昨年の311、地震が起こった時、ちょうど新居のガス栓オープンのためガス屋さんを待っていました。お客さんから電話が掛かってきて応対をしていた時、ものすごい揺れ、購入したばかりのマンションが崩壊しそうな揺れでした。5分ぐらい続いた揺れのあと、10分弱、今度は話していた名古屋のお客さん側が尋常じゃない揺れが起こっているようで、電話の後ろで大勢の人の悲鳴が起こっていました。
話しながら窓の外を見ると、ベイブリッジの元町側からものすごい黒い煙が立ち上っていて、煙はベイブリッジを覆って見えないくらい真っ黒になっていました。
この場所の風景を見慣れない私は、「ひょっとして工場の煙かな? それにしては黒いな。」とまだ呑気に構えていました。
新居は引き渡しが済んだばかりで家具もなく、倒壊するものは何もありませんでしたが、部屋のドアがちぎれんばかりに揺れ、このままマンション自体が崩壊するのではないかと思いました。
それからすぐに九州のお客さんから電話があり、「九州でもものすごく揺れたけど大丈夫?」と問い合わせの電話がありました。東北から関東、中部、九州まで時間差で揺れが伝わって行ったようです。
目の前に見えるベイブリッジではどうやら通行が止まっているようで、ベイブリッジ、つばさ橋ともに橋の上に車が渋滞しているのが見えました。電気もガスも止まり、家具も電気製品も何もない新居で仕事のPCのニュースを見ると、宮城沖で震度7とのこと、大したことでもなかろうと、その場を離れ、ホームセンターに家具やカーテンでも探そうと立ち寄りました。
その時、ホームセンターのTV売り場で見た光景はたぶん忘れることはないでしょう、、、
見慣れた宮城の海岸線が、、、空港近くの風景が、、、現在進行形で一変しています。。
さっき見た横浜の黒い煙と炎のようなものはやはり尋常なものではなかったんだと悟りました。。
東北にある工場は被災し、水電気ガスガソリン交通手段などは1か月以上も途絶し、偶然研修に行っていた社員はその後1か月近くも東京に帰ってこれませんでした。公共交通手段も途絶していたのです。
幸い社員に死傷者は出ませんでしたが、親兄弟や親戚には津波の被害に遭われた方々も多数おられたようです。
その後私は、震災対応でますます多忙になり、引っ越しはそれから数か月後までできる状態ではありませんでした。
我々は阪神淡路大震災も経験しました。身近で亡くなられた方々も多数おられました。
あれから17年、、
1755年11月1日、カトリック諸聖人の日の祝日に、リスボン大地震が起こりました。
欧州で記録に残る限り最大の犠牲者を出した地震、記録に残るほぼ唯一の先進国の大都市を襲った津波地震でした。
当時隆盛を誇っていたポルトガルの首都リスボンや古都ポルトは津波で壊滅し、犠牲者は10万人を超えたと言われています。
その被害は遠く英国まで到達し、英国でも津波での被害、地震の揺れで大聖堂が崩壊したりしました。(英国のリンカーン大聖堂には「1755年のリスボン大地震で崩壊した」の記述がありました。)
当時の宰相カルバーリョは地震と津波が収まるとすぐに秩序回復のために陣頭指揮を執り、略奪や暴動を防ぐため治安を維持し、がれきと化した都市を再建するために直ちに都市計画に取り掛かりました。
火災による延焼を防ぐために当時としては例外的な広い街路や広場を設け、再度の地震にも壊れないように、建物は世界最初の耐震建築を科学的に研究されたデータをもとに建設されました。
それにより、リスボンやポルトは当時としては最新の近代的な耐震都市となったのです。
我々日本人も、日々自分たちでやれることと自分たちなりにやっていくしかないのですね。
私も地震被害からの会社復興に日々つとめております。
わが日本の指導者たちも願わくばこの国家危機に卓越な先見性と指導力を発揮してもらいたい
ものですが、、
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自動車雑感 | 日記
Posted at
2012/03/12 00:31:41