
ハンドルを握りギアを1速にエンゲージし、アクセルを踏む。
エンジン回転が一気に跳ね上がって7千rpmのレブリミッターに当たり激しく咳き込んだ。アクセルを緩めると回転が落ちてゆっくりと前進を始めた。
俺は苦笑いを浮かべた。
アクセルを踏んだ瞬間にリアタイヤのグリップ限界を超え駆動輪がけたたましい音とタイヤスモークを発生させて空転していた、周囲にゴムの焼けた匂いが漂う。
46.2kg.mにざっと780kgの後輪片側加重。やっぱりV8の5700ccはトラクションコントロール無しだと深めにアクセルを踏み込んでしまったら正常に発進すら出来なかった。
アクセルを戻すとタイヤががっと食いついて回転がドーンと落ちてしまう。慌てて踏み増すと途端にホイルスピンが始まる。コントロール臨界が低いのだ。
……
湾岸や東名などを走る気はハナからない。最高速競争は空力とパワーの単純勝負だ。勝敗はやる前から見えている。くだらなくて試してみる気にさえならない。
サーキットもつまらない。μが高くて路面が平らだから、結局パワーとブレーキとグリップに優れる方が勝つ。条件が同じなら車重が軽い車だ。やる前から結果は分かる。
基本とセッティングと腕の差がそれぞれ顕著に現れて面白いのはアップダウンやうねりのある低μのワインディングに決まってる。道幅が狭くガードレールが近くアンジュレーションが多くコントロールが厳しいほど面白い。
しかし、対向車があって幅員断面(幅員:車両等が通行する車道の幅)がタイコ状になっている山道では走りがネガティブになりすぎる。
だからニュルブルクリンク北コースは世界最高なのだ。日本にだって似たような場所はひとつある。
首都高速道路環状線。
首都高環状線、しかし内回りで面白いのは一の橋の2号線分岐の手前の左コーナーくらいのものだ。銀座の立体交差は曲率がどんどんきつくなるので走りにくいし神田橋もリズムがとりにくい。江戸橋への登り坂はパワー勝負で面白いが、いずれにせよ直線に興味はない。
それに比べて外回りは攻めがいのある要衡ぞろいだ。特に霞ヶ関トンネルの入り口に突っ込んでから代官町の4号分岐を過ぎ、西神田のS字に至るルートは日本屈指のワインディングといってもいい。
俺は霞ヶ関から乗り首都高環状線に乗る事にした。
シートに背中をぴたりとつけ、ドライビンググローブをはめた両手でステアリングを握り、ギア位置とアクセル位置を再確認する。深呼吸をひとつして目をつぶり、そしてゆっくりとアクセルを踏み込んでいく。
ニュルブルクリンクとは
ドイツ・ニュルブルクリンクはいま世界の自動車の開発メッカとなっている。1920年代にできたこのサーキットは、 ヒットラーが貧しさで困っているこの人々に、一切れのパンを与えるために作られた公共事業であったと言われている。
ドイツメーカーはこのニュルブルクリンクでクルマを鍛えてきた。コースそのものが非常に厳しいといわれる理由は、 ハイスピードコースで、路面は適度に荒れているからだ。だから強靱なサスペンションでないと太刀打ちできない。 世界中の自動車メーカーやタイヤメーカーがここでテストを続けている。
ポルシェやBMWはニュルブルクリンクの常連であるが、最近はメルセデスもVWもニュルブルクリンクでテストをおこなっている。それだけではない。 GMのキャデラックもシボレー・コルベットもここニュルブルクリンクで開発しているのだ。
一周約20キロのラップタイムは速いスポーツカーで7分台でラップする。平均150Km/hを越える換算だ。 ポルシェのスーパースポーツカー、カレラGTは7分42秒台がでているという。
メルセデスマクラーレンSLRは7分50秒。 NSXタイプRとポルシェGT3が7分56秒くらいだ。R33GTRが7分59秒と国産車で始めて8分の壁を破っている。 BMW・M3やポルシェカレラが8分20秒台なので、このサーキットを8分台で走るということは スポーツモデルにとって大変名誉なことである。
1月2日午前3時。
元旦の夜の首都高速はさすがに空いていた。
鋭い夜気がコクピットに渦を巻き、露出した頬に針のように突き刺さる。3号線を登ってきて谷町で環状線外回りに合流。
ここからおよそ700mの直線である。
ギアをセカンドにシフトしてアクセルを一蹴し全開をくれた。5.7リッター/V8エンジンがウォッとうなり、背中をガツンとシートにのめり込ませて猛烈な加速が始まる。5000まで一瞬、すかさずサードにシフト。再びエンジンは6500まで跳ね上がる。
ウオオッ、ガン、ウオオオーッ、ガン。パワー、シフト、パワー、シフト、パワーパワー、シフト。
TVで見るF1そっくりだ。あそこまで回転とシフトのリズムは早くないが、ヒュイーン、カン、ヒュイイイーン、カン、そのタイミングの調子は全く同じである。
エンジンがうなっているその間、車は回転の上昇の勢いに比例して前方へ突進しているのだ。
溜池までの直線で一気に200㎞/hまで加速しフルブレーキングを敢行する。ABSは作動しない。路面のμも低いがフロントタイヤのグリップも高いのだ。俺は80km/hまで一気に減速しながらステアリングを右に切り込む。
ドシャン!
霞ヶ関トンネル入り口手前にある大きな路面のうねりでサスペンションがフルストロークしバンプストップラバーを強打した。乱れた進路をステアリングで修正、アクセルを踏む。流れたリアの滑りは一瞬で止まり、マシンは前方へ突き進む。ここが重要で、ともかく踏んでいる限り方向安定性はべらぼうに高い。
トンネル内、左のきついブラインドコーナー、さらに左のえぐるようなカーブ。見事だ。四輪が路面にへばりつき、保舵力がずっしり跳ね返ってくる。路面のギャップがあろうがうねりがあろうが関係ない。何があってもなんとでもなる。そういう感じ。
すりばちの底を駆け上がって4号線の分岐、ふわっと体が宙に浮くような上向きのGを体感しながらさらに左カーブを抜け再びトンネルへ。ここでは大きくアンダーが出る。接地感が一瞬抜けるこういうカーブが一番怖い。サスのストロークが短いとなおさらだ。俺はここでクラッシュしそうになった事がある。セリカのときだ。
4号線が左から合流する。
長いトンネルの前方に、低い車が走っているのを見つけた。
ターン、ターンと加速の度にリアがわずかにスクォートしているのが分かる。ベンツSLか。スピードはこちらと変わらない。いま210km/h。SL55MGかも知れない。いま240km/h。
差は縮まらない。前方の車のブレーキランプが真っ赤にきらめくのとほぼ同時に、巨大なスポイラーのようなものがトランクリッドの所からふわっと立ち上がった。
SLRだ。
代官山のきつい右コーナーを立ち上がっていくとくさび形のシルエットがシルバーグレイに光った。
ここの右コーナーは日本一ヤバい。思い切りブレーキングしブレーキングしブレーキングする。止まるつもりでブレーキを踏み、アクセルをこらえてこらえてこらえながら右カーブをターンして登ってトンネルの外へ出る。闇の中に国立近代美術館別棟の洋館が亡霊のようにぬっと立っていた。
それを視野にとらえながらじんわりアクセルを踏む。
ここは逆バンクだ。路面に石も乗っていてどえらく滑りやすい。代官山の出口をすり抜け、再び左に下りながらトンネルの中にノーズを突っ込む。SLRの姿がトンネルの先に一瞬みえた。4輪からタイヤスモークを吐いている。
右コーナーを抜けるとSLRの後ろ姿を視野にとらえた。前方約200メーター。トンネルを一気に駆け上がって追従する。坂の頂上はブラインドの右コーナー、ここもまた逆バンクである。
SLRがブレーキング、こちらはもう一瞬早いポイントで深いブレーキングを行う。
俺は大パワーのヘビー級モンスターマシンはリズムで運転する車だと思っている。熱くなって突っ込みすぎるとがっくり立ち上がりでロスを食う。
とりあえず猛然と突っ込んでおいてからヨーと相談しながら何とか立ち上がる、そういうなめきった運転はハイスピードレンジのスーパースポーツには通用しない。
神田橋はS字の連続である。ブラインドを立ち上がってきつい左、すぐ右。立ち上がってまた左、すぐ右。この速度ではそれぞれが直角コーナーのように立ち塞がる。
一発目のブレーキングをミスするとドミノ倒しでタイミングがずれ、あとに行くほどコーナーの進入が苦しくなる。
前方のSLRは舞うように走っていた。
ひらりひらりとブレーキングの度にスポイラーを立てる。ノーズダイブしながらコーナーを深く切り込んでヨーをつけ、ドリフト気味の姿勢からタイヤスモークを引きずって立ち上がる。コーナリングスピードはこちらより2割早いが、ブレーキングポイントは5m浅い。
たちまち差を詰めながら、俺はSLRのそのタイミングに自分の運転のリズムを壊されないようにするために精神力をふりしぼった。
大手町の会社線分岐をパスして登ると、どんつきが呉服橋、左の深いコーナーだ。
ここで追いつく。
ブレーキングしハンドルを切り込み、きりこんだままアクセルをあおりながら車を回し、ぎりぎりのタイミングを見計らって全開を与える。
2速からガーンと加速してSLRのテールに食らい付いた。
2台はひとつの弾丸になって江戸橋ジャンクションの側道を260km/hで駆け上がる。
一瞬早くブレーキングを踏んだ。
思い切り深く踏む。
SLRがポーンとはじかれたように離れ、敵もスポイラーを跳ね上げてブレーキングに入る。江戸橋分岐のカーブは右へ右へ深く切れ込む複合コーナーだ。
路面は滑りやすいし視界は閉じている。SLRは大きくテールを張り出しスロットルをハーフから開きながらドリフトでカーブを曲がっていく。こちらはそうはいかない。スロットルコントロールしながらヨーがつき終わるのを待つ。
夜空が視界に開けると同時に俺はカマロのアクセルを全開にした。
SLRに一気に並ぶ。
ここからは京橋、旧河川の底へと奈落を1000m突っ走る下り直線だ。
全開全開全開。
SLRも全開。
速い速い速い。
視力の追従がやっと。
スピードメーターが盤面をめぐる。
3速4速、SLRはすぐ隣、わずか半車身頭をとった。
河床にあたって火花が散る。その瞬間5速、SLRはすぐ後ろバックミラーいっぱい。
俺はアクセルを少し緩め、弾正橋のオーバーブリッジの侵入に備える。めっちゃめちゃヤバイスピードだった。
ズシャッ!
え。
SLRに追突されたカマロはテールを左に振った。
ステアリングを左に当てブレーキを強く踏む。
もう一度 グシャッ。
今度のヨーは強烈に速かった。カウンター全く間に合わない。
ほとんど真横を向いたまま橋の欄干にむかう。
「逝ったな」
ガッ。
脳天に衝撃が来た。
いつの間にか両手がステアリングから落ちていた。
俺は冷たい汗をかきながらシートの中で浅い呼吸をしていた。
こんな終わり方は初めてだった。
己のミスの時と違って動揺が大きかった。
異機種間格闘戦には限界があると思う。
スピード域がまったく違うなら問題ない。
これがサーキットならμもグリップもお互い高いからこうまで特性に差も付かない。
スピードが同じなのにタイミングがこれだけ違うと、一緒に走るだけでも違うのだ。走りのリズムがあまりに違う。これならエンツォと競争する方がマシだ。
バトルというのは相手も重要なのだ。もし俺がSLRに乗ればブレーキングがやたらと早いカマロに進路を塞がれて早いブレーキングを余儀なくされ、コーナー脱出で取り残されて悔しい思いをさせられるのが目に見えていた。
俺は今までの緊張から来る興奮のほとぼりを冷ますかのようにゆっくりと湾岸を流して家路についた。
今度はどうなるだろう。