その少年が、生き抜いて行く上で、人並はずれたアイディアとエネルギーの持ち主として成長していく源泉は、彼の人生劇場の主舞台となる東京の環八とは、およそ関係のない裏日本の舞鶴港(福井県)からはじまる。
昭和21(1946)年3月、中国大陸からの引揚げ者の群れがさまざまな苦難を乗り越えて、祖国の土を踏んだ。そのなかに、まだ6歳に過ぎなかったその少年は、ボロボロになりながらも、母親と、4歳、2歳の弟と離ればなれになることもなく、一緒に父親の実家がある奈良県西大寺に向かう。少年の父親は満州映画の監督で、現地での召集をうけ、一兵卒としてどこかへ連れ去られたままだった。
西大寺の父親の実家は、いわゆる豪農と呼ばれるほどの裕福な家だったのが、農地改革によって没落。少年一家は田んぼでイナゴを取り、それをオカズにした。汁の実にタンポポが使われた。が、その時代、それほど珍しい話ではない。
半年後、父親が無事復員してきた。それを聞きつけて、日活、東映から入社を請う使者が訪ねてくるのだが、
「そんなちっぽけな会社で、なんでおれがメガホンをとるんだ」
父親はついに首をタテに振らなかった。東京帝国大学、つまり東大の文学部を出て、満映のカントクを務めた父親は、誇り高く、一徹だった。
「男は気位を持たなきゃいけない。他人に頭を下げてまで金を稼ぐことはない。いい仕事をすれば、金はむこうからやってくるはずだ」
父親は結局、映画とは縁のない京都府庁に、やっと職を得る。昭和23(1948)年のことだった。当然、少年の一家は京都・伏見墨染に移住する。少年にとって、父親はすでに反面教師に位置づけられていた。夏、少年は裏山に入ってクワガタ、カブトムシなどを採集し、それを家の前で売った。小遣い稼ぎを堂々とやった。いくら気位が高くたって、お金がなければどうしようもないじゃないか――。
*「水滸伝」とは中国で書かれた伝奇歴史小説。梁山泊というところを根城に様々な英雄・豪傑が集まり、痛快な生き様をみせる。この浮世絵は歌川国芳の描いた豪傑像。
昆虫少年は、小学校4年生の時に鉄道模型少年に変身し、電気に親しみだす。進駐軍の基地に行っては、落ちているバッテリーを拾ってきて、豆球を灯し、自転車のライトにした。
趣味はエスカレートする。この少年はそれを彼なりに、ビジネスに結びつけてしまう。非凡なところだ。中学1年生のころに、ダイオードが市場に出回り始めた。ラジオ工作に使うと、それまでの鉱石(ゲルマニウム)よりも性能の安定度が段違いだと知る。しかし、お値段が高すぎる。1個、1000円もする。
少年はそこに目をつけた。筆箱にダイオードを仕込んで《寝室ラジオ》として1800円で売り出したのである。20個がさばけた。町の小さな発明家の誕生であり、日本で最も小さなラジオメーカーの誕生だった。
中学2年の時に、一家は東京へ移住する。まず世田谷区の三宿へ。次に中野の都営住宅へ。高校時代の小遣い稼ぎも、もっぱら電気だ。テレビ、ラジオ、洗濯機の修理をやることにした。そのために《修理うけたまわりマス》のビラを電柱に貼って歩いた。広告の有効性を、すでに彼は心得ていたのだ。
電気とは別に、音楽が好きになった。高校のブラスバンドでトロンボーンを担当、これがまた商売につながるのである。
大学は日本大学の理工学部で電気一筋。一方、アルバイトはブラスバンドで習得したトロンボーンを武器に、ディキシーランドJAZZバンドに入り演奏活動へ。バンドは引っ張り凧だった。ナイトクラブ、それに基地めぐり。立川、厚木、横須賀、遠くは青森・三沢まで足を伸ばした。
とにかく、大学時代は忙しかった。昼間は大学に通う。夜はスイングJAZZの演奏活動。それにもうひとつ、夕方の商売を彼は持っていた。中古車の売買である。
JAZZで稼いだ金が資金(もとで)だった。当時、スポーツ新聞は無料で自動車売買の通信スペースを設けていて、彼はこれをフルに利用する。が、自動車ビジネスにつきものの土地(スペース)の確保に直面する。ひとまず、在庫車をストックしておく場所が必要なのだが、1960年ころの東京はまだまだ土地利用もせせこましくなく、クルマの置き場はいくらでもあった。彼の場合、自分の住んでいる都営住宅の敷地をそれに当てることができた。
7~8台の在庫をかかえ収入もよかった。ビュイック、クライスラー、プリマス、ダッジなどを扱った。手元には60万円の現金が残った。
スイングJAZZ。アメリカのクルマ。FEN(極東ラジオ放送)からはエルビス・プレスリーの激しく甘いロカビリーが流れる……。熱くスイングする元・昆虫売りの少年の青春は、それはそのまま戦後ニッポンの青春時代とピッタリと重なるのだ。
彼がクルマに出会い、その魅力の虜(とりこ)になったように、ニッポンもまた、クルマに出会って、やがてはその製造販売を、国の基幹産業にすえる。モータリーゼーションが華やかに語られはじめ、ノックダウンに近い形態から、国産車は独り立ちしてヨチヨチと歩みはじめる。この新しい「テーマ」の舞台となる「環八」も、やっとこのころぼくらの前に登場する。
*環八通りで、ある時期、スパーカー少年が蝟集した煉瓦造りのショールーム
東京都道311号環状八号線を、ぼくらは「環八」とよび、クルマにかかわる「自分史」のなかで、さまざまな出来事と重ね合わせて、親しく位置づける。
東京という大都会の西側を、半円形に包み込むこの交通の大動脈は、起点を東京湾に面した羽田空港近くとし、大田区、世田谷区、練馬区、板橋区を横刺しにして、今では北区赤羽を終点として、44キロ余りが稼働している。
もともとが、旧東京市の大雑把な都市計画からの出発だったから、戦時体制に入るとすぐに計画は放置される。そして終戦。たくましく復興していく東京。まず、環状七号線(環7通り)が産業道路や東京オリンピック関連として、スピーディに工事が進む。
環八にやっと陽が当たるのは、昭和40(1965)年に第3京浜道路が開通してからだった。東京・世田谷と横浜・三沢を結ぶ有料道路である。なにか「自由」の風が、そこだけは吹いているような解放感を味わえる、特別なルートとなった。
昭和43(1968)年の東名高速道路が開通する。あっという間に、環状8号線が高度成長の道をまっしぐらに突き進む東京の「新しい顔」になっていく。
さて、それからの昆虫売りの少年が、環八を舞台にどうダイナミックに生きていくのか。それは、次のエントリーで。
もういいだろう。少年の名を、松本高典という。JAXカーセールスの創始者である。
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ベストカー創刊前夜 | 日記
Posted at
2012/05/05 00:38:51