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2012年05月05日

昆虫売りの少年       ~環八水滸(すいこ)伝 序章①~

昆虫売りの少年       ~環八水滸(すいこ)伝 序章①~  その少年が、生き抜いて行く上で、人並はずれたアイディアとエネルギーの持ち主として成長していく源泉は、彼の人生劇場の主舞台となる東京の環八とは、およそ関係のない裏日本の舞鶴港(福井県)からはじまる。

 昭和21(1946)年3月、中国大陸からの引揚げ者の群れがさまざまな苦難を乗り越えて、祖国の土を踏んだ。そのなかに、まだ6歳に過ぎなかったその少年は、ボロボロになりながらも、母親と、4歳、2歳の弟と離ればなれになることもなく、一緒に父親の実家がある奈良県西大寺に向かう。少年の父親は満州映画の監督で、現地での召集をうけ、一兵卒としてどこかへ連れ去られたままだった。

 西大寺の父親の実家は、いわゆる豪農と呼ばれるほどの裕福な家だったのが、農地改革によって没落。少年一家は田んぼでイナゴを取り、それをオカズにした。汁の実にタンポポが使われた。が、その時代、それほど珍しい話ではない。

 半年後、父親が無事復員してきた。それを聞きつけて、日活、東映から入社を請う使者が訪ねてくるのだが、
「そんなちっぽけな会社で、なんでおれがメガホンをとるんだ」
 父親はついに首をタテに振らなかった。東京帝国大学、つまり東大の文学部を出て、満映のカントクを務めた父親は、誇り高く、一徹だった。
「男は気位を持たなきゃいけない。他人に頭を下げてまで金を稼ぐことはない。いい仕事をすれば、金はむこうからやってくるはずだ」
 父親は結局、映画とは縁のない京都府庁に、やっと職を得る。昭和23(1948)年のことだった。当然、少年の一家は京都・伏見墨染に移住する。少年にとって、父親はすでに反面教師に位置づけられていた。夏、少年は裏山に入ってクワガタ、カブトムシなどを採集し、それを家の前で売った。小遣い稼ぎを堂々とやった。いくら気位が高くたって、お金がなければどうしようもないじゃないか――。


*「水滸伝」とは中国で書かれた伝奇歴史小説。梁山泊というところを根城に様々な英雄・豪傑が集まり、痛快な生き様をみせる。この浮世絵は歌川国芳の描いた豪傑像。

 昆虫少年は、小学校4年生の時に鉄道模型少年に変身し、電気に親しみだす。進駐軍の基地に行っては、落ちているバッテリーを拾ってきて、豆球を灯し、自転車のライトにした。 
 趣味はエスカレートする。この少年はそれを彼なりに、ビジネスに結びつけてしまう。非凡なところだ。中学1年生のころに、ダイオードが市場に出回り始めた。ラジオ工作に使うと、それまでの鉱石(ゲルマニウム)よりも性能の安定度が段違いだと知る。しかし、お値段が高すぎる。1個、1000円もする。
 少年はそこに目をつけた。筆箱にダイオードを仕込んで《寝室ラジオ》として1800円で売り出したのである。20個がさばけた。町の小さな発明家の誕生であり、日本で最も小さなラジオメーカーの誕生だった。

 中学2年の時に、一家は東京へ移住する。まず世田谷区の三宿へ。次に中野の都営住宅へ。高校時代の小遣い稼ぎも、もっぱら電気だ。テレビ、ラジオ、洗濯機の修理をやることにした。そのために《修理うけたまわりマス》のビラを電柱に貼って歩いた。広告の有効性を、すでに彼は心得ていたのだ。

 電気とは別に、音楽が好きになった。高校のブラスバンドでトロンボーンを担当、これがまた商売につながるのである。
 大学は日本大学の理工学部で電気一筋。一方、アルバイトはブラスバンドで習得したトロンボーンを武器に、ディキシーランドJAZZバンドに入り演奏活動へ。バンドは引っ張り凧だった。ナイトクラブ、それに基地めぐり。立川、厚木、横須賀、遠くは青森・三沢まで足を伸ばした。
 
 とにかく、大学時代は忙しかった。昼間は大学に通う。夜はスイングJAZZの演奏活動。それにもうひとつ、夕方の商売を彼は持っていた。中古車の売買である。
 JAZZで稼いだ金が資金(もとで)だった。当時、スポーツ新聞は無料で自動車売買の通信スペースを設けていて、彼はこれをフルに利用する。が、自動車ビジネスにつきものの土地(スペース)の確保に直面する。ひとまず、在庫車をストックしておく場所が必要なのだが、1960年ころの東京はまだまだ土地利用もせせこましくなく、クルマの置き場はいくらでもあった。彼の場合、自分の住んでいる都営住宅の敷地をそれに当てることができた。

 7~8台の在庫をかかえ収入もよかった。ビュイック、クライスラー、プリマス、ダッジなどを扱った。手元には60万円の現金が残った。

 スイングJAZZ。アメリカのクルマ。FEN(極東ラジオ放送)からはエルビス・プレスリーの激しく甘いロカビリーが流れる……。熱くスイングする元・昆虫売りの少年の青春は、それはそのまま戦後ニッポンの青春時代とピッタリと重なるのだ。

 彼がクルマに出会い、その魅力の虜(とりこ)になったように、ニッポンもまた、クルマに出会って、やがてはその製造販売を、国の基幹産業にすえる。モータリーゼーションが華やかに語られはじめ、ノックダウンに近い形態から、国産車は独り立ちしてヨチヨチと歩みはじめる。この新しい「テーマ」の舞台となる「環八」も、やっとこのころぼくらの前に登場する。


*環八通りで、ある時期、スパーカー少年が蝟集した煉瓦造りのショールーム

 東京都道311号環状八号線を、ぼくらは「環八」とよび、クルマにかかわる「自分史」のなかで、さまざまな出来事と重ね合わせて、親しく位置づける。
 東京という大都会の西側を、半円形に包み込むこの交通の大動脈は、起点を東京湾に面した羽田空港近くとし、大田区、世田谷区、練馬区、板橋区を横刺しにして、今では北区赤羽を終点として、44キロ余りが稼働している。

 もともとが、旧東京市の大雑把な都市計画からの出発だったから、戦時体制に入るとすぐに計画は放置される。そして終戦。たくましく復興していく東京。まず、環状七号線(環7通り)が産業道路や東京オリンピック関連として、スピーディに工事が進む。
 環八にやっと陽が当たるのは、昭和40(1965)年に第3京浜道路が開通してからだった。東京・世田谷と横浜・三沢を結ぶ有料道路である。なにか「自由」の風が、そこだけは吹いているような解放感を味わえる、特別なルートとなった。
 
 昭和43(1968)年の東名高速道路が開通する。あっという間に、環状8号線が高度成長の道をまっしぐらに突き進む東京の「新しい顔」になっていく。

 さて、それからの昆虫売りの少年が、環八を舞台にどうダイナミックに生きていくのか。それは、次のエントリーで。

 もういいだろう。少年の名を、松本高典という。JAXカーセールスの創始者である。
ブログ一覧 | ベストカー創刊前夜 | 日記
Posted at 2012/05/05 00:38:51

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この記事へのコメント

2012年5月5日 0:50
 昭和40年代末の「太陽にほえろ!」の映像を見ても、環八あたりはまだまだのどかな感じがしました。環八が新しい道路ということ、芝浦から目黒のあたりは既存の輸入車業者が抑えていたことも関係するのでしょうか?
ヤナセ、東邦モータース、エンパイヤ自動車、近鉄モータース。
コメントへの返答
2012年5月5日 1:03
そういえば、環八通りから都心へ向かう目黒通りには、正規輸入業者の拠点が点在していましたね。ポルシェ専門だった「三和自動車」もそうでした。

直接の関係は別にして、ゾーンとしてまとまりますね。

「ベストモータリング」をあなたの布教活動に生かされている様子を、うれしく拝読しました。

2012年5月5日 9:31
奈良の西大寺……まさに地元です。自転車で10分、学生時代は毎日のように通っていた場所ですし、初めて社会に出て働いた場所も西大寺でした。

歴史ある土地のため、庭を掘れば何かが出てくる場所で、何かの工事が始まったと思ったら、数日後には必ず教育委員会のテントが立っているのを見かけます。おかげで、古くから近鉄のターミナル駅があるのに、数十年間、全く開発の進まない所でもあります。平城遷都1300年祭を機に整備する予定だった駅前ロータリーも、2年が過ぎた今でも未完成です。

昔は一面田んぼしかなかったと、年配の方々は口を揃えて懐かしそうに語られます。松本高典さんが住まわれていた期間は短かったようですが、あの西大寺からそんな傑人が生まれていたとは、知りませんでした。
コメントへの返答
2012年5月5日 10:13
西大寺といえば、秋篠寺を連想してしまいます。車で九州を往復するような元気が残っていた時代、名神が混んでいた正月休暇、そうだ、西名阪で抜けようかと思い立ち、ついでに秋篠寺に立ち寄った記憶。苔蒸したはずの木立は雪に埋まっていました。

いつ行っても変わらない駅前。抜けるのが大変。それでも神功皇后陵や競輪場が同じ顔で出迎えてくれます。それがいい(笑い)。
2012年5月5日 13:45
全てが灰燼とかし其処に急速に持ち込まれたアメリカ流の民主主義化の流れ、嘗て無い程の混迷を極めた時代だと思います。

しかしその時代を生きた方々は逞しい方が多いのも事実、飢えの恐怖すら知らず育った自分には到底成し遂げられる事はできません。

人は揉まれる程強く成長しそこから新たな何かが生まれるそう思わせてくれました。

コメントへの返答
2012年5月5日 16:05
JAX松本さんの少年時代のエピソードにYUSAKU君が反応してくれたことに、意味を感じます。

世代の違いに関係なく、人は何と闘って成長していくのか。そこを感じ取る能力こそがその人を育ててくれる。そう思います。

期待しています。次回、その後の松本青年の闘い方に注目ください。
2012年5月10日 23:16
こんばんは

松本氏や局長の世代の方々をみていると、敗戦時が多感な少年期~思春期にあたるわけで、それまで絶対的とも言える価値観の「欲しがりません、勝つまでは」のような軍国主義が音を立てて崩壊し、代わってアメリカから輸入された、自由かつ豊かな消費文化が開始され、その文化を若い情熱によって日本に浸透させて、今日まで語り継がれる高度成長期を造り上げてきたように感じますね。


今の閉塞しっぱなしの日本にない、「一から造り上げる」楽しみに溢れていて羨ましいです。
コメントへの返答
2012年5月11日 8:18
ほんとうは、環八を舞台に、あんなにも命を燃やした男たちの生き様をとりあげるなら、もっと小説的に、ドラマチックに書くべきかもしれません。その時期が訪れたのかもしれません。

その前に、ぼくなりの試みをしてみます。

遠慮なく、ご意見、ご感想を。お待ちしています。

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