〜菅原文太という『男星』のラスト講演②〜
「カウント99791」で家を出たプログレのODOメーターの数字が、快適に、律儀に100000にむかって加算されて行く……関越自動車道に入ってからは、クルーズ・コントロールにセットした。制限速度あたりにセット。なにもすることがなくなった。と、つい、鼻歌が出てしまった。なぜかシャンソンである。
♪ Sous le ciel de Paris
S ’envole une chanson
Hum Hum
Elle est nee d’aujourd’hui
Dans le coeur d’un garcon
(パリの空の下に響く ム―ムー 歌は若い息吹きを乗せ……
日本語訳:菊村紀彦)
原語で唄えるのはその一節だけなのに、アコーデオンの奏でるメロディに乗ってパリの風景が流れる一つのシーンが、フッと思い出されたのはなぜだろう。凱旋門、シャンゼリゼ通りのキャフェテラス、セーヌ河畔の恋人たち、ノートルダム寺院の尖塔、そして、パリ・リヨン駅。駅のアナウンスが聴こえる。この終着駅にたどり着いた長距離列車の車輪がゆっくりと停止すると、降り立った乗客のなかに丁髷・佩刀姿の奇妙な一団をカメラがとらえる。つづいて、こんなナレーションがかぶさったように記憶している。
「今から113年前、このパリのリヨン駅に20数名の日本人武士が降りる。15代将軍の弟君の随行する幕府派遣のエリート一行である」
その一行の最後尾に会津藩の下級武士に扮した菅原文太が、なぜか紛れ込んでいる。
「彼らは船旅56日を要しパリで開かれる万国博覧会に参加のためである。一行はその翌年が明治元年と呼ばれることを、まだ予測だにしていなかった……」
それが1980年に放映され、3年ほど前のBSテレビで再放映されたNHK大河ドラマ「獅子の時代」のオープニングシーンであり、俳優・菅原文太が、単なるアウトロー野郎を演じるだけの男ではない「新しい道」に脱皮していった、注目すべき瞬間でもあっただろう。
回を重ねること51回、その大河ドラマのエンディングシーンで「自由自治元年」の幟旗を振りかざし、敗走する秩父困民党の最後の闘士として抵抗し、明治政府の鎮台兵のなかに斬り込んでいく……ナレーションがいつまでも、心に残っている。
―—やがて日本は日清戦争に突入、さらに日露戦争への道を歩いていく。そのような歳月の中で、幾度か銑次の姿を見たものがあるという。たとえば栃木県足尾銅山の弾圧のさなかで、たとえば北海道・幌内暴動弾圧のさなかで、激しく抵抗する銑次を見たものがいるという人がいた。そして噂の銑次はいつも闘い、抗(あらが)う銑次であった、と。
なんとも強烈な感銘を残した平沼銑次、いや、それからの菅原文太さんが、「秩父事件130年記念講演」で何を語ってくれるのか。胸が高鳴らないはずがなかった。
そんなことに想いをめぐらせながら、花園ICで下の道に降り、いくつかの峠をぬけ、11月9日の午前9時45分、秩父市役所吉田総合支所に隣接する会場の「やまなみ会館」についた。
*この日の秩父・吉田町の佇まい。ここが「秩父事件」の震源地
会場は、すでに300名を越える来場者で埋まりつつあり、その関心の高さがうかがえた。いくらか空きのあった前列に陣取る。定刻、主催者側の挨拶で「記念集会」ははじまった。会長(秩父事件研究顕彰協議会)の篠田健一さんの声は、のっけから熱かった。
ちょうど130年前の11月9日の未明、秩父を脱出して、信州に新天地を求めた「秩父困民党」の残党が長野県佐久市の東馬流(まながし)・天狗岩のあたりで、高崎鎮台兵と激突、十字砲火を浴び、敗走。この戦いで虚しく散華した困民党員の屍は13を数え、鎮台兵の流れ弾で地元の主婦が一人、犠牲になったという。捕縛者も100名を越えた。官軍側からも警官2名が負傷し、数日後、そのうちの1名が絶命した……その模様を、地元戸長の当時の日記やら、事件直後の現場を目撃した佐久自由党員の日記をもとに、来場者に紹介したあとで、11月3日付の『信濃毎日新聞』(正岡註:骨太の地方紙として知られる)の社説に大きな励ましを得たとして、読み上げる。
「敗れたとはいえ、明治維新から20年を経ない時期に、自由や平等、民主主義を求めて国家権力に立ち向かった人々がいたことに、目を見張る思いがする。そこには、民衆の自由でたくましい精神が息づいていた」
「民主主義は、選挙や代議制といった形式を言うのではない。130年前に立ち上がった人々にあった、われわれこそが政治の主体だという意識を私たちは持っているだろうか。権力の横暴に抗する人たちに連帯し、支えていく動きは広がっているだろうか」(秩父事件研究顕彰協議会オフィシャルサイトを参照)
「秩父事件」を単なる暴動としてではなく、その本質を見抜くエネルギー、そこにこの地方ジャーナリズムの志を感じた、と締めくくる。
挨拶が終わって、会場の照明が絞られる。まず、120周年を記念して制作された映画『草の乱』(監督・神山征二郎)の上映である。この作品はことあるごとにDVDで鑑賞しているので、ストーリーも、見せ場もインプット済み。が、こうやって劇場スタイルで、多くの人と一緒に鑑賞するのは、別の楽しみがある。空気が違う。それが大事ではなかろうか。
雪に埋もれた北の大地。吹き荒ぶ風。北海道野付牛町。1918年(大正7年)、緒方直人が演じる老人が、いまわの際を迎えていた。気力をふり絞って、彼は枕元に妻子を呼び寄せ、自分の本名を明かし、実は「秩父暴動」と呼ばれる事件の首謀者の一人で、この北海道に潜入し、33年もの間、身分を偽り生きて来たことを告げるシーンから『草の乱』ははじまる。
そこで写真屋を呼んで、家族全員の記念撮影をし、地元の新聞記者を招いて、その「事実」を公開し、静かに息を引き取っていく……そして画面は、1883年(明治16年)の当時の秩父地方の農民や山の民が直面していた貧困と借金にあえぐ窮状を描いていく。秩父郡下吉田村で「生糸問屋」を営む「丸井」の若旦那・井上伝蔵は、そんな彼らに頼られ、手を貸しているうちに、いつしか当時、政府の圧制に立ち向かい、憲法の制定を叫んで熾烈な活動をみせていた自由党に入ることを決意する……。彼こそが死刑の判決を受けながら、見事に生き抜いて、単なる暴動ではなかった『秩父事件』の本質を、後世に伝えようとした「凄い奴」だと、その映画はメッセージする。
上映時間、2時間。エンディングの後も拍手は熄(や)むことがなかった。ひとりひとりの想いは異なっても、何かが通っている。その連帯感が、この会場一杯に広がっていく……。そしてこのあと、昼食をそれぞれが思い思いのかたちで済ませて、午後の講演を待つことになる。
一旦、わたしは会場の外に出た。小雨も上がり、秋の気配が濃く溢れていたのに惹かれて、ぶらりと散歩でもする感じでプログレを走らせた。いまみた観たばかりの映画の主人公、井上伝蔵の屋敷があったあたりへいってみたくなっていた。そんなことができるのも、この下吉田の街がまぎれもなく秩父事件の震源地なればこそ、であった。
午後からのイベント、秩父農工科学高校の「秩父屋台囃子保存部」の生徒たちによる屋台囃子の演奏ではじまり、午後2時からの特別講演を待つばかりだった。
舞台の袖から、車椅子が舞台中央へ押されながら登場する。観客は、この意想外な成り行きを、声を殺して見守る。車椅子の主がこの日の主役だったのだ。
主催者側の青年に支えられながら、ゆったりと立ち上がり、壇上に用意されていた椅子に腰を落とした菅原文太さん。やっと拍手がわき起こった。介添え役の篠田会長が、ちょっとしたアクシデントで菅原さんが腰を痛めたので、 このまま椅子に座っていただきます、と状況を説明する。それにしても、私の目には、頬の肉の削げ落ちた文太さんの印象は、いつもの精気が失われていると感じられた。これはどうしたことだ。
あの、聞き覚えのある、少ししゃがれた低い声。
「このごろ、この国の政治が悪くなったね」
これが文太さんの最初の挨拶だった。そして間をおいてゆっくり、語りかけた。それは今、彼が取り組んでいる「原発反対」「憲法改正反対」といった、いわば生臭い話題ではなく、おのれの歩んで来た「貧しかった青春」を、一つ一つ、思い出しながら、それでも志を失わない、真っ直ぐな男たちへの共感を、語ろうとしていた。
「今日、こうやって130年記念行事として、あの『秩父事件』のことを思い起こす機会をいただいた。嬉しいねぇ。あの北海道まで逃げ抜いて志を貫徹したあの人、名前、何と言いましたっけ?」
会場から即座に声が上がる。
「井上伝蔵!」
「おお、それそれ!」
発言者を指差しながら破顔する文太さん。会場はそれでドッと湧く。
さすが、だと思う。午前に『草の乱』を見た聴衆に、「秩父事件」とそれに命を燃やした男たちへの想いを知った上でのやりとりか。
明治憲法成立前夜の「自由民権運動」でシンボル的存在だった「板垣退助」の名前も、わざとだろうか、思い出せないふりをして会場の助けを借りる。
彼が語りたかったことは、本当は何だったのか。
「どんな場合でも、理不尽なもの、力には、徹底的に抗っていきたい」
わたしはそう受け取った。恐らく、研究顕彰協議会では、当日の講演を録音・録画しているはずだ。ぜひ、ぜひ、公開していただけないだろうか。
秩父からの帰路は、心満ち足りた快適なクルージングとなった。駐車場に帰り着いたプログレのODOメーターは「9」が見事に5つ、並んでいた。あと1キロで10万か。まだ楽しみは残っているのだ。
それから20日後、『菅原文太、逝く』のニュースが届けられた。
(この項、終わる)