい北面して攻勢を開始した。
 5月 9日 第27師団は確山に到着し、京漢陸路の打通に成功、南北の連絡を完成した。

 許昌攻略後、敵は主力を北方に移したために直ちに洛陽方面に旋回することに計画を変更、当面の敵を各個に撃破することに決定した。

 5月14日 北支那方面軍は、洛陽封鎖を命令、野副兵団をして洛陽を封鎖すると共に、第12軍主力と第1軍の一部を以って西方に向かい追撃を続行した。

第二段階 洛陽攻略
 
 5月19日 第63師団長 野副昌徳中将(22)を指揮官とする野副兵団に対して戦車師団の主力と第110師団の一部をもって洛陽攻略に任じた。野副兵団は直ちに洛陽外郭陣地に対して攻撃を開始した。しかし陣地堅固のため戦況は進展せず、北支方面軍は改めて第12軍をもって洛陽攻略を担任せしめた。

 5月23日1300 両正面から洛陽城の攻撃を開始、洛陽北・東北正面からは第63師団主力西北から戦車第3師団の主力と歩兵6個大隊、砲兵3大隊である。

 5月24日 洛陽の敵に対して降伏を勧告したがこれに応じないため、1300 攻撃を再開ついに城郭一部に突入した。
 5月25日 洛陽を占領、ここに京漢作戦は成功を迎えたのであった。

 これより先、第2線兵団であった第27師団が黄河橋梁を通過し武漢地区に南進し、北進してきた第11軍の部隊と合流した。

 これにより京漢陸路打通が成功、南北の連絡が完成した。またこれにより、米空軍の空襲によって途絶しがちであった陸上輸送が円滑に行われることとなった。さらに武漢地区への輸送がそれまでの揚子江の船舶輸送に代わって陸上輸送が可能となったのである。

第三段階 ト号/湘桂作戦

 京漢作戦が順調に進展している間、第11軍は岳州東西の線から攻勢準備を進めていた。
 洛陽攻略当日の5月25日 支那派遣軍総司令官畑大将は予定通りその司令部を漢口に進出、
 第11軍の諸部隊も岳州付近に集中を完了した。これより先、第5航空軍は5月18日漢口に戦闘司令所を 進め各飛行団をもって本作戦に協力した。

 5月27日払暁 第3、第13師団が左翼から、ほか軍主力は夜半から28日にかけて南にむけて攻勢を開 始、ここに湘桂作戦が開始された。

 各兵団は勇躍前進したが、敵は我が企図を予期し、進撃に先立ち撤退を開始していた。

 第11軍は関王橋付近及び汨水南岸において敵第20軍の組織的抵抗を受け一両日の戦闘を交えた他には
 大きな抵抗を受けることなく進出することができた。

 6月3日 長沙北方の達摩山山系に2個師団の敵が残存し

 軍は第34師団を以ってこの敵を攻撃したが敵の抵抗に遭い進展しなかった。

 このころは連日の降雨のため道路は泥海のようになり、兵站物資の輸送は困難であった。

 このため第1線兵団は6月下旬まで殆ど後方補給を受けることができなかった。

 自動車道は使用不可能となり野砲、自動車等の車輛部隊の移動も困難となり、岳州-長沙道に車輛は充満す る状態となっていた。

 6月 7日 益陽及び瀏陽方面の敵を撃滅するとともに長沙周辺の敵に対する攻撃準備部署を発令した。
 6月11日 第40師団は益陽を占領
 6月16日 敵の第73、第74軍を撃破し寧郷を占領、また岳麓山に布陣する敵と長沙に対して攻撃を開 始。
 6月18日 長沙を占領した。
 この間第5航空軍の爆撃機は、米中軍に比して極めて劣勢であったが効果的に攻撃し、爆撃威力は著しいものがあった。

第四段階 第1〜3次衡陽攻撃

第1次衡陽攻撃

 長沙攻略後、軍は敵の態勢の崩壊に乗じ一部を以って衡陽に向かい、主力を以って爾後の作戦を準備するに 決した。

 6月22日 湘郷を攻略
 6月26日 衝陽飛行場を占領
 6月27日 湘江を渡河、衝陽西南地区に進出
 6月28日 衡陽攻撃を開始した
 6月29日 第58師団の一部と第218聯隊はそれぞれ衡陽の西北と東北より攻撃を開始したがはかばかしくなく、第68師団長及び師団参謀長が敵迫撃砲弾にて負傷する といった苦戦を強いられた。
 6月30日 このため第116師団長岩永中将の指揮によって攻撃を再開したが敵の抵抗は頑強で成功しな かった。
 7月 2日 軍は攻勢を一時中止し、砲兵部隊を進め、航空部隊の援護のもとに一挙に敵を攻撃するに決し た。

 敵の戦意は旺盛であり航空兵力は優勢であった。
 衡陽は要塞化され、蒋介石総統が方先覚軍4個師団に死守を厳命していたのである。
 対して日本軍は追撃に次ぐ追撃で弾薬等が不充分の上に占領した飛行場の修復が遅れており
 航空支援が得られる状況ではなかった。
 7月になり、敵は逐次大兵力を進め我が衡陽攻略部隊の背後を脅かすまでとなり、
 我が軍は逆包囲される状況となりつつあった。

 敵の航空勢力は優勢で、夜間行軍と夜襲しか方法がなかった。

 
 第2次衡陽攻撃

 7月10日 後方からの火砲、弾薬の追送,航空部隊の準備が完了しつつああった。
 7月11日 改めて衝陽西南方に向けて攻撃を再開した、若干の前進陣地を攻略した。
 7月15日 本格的な攻撃を実施し一部の地域を攻略したが戦況は進展しなかった。

 軍は状況に鑑み更に十分なる準備-特に第1線兵団の戦力を充実した後攻撃を再開することに決した。

 
 第3次衡陽攻撃

 7月下旬となり、攻撃再開の準備は整えられた。
 7月30日 軍は攻撃命令を下達、軍司令官自ら衡陽に進出し「今度こそは」の決意に燃えていた。
 8月 4日 第68師団は衡陽南部に対し、第116師団は衝陽西南陣地に対して第三次攻撃を開始した。
 8月 5日 第58師団は主として衡陽西北に対し、第13師団は湘江東岸地区から第68師団を支援して これに続いた。

 しかし支那軍の抵抗は頑強であり、第3次攻撃をもってしても攻撃は進展しなかった。
 第13師団は一部の兵力を強行渡河させ第58師団に協力したが、損害が続出、師団砲兵の弾薬も欠乏して きたので、軍命令により攻撃を中止し、牽制を任じた。
 その中で南部では第116師団が敵線の一部を奪取、第58師団も西北角の奪取に成功、初めて市街の一部 に進入した。

 8月 7日 全線において攻撃を復行したが依然攻撃は進展しなかった。なお数日攻撃を要すると判断して  いたところ、第68師団正面の敵小部隊が投降してきた。軍は敵は動揺しているもの判断し、攻撃を続行  した。
 8月 8日 敵軍長(軍司令官) 方先覚将軍以下師団長4名が投降、以降投降するものが続出した。
 敵の一部はなおも抵抗を継続をしたが、0800ころまでには掃討を終了、ここに衡陽の攻略を終えた。
 6月28日の第1次攻撃開始から実に40数日目であった。

第五段階 その後の進展

衡陽陥落後の支那軍の戦意は乏しく、衝陽戦とは対象的に退避戦に移った。

 第11軍は支那派遣軍から止められていた零陵を独断にて攻撃を開始、
 果敢なる追撃で9月7日零陵を、13日には全県を占領した。

 8月下旬 新たに第6方面軍を新設(軍司令官 岡村寧次大将)、軍容を改め追撃体制を固めた。

 9月10日から第11軍、第23軍を指揮し、また10月19日第20軍が指揮下に入り兵站線の警備につ いた。
 第6方面軍は、重慶野戦軍の撃滅を作戦目的とし、第11軍に桂林を、第23軍に柳州を策応させつつ
 占領させることを構想し、10月26日 作戦発起を命令した。

 しかし第11軍は支那軍の弱さを見て、独断で桂林と柳州を11月10日 同時攻略した。
 だが、当面の敵はすでに柳西北方に逸脱してしまったおり、第11軍の有力兵団は独山方向に追撃、
 潰乱状態となった残敵を掃討、膨大なる軍需品を獲得して戦力を充定することができた。

 第23軍は南寧を攻略、ついで北上してきた南方軍の部隊と呼応して北部仏印との公路を打通した。
 支那からは第22師団、仏領インドシナからは第21師団が連絡に成功
 『支那とインドシナの大陸打通が完成』したのであった。

 これによって支那派遣軍から南方軍に転用される2個師団が、この行路を通り仏印に進出した。

 11月中旬、比島方面の戦況からみて、広東地区の対米戦備の着手、このため湖南・広東省を連絡する
 粤漢線の打通が必要となってきた

 昭和20年1月 第6方面軍は第20軍と第23軍をもって南部粤漢鉄道を奇襲占領し確保するとともに
 遂川、南雄地区の米空軍基地を覆滅することとした。

 1月上旬 第20軍の4組の挺身隊が密かに潜行し、粤漢鉄道の重用施設を無傷で占領した。
 続いて第20、第23軍の作戦部隊が南北から一挙に前進、
 昭和20年1月26日までに南部粤漢線を打通し全鉄道路線を確保した。

 一度破壊されると修復が困難な橋梁、トンネルなどを無傷で占領することを重点とし、
 敵野戦軍撃滅は第二義としたのが成功の主因であった。

 ついで2月7日までに遂州などの米空軍飛行場群を占領爆破し、米軍機の活動を一時的に封殺した。

 以上が作戦内容ですが・・・ 見た感じは日本軍の勝利であり、地図上では朝鮮半島の釜山から、泰緬鉄道を経てビルマのラングーンまで鉄道で往復できることになったが、広大な大陸を点と線で結んだに過ぎず、京漢鉄道は中国軍のゲリラ的妨害活動を排除して運行するには長大過ぎ、まともに機能しなかった。第22師団と第37師団を主に徒歩でフランス領インドシナへ転用できた程度であった。 さらにサイパン陥落により本土全体がB29の攻撃範囲となり戦略爆撃を防げなかった、その他飛行場も更に奥地へ移転し敵航空兵力を排除するにはいたらなかったのです。 太平洋戦争中連戦連敗をしていた日本軍ですが中国大陸では優勢を保っていました、敗戦時には支那派遣軍の将兵達は「何故勝っているのに降伏するのだ??」と思ったそうです、某国家は偉そうに戦勝国気どってますが実はぼろ負けしていたという訳ですwww 本当に最終局面まで大陸方面は終始優勢でした、まぁ勝ったら官軍負ければ賊軍・・・ 結果的に負けたので何も言えないのが悔しいところです(泣)

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Posted at 2010/10/20 20:08:29

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この記事へのコメント

2010年10月20日 20:15
大陸では勝ってたんですね……
何と言う驚愕の事実……知らんかったです!

……ていうか。次のコミケに、軍事研究の同人誌で参加してみては(爆)
コメントへの返答
2010年10月21日 20:47
大陸ではほぼ負け無し状態だったようですww

コミケは買う側でいいです(汗)

2010年10月20日 21:34
太平洋戦争というと陸軍はなかなかスポットが当たらないですが、結構な活躍をしてるんですね。

もしコレで空母が失われていなければ…。
コメントへの返答
2010年10月21日 20:48
確かに海軍が主ですしね(汗)

多分国力差はいかんともしがたかったでしょうね・・・


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