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2020年03月25日 イイね!

ガソリンは可燃物ではなくて爆発物、給油の際は気をつけよう、・・(^。^)y-.。o○。

給油ガンの自動ストップの仕組み
セルフ式のガソリンスタンドで給油をする際、満タンになると自動で給油がストップする機能がありますが、どのような仕組みなのでしょうか。そして、それ以上に給油するとどうなるのでしょうか。普段、給油している人にとっては当たり前のオートストップ機能ですが、給油ガンに触れたことがない人には、「どうやって満タンがわかるの?」と疑問に感じることもあるようです。満タンになると自動でストップが働く仕組みは「ベンチュリ効果」という現象が関係しています。流体力学のひとつで、流体の流れを「絞る」ことで、液体の流速を増加させて圧力を発生させる機構となり、ホースの先をつまむと、水の勢いが増すのと似ています。給油ガンの先端には、燃料が出てくる穴のほかに、満タンを感知するための小さな穴が開いています。満タンになるとこの小さな穴が塞がれ、タンク内部の管が真空状態になることでセンサーが働き、給油がストップするのです。このオートストップ機能があることによって、誰が給油をしても溢れることなく、安全に給油をすることができます。しかし、セルフでの給油に慣れているユーザーのなかには、自動停止後もさらに給油を続け、給油口ギリギリまで燃料を入れてしまうといったケースも珍しくありません。では、溢れなければギリギリまで入れても良いのでしょうか。結論からいえば、絶対にやってはいけないNG行為です。燃料のなかでもレギュラーガソリンはとくに危険で、揮発性が非常に高いうえに引火点は-40度と非常に低く、簡単に引火する恐れがあります。そのため、給油口ギリギリまで入れてしまうと、気化したガソリンが外に飛び出しやすくなり、静電気が引き金となって引火する可能性も高くなるのです。また、車種によっては給油口と燃料タンクを繋いでいる配管が腐食しやすいほか、ゴムホースが緩んでくることもあるため、走行の揺れによって燃料が漏れ出す恐れも考えられます。
 
給油時の注意点について、ガソリンスタンドのスタッフは以下のように話します。
「もし吹きこぼれてしまった場合、クルマによっては塗装を溶かしてしまったり、劣化を早めてしまう可能性があります。
最近のクルマであれば、ストップした時点でほぼタンクは一杯になり、それ以上給油しても1リッター程度ではないかと思います。また、レンタカーでも『給油は自動でストップするまで』とお願いしているところもあるようです」
※ ※ ※
給油時の油断は大惨事を招く可能性もあり、正しい給油手順とルールの確認を再認識しましょう。
燃料タンクの容量はどれくらい? バイクではどうする?
燃料タンクの容量は車種によってそれぞれ違いがあり、トヨタ「プリウス」は約43リッター、「アルファード」は約75リッターとクルマの大きさによってばらつきがあります。しかし、この数値は給油でガソリンを入れることができる量ではなく、燃料の膨張率を考慮された「タンク自体」の容量です。燃料はタンクのほかにも、配管やエンジンルーム内のフィルター内部にも常時流れているため、その分量だけ多く溜めることができます。ちなみに、真夏の気温が高い日と、極寒のマイナス気温の日では、燃料の膨張によりガソリンの体積が変わることもあるようです。


また、バイクの場合はオートストップ機能が作動しない場合や、作動してもしぶきが溢れることもあるため、目視での確認が大切だといいます。バイクでのセルフ給油のコツは、タンクの半分を過ぎたら給油を緩め、ギリギリまで満タンにせず給油口から2cmから3cmほどで止めると良いとされているようです。(Peacock Blue K.K.)



給油ガンにはガソリンが入ることによってタンクから出てくる空気を感知する穴があってそこがガソリンで塞がれて空気の流れが感知できなくなると給油を停止すると聞いたことがある。以前は満タン法で燃費を計測するために停止した後もちょろちょろとガソリンを入れて給油口近くまで一杯にしていたが、最近は給油が停止されるとそこで止めてしまう。コペンはタンク容量が30リッターなので大体15リッターから20リッターで満タンになってしまう。バイクの場合は給油ガンで停止した時の給油量ではタンク三分の二程度しか入っていないのでその後は注意しながら「これ以上入れてはいけない」ラインまでそろそろと給油している。セルフではないスタンドでもバイクの場合は店員さんもどこまで入れたらいいのか分からずに「ストップと言ってください」なんてことを言われる。バイクの場合は吹きこぼれたらタンクの下は高熱のエンジンなので気を使うことおびただしい。ガソリンは可燃物と思っている人が多いのかもしれないが、ガソリンは可燃物ではなくて爆発物である。灯油や軽油などは媒介物を介したり、加熱しないと燃えないが、ガソリンは低温でも気化して火気を近づけると爆燃する。太平洋戦争中、日米の空母も漏れだしたガソリンに引火して沈没したり廃艦になるほどの大きな被害を受けている。京アニの悲惨な結果もガソリンの危険性をまざまざと見せつけた。給油をするときには細心の注意を払って吹きこぼしたりしないように気をつけよう、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/03/25 16:49:33 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2020年03月24日 イイね!

超合理主義者の織田信長、・・(^。^)y-.。o○。

編集部からのお知らせ:
本記事は、書籍『戦国名将の本質 明智光秀謀反の真相に見るリーダーの条件』(著・小和田哲男、毎日新聞出版)の中から一部抜粋し、転載したものです。テーマは今回のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも意外な人物像で登場した織田信長。ビジネスにも通じる彼の情報戦や危機回避の能力について、同ドラマの考証や「歴史秘話ヒストリア」などの解説も務めた戦国時代史研究の第一人者である筆者が迫ります。

「一番手柄」は地味な隠密行動役……なぜ?
織田信長が今川義元を討った永禄三(1560)年5月19日の桶狭間の戦いは、よく知られているように、信長の家臣服部小平太がまず義元に槍(やり)をつけ、二番手に飛びこんでいった毛利新介が義元の首を取っている。このような場合、いわゆる一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかというのが一般的であろう。翌日の論功行賞の場に居並んだ信長家臣も、「信長様は2人のどちらを一番手柄とするだろうか」と興味津々だったと思われる。ところが、論功行賞の場で、信長がまっ先に名前を呼んだのは簗田(やなだ)政綱という部将だった。簗田政綱が前日の桶狭間の戦いで、服部小平太や毛利新介と同じような目立った働きをしていれば、誰も驚かなかったと思われるが、5月19日、簗田政綱は誰の目にもとまらなかったので、皆驚いた。
 
桶狭間において、簗田政綱は隠密行動をとっていた。
簗田政綱は受領名出羽守を名乗っているので、いっぱしの「信長家臣」と思われるかもしれないが、実際は、尾張と三河国境近くの沓掛(くつかけ)の土豪、つまり地侍だった。地侍とはふだんは農業に従事し、「いざ戦い」というときだけ、武装して従軍してくる半農半士の兵農未分離の侍のことである。この簗田政綱の住む沓掛にある沓掛城に今川義元が入った。今川軍は2万5000という大軍で、5月19日早朝、出陣している。その様子を観察し、信長に情報として届けたのが簗田政綱だったのだ。各種史料を総合すると、情報のポイントは3つあったと思われる。
1.今川軍2万5000は2つに分かれ、2万は鳴海城方面に向かい、義元本隊は5000で大高城方面に向かっている。
2.出発地点の沓掛城と義元本隊の目的地のちょうど中間地点に桶狭間というところがあり、そこで昼食休憩をとるのではないか。
3.この日、義元は馬ではなく塗輿(ぬりこし)に乗って出陣している。

武功より「情報」を評価した信長
信長は、政綱からの情報を得て、桶狭間で休憩している義元に奇襲をかけるという作戦を考え、しかも、「輿のあるところに集中攻撃をかけろ」という命令を出した。その命令を受けて活躍した服部小平太や毛利新介よりも、作戦そのものを考え出すヒントになる情報を届けた簗田政綱の方が手柄は上だと、信長は考えたのだ。それまで手柄といえば、「槍働き」という言葉があるように、実際の戦いで武勲をあげることが何よりも重要であった。信長はそうした「武功」よりも、「情報」の方が上だと判断したことになる。ふつうに考えると、敵が2万5000で、味方がせいぜい4000ほどだと太刀打ちはできない。だが信長は簗田政綱の情報によって、その絶体絶命の危機を乗り切った。信長はこの後も、情報を重視した戦いを継続している。

軍議をやらず雑談ばかり……信長の秘策
桶狭間の戦いの前夜、すなわち永禄三(1560)年5月18日、織田信長の重臣たちは清須城に集まった。今川義元が三河・尾張の国境を越えて沓掛城に入ったからである。重臣たちは、今川軍をどう迎え撃つかの軍議が開かれると思い待機していた。ところが、太田牛一の著した『信長公記』には、「其夜の御はなし、軍(いくさ)の行(てだて)は努々(ゆめゆめ)これなく、色々世間の御雑談迄にて、既に深更に及ぶの間帰宅候へと御暇下さる」とあり、軍議は開かれず、雑談ばかりで、「もう夜もふけたので、家にもどれ」といわれたことが分かる。『信長公記』のその続きに、「家老の衆申す様、運の末には智慧(ちえ)の鏡も曇るとは此節なりと、各嘲哢(ちょうろう)候て罷(まかり)帰へられ候」とあり、重臣たちも暗澹(あんたん)たる気持ちになり、信長をばかにする者もあらわれたことがうかがわれる。この夜、信長が軍議を開かなかったのはどうしてなのだろうか。このとき、今川軍2万5000に対し、織田軍はせいぜい4000である。まともにぶつかって勝てるわけはないので、清須城に籠城(ろうじょう)するか、奇襲に打って出るか2つに1つしかない。おそらく信長は、軍議を開いても、重臣たちは籠城を主張すると読んでいたものと思われる。信長自身はすでに奇襲策を考えていたが、軍議の場でそれをしゃべれば、敵に伝わってしまうかもしれない。信長は家老衆という重臣たちにも心を許していなかったのである。

実は、信長が機密漏洩(ろうえい)を極度に警戒したために起きた出来事がもう1回ある。それが、天正三(1575)年5月21日に武田方と死闘を繰り広げた長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)の戦いの前夜、すなわち5月20日の軍議の場面である。このときは、信長と徳川家康の連合軍なので、前夜、信長の重臣たちと家康の重臣たちを交えての軍議が開かれている。その合同軍議の場で、家康の重臣筆頭酒井忠次が、「長篠城の付城として武田方が築いた鳶ヶ巣(とびがす)山砦(とりで)を攻めてはいかが」と作戦を進言した。すると信長は、「その方は、三河・遠江の小競りあいには慣れておろうが、このたびは、相手も万を超える大軍。そのような手は通用しない」と一蹴してしまっているのである。
 居並ぶ信長の重臣たちの前で恥をかかされた格好の忠次は、すごすごと自分の陣所にもどっている。ところが、陣所にもどるや否や信長からの呼び出しがかかり、「先ほどの作戦みごとである。しかし、あの場でそれを決めると、敵に筒抜けになるおそれがあり、あのようないい方をした。味方にも気付かれぬように鳶ヶ巣山砦への出陣を命ずる」とのことであった。実際、この酒井忠次隊の奇襲攻撃を受けた鳶ヶ巣山砦の武田軍が麓に追い出され、それに押される形で武田軍主力が設楽原に出て、そこで信長の鉄砲隊の餌食になった。機密保持が長篠・設楽原の戦い最大の勝因といっていいかもしれない。

難攻不落の城を落とした「謎のウラ工作」
織田信長の一番くわしい伝記である『信長公記』に負け戦のことが書かれていないので、「信長は一生勝ちっぱなしだった」と思っている人が多い。だが、もちろん間違いである。実は信長は何度も負けている。『信長公記』の著者太田牛一は信長の家臣で、自分の主人の経歴のキズになる負け戦のことは書けなかったのである。太田牛一がカットした信長の負け戦の1つが永禄九(1566)年閏(うるう)8月8日の河野島(かわのじま)の戦いである。この戦いは、美濃の斎藤龍興軍と信長軍の戦いで、龍興の重臣である氏家直元ら4人が甲斐(かい)武田氏の関係者に送った書状(「平井家文書」『山梨県史』資料編四)にくわしく記されており、「信長軍が多数溺死(できし)した」とある。斎藤方の戦勝報告なので、多少は割り引いてみなければならないにしても、信長側の敗北だったことは間違いない。信長にとっては危機的状況だったはずである。実はこのとき信長は、永禄三(1560)年5月19日の桶狭間の戦いで今川義元を倒し、美濃に駒を進めたものの、斎藤義龍の死後、家督をついだ龍興を攻めあぐねていたのである。かろうじて、木下藤吉郎秀吉の調略によって松倉城(岐阜県各務原市)の坪内利定が織田方に寝返り、今度はこの坪内利定を嚮導(きょうどう)役として木曾川筋の斎藤方部将に懐柔工作をはじめ、近くの鵜沼(うぬま)城や猿啄(さるばみ)城などが織田方となっている。ちなみに、このとき、信長から坪内利定に知行安堵(あんど)状が出されているが、その副状(そえじょう)を出しているのが秀吉である。永禄八年11月2日付のこの文書が、秀吉の名前がたしかな史料にみえる最初だ。河野島の戦いの敗北を受け、信長は力攻めで斎藤龍興を倒すのはむずかしいと考えたものと思われる。もちろん、前田利家ら槍働き隊に攻撃の手をゆるめさせたわけではないが、力攻め以外の手を併用しはじめた。それが龍興家臣への内応工作である。どういうわけか、『信長公記』にはそのとき進められたはずの内応工作のいきさつが書かれていないので、誰が担当したのか、具体的にどのように進められたかは分からない。突然、「八月朔日、美濃三人衆、稲葉伊豫守・氏家卜全・安藤伊賀守申合せ候て、信長公へ御身方に参るべきの間、人質を御請取り候へと申越し候」と記されているのみである。『信長公記』には年が書かれていないが、この文章の続きからこれが永禄一〇(1567)年のことであることが分かる。この美濃三人衆、すなわち、稲葉良通・氏家直元(卜全)・安藤守就の3人の寝返りを受け、信長は同年8月15日、難攻不落といわれた稲葉山城を落とすことに成功するのである。流れから推して、内応工作を進めたのは秀吉だったと思われる。

ピンチの際は「逃げ」こそ名将の証!?
元亀元(1570)年4月20日、織田信長は大軍を率いて越前の朝倉義景討伐の軍を起こした。信長の上洛命令を無視し続けている義景を討つためである。25日には若狭から越前に進み、敦賀の朝倉方支城である天筒山(てづつやま)城を難なく落とし、さらに翌二六日には金ヶ崎(かねがさき)城を攻め落とし、木ノ芽峠を越えはじめた。木ノ芽峠を越えれば、朝倉氏の本拠一乗谷はすぐそこである。ところが27日、信長にとって全く予期しないことが起こった。信長が自分の妹お市の方を嫁がせ、同盟を結んでいた北近江の戦国大名、浅井(あざい)長政が反旗を翻したという情報が入ったのである。ちなみに、このとき、お市が夫長政の謀反を兄信長に伝えるため、両端をひもでしばった小豆の袋を陣中見舞いとして送り、それに信長が「袋のネズミだ」と気がついたというエピソードが伝えられているが、どうも創作された話のように思われる。近江の浅井長政が朝倉義景と組んだわけで、信長は完全に退路を断たれた。絶体絶命のピンチである。このような場合、ふつうの武将ならばそのまま突っこんでいくことが多い。背後の浅井勢に備えて若干の兵を残し、本隊は目の前の敵、朝倉勢に突撃していくものと思われる。しかし、信長は違っていた。即刻、撤退を決めているのである。
 
信長としては、「こんなところで挟み撃ちにあうのはご免だ」という思いと、自分の目標である「天下布武」の実現のために、「こんなところで死ぬわけにはいかない」という強い信念があったのであろう。戦国時代、武将たちの意識の中には、勝つも負けるも時の運といった思いがあった。また、負けたら負けたで、潔く自害するのが当然と彼らは考えていた。例えば、周防の戦国大名、大内義隆は、家臣の陶(すえ)隆房(はるかた、晴賢)の謀反にあったとき、「弓矢を取り、戦場に入りて、切りまけ候へば、自害に及び候事、侍の本用に候」(『大内義隆記』)といって自害している。確かに潔い死に方であるが、信長は生きることに執着し、撤退を命じているのである。このとき信長は、木下秀吉・明智光秀・池田勝正の三人を殿(しんがり)として金ヶ崎城に残した。その上で、琵琶湖の東岸は浅井領で通れないため、西岸朽木(くつき)越えで京都に逃げもどっている。なお、このときは前記の3人が殿をつとめたが、その後、池田勝正は没落し、光秀も山崎の戦いで秀吉に負けた。そのため金ヶ崎の手柄は秀吉が独り占めする形となり、「藤吉郎金ヶ崎の退(の)き口(ぐち)」として、秀吉の武功の1つに数えられている。それにしても、出陣のとき、京都の町衆が多数見物する中、威風堂々と出かけた信長が、帰ってきてみれば、従う者はわずか10人というありさまで、ふつうに考えれば、みっともないことこの上ない。しかし、このときの勇気ある撤退が、その後の信長の躍進につながったことも事実である。時には撤退を選ぶのも危機管理策の1つとしてカウントしてよいのではなかろうか。(ITmedia ビジネスオンライン)



信長さんは超合理主義者で面子や意地よりも最小の努力で合理的に目的を達成するにはどうしたらいいかを常に考えていたように思う。そして尾張を統一するのに身内の反乱に苦しんだ経験から例え味方でもどこから情報が漏れるか分からないという気持ちが常にあったんだろう。それでなかなか自らの本心を明らかにはしなかったのかもしれない。桶狭間も今川軍2万5千と言うが、補給部隊が1万ほどいたそうだから戦闘部隊は1万5千、織田方は実働5千、そして今川の前線部隊は本隊から離れた前線に展開しているので実質的は5千、しかも勝ち戦に驕って乱取に出ているので実質的には今川義元の親衛隊300から500だけと言うのを知っていたんだろう。敵が5千なら味方が2千でも勢いがあれば勝てると踏んだんだろう。金ヶ崎の退き口の時も織田軍は3万、浅井・朝倉連合軍は2万5千ほどと言うので正面突破と言う手もあったんだろうけど退路を断たれて浮足立った織田軍の状況を考えてのことだろう。危ない橋はわたらずに再起を期すというのが合理主義者信長のやり方なんだろう。長篠・設楽が原でも武田軍の退路を断って正面突破戦法に誘い込みこれを撃破するのも理にかなっている。武田軍も3万5千と言う織田・徳川連合軍が戦場に到着する前に自国に引くという手もあったんだろうけど宿将に対する勝頼のプライドがそれを許さなかったんだろう。信長さんは軍の装備や領国経営でも良いものはどんどん取り入れている。織田軍は基本的に傭兵なのですぐに逃げるが、人的被害を最小化するための飛び道具や常識外れの長槍などがその例だろう。また調略などの敵の部内への工作などもよく使ったようだ。これだけ注意深かった信長さんだが、人に対しては甘いところがあったように思う。特に配下の武将の扱いだが、「利益を与えておけば裏切らない」と言う思いがあったように見える。少なくとも当時の武将の常識からは相当に外れた人だったんだからある程度の周知や根回しが必要だったんじゃないだろうか。そして自身の防護についてもせめて親衛隊の3千も伴っていれば本能寺の変は起こらなかっただろう。最もわずかな手勢を伴っただけで京都見物に行ったりするような人だからそうした認識はなかったんだろうか。不世出の天才戦略家も神ではなかったということだろうか。もっとも日本の神々は結構人間臭いドジを踏んでいるそうだが、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/03/24 16:25:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2020年03月24日 イイね!

車の給油、どのタイミングで入れるかだって、・・(^。^)y-.。o○。

マイカーの燃料、どのタイミングで給油するか?
「乗りものニュース」では2020年3月19日(木)から22日(日)にかけて、クルマの給油のタイミングに関するアンケートを実施。442人から回答が集まりました。

普段、自家用車を運転している人への「自家用車の燃料について、どのタイミングになったら給油しようと思いますか?」という質問では、次のような結果となりました。
・燃料計の表示が多少でも減ったら:0.7%
・燃料計が残り4分の3ほどになったら:4.1%
・燃料計が残り半分ほどになったら:16.7%
・燃料計が残り4分の1ほどになったら:37.1%
・燃料残量警告灯が点灯したら:19.9%
・特に残量と関係なく給油できるタイミングで入れる:8.4%
・残量と関係なく運転を始めるときに入れる:0.0%
・残量と関係なく運転を終えるときに入れる:1.2%
・残量と関係なく決まった周期や日に入れる:4.8%
・その他:7.2%
「その他」は、「航続可能距離が100km程度になったら。もしくは特売日のタイミングで」(40~44歳、女性)、「フトコロに余裕のあるとき。あとは長距離走る前」(50~54歳、男性)、「満タン給油から300~400km走行を目安に入れる」(45~49歳、男性)、「遠出する前に入れる」(45~49歳、男性)などでした。

マイカーの給油タイミング それぞれの理由は
給油のタイミングで最も多かった「燃料計が残り4分の1ほどになったら」(37.1%)の理由は、「4分の1あれば1週間程度は入れずとも走れる。いざという時に燃料が尽きないように」(25~29歳、男性)、「ギリギリまで粘るのは不安」(40~44歳、女性)、「金額的にちょうどいい」(50~54歳、男性)、「昔からの習慣」(50~54歳、男性)、「目盛りが下の方に行くとか不安になり運転に集中できないため」(45~49歳、男性)などでした。2番目に多かった「燃料残量警告灯が点灯したら」(19.9%)の理由は、「給油回数を減らしたい」(50~54歳、男性)、「燃費計算のため」(50~54歳、男性)、「タンクが空の方が車体が軽くなり燃費が良くなるから」(45~49歳、男性)などです。一方、最も少なかった「燃料計の表示が多少でも減ったら」(0.7%)の理由は、「東日本大震災以来、緊急時に備えてガソリンは常に満タンにしている」(55~59歳、男性)、「いざというときのため」(50~54歳、男性)、「少しでも消費したら継ぎ足すべき」(45~49歳、男性)との回答が寄せられています。なお参考までに、「乗りものニュース」のSNS(Twitter、Facebook)フォロワーなどを対象に行った今回のアンケートでは、「普段、自家用車を運転していますか?」の質問で、「運転している」が94.6%、「運転していない」が5.4%でした。
●アンケート実施概要
・調査期間:2020年3月19日(木)20時ごろから3月22日(日)18時ごろまで
・調査方法:Questantのシステムを利用して調査
・対象:「乗りものニュース」のSNS(Twitter、Facebook)のフォロワーなど
・有効回答数:442
(乗りものニュース編集部)



給油のタイミング、通常はガソリン残量が概ね三分の一になった時かな。長距離走る時も大体燃費を計算して残量でどのくらい走れるかを考えな~給油しているが、残量三分の一が多い。たまにスタンドが見つからなかったり、翌日の行動を考えてもっとぎりぎりまで走ることもないではないが、早めの給油を心がけてはいる。ガス欠になって止まってしまうと困るんでねえ。これは車もバイクも一緒、最も状況によってもっと早い時もあれば先が見えている場合にはぎりぎりまで走ってしまうこともあるが、・・(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/03/24 16:22:45 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記
2020年03月23日 イイね!

安倍総理、東京オリンピックの延期決定があればこれを受け入れると表明、‥(^。^)y-.。o○。

安倍晋三首相は23日、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、国際オリンピック委員会(IOC)が今夏開催の東京五輪の延期を決めた場合は受け入れる意向を表明した。首相が延期を容認する姿勢を示したのは初めて。首相は「中止は選択肢にない」とも語った。
 
IOCは22日に臨時理事会を開き、東京五輪について延期を含めて検討し、今後4週間以内に結論を出すと発表した。首相は23日午前の参院予算委員会でIOCの判断について「私が申し上げた『完全な形での実施』という方針に沿うものだ」と強調。その上で「仮にそれ(完全実施)が困難な場合は、アスリートの皆さんのことを第一に考え、延期の判断も行わざるを得ない」と述べた。
 
首相は22日夜に東京五輪の組織委員会会長を務める森喜朗元首相を介し、バッハIOC会長に意向を伝えたと説明。「なるべく早く判断した方がいいと私自身は思っているが、IOCが判断することで、東京都の考えもあるだろう」と語った。
 
菅義偉官房長官は23日の記者会見で「最終決定権はIOCにある。大会組織委員会や東京都など関係者と緊密に連携を取りながら適切に対応していきたい」と述べた。
 
橋本聖子五輪担当相は記者団に「適切な判断を、早い段階で決めていただけるよう願っている」と表明。26日に福島県からスタートする聖火リレーに関しては「今のところ予定通りだが、今後早急に話し合いがされると思う」と述べた。


今年のオリンピック開催は誰がどう考えても無理だろう。安倍総理も「完全な形で実施する」とは言っていたが、「今年」とは言わなかった。まあ「今年はできない」と言うオリンピックのオーソリティであるIOCの正当な意見を待っていたんだろう。新型コロナ肺炎がいつ終息するか先が見えないが、当面1年延期と言うところが妥当だろう。そう言えば、いつも世話になっているかかりつけの医者が、「今回のウィルスは中国が社会の負担になる高齢者や基礎疾患のあるものを処理するために作った人工的なウィルスだ。武漢には軍の細菌研究所があるし、今の遺伝子工学であればそのくらいのことはやろうと思えばできる。中国の新型コロナ肺炎は終息しつつあるなんて言うのは全く信用できない。」などと国際問題になりそうなことを言っていた。そんなことはないとは思うが、でもそう言われると中国ならやりかねないと言う気がしないでもない。まあこの流行が早く終息するといいのだが、‥(^。^)y-.。o○。
Posted at 2020/03/23 15:09:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 政治 | 日記
2020年03月23日 イイね!

今日はコペンで箱根を走ってきた、‥(^。^)y-.。o○。

今日はコペンで箱根を走ってきた、‥(^。^)y-.。o○。今日はコペンで箱根を走ってきた。コペンで走るのももうそう長くはない。コースはいつもの箱根新道、旧道から県道75号、仙石原を抜けて国道138号から県道736号で長尾峠、そこから静岡県道401号で御殿場へ、そして東名で大井松田、そこから矢倉沢を回って帰って来た。走行距離は110キロほど、時間にすれば3時間ほどのドライブだった。

いつも思うのだが、この車、軽とは思えないほどよくできた車でステアリングは非常に正確、足回りは固められていて容易に破綻はしない、それから最終減速比を高く取って加速が良くなるようにしているので軽だからと言っても出足が悪いなんてこともない。リミッターが作動する140キロまでスムーズに加速するし、ここ一発の出足も鋭い。

車が少なくてかなりタイトな山坂道の静岡県道401号でも相当に振り回しても不安はないし、破綻の兆候も全くない。軽とは言っても恐るべき車ではある。パワー不足を感じるのはタイトな山坂道、箱根旧道の七曲のようなところで低速でのコーナリングを強いられる時くらいで、その他、車室が狭いとか、荷物が乗らないとかいうのも車室は慣れの問題で乗車定員分の快適スペースは確保されているし、荷物も屋根を畳まなければ結構な荷物が入るし、屋根を畳んでも1,2泊程度の荷物は収納できる。

トヨタからGRSportsが出たが、これはローブのSにBBSホイールを装着した程度でボディの補強や前後のマスクのデザイン変更などをしているが、評論家の皆さんは走りが大きく改善されているとかいうが、思うにあまり変わらないだろう。

ダイハツは1リッターターボエンジンへの換装を含めてこの車を大きくいじるのに強く反対したと言うが、それだけの自信を見っているんだろう。乗ってみると軽としては確かにいじる必要のないほどほとんど完成され尽した車と思う。今回、この車から86GRに乗り換えるのだけど、まあ、これもいろいろと浮世の事情があったのとどうせ乗るなら一度くらい本格的なスポーツカーに乗ってみるかと言うので決めたのだが、どんな車なのか楽しみではある。



Posted at 2020/03/23 15:05:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | 自動車 | 日記

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