『ドキュメント第5回ベスモ同窓会』のエンディングを先に書こう
第1ステージの4月22日:東京渋谷、代官山蔦屋書店&ALOHA TABLEでのトークショーと懇親ミーティングの参加者は38名、それに黒澤元治、大井貴之の両キャスターに正岡、加えて田部靖彦、Hot-Versionの本田俊也、仁禮義裕、小林学の元ベスモ関係者、ゲストにCartopの野田航也編集長が加わって、合計46名が一堂に会した。
第2ステージの4月23日:山梨県富士吉田市富士Calmでの「懐かしベストモータリング名場面鑑賞会」と「特別ポルシェ同乗ラン」に2日連続の参加者が23名、2日のみに駆けつけたメンバーが11名、それに大井、正岡、新しく桂伸一キャスターが加わって、37名が河口湖畔のミーティングを楽しんだ。
遠くはアメリカ南部、メキシコ国境に近いサンアンジェロからの「Hawk Yama」さんを筆頭に、大分からの「タネテツGT」、東広島からの「SCALA」、神戸「しゃみの」、そして青森から「miracle_civic」の各メンバーが、万難を排して駆けつけてくれた。こうして2016年もトータル49名の同窓会メンバーが交歓し、無事に日常に復帰して行ったのである。
その詳細をいつも「ドキュメント」としてまとめようと取り組むのだが、直ぐにエネルギーが失速し、結局、「この項、次回更新まで」と逃げを打ってしまう。そして、その項が誠実に最後まで書き継がれていることは少ない。
勝手気儘にアプローチしたさまざまなテーマがそのままに眠り続けていて、「そのうち、“局長の仕事”として単行本に仕上げるためにそうしているんだ」という言い訳めいた強がりを、誰が信じてくれるものか。
今回の『ドキュメント・第5回ベスモ同窓会』も「スタート!」なんて威勢よく謳って立ち上げていても、ゴールにたどり着けるかどうか、怪しいものだ。そこで一計を案じることにした。折々の「呟き」的短信「何シテル?」に、それなりの工夫を凝らした画像を添え、日々の流れのインフォメーションを用意しておくことだった。
04/24 17:03
5thベスモ同窓会も延長戦へ。前日の写真点検をするつもりが997GT3で参加したHawk Yamaさんが逢いに来てくれた。じゃあ昼飯とマカンTURBOのチョイノリ試乗を御馳走することに。うな重を平らげた後、マカンターボで美女木まで。やっぱりポルシェですね。それが彼のズバリ評価。
04/25 12:27
20日から4日間を一緒に過ごしたMacan Turboを目黒に返しに行かねばならない。去年の夏、秩父まで付き合ってくれたあの派手派手しかったシルバーの奴に比べて、細かい部分が見事に修整されていた。ご褒美にペイントキーを家人の飾り棚に置いて記念撮影。サファイアブルーの特色がいいね。
04/25 23:40
ポルシェ広報車両の取り扱いルール。公道以外の試乗はず事前に申し出ること、など。そして使用後はプレミアム満タン、手洗い洗車をするのがルール。受け取って以来、450kmを走り回って一度も食事を与えていない。ゴクゴクとよく飲むわい。64.2ℓ。ここのGSマンのよく働くこと。ありがとう。
この布石なら、いきなりMacan Turboをドライビングしながら、目黒のアルコタワーにあるポルシェJAPANに駆けつけるシーンから再開しても、それほどの抵抗もないだろう。剣道の太刀合いでいえば「残心」の部分である。
トーンと踏み込んで相手の面を撃つ。が、審判の旗が必ず上がる訳ではない。充実した闘志と適正な姿勢、竹刀の刃筋で適正打突であったか。そしてもう一つ、「残心あるもの」であったかを問われる。仕留めたはずの相手がいつ反撃してきても、それに備える心構えがあるのか、ということが問われるのだ。この辺が「日本文化の余韻の美学」に通じる。
*昭和39(1964)年、関東実業団大会で講談社が3位に食い込んだ時の実戦場面、確実に相手の出鼻を狙ってメンに行く構え。「垂れ」に「講談社」の3文字が。
「残心」……ことに当たってできるだけその心構えは失わないように努めてきた。少年期にはまだ禁忌とされた剣道を秘かに習い始め、そして大学では剣道部(副主将)に籍を置き、世の中に出ても、「関東実業団大会」で講談社を中堅として3位に導いて、はいこれで引退しますと宣言する時期まで、剣道に導かれて生きて来た。その辺の記憶は
「剣道というキイワードの私的ドラマ」(2011年7月20日掲載)に、公開済みなので、ご一読願えれば幸いである。
サファイアブルーメタリック(OP:¥163,000)のマカンターボが、馴染みのGSの若者たちの手で、丁寧に洗われ、拭きあげられていく様子をみながら、湧き上がってくる想いがそれだった。
ひょいと時計を見た。え!? 午後の4時に返却する予定なのに、午後3時をとっくに過ぎているじゃないか。まずいよ。このあともお気に入りの洋菓子店に寄ってポルシェJAPAN広報室に差し入れするバームクーヘンを買っていきたいのに、間に合うのかな。下の道だと1時間は見なければならない。これは西池袋入り口から首都高速の山手トンネルに入る快速ルートに頼るしかないね。
幸い、山手通りの真下を走るトンネル首都高速は、大橋JCの手前あたりで幾らか渋滞したものの、ストレスなく五反田出口まで、車重量2トンを超える怪物SUVをまるでスポーツカーでもあるように、軽々と、痛快に、そして滑らかに運んでくれた。水平対向6気筒4バルブのツインターボ、3.6ℓ、400ps、走りのモードはCONFORTから当然SPORTS+に。途端に車の踏ん張り具合が変わり、加速、減速のメリハリが激変した。7速PDK。パドルシフトは減速側のみを使う。
中野長者橋の出口を過ぎるあたりから、小さなRが連続する区間に。パン、パン、パン。左指が動くたびに、エンジン回転メーターの針が、鋭く反応する。エンジンブレーキが確実にマシンをセーフティの世界へ誘う。PCCBの高価なブレーキシステムも、どこか適当なステージがあれば、ついつい試したくなる気分だ。20日にポルシェTurboと一緒に受け取ったときの殊勝な「ずっとCONFORTで通してやろう」という誓いはどこかへ吹き飛ばされてしまったようだ。
3時52分、無事に五反田出口から、初夏のような明るい日差しの溢れる山手通りに吐き出された。マカンターボはやっぱり、わたしの「識っている」ポルシェそのものだった。その感覚が身体中に沁み通っていく至福。それが「ポルシェ偏愛」をあえて認めている「源泉」でもあるようだ。
4時ジャスト、マカンターボはアルコタワー地下の車寄せに停車した。すでに同窓会メンバーの仁川一悟君が前夜、大井君から受け取った911Turboを運んでくれていた。
広報車管理のNさんが丹念に2台のポルシェをチェックしてくれる。そこへ淡いブルーにグリーンを少々まぜたようなボディカラーの2代目Mazdaロードスターが、ループ状のアプローチを下りながら近づいてくる……降り立ったのは「ポルシェ漬け」から解放されたはずの大井貴之君だった。先に24時間を試乗したNew911カレラSのトランクに荷物を置きっ放しにして、それの受け取りにあらわれたというわけだった。
3人揃ってポルシェJAPAN広報室へ、あいさつに行く。わたしたちのイベントが恙(つつが)なく、そして大盛り上がりに終了したことの報告と、お礼を述べる。用意した洋菓子を渡す。と、広報室の木内マネージャーもポルシェ特製のマグカップを3人にそれぞれ、意匠の異なるものを用意していてくれた。この心憎い配慮。ポルシェJapan広報室の「残心」もまた、見事ではないか。
*CARRERA RSと銘打たれた「Collector's Cup」は次の「同窓会」の賞品にしよう。
面談が終わって地下の車寄せに戻った。このあと大井君とお茶でも一緒に、と心積もりしていたが、直ぐにでも仕事に復帰しなければならないという。それを終わらせたら、ニュルブルクリンクへ飛ばなければならないという。
別れ際、彼がiPhoneで撮っていたシーンが、後日、FBに紹介されていた。コピーが彼らしいウイットの利いたものなので採録しておいた。「馬車からカボチャに戻りました」と。レーシングイエローのBoxster Spyderにはじまって、New 911 Carrera S、911 Turboと乗り継いだ「ポルシェ漬け」の日々を、こんな美事な軽口でこなすセンス。羨ましいよ。
*馬車がカボチャに戻りました……シンデレラboyの大井貴之が呟いた。
大井君のロードスターを見送りながら、仁川一悟君と徒歩で目黒駅西口まで向かう。彼は飯田橋まで。わたしは所用があって、その一駅先の江戸川橋まで。同じ方向である。ベストカーに預けてあるプログレを引き取りに行かねばならなかった。
目黒雅叙園の敷地内に高層ビジネスオフィスとして建てられたアルコタワー。そこからは、行人坂と呼ばれる坂を150メートルほどのぼり、上り切ったところに目黒駅に通じる交差点がある。
踏み出して50歩も行っただろうか。直ぐに息が上がり、太腿あたりがすでに持ち上がらなくなっていた。
「なんだ、ここは谷田部のバンクかい!」
最初は、その試練を楽しむ気分がなくもなかった。が、一歩ごとに、足が重くなり、とうとう立ち止まってしまう。若い仁川君の端正な横顔も、ゆがみ始めていた。
頻繁に傍を走り抜けるTAXIもやっとの感じで登っていく。上り専用の一方通行で、右側に「大円寺」という天台宗の寺院、すぐ上手に(かみて)行人坂の道標と勢至菩薩を祀ったお堂があり、この坂が江戸時代から名所の一つに数えられていたことがわかる。アルミ製の銘板がこう伝える。
「寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂とよばれるようになったといわれています」
そして、坂を下りきった先に「目黒不動」があるのも肯ける。
現代では、その向かい側に芸能プロダクションとして知られる「ホリプロ」の本社やスタジオがあるのだが、勾配15%をカウントされるこの急坂に翻弄されているいま、その取り合わせの妙を楽しむ余裕はない。
*目黒行人坂之図 安藤広重「東都坂尽」国立国会図書館・蔵
ともかく頑張ろう。無心に、一歩一歩、踏み出した。やがて頂上らしものが見える。左手にかつて「富士見茶屋」のあった名所案内板。
「上り切ったら、お茶でも飲もうか?」
「はい」
『ポルシェ 偏愛グラフィティ』に取り組んでからずっと、なにかとサポート役に徹してくれた仁川君が、ゆったりと頷く。
4月25日午後5時、第5回ベストモータリング同窓会に、わたしなりの「完」のエンドマークがやっと灯った瞬間であった。(この項、次回更新につづく)