「最後の海軍大将」と呼ばれた仙台市出身の井上成美は戦後、三浦半島にある半農半漁の集落に閉じこもった。戦争責任を取り、世捨て人のごとく暮らす一方で、子どもたちには得意の英語や音楽を惜しみなく教えた。地元ではいま、井上の遺物を資産として見直す動きがある。戦後72年の夏。終焉(しゅうえん)の地、神奈川県横須賀市の長井地区を訪ね、井上の足跡を探した。(東京支社・瀬川元章)
◎横須賀・長井を訪ねて/英語塾
<マナーも指導>
赤い屋根瓦のしゃれた洋館に、子どもたちの元気な英語のあいさつが響く。
「Good afternoon,Mr.Inoue! How are you?」「Fine,thank you.」
出迎える先生はいつも背筋をピンと伸ばし、流ちょうな発音を披露したという。欧州駐在の経験があり、外国語が堪能だった井上。長井地区に建てた自宅で中学生らを対象に「英語塾」を始めたのは、敗戦直後の1945年暮れごろ。50代半ばだった。
履物をそろえて脱がない子どもがいると、きちんと直させた。「マナーも教わった。私たちを淑女として扱ってくれた」。塾に通った地元の鈴木満子さん(82)は懐かしそうに語る。
収入はなく病弱の娘と幼い孫を抱え、生活は徐々に逼迫(ひっぱく)した。見かねた住民が「月謝が大将の生活の足しになれば」と子どもを通わせた心遣いもあった。
<日本語ご法度>
アルファベットの筆記に始まり、実用的な単語や簡単な会話を教えた。日本語はご法度。授業の最後は井上がアコーディオンやギターを弾き、お気に入りのフォスターの曲などをみんなで歌った。
「ミスターお手製のケーキ、東京のコンペイトー。この辺にはないおやつが楽しみでしたね」と振り返るのは龍崎みさ子さん(84)。井上が金目の物を切り売りし、振る舞っていたことを知るのは後日である。戸板に墨汁を塗った黒板をはじめ、教材の大半を自作した。「褒めるべきは褒め、叱るべきは叱る」という人間教育を実践した。
「近所の子どもに幸せを、という気持ちを感じた。子育て、孫育てに力を入れられなかった罪滅ぼしかもしれない」。薫陶を受けた末広良子さん(79)は推し量った。
<教え子120人超>
塾は井上が胃潰瘍で倒れる53年まで続き、教え子は120人を超える。その一人で井上の葬儀が営まれた地元の勧明寺住職、藤尾良孝さん(80)は「毎年、終戦記念日は食事を取らず、終日海を眺めていたそうです。海軍の要職にあった者として、戦争責任を受け止めていたのではないでしょうか」と思いをはせた。
井上は海軍兵学校長も務めた。軍事学より一般教養や敵性語だった英語の教育を重んじた。45年から約3年間、井上宅に身を寄せた孫の丸田研一さん(76)=千葉県=は「校長が一番水に合っていた。戦は嫌いだったのでは」と言う。
「戦争は長く続かないことを見通し、戦後の日本を背負う若者を育てたい気持ちが強く、それが英語塾にもつながった。祖父は教育者だった」
<井上成美(いのうえ・しげよし)>1889年生まれ。海軍兵学校卒。米内光政海相(盛岡市出身)、山本五十六次官に仕えた軍務局長時代、対米開戦につながるとして日独伊三国同盟の締結に反対、「海軍省の左派トリオ」と称される。1944年次官、45年5月大将となり終戦工作に携わった。戦後は結核を患った先妻の療養のため建てた横須賀市長井の自宅で余生を送り、75年に86歳で死去。
この人は極めて聡明でリベラルな合理主義者で太平洋戦争当時の時局や成り行きを正確に把握していた数少ない軍人だったと思う。戦下手だったと言うが、艦隊派で威勢が良かった南雲さんはビビリンだったし、栗田さんは逃げてばかりいたと言うし、帝国海軍では誰が戦が強かったんだろう。ウェーク島攻略は明らかに軍令部が敵をなめた戦力不足、サンゴ海海戦は初の空母機動部隊同士の対戦でお互いに手探りだったからやむを得ないだろう。ただ、この人は部下を殺したくないと言う意識が強かったように思う。その後、兵学校校長時代に「自分の天職は教育家だ」と言っているが、そうかもしれない。時局が切迫する中、中央が何と言っても教育年限の短縮を認めなかったし、英語教育も廃止しなかったのは戦後を見据えたことだったそうだ。本人は政治を嫌っていたようだが、軍政家としても能力を発揮しただろう。ただ、清濁併せ呑むと言うようなところは一切なく、自説を絶対に枉げないので敵も多かったようだが、能力的には十分だったと思う。山本五十六が、吉田海相の後任にこの人を据えれば登場と渡り合えると言ったそうだが、東条内閣にこの人が海相でいたら海戦には徹頭徹尾反対しただろうが、殺されただろう。しかし、帝国海軍では誰が戦が強かったんだろうねえ。五分に戦えた前半は艦を失うのを無暗に恐れて腰が引けていたし、どうしようもなくなった後半は殴り込みだのなんだのとろくな策もなかった。五分の時には肉を切らせて骨を断つ、まともに正面から戦えなくなったらちょっと引いて戦い方を考えるのが良いんじゃないのかなあ。強かったと言えば、木村昌富、角田覚治、田中頼三、そして真珠湾攻撃、ミッドウエイなどで適切な判断をしていた山口多聞辺りだろうか。井上さんは現場の指揮は疑問符もつくが、大局では正しい判断をしていたと思う。とにかく頭のいい人と言う印象ではある。「井上程度の人物なら海軍にはいくらでもいた」とも言うが、そうしたら英米とは戦争にはならなかっただろう。
Posted at 2017/09/03 12:04:55 | |
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