踊れるか、踊れ無いか、、、可也豪快な解釈かもしれない。むしろパートごとに構成を組んでゆけばクラシックの方が派手な踊りが可能か、客観的な踊りと主観的な踊り。客観的な踊りはパフォーマンスとして他人へ向けられるもので、二度踊れば二度とも同じ表現となる。しかし、主観的な感情表現とはいっても記憶媒体のフィードバック制御でしかない行動はどこまでが主観と言えるのだろうか、(今のガッツポーズとあの時のガッツポーズ同じじゃねぇ?)「我思う、故に我あり」我は何処にあるのさ?って話を踏まえて、「アルジャーノンに花束を」を読んでいる今日この頃、暑い日が続きますが適度の水分補給とエアコンのあたり過ぎには気を付けて下さい。