マツダファンフェスタのブログを書きながらいろいろと見て回っていたらちょっと前に書かれたもののようだが787Bについて興味深く読めた記事があったのでコピペ。
wikiを読むよりわかりやすく思えたのでプロの方だろうか…と思ってしらべようとしたのですがイマイチわからず…。
コピペだけではちょっと味気ないので、最後に面白い動画を追加しておいた。
ルマン24時間耐久レース、それは世界で最も過酷なレースである。サルテサーキットの大半は一般公道であり、路面コンディションは時間の経過と共にどんどん悪化する。通常のサーキットの3倍近い13.6kmの全長は、トラブルを抱えたマシンがピットに帰るのを阻み、緻密な燃費計算を要求する。4本のロングストレートでは350km/h近くに達し、そのストレートエンドでは毎度ハードブレーキングを求められる。そんなコース特性ゆえ、各車両は駆動系に凄まじい負荷を受ける。コース上は、24時間にわたって数十台もの周回遅れで埋め尽くされており、トップカテゴリーのマシンはその間を縫って走る。しかも、年一度の開催ゆえに、思わぬ偶然に涙を飲むことも多い。
日本車は、このルマンにたった一度だけ、君臨した事がある。
マツダの勝因は何であったか?答えはひとつだけだ。マツダは、巧妙なロビー活動行った。勝利は、その結果である。今になって、26Bと呼ばれた4ローターエンジンのパワーが勝因であるとか、787Bは抜群に速かったなどと、誤った伝説を信じる者が現れ始めた。それは、全くの誤解である。実際、787Bは国内のJSPCでは全く歯が立たず、トヨタやニッサンはおろか、旧式のポルシェにまで、あっという間に周回遅れにされていた。そんなマツダの存在は、少々哀れですらあった。
当時のスポーツカーレーシングはグループC規定と呼ばれる、プロトタイプレーシングカーで争われていた。1970年代末、自動車メーカーはオイルショックによる環境意識の高まりによってモータースポーツへの参戦意義を失い、続々と撤退していった。そこで、FISA(現在のFIA)は熱効率を規定の柱にすることを決めた。1982年に導入されたグループC規定では、個々のレースで燃費が2km/L程度になるよう使用燃料が制限され、勝敗の趨勢はパワーやスピードよりも、熱効率で決した。グループC規定は、自動車メーカーが株主を説得するには好材料だった。FISAの目論見は見事に成功し、1980年代末の世界選手権WSPCは色とりどりのファクトリーマシンがグリッドを華々しく彩ることになる。
1982年、ポルシェのノルベルト・ジンガーは伝説となった世界初のグループCカー「956」を完成させる。その完成度は、初のCカーにして既に最高傑作であった。シンプルなアルミモノコックに歴戦の水平対向6気筒ターボエンジンを組み合わせ、コンパクトなモノコックの両サイドから導入されたクーリングエアーは、サイドボディに配置したラジエターを効率的に冷却した。洗練されたデザインを持つFRPカウルは慎重に風洞実験を行なった結果であり、床下全体で高効率のダウンフォースを稼いでいた。今から考えれば、至極真っ当なパッケージングであったが、それは間違いなく革命であった。世界中のレースエンジニアは、10年以上956を模倣し続けることになる。956は、ルマン以外では旧規定に基づいて燃料を無制限に使うランチアに手を焼いたものの、ルマンでは実に6年に渡り君臨し続けた。
956の存在が圧倒的であったのは、お金を出せば911のように誰でも購入できたことである。956は世界中のプライベータの手に渡って、個々のレースを占拠し、そして席巻した。
ジャガーは、狡猾なレース屋であるトム・ウォーキンショーの提案書を信用して、グループC活動の一切を依頼した。当初凡庸であったTWRジャガーのグループCマシンは年々洗練されていき、XJR-9は1988年に念願の打倒ファクトリーポルシェを果たし、1957年以来の優勝を達成する。翌年には、ペーター・ザウバーにそそのかされたシルバーアローが、1952年以来の勝利を果たす。
1990年、ニッサンは5台のファクトリーマシンと、2台のプライベータマシンという一大物量作戦を敢行する。結果は、完敗だった。しかも、ピットでヨーロッパとアメリカのメカニックが殴り合いを始めるなど、大恥をかく惨敗であった。当時、ヨーロッパのニッサンはTWRジャガーを差し置いて、WSPCを絶望的に圧倒するザウバー・メルセデスに追いつきつつあった。実際に、WSPCのモントリオールの一戦では不慮のレッドフラッグが無ければ、間違いなくシルバーアローを倒していたはずだった。ところが、ニッサンは不可解なことにアメリカのNPTIと、ヨーロッパのNME、追浜工場と、バラバラに3種類のグループCカーを開発していた。ルマン参戦に際しても、ニッサン本社はこれを統一出来ず、それぞれをエントリーさせていた。マシンがバラバラでは、燃費もバラバラであり、作戦もバラバラになる。シルバーアロー包囲網を敷くどころか、ニッサン内での争いが始まってしまう有様だった。
1990年のルマンを制覇したのは、TWRジャガーのXJR-12であった。XJR-12は耐久向けで、XJR-11のV6ターボに代えて、巨大な7LV12エンジンを組み合わせたXJR-9の発展型であった。この年、ザウバー・メルセデスはFISAがルマンをWSPCから除外したことを受けて、参戦を取りやめていた。ライバルのニッサンが不甲斐ないレースを行ったため、TWRジャガーは1990年のレースから充分な教訓を得られなかった。実際には、巨大なV12は燃費の問題を抱えていた。にも関わらず、TWRジャガーは1991年のエンジンを400ccさらに拡大する、7.4Lとする決断を下す。
ザウバー・メルセデスが開発したC11は、グループC規定史上最高のマシンだった。歴戦のM119型5LV8ターボは、低回転低ブーストコンセプトにより、圧倒的な高燃費と高トルクを発揮した。TWRジャガー、トヨタ、ヨーストポルシェといった面々は、予選こそフルブーストで1000ps近いパワーを炸裂させたものの、決勝ではそのパワーは見る影も無く、序盤から開いた差が終盤ガス欠でさらに広がる有様だった。C11に唯一追いすがったのは、ヨーロッパニッサンのR-90CKのみだった。
当時のグループCレースは限り有る燃料を如何に使い切るか、ファクトリー間の知恵比べ競争であった。序盤にあるマシンが独走をしたとする、ライバルは後半に追いつくのか常に疑心暗鬼となるので、若干のペースアップを試みる。ところがこれは罠で、このマシンのペースは完走度外視であり、本命はもう1台の方だった。ライバルは軒並み終盤に燃料不足からペースダウン、本命が悠々とパスして優勝をさらう。他車の燃費は分からないから、互いに熾烈な情報線を繰り広げた。シルバーアローの席巻するWSPCでは、指を咥えていても勝利は得られない。ライバルを崩しに掛からねば勝利は望めなかった。
WSPCを舞台に、ニッサンは果敢にメルセデスに勝負を仕掛け、鉄壁のシルバーアローを崩しにかかった。時には見事に罠に掛かり、打倒シルバーアローは目前であった。しかし、その挑戦は1990年いっぱいで終りを告げてしまった。
FISAは、観客にとってただの日光浴となるマラソンレースを、70年初期のような熾烈なテールtoノーズの白熱したメーカー競争に切り替えようとしていた。エンジンはF1と同じ3.5LNAエンジンに統一され、車重は250kgも軽い750kgに変更された。レースから燃料規制は撤廃され、距離もセミ耐久と呼べる500kmに短縮された。WSPCに参加するメーカーは、新規定を強行採用するFISAに軒並み反抗した。この混乱は様々に影響を及ぼした。そして、この混乱が当時WSPCの最後方を走っていたマツダに勝機をもたらすことになる。
日本のトヨタとニッサンは、FISAに別々の返答を行った。ニッサンの決断は撤退だった。91年規定のマシンをニッサンはバブル崩壊を鑑み用意しなかったのだ。トヨタはアドバイザーとしてトニー・サウスゲートと契約し、1992年からの全面参戦を表明し、1991年の終盤にもテスト参戦を開始すると約束した。
ザウバー・メルセデスにとって91年規定車両は250kg軽いNAエンジンのグループCカーでしかなかった。メルセデスC291は、NAV12に換装したC11そのものだった。メルセデスは、SWCと名称を変えた世界選手権への継続参戦を決断した。
この記を読む方は、2009年のF1をご存知のことと思う。ロス・ブラウン率いる貧乏チームは序盤を圧倒し、スポンサーの無い真っ白なレーシングスーツを着たジェンソン・バトンは、何とタイトルを取ってしまった。このロス・ブラウンは、20年前に956に縛られたグループCに革命を起こしていた。
ロス・ブラウンにとって、91年規定は250kg重い「F1」だった。当時、ベネトンに搭載されていたフォードHBV8エンジンにジャガーのカムカバーを取り付け、まるでF1のようなモノコックに組み合わせた。徹底的にコンパクトに設計されたモノコックにはドアさえ無く、ドライバーは窮屈なサイドウィンドウから搭乗した。フロントエンドにはウイングが設けられ、フロント床下からエアを強力に吸い出し、強大なダウンフォースを発生させた。これに呼応して、リアウイングは巨大なウイングユニットに変化して、特大のロアウイングは床下のディフューザのエアを加速させて、強大なダウンフォースをロードラッグで獲得した。XJR-14と名付けられたこのマシンのコーナリングスピードは凄まじく、初テストではタフで知られたデレック・ウォリックの首を完全に破壊した。
90年の後半戦に、なぜか91年規定で参加していたプジョースポールは、XJR-14を見るや否や自らの905に全面的なアップデートを施す決断を下した。しかし、C291を完成させたばかりのメルセデスと、既にほぼ図面を書き終えていたトヨタは、顔を真っ青に染めるだけだった。
この時、マツダは何をしていたのだろうか。マツダは、ご存知のようにロータリーエンジンの実験の場として、スポーツカーレーシングへの参戦意義を見出していた。マツダにとって、ルマン24時間こそがゴールだった。それゆえ、91年規定のマシンを用意するつもりも無かった。そもそも、マツダがJSPCとWSPCで後方を走っていたのは、ルマンでのロードラッグを考えてマシンの横幅を規定よりも小さく仕立てていたからだった。ターボを用いないNAの4ローターでは、ここぞという時にもパワーを発揮することは出来なかったし、最終型のR26Bでも700psがやっとで、その差は歴然としていた。マツダの勤勉さに理解を示したFISAとライバルチームは、規定の少々異なるアメリカのIMSA・GTP規定での出走を許可し、車重は少々軽くされていた。それでも、マツダは変わらず後方に居た。鮮やかなチャージカラーの787Bは、幼かった私にとっても可哀想なほど遅いマシンだった。世界中の誰もがマツダが1991年のルマンで優勝するなど、考えてもいなかったのだ。この頃、マツダスピードは人知れずルマンの英雄であるジャッキー・イクスとアドバイザー契約をしていた。
混乱を極めたSWCに、ルマン24時間は組み込まれることなった。これは、シルバーアローの参戦と同義だった。
問題は、91年規定のF1エンジンでは当然の如く24時間走りきれないという事実だった。そこで、FISAとACO(ルマンの主催団体)は前年規定での出走を認めることになった。これを受けて、91年の特別な車両規定について、話し合いが行われた。1991年になっても、プライベータが購入できるマシンはポルシェだけだった。そこで、歴戦のポルシェは前年規定よりも50kg軽い950kgとし、メルセデスやTWRジャガーの旧式マシンは1000kgという規定が適用されることになった。問題は、「可哀想な」マツダだった。1991年はロータリー最後の年となる。誰も物にできなかったロータリーエンジンをマツダがコツコツと開発を続けていた事実は、誰もが知っていることだった。そこを考慮して、マツダに830kgという170kgものハンデを与えることになった。そのハンデを得るのに、あの英雄の存在は小さくなかっただろう。
この「お恵」を聞いたマツダスピードの面々は、「楽なルマン」ではなく、「勝てるルマン」だと大真面目に考えた。170kgも軽ければ燃費は劇的に向上し、計算上は全開のまま24時間を駆け抜けられるはずだった。それに、ブレーキやシャシー、駆動系に対する負担は劇的に軽減する。問題は、スピードだった。ナイジェル・ストラウドが設計した最新型の787Bでは、人並みのサイズに大型化されたとは言え、やはりスピードは足りなかった。しかも致命的なことに、全力で走り続けても、燃費走行のC11よりも遅いと思われた。マツダは、新進気鋭のドライバー3人を揃えた55号車を筆頭に、ベテランの18号車の2台の787Bと、型落ちの787の56号車をバックアップとする3台体制を敷いた。しかし、マツダのピットの外には、彼らが勝つなど考えている人は相変わらずいなかった。
メルセデスは、いつもの1号車、2号者に加え、若きミハエルを含む若手ドライバー3人を揃えた31号車のC11を3台という強力体制でルマンに登場した。C291は車検のみに登場し、サルテサーキットを走ることはなかった。一方の、ジャガーは前述のとおり7.4LのXJR-12を3台持ち込んだ他、XJR-14を予選のみ出走させた。XJR-14は悪コンディションの中、予選レコードを記録したものの、そのままガレージに引っ込められた。最後に、プジョーは前年規定のマシンを持っていないので、序盤リタイア宣言をした上で、翌年のテストを兼ねて出走することになった。
戦前の予想は、全員メルセデスだった。人によっては、メルセデスの機械のように正確な1-2-3行進が24時間続くとまで予想した。
レースがスタートすると、予想通りの展開となった。プジョーは、序盤をリードするもトラブルを起こして徐々に遅れていった。メルセデスは、鉄壁の1-2-3体制を確立し、これを堅持した。これに続くのはTWRジャガーだったが、燃費に苦しんでいるのは誰の目にも明白だった。そして、予想外にもマツダの1台がジャガーと同じペースで周回を重ねていた。
明らかに、ハンデが大きすぎた。55号車は燃費を気にする気配すら無く、全開でジャガーを追い掛け回していた。だが、24時間レースでの全開走行は、プジョーの如くリタイア宣言と同義だったから、日が暮れても誰も55号車が大真面目に走っているとは思っていなかった。
メルセデスは心配だった。彼らの緻密な計算によれば、C11はさらに燃料を節約せねば1-2-3体制を堅持出来ない。だが、シルバーアローの伝説に似合う勝利は、1-2-3フィニッシュしか無かった。しかも、31号車はピットアウトの周回でダンロップブリッジでスピン、リアウイングを壊して後退していた。夜半過ぎには、2号車をエンジントラブルで失うことになる。
歴戦のTWRジャガーは、まさか弱小のマツダに負ける訳にいかなかった。TWRは完全に焦っていた。夜が来ると、マツダと同じペースだと明らかに燃料が持たないことが判明した。それでもXJR-12は食い下がったが、55号車は不意を突いた(いまや当たり前となった)ダブルシフトを敢行し、ピットインの際についに2位を確保した。
この時メルセデスは、依然1号車をトップに据えていた。メルセデスは2周差を安泰と考えていたが、マツダスピードの監督である大橋は果敢にも55号車にペースアップを命じたことで、メルセデスの心配は完全に焦りに変わった。昼前、1号車から白煙が上がり、新装なったピットロードに滑りこんできた。明らかに致命的なエンジントラブルだった。原因はオーバーヒートだった。市販車用部品を流用したウォータポンプのブラケットが破損していたと言われている。
マツダはサーキット中にこだまする大歓声の中、楽器のように美しく澄んだ4ローターサウンドを響かせて2周を駆け抜ける。奇跡が起こった瞬間だった。ジャガーのために用意されたグランドスタンド中の数多のユニオンジャックは、55号車のジョニー・ハーバートに向かって打ち振られた。テレビ朝日のアナウンサーは中継が始まるや否や「大変なことが起きています。マツダが、ルマンを、世界をリードしています。」と声を震わせた。
誰も、状況を呑み込めていなかった。WSPCでC11の遥か後方を走っていたマツダが、ルマンで鉄壁のシルバーアローを完全に破壊した。しかも、それはジャガーでもニッサンでもなかった。転んでもタダでは起きないトム・ウォーキンショーは、ACOに抗議した。ロータリーが仕方なく消費するオイルで燃料を水増ししている、という内容だった。だが世界中の全ての人々は、あの悲劇の都市広島から来た果敢な挑戦者の味方だった。当然のごとく、抗議は認められなかった。トム・ウォーキンショーは、燃料節約のために3台のXJR-12にさらなるペースダウンを命ずる他なかった。あの時、温情とも言える車重830kgをなぜ承諾してしまったのか、トム・ウォーキンショーはたっぷり後悔したに違いない。
かくして、55号車は24時間のチェッカーを受けた。ピストンエンジンが、ロータリーに敗北を喫した瞬間だった。その瞬間、観客の興奮は最高潮に達し、フェンスを破ってメインストレートになだれ込んだ。55号車はメインストレートを諦め、仕方なくピットロードに凱旋する。鮮やかなチャージカラーの787Bを幾重にも人が取り巻き、前進もはばかられる程だったから、メカニックがマシンの前を走って「交通整理」に当たった。だが、彼らは群衆が野次を言うために取り巻いているのではなく、その奇跡を称えるためにいる事が分かると、フロントカウルに腰掛けて観衆とハイタッチを始めた。そして、その拳を何度も天高く突き上げた。
こうして、マツダが、ロータリーが、ルマンに奇跡を起こした。そう、それは奇跡だった。
マツダは91年規定の混乱に乗じ、したたかに自らに対する規定を有利に導き、24時間全開走行という賭けに出た。というより、C11に勝つには全開で走る他なかった。マツダのエンジニア達は、170kg軽いとはいえ過酷には変わりないルマンでの24時間全開走行に耐えられる信頼性を787Bに与えた。それは、24時間全開走行という作戦実行に不可欠なものであった。そして、たった1台のマツダは無謀とも言える作戦でジャガーに攻撃をしかけ、3台のジャガーはオーバーペースとなって脱落を余儀なくされた。そして、その挑戦はメルセデスを混乱に陥れ、計算に狂いを生じさせた。百戦錬磨の1号車はなぜかトラブルの前兆を掴み損ね、気がついた時にはエンジンは死んでいた。
偶然とはいえ、「勝利の方程式」をマツダは手にした。そして、マツダは1991年に至るまで、ゴールをルマンの勝利と見定めて、数々の大恥を重ねつつも着々と経験を積み上げていた。経験があったからこそ、勝機を見逃さなかったのだろうし、完璧な準備を行えたのだろう。そうした意味で、マツダの勝利の価値は燦然と輝くのだ。
今になって、マツダの本当の勝利の価値が何であるか、を理解する人は少なくなってしまった。2000年代のトヨタとホンダのF1活動がまさしくそうであった。ただ、速いマシンと速いドライバーを用意すれば結果が得られる、世界選手権とはそのようなものではない。如何に巧みに、勝利の方程式を積み上げていくか、自らに有利な状況を組み立てていくか、そこが重要である。
翌1992年、マツダスピードは親会社の口利きでTWRとジョイントして、XJR-14を走らせていた。深刻な危機に陥ったマツダは資金不足に陥り、テストもままならず、SWCでは相変わらずの遅さを発揮していた。TWRが用意したジャッドV10は明らかにパワーに欠けており、ドライバーもマシンに適していなかった。JSPCでは、旧規定のニッサンとトヨタにあっという間に周回遅れにされた。ところが、前年の優勝コンビに委ねられた「MXR-01」は、パワーハンデを帳消しにするレインコンディションのルマンで、相変わらずの全開走行を披露した。6台のプジョーとトヨタをごぼう抜きにして何と序盤をリード、ウィンドウが曇るとか、ダッシュボードが外れるといった、信じられないトラブルの中、4位を獲得した。もちろん、参戦意義を失ったマツダ本社はその年限りでスポーツカーレーシングから全面的に撤退を決断した。
時代は下って、1998年と1999年、トヨタはドイツのTMGから圧倒的なスピードを持つTS-020をエントリーさせた。彼らは、緻密に勝利の方程式を積み上げていた。作戦は無謀ながらも一貫していて、マシンは完璧だった。しかし、勝利は得られなかった。やはり、ルマンには偶然が必要なのだ。
4ローターメイキング動画…なかなか興味深いです。
爆音こそロータリーエンジンの肝!!
26Bターボを搭載したレクサス 吹け上がり、パネェwww