2017年08月25日
海上に出ると間もなく敵を発見した。例によって二機のPBYが低空を這うように西に向かっていた。護衛はF四Fが六機、我々と飛行艇の間に割り込んで何とか飛行艇が退避する時間を稼ごうとしていた。高瀬が直率する編隊は我々よりも約五百メートル低空を飛行していたからそのまま飛行艇攻撃に向かった。
我々は護衛のF四Fを崩しにかかった。高瀬は一度飛行艇の前に出ると切り返してから鮮やかな正面攻撃で先頭の一機を撃墜した。そして続けて後上方からの一撃で二機目を葬ってしまった。その間およそ一、二分、目が覚めるような鮮やかな撃墜だった。我々は向かって来たF四F二機を落としたが、残りは取り逃がしてしまった。
戦闘は高瀬の鮮やかな手際で呆気なく片付いてしまったので我々は編隊を纏めて帰還しようと高度を取っていたところに上から何かが降ってきた。その次の瞬間、最後尾の四番機が爆発して砕けた。
「上に気をつけろ。P四七だ。また来るぞ。」
高瀬の声が受話器から聞こえた。上空を見ると黒い点が十数個浮んでいるのが見えた。高瀬は直率の三機を率いて高度を取りつつあった。どうやら一戦交えるつもりらしかった。その高瀬の編隊を狙って敵機が急降下して行った。高瀬はそれを横転上昇でかわすと後方から追撃して一機を撃墜した。
高瀬の鮮やかな空戦に見とれていると今度はこっちが狙われた。二機が後方から迫ってきた。列機を退避させておいて高瀬の真似をしようとしたが、敵機をかわすことは出来ても彼のように高速の敵機をうまく捉えることが出来ずに取り逃がしてしまった。
高瀬はそれからも自分が囮になって狙ってくる敵機を三機も撃墜した。私たちは島田一飛曹と一緒になってやっと一機を落として四番機の仇を取った。しかし、この戦闘で三番機が被弾したので島田一飛曹を護衛につけて先に基地に返し、私は単機で高瀬たちを追った。
そこにまた敵機が奇襲をかけてきた。三機が連続して急降下攻撃をかけてきたのを横転や機体を滑らせて二撃まではかわしたが、最後の攻撃はかわしきれそうになかった。首を精一杯回して迫ってくる敵機を視界の端で捉えながら『これでいよいよ年貢の納め時か』と観念した時、爆発して砕け散ったのは後から迫っていた敵機の方だった。そしてその爆煙を突き抜けて姿を現したのは胴体に大きな金色の十字架を描いた紫電だった。
「高瀬。」
私は無線に向かって呼びかけた。
「相変わらず無茶な誘い方をするやつだな。貴様があまり呑気な誘い方をするから三機もお客さんを魅惑したじゃないか。」
高瀬は機体を私の横に並べた。風防を隔てて絹のように滑らかな笑顔の高瀬が手を振っているのが見えた。私は高瀬に手を振って答えようとした。その時、高瀬の紫電が苦痛に身を捩るように機体を震わせた。そして次の瞬間、胴体に大きな金色の十字架を描いた高瀬の紫電は爆発して砕け散った。私の機体はその爆風に煽られて大きく揺すぶられた。私は揺れ続ける機体にしがみつくようにして高瀬が飛んでいた場所を見つめ続けた。しかしいくら目を凝らしてもそこには薄茶色の煙が漂っているだけで高瀬の機体はもう何処にもなかった。私には一体何が起こったのかすぐには理解できなかった。
高瀬の機体が砕け散った名残の煙を突き抜けて銀色のドラム缶のような戦闘機が二機、私の目の前を急降下して行った。私の視線はその二機に釘付けになった。そしてその時すべてを理解した。体中の血液が凍りつくような怒りを感じた。周囲からすべての色と音が消えた。心臓の鼓動だけが響き渡っていた。色のない世界を格子の帯を纏った灰色の敵機が飛び去ろうとしていた。
出撃時に胴体タンクにハイオクガソリンが入っていると整備長が言ったことを思い出した。私はハイオクガソリンについて深い知識はなかった。ただ馬力が出ると言う程度だったが、燃料コックを切り替えるとスロットルを思い切り前に押した。発動機が爆発しようと機体が分解しようと構わなかった。目前から飛び去ろうとしている敵機を追撃する力を与えてくれと神に祈った。この機体に力を与えてくれる誉発動機は突然これまで聞いたこともない高い排気音を響かせた。排気管から噴き出す排気炎が私の憎しみの深さを表すかのように青く長く尾を引いた。
色のない世界で青白い排気炎だけが目に痛いほど鮮やかだった。速度では遥かに勝るはずの敵機との距離が徐々に縮まって敵機が照準環一杯に広がった。私が機銃の引き金を引いたのと敵機の操縦士が驚いたように後を振り返るのとはほとんど同時だった。機体を通じて機銃発射の反動が伝わると同時に白く光る曳光弾が敵機に吸い込まれるように命中した。敵機の機体にいくつもの小爆発が起こり、すぐに左翼が折れ、機体はコマのように回りだして後落していった。
私はそこで先頭の敵に目を移した。残った敵機は右に回頭しながら上昇に移った。普通なら上昇力の勝る敵機を追尾しないのが原則だったが、高瀬を殺した敵機を撃墜することしか頭になかった私は機体を右に振って上昇に移った。排気炎はさらに長く青い尾を引いて機体に沿って流れた。これまで驚異的な上昇力を誇って味方を翻弄していた敵機との距離は開くどころか徐々に縮まっていた。
高度が六千を越えようとしたところで敵機は私を振り切れないことに慌てたのか、機体を右に捻って急降下を始めた。高度が上がれば過給機を装備していない紫電には極めて不利になるところを敵機が降下してくれたのは幸だった。互いに数トンの機体を二千馬力の発動機で引っ張りながら降下を続けた。それは命をかけた追いかけっこだった。
色の失せた大地が急速に近づいて来た。高度が一千を切った。もう限界だった。これ以上降下を続けたら機首を上げても間に合わずに地面に激突するかもしれなかったが、このまま敵を追って地面に激突しようと目の前の敵機さえ葬れば私はかまわなかった。
敵機は耐えかねて機首を上げた。上昇しようとしてその全身をこちらの機銃口の前に曝け出した。敵の操縦手がこちらを振り返っていた。その顔は驚きと恐怖で引きつっていた。私は構わずに照準環の中に捉えた敵機に向かって引き金を引いた。ほとんどすべての射弾が敵機に吸い込まれるように命中すると敵機は爆発して砕け散った。その煙の中を突っ切ってほとんど地上すれすれで機体を引き起こした。そしてそのまま放心したように上昇を続けた。
「武田五番、集まれ、集まれ。」
緩やかに上昇を続けながら味方を呼んだ。誰も答える者はなかった。私は上昇を続けた。自分が戦場にいることも忘れていた。何時の間にか高度は一万メートルに近づいていた。突然私の目の前を紫電が横切った。我に帰って目を凝らすとその紫電には大きな十字架が描いてあった。
「高瀬。」
思わず声に出して呼びかけると風防の中で絹のように滑らかな笑顔の高瀬が振り返った。
「高瀬、帰るぞ。」
私は大声で呼びかけた。しかし高瀬は何も答えてはくれなかった。そして突然信じられないような急角度で上昇を始めると見る間に視界から消え去った。私は慌てて四周を探したが、飛んでいるのは私だけで後は何時の間にか色の戻った青黒い成層圏の空が広がっているだけだった。
「帰るぞ、高瀬。俺は帰るぞ。」
私は独り言のように呟くと操縦桿を倒して機体を降下させた。
「武田五番、武田五番、応答せよ。」
受話器が鳴った。基地からの呼び出しだった。
「武田五番、現在位置、阿蘇山上空、高度八千。只今より帰投する。」
私は進路を北西に取りながら徐々に高度を下げていった。そして滑走路を認めると着陸のための旋回に入った。その時、ちょうど指揮所の反対側の草むらあたりから煙が立ち上がり、周りで大勢の人が忙しなく動き回っているのが見えた。たしか、戦時医療所に使用している壕のあたりだった。
Posted at 2017/08/25 17:34:18 | |
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小説2 | 日記
2017年08月19日
八月六日、何時ものように待機していた我々に広島に敵の新型爆弾が投下されたとの報告が入った。たった一発の爆弾で都市が一つ消滅してしまったという噂が飛んだ。単機で侵入してくるB二九には注意せよと指示が発せられたが、たった一発で都市が消滅してしまうような爆弾を使われたら、もう我々にできることは何もないように思えた。
そして八月九日、ソ連が中立条約を破ってソ満国境を越えてなだれを打って南下を開始したという知らせが入った。その日の昼前、長崎の方向に光が走り、その後空がなんともいえない不気味な濁ったオレンジ色に染まった。全員が滑走路脇に出て空を見つめていた。
「この間、広島に落とされた新型爆弾じゃないのか。」
そんな囁きがあちこちから聞こえた。それからしばらくして長崎が広島と同じように一発の爆弾で壊滅したという知らせが入って来た。
「原子力爆弾。何かの本で読んだことがある。ウラニウムという物質が分裂する時、莫大な熱エネルギーを放出するとか。日本では理論上のこととしか認識していないようなものを、まさかそんものを敵は開発していたのか。」
高瀬は指揮所の椅子に体を投げ出すように腰掛けるとため息混じりにつぶやいた。
「ソ連も中立条約を無視して宣戦布告してきたようだ。」
「卑怯な奴等だ。」
私が拳を握り締めると高瀬は飽きれたように笑った。
「条約なんか律儀に守っている方がお目出度いんだ。特にソ連とドイツなんか、これまで何度条約を一方的に破ってきたことか。そんなものを信じて縋っている方がお目出度いんだよ。」
高瀬は目を瞑った。そしてしばらく黙っていたが、やがて目を開くと立ち上がって焼け焦げたような色をした空を見上げた。
「いよいよだな、時が動く。」
高瀬はそれ以上何も言わずにまた椅子に深々と腰を下ろした。高瀬が終戦を言っていることは明らかだったが、我々には徹底抗戦か終戦か、この先はただ成り行きを見守る以外にはなかった。その日の夕方、飛行長から「翌日から稼動全機を以って敵を迎撃する。各員、皇国の御盾となって帝国海軍の誇りを汚さぬよう生死を省みず勇戦敢闘せよ。」との指示があった。誰も言葉を発する者はなかったが、心の中では誰も死を決していたようだった。私自身もこれで死ぬんだろうと覚悟を決めたが、差し迫った実感に乏しかった。
翌日、早朝から戦闘機が滑走路脇に引き出された。稼動全機といっても二十五機、最盛期の一個飛行隊分だったが、それでも久しぶりに滑走路に並んだ戦闘機の群れは壮観で頼もしかった。目を引いたのはどの機体も塗装が直され、胴体と翼に何時もより一回り大き目の日の丸が鮮やかに描かれていたことだった。
「何だ、死に化粧か。」
誰かが大声をあげたのに待機していた搭乗員が沸き返った。
「山下隊長の弔い合戦だ。」
「いや、海軍の弔い合戦だ。」
「海軍は死んではいないぞ。俺達が生き残っている限り健在だ。」
「広島と長崎の弔い合戦だ。」
戦力は隔絶してしまっているばかりでなく兵器の性能も大きく水を開けられ、更にはその劣勢な戦力自体が枯渇している国の軍隊がまだこれほどの士気を保っていることはある意味では驚異だった。確かに部隊としては敵と互角以上に渡り合ってはいたが、それにしても誰もが明るく振舞い、敗戦続きの陰惨さなどは微塵も感じられなかった。その日、我々は終日戦闘体制で待機し、午前と午後の二回稼動全機で制空飛行を行ったが、敵機の来襲はなく戦闘は行われなかった。
翌日も同じように早朝から戦闘体制で待機していた我々は沖縄を発進した敵の戦爆連合約百機が接近中との情報を得て空へと舞い上がった。発進前の司令の訓示は「徹底的に撃墜せよ。」の一言だった。味方は一緒に上がった他の部隊の零戦を合わせて約五十機、これまで温存していた航空機と燃料を大盤振る舞いしたような出撃だった。
上空で待機して待ち構えていた我々の戦法を見越していたのか、敵は七、八十機の戦闘機をぶつけてきたが、会敵した後の戦闘は例によって呆気ないほど短時間で終わった。敵は対空砲火を避けようとしたのか、比較的高い高度で投弾すると退避して行った。それに合わせるように敵の戦闘機も我々に深く絡みつくことなく、爆撃機が退避したのを確認すると早々に引き上げて行った。味方は七機を撃墜した代償に五機を失った。これが部隊としての組織的な最後の戦闘になった。
翌日も散発的な攻撃や偵察機の飛来はあったが、味方が迎撃に上がると飛び去ってしまい戦闘は行われなかった。敵の行動が意識的に戦闘に深入りするのを避けようとしているかのようで、そのことが我々を戸惑わせた。中には敵がかかってこないならこっちから敵に殴り込みをかけようと威勢のいいことを言い出す者もいたが、散発的な特攻は続いてはいたものの全滅を覚悟でたった一回だけの攻撃ならとにかく、この先の戦闘の継続を考えると我々にそんな余力がないことは誰の目にも明らかだった。
毎日同じような状態が続いた。敵機の来襲はあるものの、その攻撃は決して積極的とは言えなかった。敵は高高度又は遠距離で投弾しては飛び去っていった。敵襲は五月雨的に終日続いたために我々は緊急発進を繰り返したが、一部が敵機に射弾を浴びせて白煙を吐かせたのみで撃墜はなかった。
八月十四日の早朝も我々は戦闘待機のため待機所にいた。そしてこれまでのように食いついてこない敵機を捉えて撃滅する方法を議論していた。空中で待機していてもうまく敵機の来襲時を捉えることができないと返って不利な態勢で敵襲を受けることにもなりかねないし、部隊を分散して空中待機をするほどの稼動機数もなかったことから結局は敵襲の情報を得たらできるだけ早く発進して有利な態勢で迎撃するというこれまでの方法を取らざるを得なかった。
戦闘配食の握り飯を食べ終わってちょうどそれぞれに寛いでいる時だった。拡声器が大村湾へのPBYの侵入を告げた。出漁中の漁船などが攻撃を受け被害が出る恐れがあると指揮所は付け加えた。
「三小隊、出るぞ。」
高瀬は山下隊長の後を引き継いだ木村大尉を振り返った。木村大尉は黙って頷いた。私は老人と少女が無残に撃ち砕かれたあの時のことを鮮明に思い出した。もろ肌を脱ぐように引き下ろしていた飛行服を元に戻すとマフラーを巻き直し手袋をはめて島田一飛曹に目で合図をした。島田一飛曹は黙って頷くと列機に手で合図をしてから立ち上がった。誰もがこの任務を「ちょっと横丁までお使い。」といった程度に考えていた。それでも立ち上がれば行動は素早かった。我々八機は空中に上がると真っ直ぐに大村湾を目指した。
Posted at 2017/08/19 18:00:45 | |
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小説2 | 日記
2017年08月16日
高瀬は私に語りかけるというよりも自分に言い聞かせるように長い間話し続けていた。戦闘に臨む時の高瀬は抜き放った白刃のように刺すような光を放っていた。しかし今高瀬は絹のように滑らかに優しく輝いていた。
「うん、楽しかった。今まで考えていたことを、全部ではないにしても大筋は話すことができた。まだまだ未熟な考えだがな。これからまた行ったり来たりして纏め上げていかなくては理論にもならんな。まあそれもその時間を与えられたらの話だが。しかし楽しかった。
それからな、神のこと、あれから色々考えてみたんだが、正直なところを言えば、俺はこの世に神様がいるとは思っていない。もしも敢えて神の存在を問うのなら、それは人間一人一人の心の中に問うべきなんだろうと思う。我々が神と言おうとしているものは人間が望み得る最高の良心であり、そして優しさなんだろう。どんなに力を尽くしてみても人がその領域に達することは絶対に不可能なんだが、常にその良心や優しさに向き合って自分を律していくことが信仰なんだと思う。
それとな、無力な神と智枝さんがそう言っていた例の話、俺はな、色々考えてみたが、神は無力なんじゃない。神を無力と言うことは、それは俺達自身が何も出来ない無力な、そしておろかな生き物だということになってしまう。だから神は、俺たち人間に自分で力を尽くせとそう言っているんだ。自分で自分が抱えている問題と向き合って、力を尽くして答えを出してみろときっとそう言っているんだよ。彼女もそれが理解できたからこそ、今ここでこうしているんだと思う。」
高瀬は穏やかに笑った。そして湯飲みを取ってゆっくりと口に運んだ。その時玄関の開く音が聞こえて小桜が入って来た。
「負傷された方が多くて遅くなりました。今すぐに何か支度しますから。」
小桜は土間で私たちに声をかけた。
「ああ、それから高瀬中尉、佐山飛行長から伝言です。『翌朝、○七○○に指揮所に出頭せよ。』」
「高瀬中尉、翌朝○七○○、指揮所に出頭します。」
高瀬は弾かれたように立ち上がると命令を復唱した。その大げさな様子に小桜が笑い出した。
ささやかな夕食が終わると小桜が薬を取り出して渡してくれた。それを飲み込むとむやみと眠気が差してきた。
「眠い。少し目を瞑っているから適当にやっていてくれ。」
私は高瀬に断わって体を横たえて目を瞑った。
「どうしたんだ、急に。」
高瀬が小桜に尋ねる声が聞こえた。
「市川軍医が『よく休めるように。』と睡眠薬を処方してくれました。」
「そうか、命を投げ出す覚悟をしたんだ。きっと疲れているんだろうから、それも良いのかも知れない。」
それからしばらく器の触れ合う音や小桜が居間と土間を往復する足音が聞こえた。
「武田がこれではここにいるのはどうも具合が悪い。智恵さん、ぼくは部隊に戻るよ。」
高瀬の声が聞こえたがその辺りから私は急速に眠りに落ちていった。朦朧とする意識の中で高瀬を留めようとする小桜の声が聞こえたような気がするが、それから先は深い眠りへと落ちていった。
翌朝、目が覚めたときは高瀬も小桜もすでに出かけたようで姿がなかった。独り残された私は手持ち無沙汰を持て余していたところに軍電が鳴り響いた。電話を取ると司令部からだった。敵の機動部隊が接近している。大規模な空襲をかけてくる恐れがあるので非常呼集に応じられるよう待機せよということだった。空襲をかけられても反撃はおろか、これを撃退して守りきる戦力もなかったが、戦闘が継続されている以上見敵必戦は海軍の信条だった。
私自身も午後には自主的に部隊に戻ろうと思っていたので渡りに船とばかり司令部差し回しの側車に乗り込んで部隊へ戻った。基地は一見静かだったが各部隊は搭乗員が集合し、そこここの掩体では出撃に備えて機体の整備が行われていた。
「機動部隊を発見したら機先を制して乾坤一擲の特攻攻撃をかける。今偵察機が捜索中だ。」
司令部は力んでいたが相変わらず夢物語のような敵機動部隊撃滅に力瘤を入れている司令部には反感を通り越した白々しさを感じた。結局その日は一日中厳戒態勢が続いたが、午後に沖縄から飛来した陸軍機の散発的な攻撃があっただけで敵機動部隊接近の兆候はなく、早朝からの努力は空振りに終わった。高瀬がヒントを与えた防空部隊は来襲する敵機に果敢に反撃して一機を撃墜、他にも数機に白煙を吐かせて撃退して気勢を上げていた。私自身はさすがに搭乗割には入れてもらえず指揮所の雑用や対空見張りの指揮で一日を終えた。
夕方遅くになって索敵に出ていた偵察機が戻り始めたが、哨戒の敵戦闘機に遭遇して未帰還になったものもあり、日没とともに警戒態勢解除になった基地にも安堵の中に一抹の寂しさが漂っていた。この後も沖縄海域の敵艦隊に対する散発的な特攻攻撃は終戦まで続けられたが、二度と大規模な海空戦が生起することはなかった。本土決戦に備えてなけなしの航空戦力は温存され、日本の空はほとんど敵のしたい放題という状態になってしまった。我々の部隊は西日本に展開する海軍航空隊の中でも唯一と言ってもいい制空隊であったことから、敵機来襲の報があれば迎撃には飛び立ったが、その活動は燃料や機材の不足から低調にならざるを得なかった。
私たちは自嘲的な意味もこめて自分たちの攻撃方法を『落穂拾い』と呼んだが、それは押し寄せる敵の一梯団を選んで急襲的な一撃をかけ、後は数に勝る敵に取り込まれないように一目散に逃げる戦法だった。私は戦闘空域に留まるのは五分、長くても十分を限度として、その間敵の侵攻能力減殺のため、できるだけ多くの敵機に損傷を与えることを目標とし、あえて撃墜には拘らなかった。そうして戦力の温存を図っても戦えば損害は当然のように発生したし、それはほとんど補給の途絶えかかった我々には決して小さなものではなかった。
7月の末には搭乗員の総数は最盛期の半分以下に減り、開隊以来の搭乗員は山下隊長、高瀬、島田一飛曹や私などほんの一握りになってしまっていた。それでも山下隊長の戦意は少しの衰えも見せなかった。攻撃最優先を公言して常に部隊の先頭に立って戦っていた、死神も尻込みして近づかないように思えたこの戦闘機乗りにも最期の時がやって来た。
その日は沖縄から飛来したB二四の攻撃に向かったが、攻撃の半ばで護衛のP五一の急襲を受けて味方はばらばらに分断されてしまった。高瀬は空から降ってくるように攻撃をかけてくるP五一をうまくかわすと上昇しようと反転する敵機を捉えて撃墜していたが、私は後から後から降って来る敵の攻撃をかわすのが精一杯だった。
基地に戻ると他の小隊はまだ誰も戻っていなかった。高瀬が直卒した第三小隊は上空掩護だったので七機とも無事に帰ってきたが、攻撃を受け持った第一、第二小隊はかなりの損害を出していたようだった。第二小隊は七機が出て三機が未帰還、第一小隊は半数の四機が未帰還だった。その中に山下隊長が含まれていた。
「隊長はP五一の奇襲を受けて煙を吐きながら降下して行きました。隊長機には藤田上飛曹が付き添っていましたが、P公の襲撃が激しくて思うように掩護できず、隊長機を見失ってしまいました。」
直卒の三番機だった木下上飛曹が涙を流しながら悔しそうに報告した。九州の各基地に山下隊長機と藤田上飛曹機の不時着の有無について確認の電報が打たれ、部隊の全員が指揮所に集まって双眼鏡で四方の空を見張ったが、二機の行方は確認できないまま日が暮れようとしていた。誰もが暗くなって見通しの利かない空に双眼鏡を向けていたが、夕暮れの空は静まり返ったまま味方機帰還の爆音は聞こえなかった。二機はそれから三日間行方不明として扱われた後に戦死と認定され、山下隊長は功績抜群として二階級特進して中佐に昇進したことが全軍に布告された。
Posted at 2017/08/16 15:06:53 | |
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小説2 | 日記
2017年08月11日
「ずいぶん手厳しいことを言うな、貴様も。もしも俺がそうかもしれないと言ったら貴様は何と言う。今の日本で一番豊富な戦略物資は人間だからな。しかし俺達には生まれる場所や時代を選ぶ権利はない。もしも時代が俺達を爆弾や砲弾の代わりとして必要としているのなら、それはずいぶん過酷な運命だが、それもこの時代を生きる者の義務なのかもしれない。
しかしな、俺達はただの鉄や火薬の塊ではない。自分達が直面しているこの運命を考えて何かを残すことはできるはずだ。どうしてこの国は国民に爆弾や砲弾の代わりとなることを要求するまで追い詰められてしまったのか。そこに至った過程を考えて後の世代に残すことはできる。二度とこんな過酷な運命を国民に押し付けることのないように。そのためにはどうすべきだったのか。
日本は開国以来近代国家に必要な高度な知識を例の金科玉条暗記教育で極めて短期間のうちに効果的に国民に広く行き渡らせることに成功した。しかしそれは必要に応じて教育を行う側が取捨選択した知識を一方的に流し込んで記憶させただけで、元来集団への帰属意識が強いこの国の国民に自ら考え、自ら判断することを放棄させてしまう結果になってしまった。
今度の戦争は単に兵器の性能や生産力だけの敗北ではないのかもしれない。日本は練り上げた戦略が崩れてしまったら、後はただ手もなく智恵もなく同じ戦法を繰り返しては手の内を敵に曝け出し、何らなすところなく半ば自滅するように敗戦を重ねてしまった。考えれば戦い方は幾らでもあったはずだ。いや、戦術や戦略だけに限ったことではない。政治、外交、科学技術、文化、すべての分野にわたって我々の知性は欧米のそれには遠く及ばなかった。
だからこそ何とか欧米に追いつこうと無理を重ねた。その結果が今度のこの戦なのかもしれないな。この戦は戦力や生産力といった有形的なものだけでなく知性や文化という無形の財産でも我々が彼等に及ばなかったことを証明しているようなものなのかもしれない。
日本は間もなくこの戦に破れる。日本の国力は敵の攻勢をあと半年も持ち堪えることは出来ないだろう。そして敗戦後は米国の管理下に置かれることになるだろう。一部の者たちは敗戦後米国の管理下に置かれることを国家の破滅のように考えて異様に恐怖しているようだが、俺はそのことはあまり心配はしていない。
米国は現体制の破壊と戦争犯罪人の断罪といったことは自国に都合の良い新体制の構築と併せて徹底して行うかもしれないが、陸海軍の士官全員を処刑するとか、男を全員去勢するなんてそんなばかげたことはしないだろう。しかし彼等の独善的な正義感や主義主張を日本に強引に押し付けてくることは大いにあり得るだろう。それにしても日本人はそれが誰であろうと共同体の長には極めて従順だ。それが誰であろうと、きっと長に従ってよく仕え、長にとっては良き民となることだろう。
戦後の混乱にしても俺はそれほど長くは続かないと思っている。米国はきっと敗戦国に正義の味方を気取って充分な援助をするだろうし、ソビエトや中国などの大陸国家の動向に次第では日本は米国にとって手放すことのできない西太平洋の戦略上の要衝となるだろう。元来創造力や柔軟性といったことを除けば、勤勉で優秀な日本の国民はおそらく十年もすれば戦後の混乱を抜け出して再びこの国を成長期に移行させるだろう。
そしてその頃には現在欧米の植民地となっているアジアの諸地域も順次独立してアジア圏という国際地域社会の形成に向かって動き出すだろう。その中でやはり政治的にも経済的にもアジア圏の牽引車としての能力を持った国は、まあ国際地域社会を主導する資質のひとつとして当然相応の軍事力に裏打ちされた外交能力を備えていることが条件で、日本がその時そうした外交能力を備えているかどうかは今の時点では疑問だが、妥当な考え方をすれば日本ということになるだろう。あるいは日本はアジアの牽引車でなければならないのかもしれない。ただし、それにはいくつか条件がある。
この国はいつも内側を向いて自分たちの世界の中で結束しようとする。要するに何か問題が起こると状況を分析しようとしないで自分たちの理論だけで自分たちの共同体だけを保全しようとする傾向を持っている。まず自分と近親者という考え方だ。それは確かに誰にとっても真理なのだが日本人はあまりにもそれを天真爛漫に露骨に表に出しすぎる。それでは他国は後について来ない。力を持った国ならばそうした国々よりもまず先に立って汗を、そして時には血を流すことも覚悟しなければいけない。
しかしお人好しに汗や血を流し続けていたのではただ国家が疲弊するだけで何の利益もなくなってしまう。そういう時にこそ冷徹なほど客観的な状況判断とその状況に応じた的確な対策を立て得る能力が求められるのではないかと俺はそう考える。日本という国の再生と発展だけを考えるなら、たとえ今回の戦争でこれだけの破壊を被ったとしても、俺はそう難しいことではないと思う。しかしアジア圏という国際地域社会の中で牽引車となって他の国家とともに発展を共有するには相応の資質が要求される。だからこそこの戦いが終わって生き残っていたらもう一度学問ということを考え直してみようと思うんだ。
『学問とは何か。そして何のためか。』
大上段に振りかぶって答えればそういうことだが、要するに我々は何をどのように学ばなければならなかったか、これからどのように学んでいけばいいのか、それをしっかりと考えてみようとそういうことだ。物質的な裕福さを回復するのはそう難しいことではないと思う。しかし知性や文化を育て上げて真に成熟した国家を創り上げることは決して容易くはない。何をどのように学んで身につけていくのか、全く例のないことを考えていかなければいけない。それは日本人が最も不得手とするところだ。だからこそ誰かが取り組んでいかなければこの国はまた近い将来同じ過ちを繰り返すことになる。
貴様にしても俺にしてもこの戦に生き残ることは難しいだろう。貴様もざっと数えてももう三回は死に損なっている。俺はもっと数が多い。しかし、もしも生き残ったらこのことは必ずやらなければいけない。戦の酷さ、悲惨さを、身を以って体験した我々が徹底的に今度の戦を分析して今後の日本の将来に役立てること。それがこの戦で死んでいった者たちに対する餞であり義務なんだと思う。
なあ、武田、貴様の言うとおり学問は、そして知性は誰にとっても優しいものでありたいし、そうでなければいけないのかもしれないな。学問は特定の者たちの閉ざされた特権ではなく、誰にも開かれた大らかな優しい知性であるべきなのかもしれないな。
この数十年間、日本の学問的な教育は常に実社会の役に立つか立たないかという視点で捉えられ、その結果を重視して行われてきた。あるいは時として学問は人間を計る道具としても用いられてきた。もちろん学問にも結果は付き物だし、それはそれで大切なことなのだが、教育の場においてはむしろ結果よりも結果に至る過程こそ重んじられるべきではないのか。
結果はこうなのだ、ではなく、どうしてそうなるのか。もしも結論が間違ったら一体何処でどうして間違ったのか、それを考えることこそ本当に必要なことではないのかな。状況を取り込んで考えること、それこそ日本が本当に力を入れて取り組むべきことだったのではないのかな。そうして複雑かつ流動的な状況に柔軟に、そして的確に対応できる人間を育てておくべきではないのかな。
米国にはケーススタディとか危機管理という事案対処方法があるそうだ。ある事案に対して考え得るあらゆる状況を想定して、それぞれその状況についてどのように対処するか、その得失を研究する方法や考え得る最悪の状況を想定しておいて、その状況に如何に対処するかを研究するやり方だという。
そういえば海軍にも図上演習という似た様なやり方があったな。伝え聞いた話では正規の方法で対米戦を行うと何度演習をやり直しても三年もしないうちに連合艦隊は何処に集まっても敵の空襲を受けるまでに追い詰められ、それこそ『天が下、隠れる場所もなし。』という惨状になってしまったらしい。それで陛下の御前で図上演習をする時には連合艦隊が絶対に負けないように想定を変更して、期限を区切ってやっていたらしい。まさか陸海軍は全滅、日本は敗北という演習を見せるわけには行かなかったからだそうだが、状況によっては事実を率直に伝える勇気も必要だったのかもしれない。
一体誰が戦争を始めたのか。政治家は軍部が武力を背景に暴走したと言うだろう。軍部は政治家の無能無策を責め、国家の計を案じて敢えて開戦したと訴えるかもしれない。しかし政府にしても軍にしても『日本は戦えない。戦えば敗北する』とは言い得なかった大きな流れがあったのではないのか。それはこの国独特の情という概念なのかもしれない。政府は富国強兵のために軍を育ててきた。その軍は政府を乗り越えて巨大化してしまった。
その巨大化した軍は国民に富国強兵思想を植え付けて育て上げた。今度は『日本は不滅不敗の神国だ。』という国民一人一人の情が軍を乗り越えて巨大化してしまい、政府はおろか軍さえもこれに反して正面切って非戦論を唱えることはできなくなっていた。後はもう運を天に任せて戦争へとなだれ込む以外に誰にも方法はなかった。本当なら将来に向かっての目標をきちんと設定して、あらゆる状況を客観的に検討して必要に応じて修正を加えながら、どうしたらその目標を達成できるかをしっかりと考えなければいけなかったのに結局は情に流されて運に任せて開戦してしまった。
もう二度とこんなことが起こらないように、もう一度しっかりと学び直すべきだな、俺達は。柔軟な思考、冷徹な分析力、的確な判断力、情に流されない強固な意志、時に真実を公言できる勇気、そして優しさ。俺達はどうしたらそう言ったものを身につけることができるのか、それを真剣に考えていかなければいけないのかもしれないな。」
Posted at 2017/08/11 23:55:51 | |
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小説2 | 日記
2017年08月08日
「おい、武田、学問とは何だ。知識は何のためだ。」
ただ、敵と戦うことしか考えていなかったこの数ヶ月間、高瀬と色々なことを話しはしたが、学問などに思いを馳せたことは一度もなかった。この戦いの最中に高瀬はとんでもないことを言い出し、その唐突さに私は戸惑ってしまった。
「え、学問。それは高度な精神的活動によって文化や技術を高めること、個人的には・・学問とは人に対する優しさだと思う。」
「貴様らしいな。急に言われても答えに困るか。一つのことに囚われずに普段からいろいろと思いをめぐらしておかなければだめじゃないか。
まあ、そんなに肩肘張ったことじゃないよ。高度に専門的な学術研究とか先端技術開発のための研究なんて話じゃなくて一般的に高等教育としての学問のことだよ。高等教育としての学問とは何のためか、どうあるべきかと、つまりそういうことだよ。こんな時代に口にするような話題ではないかもしれないが。
俺はな、こんなことを考えているんだ。知識とはものの形や重さを計る時に使う物差しや秤の目盛りのようなもの、学問とは物差しや秤に刻まれた目盛りの意味やそういったものの使い方を学ぶこと。知識をたくさん身に付けていればそれだけ物事を正確に捉え、客観的に分析することができる。しかしその目盛りの意味や使い方を知らなければいくら知識があっても宝の持ち腐れだ。だからこそ知識を使いこなすための指示書として学問が必要だ。
社会科学、人文科学、自然科学、それぞれ目盛りの意味するところも違えば物差しや秤の使い方も違う。社会が複雑化すればするほど正確に自分を取り巻く状況を捉えて正しく分析するには色々な目盛りを振った物差しや秤が必要になってくる。また、ひとつのものを計るにもたった一つの物差しではなく、いろいろな測り方が要求されるし、そうすることによって事象の具体的な形が詳細かつ正確に把握できる。まさに高等普通教育とは、学問とは、そこに存在の意義も必要性もあるんじゃないか。
職業教育は例えそれがどんなに高度なものであっても、話のついでだから稲作を例に取って話せば、稲を早く育てる方法とか、一本の稲に少しでも多くの籾をつけさせる方法とか、寒冷に強い稲を作る方法とか、病虫害を防ぐ方法とか、つまりはそれが非常に深く高度なものであっても、物事のある一部分を取り出してその部分だけに焦点を当てた教育だ。それは特殊な物差しであって一般的に広く様々な価値観を認識する基準としては不向きだ。また、その意思さえあれば、職業教育は一生何時でも学ぶ機会がある。
ところが普通教育のように今その場で必要のない学問はこの国では軽んぜられてきた。時としてこうした学問をしっかりと身につけた人間が必要とする時が必ずやって来るのに、中々そういうことに手間をかけようとしなかった。
高等普通教育はそれをしっかりと身につけるのには手間がかかる。時間をかけて真剣に学べる時期は人生のある一時期しかない。いや、やろうと思えば出来るのかもしれないが、生活に追われるようになってしまえばなかなか機会を作ることは難しいし、どうしても目先の必要に目を奪われがちだ。しかも学んだらといっても、今その場の役に立つというものではない。努力して身につけても一生使わないものもあれば、使ってはいるのだが目に見えてそれに気がつかないといった類のものも多い。
またこうした学問はすぐに役に立つように噛み砕いた知識ではないから取り組んでから自分のものにするには正しく理解して自分なりに整理するという手間もかかる。知識の量も半端なものでは役に立たない。そうして蓄積した知識を自分なりに使いやすいように整理して構成する。どのように構成していけばいいのか智恵を絞って考える。本当はそのことこそが大事なのだ。しかし、そうした手間がかかってすぐには役に立たない学問というのは実利を重視する社会では軽んぜられがちだ。芸術を学んで腹が膨れるか。数学を学んで家が建つのか。生き物を眺めて作物が実るのか。本来厳然と区別されるべき基礎的学問としての普通教育と実学としての職業教育のような専門教育を混同してそれを省みることさえしない。
学ぶ方も目に見えて使い道のないと誤解されがちな普通学をいとも簡単に投げ捨ててしまって『高等教育など意味もない。大学を出ても実務の役には立たない。』と公言して憚らない。おい、学問とは目先の役に立つからするものなのか。高等普通教育とは他人から与えてもらうものなのか。確かに必要があって行われる職業教育と一般的には個人の教養と考えられている普通教育とでは目先の実効性ということでは大きな差があるかもしれない。あるいは普通学の場合、身につけた知識を使って何かをするというような機会は一生廻って来ないかも知れない。それでも高等普通教育を受けた者はその身につけた幅広い知識を駆使して、常に変化する状況に対して臨機応変に対応する能力を身に付けて今回のような国家の非常時に備えておくのが社会に対する責任だと思う。」
「それでは貴様は自分が学んだ学問が一生何かの役に立たなくてもそれでいいのか。それで貴様は納得できるのか。」
「学んだことが役に立ったと考えるか、立たなかったと考えるかは個人の考え様だ。教養を身につけて広い視野を持って一生を生きることができたと思えば、それはそれで立派に役に立っているんじゃないか。それにそうした知識やそれを身につけた人間を必要とするか、あるいは必要としないかは自らが決めるのではなく時代が選択するものだと思う。時代が必要としなかったら身に付けた知識は自らのものとして自分のために使えばいい。そして静かに一生を終われれば、俺はそれで充分満足だ。」
「それでは貴様のその考え方から言えば、今のこの時代は俺達を爆弾や砲弾の代わりに必要としているのか。」
Posted at 2017/08/08 22:31:39 | |
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