日本橋の
「耕書堂」跡に行ったのなら
「伝馬町牢屋敷と処刑場跡」に
寄らないわけにはいきません。
ドラマ「仁」でも
忘れられない
数々の名シーンが
ここで繰り広げられました。
『先生・・・今宵は・・・今宵は・・何をお食べになりとうございますか。』(橘 咲)
『揚げ出し、揚げ出し・・・』(南方 仁)
.............................ぉお、
また
「仁」の世界に行ってしまった...。
まずは
かつての
「伝馬町牢屋敷」の敷地にある
「大安楽寺」へ。
「牢屋敷」は
1875年(明治8年)に
市ヶ谷(市谷監獄)へと移ったものの、
跡地は処刑場跡であることが嫌われ、
荒れ果てたままでした。
遡って
1872年(明治5年)、
この地に燐火が燃えるのを見た
大僧正の山科俊海は
処刑場で亡くなった人たちを慰霊しようと、
(一番下の字は
「山岡鉄舟」揮毫)
1875年(明治8年)に
大倉喜八郎、安田善次郎らの寄進を受け
創建されたのが
「大安楽寺」です。
寺名の「大安楽寺」の
「大」は大倉、
「安」は安田の名に由来します。
このお寺と
隣の
「十思(じっし)公園」の間が
かつての
斬首場。
吉田松陰先生も
まさしくここで
亡くなられました。
(書き置きをいただこうとお金を出していたら
住職さんが中から出て来て
「直書きしますよ」と。
本当にありがとうございました!)
常盤橋外に
牢屋敷にあたる施設が設けられたのは
なんと、
天正年間。
それが
慶長年間に
小伝馬町に移って来たとされます。
その後、
約270年間存続し、
入牢者は、数十万人を超えます!!
高野長英や
吉田松陰も
ここに収容されていたんだなー。
(ま、
長英さんは脱獄しますがね)
1857年、
吉田松陰は
安政の大獄の際に刑死し、
ここ
「十思公園」には
「松陰先生終焉之地」の碑が設置されています。
この
牢屋敷で詠んだ辞世の短歌。安政6年10月27日。
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂
その6日前、
家族にあてた別れの手紙の中の短歌が
この有名な歌。安政6年10月20日。
親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん
かつて、
ここから西、
約200mくらいのところにあった、
江戸で最初の
「時の鐘」。
江戸市中に時刻を報じていましたが
この鐘の音を目安に
刑が執行されていました。
牢屋敷の人々は
どんな気持ちで聞いていたろう。
(処刑が行われる日には
鐘を撞く時間を少し延ばして
処刑を遅らせたという、
江戸町人の心持ちが伺える逸話も残されていますヨ)
牢屋敷跡からは
神田上水の遺構(木樋・埋桝・井戸)や
石垣遺構も。
牢屋敷は
周囲に土手を築いて堀を巡らし、
高さ約2.4mの高い土塀に囲まれていました。
出土した石垣はその内側で
しっかりと敷地内を仕切っていました。
「小伝馬町牢屋敷展示館」へ。
牢屋敷の内部模型、
じっくーり見ちゃいました。
玄関では
百叩きの刑!!
表門か
ら屋敷中央には
板塀で囲んだ
囚獄配下の役人空間(与力・同心の詰所や役人長屋など)があり、
中央の張番所付近と
東の
裏門付近には
埋門(練塀下方に設けた小さな開口の穴門)を設け、
南東角には
死罪場が配置されていました。
入口右側には
俗に
「牢屋奉行」と称された
囚獄(入牢者の管理や行刑などを指揮した幕臣の役職)を世襲で務めた
石出帯刀(いしで たてわき)の屋敷が。
(しかーし、
不浄の身として江戸城には登城できなかったそう)
歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物が、
石出吉深(よしふか)。
明暦の大火(いわゆる振袖火事)に際して、
収監者を火災から救うために
独断で「切り放ち」(期間限定の囚人の解放)を行ったことで有名。
吉深は収監者達に対し
「大火から逃げおおせた暁には
必ずここに戻ってくるように。
さすれば死罪の者も含め、
私の命に替えても必ずやその義理に報いて見せよう。
もしもこの機に乗じて雲隠れする者が有れば、
私自らが雲の果てまで追い詰めて、
その者のみならず一族郎党全てを成敗する」と申し伝え、
猛火が迫る中で死罪の者も含めて
数百人余りの「切り放ち」を実行。
収監者達は涙を流し手を合わせて吉深に感謝し、
後日、
約束通り全員が牢屋敷に戻ってきたといいます。
吉深は
「罪人といえどその義理堅さは誠に天晴れである。
このような者達をみすみす死罪とする事は
長ずれば必ずや国の損失となる」と評価し、
老中に死罪も含めた罪一等の減刑を嘆願、
幕府も収監者全員の減刑を実行することとなりました。
(実際には、数名は逃げたとも...)
敷地のおよそ北半分は
練塀(ねりべい)で囲まれた
牢屋(身分・性別・遠島者などの区分別の部屋があり、
通常は300~400人〈多い時はその倍〉を収容)で構成。
牢屋敷の獄舎は
身分によって区分けされていました。
大牢と
二間牢は庶民、
(
八百屋お七や
鼠小僧次郎吉は、ここかな)
揚屋(あがりや)は
畳敷きで
お目見以下の幕臣、
大名の陪臣、僧侶、医師が対象。
(
吉田松陰や
高野長英、
橋本佐内、
渡辺崋山、
平賀源内先生は、ここかな)
牢屋敷は
現在でいえば
未決囚の収容所で
一時的に留置しておくためのものでした。
最後に
「百姓牢」の隣にある
「首斬場」。
松陰さん、29歳で斬首。
若すぎます。
隣の
震災復興小学校。
すばらしいデザイン。
日曜・祝日は休館。トホホ…。
最後に
もう一度お参り。
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Posted at
2025/09/15 16:24:46