2011年10月17日
太平洋戦争中、日本海軍は総じて良く戦ったと思う。何よりも最初から最後まで常に戦闘の最前線に立って戦ったのは航空隊だろう。これは太平洋戦争の主戦兵器となったのだから当然だが、初期の侵攻作戦から中期のソロモン・ガダルカナルをめぐる攻防、そして最後は艦隊を失った海軍の主戦兵器として特攻までそれこそ文字通り身を粉にして悲壮な戦いを戦い抜いた。
次は駆逐艦、これも開戦時から中期のソロモン・ガダルカナルを巡る攻防、中部太平洋、フィリピン、沖縄と攻撃に補給に護衛にと太平洋を走り回って戦った。本来は艦隊決戦を前に敵の主力艦隊に殴り込みの雷撃をかけるために高速と重雷装を身にまとった駆逐艦が、輸送に、対戦掃討に、護衛にとまさに八面六臂の活躍で最後は持てる力を振り絞って最後は力尽きた。
潜水艦、これも良く戦った部類に入るだろう。本来は隠密を旨として広い海域で自由攻撃に従事すべき潜水艦が泊地攻撃や制空う・制海権を失った海域への隠密輸送、哨戒と狭い海域に押し込められて消耗を重ねた。それでも良く任務を果たして戦い続けたのは称賛に値するだろう。
空母、これも初期の真珠湾攻撃から南太平洋、中部太平洋、そして最後はフィリピンと海軍の攻撃力の中心となって戦い続けた。最後は搭乗員の養成が間に合わず消耗を重ね、捷一号作戦ではその身を犠牲にしておとりとなって戦った。機動部隊の消滅が海軍の消滅だったと言ってもいい。それほど中核戦力として戦い続けた。
戦艦、これは開戦前は主戦兵力として脚光を浴びながら航空機の台頭で主戦兵力の座から滑り落ちたが、前期から中期は金剛。榛名・霧島・比叡の4高速戦艦が太平洋狭しと戦い続け、後期は航空兵力と言う翼をもがれた海軍の主戦兵力として捷一号作戦、そして最後の大和の沖縄水上特攻作戦と戦果は別にしても傾きかけた海軍の主戦兵力として火の玉のように戦った。
軽巡洋艦、これも老骨にムチ打って駆逐艦戦隊の先頭に立って駆逐艦のために身を犠牲にして敵弾を受けて戦っている。新型の阿賀野型軽巡も海上戦闘がほぼ終了した後に竣工した酒匂以外はやはり駆逐艦戦隊の先頭に立って戦い、沈んでいる。
海防艦などの護衛艦艇も後期には船団護衛の立役者として対空・対潜戦闘を戦い抜いている。結果がどうこうと言うのは意味がない。小型・軽武装の急造護衛艦に1000機以上の航空機を要する大機動部隊や最新電波・音波兵器で武装した多数の潜水艦隊と互角に戦えと言う方が無理なことだ。
日本海軍はどれもこれも良く戦ったのだろうが、意外に活躍していないものがあるとすれば重巡洋艦だろう。これは条約型巡洋艦と言い、8インチ砲を装備した排水量1万トンから1万数千トンの戦艦に次ぐ大型艦だが、35ノットと言う駆逐艦に劣らない快速を得て活躍が期待された艦船だ。日本海軍はこの重巡洋艦を18隻も装備していた。無論、これらの艦艇も最初から最後まで死闘を続けたのだが、第一次ソロモン海戦以外にはあまり活躍をしたという話を聞かない。
その原因は重巡洋艦が戦艦に次ぐ大型艦だったが、砲力の点で戦艦には遠く及ばなかったこと、これはガダルカナルのヘンダーソン飛行場砲撃ではっきりとしている。高速ではあったが駆逐艦ほどの軽快性がなかったこと、そして大型艦とは言っても防御力でも戦艦とは比較にならない差があったことから、魚雷1,2発程度の被害で大破あるいは沈没に至って戦闘力を失っていること、後期には対空戦闘力もさほど強力ではなかったこと、魚雷発射管を装備していたことから航空攻撃でこれらが誘爆して戦闘力を失ったことなどがその理由だろう。
重巡洋艦は大破したまま残った高雄と妙高を除いてすべてが失われた。開戦時から終戦まであらゆる海戦に参加して戦ったのでその意味ではよく戦った部類に入るのだろうが、期待された割には戦闘力・防御力ともにやや中途半端な艦種だったとも言えなくはない。
Posted at 2011/10/17 23:30:05 | |
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