この日は、時間の都合をつけて、なんとか国立国会図書館へ行くつもりにしていた。
その前に、ちょっと息抜きを兼ねて、MAZDAの新型『CX-5』の発表会に顔を出すことにした。2月16日の午後1時30分開会、と招待状に記してある。場所は東京プリンスホテル「鳳凰の間」。誰か、懐かしい顔に会えるかも知れないし、「マツダの未来が、この車から始まります」というコピーも気になった。いま評判の「SKYACTIV(スカイアクティブ)技術」をガソリンエンジン、ディーゼルエンジン、ボディ、シャシーのすべてに採用し、気持ちのいい走りと、優れた燃費性能を両立させたSUV、という触れこみのグローバル戦略車。デザインも東京モーターショーで目を引いた《鼓動》の流れが生きているはずだ。
ま、お披露目の日には、できる限り足を運ぶようにしてきたぼくなりのルールを、今回も守ることにした。結果、それが新しい展開を呼び寄せてくれるきっかけとなるのだから、気になったときには、やっぱり「足を運べ」にかぎる。
20分前に着いてみると、会場は半分ほどが埋まっていた。係の人に中央のゾーンまで案内され、着席してみると、左隣から期待通りの懐かしい顔が、笑顔でこちらへ挨拶を送ってくれる。浅岡重輝(しげあき)さんだった。
*右端のサングラス姿が浅岡さん。中央は津々見友彦選手。
どちらからともなく、「久しぶり」と声を掛け合ったものの、ぼくにしてみれば、ついさっき会ったばかりじゃないか、という気分だった。だから、浅岡さんに、「実は……」と断って、このところ取り組んでいる「1974年6月2日の富士GC第2戦第2ヒート」の「多重事故」に関する映像を、朝から検証していたのだが、そのエンディングシーンで、あなたと津々見友彦さんが燃えたマシンの残骸を前にして、深刻そうに話しこんでいるところを見たばっかりなもので……なんだか「天の配剤」の気分ですよ、と伝えてしまった。
「あ、そうだったの。あの時、ぼくは選手会長でコントロールタワーにいた。そしてあの事故が起きて、ともかく事態を把握して、矢面に立たなくてはなんなかったのよ」
「じゃ、例の接触シーンも後日、見せられたの?」
「見ましたよ。細かいことをどこまで記憶しているかは別にして……」
*F1GP前座有名人レースに招待されたときの記念すべき1枚。
*スターティンググリッドについた⑪S・Masaoka選手。前座レースとはいえオーストラリアF1グランプリですぞ。
浅岡さんとは、不思議な縁で昵懇がつづいている。1985年11月1日~3日の3日間、オーストラリア・アデレードで開催された「F1グランプリ」の前座レースに招待された夢のような記憶。なんでも三菱が冠スポンサーとなって、「コルディア」のワンメークレースをやるから、ぜひエントリーしてほしいという要請があった。元プロのレーシング・ドライバーとアマチュア現役の有名人が二人一組となって、ジャック・ブラバムやバーン・シュパンといった世界的な名ドライバーと、新設された市街地コースで競うというのだ。
その時の日本人チームのプロ代表として招待されたのが、元いすゞのワークスでいまはモータージャーナリストで活躍中の「S・Asaoka」と、富士フレッシュマンレースで奮闘中のクルマ雑誌の編集局長である「S・Masaoka」。「M」を削れば全く同じ名前じゃないか。
これでは現地TV実況アナウンサーが混線してしまうのも無理ない。帰国して見せられた中継録画で、いいポジションで、コーナーを綺麗に抜けていく日本人ドライバーを絶賛している。
「ジャパンから来たジャーナリストのエス・マサオカがファンタスティックなドライビングをしているぞ!これは速い!」と。
ミラージュCUPにステップアップしたときも、講師であった浅岡さんは丁寧にアドバイスをくれたのを、いまでも感謝している。
「いいですか、特定のコーナーで頑張ってはダメ。この富士スピードウェイを一つのコーナーだと思って、丸く、円を描くように走ってくださいよ」
いつの間にか、周りの席は、取材に来た関係者で埋まっていた。『CX-5』の発表会がはじまろうとして、一瞬、会場のライトが絞られた。
「じゃ、来週初めのお昼、ご一緒しましょう。電話します」
小声で約束を確認したところで、ちょうど、マツダの山内孝社長が登壇、新型車のアピールポイントを落ち着いた口調で説き始めた。
発表会終了後、国会図書館へ急行。即日複写の受け付けは午後6時に締め切られるという。予期したように時間が足りない。「朝日」「読売」「毎日」「中日」4紙の1974年6月3日の朝刊を洗い出すのがやっとであった。
2月21日。浅岡重輝さんとお昼のランチを、恒例の東京プリンスホテル1F『和食処・清水』でご一緒した。約束の時間ギリギリに着くと、浅岡さんは30分前からロビーで待ってくれていた。そんな躾の良さはどこから来たものだろう。以前から興味を持っていたから、ちょっと探りを入れてみた。
「浅岡姓のルーツを聞かせてくださいよ。まさか、徳川家の旗本だったとか」
「祖父の代まで美濃藩の家老の家だからって、いろいろ面倒だったらしいけど、親父が次男で、冶金の研究者、大学の教授だったもんで、結構自由な空気で育ったんですよ」
「だから、ヨーロッパ車に通暁した早熟少年に……?」
「そうですね。大学時代からスポーツカークラブを創設して、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリを始めるにあたって、レギュレーション創りに指名で狩り出されたくらいですから」
この後、モータースポーツ草創期の秘話や内幕、いまだから明かしてもいいエピソードを、いろいろ訊き出したが、それはいずれ、ご本人の了解を得てから、明らかにしたい話ばかりだった。ま、ここは、こちらの本題を。
持参したiPadをONにした。つぎに「あの瞬間」とタイトルをつけておいた映像ファイルを開いて、浅岡さんに見てもらうことにした。
一通り見終わったところで、スローモーションのかかった正面からのショットを改めて点検する。そして意外なコメントが、浅岡さんの口から飛び出した。
「違うな。ぼくが見せられたのはこれじゃない。これはTV録画放映された分。ぼくが黒沢車と北野車の接触シーンとして確認したのは、もっとカメラアングルがグリーンゾーンから向けたもので、映像はもっとシャープで鮮明だった」
また一つ、新しい課題が飛び出した。どうやら5万6000人の観衆の中から、「その瞬間」を撮影した観客を探し出し、警察側がガンさんに突き付けたと伝えられる、映像がそれだったのか。では、その映像はどこにあるというのか。
ちょっと一服どころではなくなった。
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実録・汚された英雄 | 日記
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2012/02/28 01:00:46