1914年にサラエボ事件を発端とした火種はヨーロッパ全土に飛び火し世界へとも波及した。 所謂「第一次世界大戦」だった。
此処では今までとは桁違いな消耗戦となり多くの人員が死傷した。 航空機 戦車 毒ガス 潜水艦 此の大戦で多くの新兵科が芽吹いた。 それ以上に 大砲 は今までとは桁違いの 弾薬 を消費 塹壕戦と相まってその消費は右肩上がりに増え続けた。
M1897 75mm野砲(仏)
世界で初めて液気圧式駐退復座機を搭載した大砲の一大革命児であり、既存の火砲と比較して飛躍的に連射速度が上昇した。製造国のフランスをはじめとしてアメリカやポーランドなどが採用し、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて用いられた。
駐退復座機の採用は飛躍的な弾幕の形成と弾薬の大量消費を呼び 従来の野砲を過去の遺物へと変えてしまった。 特に日本は日露戦争後に採用された三八式野砲が主力でありバネ圧復座式を採用していはいるものの大戦中に列強各国の野砲の射程は飛躍的に伸び旧式化は明らかとなり。その後高仰角化させ射程を伸ばした改三八式野砲が作られるも根本的な解決とはならなかった。
しかし大戦を経験しなかったことによる危機感の薄さ 大戦後の不況や各種軍縮による開発の遅れ等もあり更新は一向に進まなかった。
しかし大陸進出を考える陸軍も徐々に自軍の戦備の不足を感じ「新型野砲」の開発を開始した。 しかし当時の日本の技術では列強と同等の砲を設計するのは不可能に近いためフランスのシュナイダー社に設計を依頼した。そして、当初シュナイダー砲の購入で得られた新技術を基に新型野砲を開発する予定であったが、コスト面や技術的な観点および購入砲自体が優れていたことなどから、最終的にシュナイダー野砲に改良を加えたものを新型野砲として導入することにした。
そうして開発正式かされたのが九〇式野砲だった。
制式名称 九〇式野砲/機動九〇式野砲
重量 九〇式野砲 1,400kg
機動九〇式野砲 1,600kg
口径 75mm
砲身長 2,883mm
砲口初速 683m/s
最大射程 14,000m
高低射界度 -8°〜+43°
方向射角度 左右25°
後座長 980mm
使用弾種 九〇式尖鋭弾
九〇式榴弾
九四式榴弾
九四式鋼性銑榴弾
九〇式破甲榴弾
三八式榴霰弾
九〇式榴霰弾
九〇式焼夷弾
九〇式照明弾
九〇式発煙弾
一式徹甲弾
使用勢力 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
運行方式 6馬挽馬[4]・自動貨車・九八式四屯牽引車
総生産数 九〇式野砲 約200門
機動九〇式野砲 約600門
特に目を引くのは射程の長さで 8,350m(三八式野砲)11,600m(改造三八式野砲) に比べ格段の向上を見ている。 重量過多ではあったがソレを持って有り余る程の性能を持っていた。 当初は駄馬による牽引だったが機械化牽引用の「機動九〇式野砲」も開発正式化された。
しかしそれでも重量を嫌った参謀本部はコレとは別に計量化して射程等を落とした「九五式野砲」も採用して生産している。
九五式野砲
奇しくも九〇式野砲が採用されて直ぐに満州事変が起こり日本は次第に戦時色を強めていった。 九〇式野砲も主力野砲となるべく大量生産される筈だった・・・・・・ しかし陸軍は砲兵の体制を 米 独 等に習い、師団砲兵(野砲兵連隊等)の火力向上のため1930年代末頃から(師団砲兵の)主力火砲を従来の75mm野砲2~3個大隊・10cm軽榴弾砲(九一式十糎榴弾砲)1個大隊編制から、野砲1個中隊および軽榴弾砲2個中隊から成る3個大隊・15cm重榴弾砲(四年式十五糎榴弾砲)1個大隊(全大隊輓馬編制)に改編する計画を立て、野砲と山砲の生産を緊縮し九一式十榴等の量産に努めていたため、九〇式野砲自体は約200門しか生産されなかった(なお、機動砲である機動九〇式野砲は量産が進められている)。
1937年の日中両軍の衝突は大陸に燎原の火の如く燃え上がり双方の全面戦争となった(しかし両国ともアメリカの中立法発動を恐れ宣戦布告をしていない) 当然の如く九〇式野砲も戦いに投入され各所で戦果を上げていった。
ノモンハン そして太平洋戦争 各所で激しい砲火が交わった。 九〇式野砲はその射程と長砲身からくる高初速を買われ対戦車砲としても運用されることとなる。 通常の一式徹甲弾を使用した場合は射距離1,000m/約70mm、500m/約80mm、タングステン・クロム鋼弾の「特甲」を使用した場合は1,000m/約85mm、500m/約100mmであった。 これは主力対戦車砲「一式47m速射砲」を凌駕する性能だった。
其の様な性能もあり後に改良され 三式中戦車や一式砲戦車 等の主砲として採用された。
三式中戦車
一式砲戦車
しかし採用されて上記の主力砲の口径の切り替え等で生産は縮小されて十分な数は配備されなかった。 と言うか日本の生産力ではどの砲に限っても十分な数を揃える事は出来なかった。 九〇式野砲の同クラスの野砲は太の列強なら万単位で生産されているのを考えると日本の総力戦体制の不備が忍ばれる。特に大砲王国ソ連の ZiS-3 76mm野砲は生産数103,000門以上と途方もない数が生産されている。
日本は結局の所「総力戦」を戦えるだけの国力を蓄える事ができず更に「組織」「生産体制」を整える事も未完のままあの戦いに突入してしまったのが全ての悲劇を巻き起こしたといえる。 兵も兵器も出来る限りいやそれ以上に奮戦し獅子奮迅の活躍をみせた。 しかしそれでは「戦争」には勝てないのだと言う事を知った。
この九〇式野砲もその中の一つだろう。 此の砲自体はけして列強のライバル達に見劣りするモノではなく投入された戦場で期待にそぐわぬ活躍をした。 しかしそれを遥かに上回る相手の物量の前には意味を成さなかった。
今も残存する此の砲は今をどう見ているのだろう???? あの時敵に向けた砲口はいまはどこを向き何処に向けられているのだろう・・・・・・・・・
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2015/10/04 19:08:19