2006年01月13日
ムダ知識「藤原さん」は高貴な血筋
古代から中世の貴族についてちょっと調べていたら、面白い話を見つけた。
645年起こったことといえば…?
大半の人は「曽我ムシコろせ、大化の改新」なんて覚え方をしたのではないだろうか、そう、大化の改新である。
ちなみに、大化の改新=蝦夷、入鹿の暗殺と考えている人が多いけど、実は暗殺事件自体は「いっしの変」(漢字は忘れちゃった)といって、大化の改新はその後の公地公民制の確立、租庸調の税制の確立、国民台帳の編纂までの政治改革を示すんですよ。
で、中臣鎌足は中大兄皇子とともに大化の改新の立役者とされ、中富家は後に不比等の時代に藤原姓を頂戴する、というのが一般的常識ですよね。
で、現代でも藤原さんや江藤さんなど「藤」の字がつく人は、元をたどれば藤原氏にたどり着くというのは結構有名な話。
ところが、実はこの話、最近ちょっと変わった様子。
実は、もともと中臣氏はみんな藤原氏だったようなんです。
どういうことかというと、初代「藤原氏」である藤原不比等は、幼いころは乳母である田辺史大隈(たべのふひとおおすみ)の手で、人目につかないように育てられ、宮中に登用されるようになってからは育ての親の名をもじって「藤原不比等」を名乗るようになったのだとか。
で、問題になるのが歴史書「大鏡」の一説。
実は、中大兄皇子が即位後、天智天皇を名乗るようになってからの話で、天智天皇は中臣鎌足にプレゼントとしてお気に入りの庶子(宮中の女性)を与えたのだが、その庶子がすでに妊娠していて、そこから生まれたのが不比等であると。
つまり、藤原不比等は中臣鎌足の子として育てられたが、実は天智天皇の子であったということになる。
ちなみに当時は天皇が手をつけた女性は家来に送るような風習はなく、ここにも矛盾が発生する。
正しくは、中臣鎌足の奥さんと天智天皇が不倫して生まれたのが藤原不比等ということになるわけで…。
さらに、実は、もともと「中臣」なんて苗字はなく、歴史上の中臣氏は最初から「藤原氏」だったと。
ではなぜ、後世の歴史書には不比等より前の藤原氏が中臣に書き換えられているのか。
天智天皇の跡継ぎ問題として勃発した「壬申の乱」のとき、藤原氏一族はみんな敗れた大友皇子(天智の息子)側についていて、大海人皇子(天智の弟)が勝ってからは、藤原氏全体が没落している。
その中で、天皇の血を引いていた不比等だけは大海人(天武天皇)に重用され出世していき、不比等が没落する藤原氏と自分を切り離すために、自分の家を除いた藤原一族に「中臣」姓を与え、藤原を名乗るのを禁止したのだと。
ということは、現在の藤原さんがみんな不比等に行き着くのであれば、現在の藤原さんはみんな遠く天智天皇の血を引いた血筋、ということになるんですね。
歴史ってのは調べるほどにドロドロ、グログロで面白いですな。
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2006/01/13 13:43:33
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