「中谷発言」について、正確を期すため、そっくりそのままを再録しておきます。
●中谷明彦 より: 2011 年 4 月 27 日 11:56 PM
ベストモータリングの創刊を準備されていた初代編集長の正岡さんからお話をいただいた時に、ついに待望の媒体ができる!と胸が躍った。
それ以前に僕はカートップ誌の編集部員として筑波サーキットで市販車の比較テストをする時にレース形式で競いその行方をレポートする「CTグランプリ」なる企画を手がけていたのだけど、写真と記事だけでは伝えきれない事象がたくさんあって動画媒体でなければ事実を正確に表現できない、と考えていたからだ。
ベストモータリングでは「バトル」という名でその願いは実践され多くの真実を伝えることができた。
しかし後年、映像媒体の持つ危険因子である「編集」や脚色、脚本による「情報操作」が生まれ娯楽性は高まったと思うけど真実を正確に映し出せなくなってきていたことに大きな不満を抱いた。そんなことを僕の好きなファミレス(^^;でベスモ編集部スタッフと7時間も論じたこともあった。
僕は妥協も迎合もしないことを理念としてベスモを去った。正岡さんからは「将来レースを引退したら貴方が編集長をやればいいんだよ」と言葉をいただいていたが、そのベスモが無くなってしまうのでそれも叶わなくなってしまったね。
でもここに寄せられている読者の皆さんの言葉を見ていると、やはり動画で事実を伝えることの必要性もまた強く感じている。
こんな時代だから、バトルして動画作ってお金儲けしようなんて筋道はない。営利目的では成立しないから休刊して会社が清算されてしまうのは不可避だったろう。
「クルマが好きだから」
それだけの理由で大きな負担も苦にしない理解者を探し出すしか再生への道は無い。
ビデオやDVDには編集上カットされてしまった名場面や核心的なコメントなど埋没させてしまうのはあまりにももったいない。
結局ベスモ休刊を知らせてくれたのは田部君だけだった。最後のロケを見に行ったけど、帰りに正岡さんが「こんなベスモなら無くなって当然。毎月見てくれていた読者に申し訳なかった」と言われたのが象徴的だったね。
――まず中谷君は、べスモ創刊準備中のぼくから話があった、と書き出しています。そうでした。ぼくが中谷君に注目し始めたのは、1981(昭和56)年だったろうか。そのころはまだ、中谷君は「カートップ」の編集部員で、ぼくは「ベストカーガイド」(ガイドつきの時代だよ)の編集局長兼編集長。日本カー・オブ・ザ・イヤーを立ち上げた直後ということもあって、クルマ専門誌編集長間の交流が活発で、ライバル誌である「カートップ」の杉山忠志さん(故人)と一緒になる機会が多かった。ある時、杉山さんがこんな内輪話をしてくれました。
「ウチに変なのがいるのよ。部屋のなかを移動するときも、両手を突き出しハンドルを切る格好で狭い机の間を猛スピードで抜けて行くんだよ。最初のうちはガキみたなことをやるアホがいるな、ってみていたんだが、よく見るとそのコース取りと言い、スローイン・ファストアウトの速度感といい、こりゃ、タダモンじゃないって思わせるんだよね」と。
つまり、一つの部下自慢だったわけだけど、「変な奴」が中谷君です。そのころちょうど、鈴鹿サーキッドでF2の年間を通してのサポートイベントとして、シビックによるワンメークレースが企画され、HONDA広報部からの要請もあって、モータスポーツ活動に力を入れているクルマ雑誌のいくつかが参戦することとなった。
●シティブルドックレースはこんな感じでした(ドライバーはガンさん)
ちなみに「ベストカー」はドライバー・黒沢元治、総監督・五木寛之、監督・徳大寺有恒、チーフメカニック・小野昌朗(レーシングカー設計の第1人者)というメンバーで臨んでいた。称して「五木レーシングチーム」。マネジャーがぼく。「カーグラフィック」「月刊自家用車」とともに「カートップ」もエントリー。そのドライバーが中谷君で、そのカミソリのような切れ味を持つドライビングは、一部の注目を集めたものです。そのときピットクル―として一緒だったのが、カメラの北畠主税君。カート時代からのライバル?だったとか。
翌年か翌々年に、新しくシティブルドック・レースがスタート。その最終戦あたりで、中谷君は第1コーナーへのアプローチ攻防で接触、ガードレールにはりついてしまう。それが引きがねになったかどうかは別にして、かれはフリーのモータージャーナリストとして独立する。
彼の速さは業界内で知られはじめ、三菱のミラージュCUPが始まると、試しに提供された広報マシン(他チームのマシンに比べると、その戦闘力はノーマル過ぎた)で、並みいるプロ級を抑えて優勝をさらってしまう。そして、次の年のマカオGPでも、ジャッキー・チェン杯を獲得してしまう。まさに「サンライズ」のイメージにぴったりの存在として、ぼくは興味をもったのです。
●石川秀美・助手席にはうるさい私なんです「ベストカー」1987年6月26日号所載
しかし、ジャーナリストとしての資質はどうだろう? そこは編集長の特権です。「ベストカー」誌で5ページものの連載を用意したのです。題して「新人類系クルマニアンJaponica」。新時代を予感させる人物を、中谷君がどう料理するのか、を試そうとしたわけです。登場したのはイラストレーターの渡辺和博さんにはじまり、女性歌手の石川秀美さん、同じレース仲間でプレイボーイ誌の村松康生、作家の赤羽健美の各氏となかなかのものでした。とくに石川秀美というアイドル歌手の人間観に触れながら、じつは自分のレーシングドライバーとしての「今」と「資質」を顧みているところに、例えようもない彼の新鮮さを読みとったのです。この青年を、新しく立ち上げる映像マガジンの専属キャスターとして、お願いしよう。もちろん、もう一人の専属キャスターをお願いした伏木悦郎さんの「試運転」も同じベストカー誌で展開しつつありました。彼の「アメリカ現地報告」がそれでした。
さて、それからの中谷君の「ライジング・サン」ぶりは、みなさんがご存じのところです。一時はF1チーム「ブラバム」との契約もほとんどまとまりかけ、「ベストモータリングからF1ドライバーが生まれた!」という突拍子もないコピーが、ぼくの頭の中でグルグルと踊りまくったくらいです。
さて、次のテーマです。
《最後のロケを見に行ったけど、帰りに正岡さんが「こんなベスモなら無くなって当然。毎月見てくれていた読者に申し訳なかった」と言われたのが象徴的だったね。》
ファイナルバトルの収録が終わり、さて最終号にあたって、ともに24年の歴史を創りあげてきた先人達が富士スピードウェイに集ってきている訳だし、何らかのアクションが用意されているのかな、と思っていたら、コース上で記念写真(映像用のカメラは回っていないよ)を撮っただけで、はい、終わりま~す。なんじゃ、これは、です。読者からの目線を喪失している。本編の出来上がりを見なければわからないが、おおよその見当はつきます。最終号を見ていただく読者の心理が全く読めていないし、それにこたえる仕掛けもアイディアも感じられない。そうでなくても、だだっ広いこのサーキットのどこにも、興奮の余韻すらないではないか。咄嗟の開催だったかもしれないが、せめて最終ロケの模様を観ていただき、せめてもの想いを伝えるとか、中谷、大井、田部というおなじみの連中もいっしょにいるんだよ、という懐の広さが欲しかったね。
第一、走りは別として、レクサスLFAというクルマの客観的な評価、意味合いを、LFAで参戦中の木下君が語ったところで誰が評価するというのだろう。その辺の資質が、すでにこの映像マガジンから見事に消えている。その感想の一端を、富士スピードウェイを離れて、相談があるからという中谷君の誘いで立ち寄った横浜青葉ICそばのファミレスで、コーヒーを飲みながら話したまででした。だから、そのことについて、言葉足らずのところもあることだし、ぼくは再びべスモブログに「最後の日」と題して、当日のロケ風景のスナップ写真を添えて、書きこむことにしたのです。以下はつぎの更新の際に。
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新編ベスモ疾風録 | 日記
Posted at
2011/07/08 13:10:06