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正岡貞雄のブログ一覧

2016年11月25日 イイね!

初雪が招き寄せてくれた『探し物』

初雪が招き寄せてくれた『探し物』  〜「諦めさえしなければ、きっといつかは」のこだわりを!〜




 韓国語で初雪のことを「チョンヌン」と呼ぶことを教えたくれたのは、韓流ドラマブームに火をつけた『冬のソナタ』のぺ・ヨンジュンとチェ・ジウ姫のカップルだった。

 韓国の恋人たちは初雪の日をとても大事にしている。プロポーズや告白をしたりするほか、初雪をみると連絡を取り合ったりする。連絡を取らなければ、別れの原因になったりもする、という。



 クリスマスイブの日、約束の場所に立ってチュンサンが現れるのを待つユジンに、白いものが降りかかる。
「あら、チョンヌンだわ。嬉しい」
 しかし、ヨンさんはやってこない……いや、来ることのできない哀しい事情が起こっていた。あのラブストーリーを家人と一緒に見てから、もう10年が経ってしまった。
「冬ソナの舞台、春川(チュンチョン)に連れ行ってやるよ」
 あの約束は、空手形のままだなア。

 前夜から、TVの天気予報が盛んに、祭日明けの24日は積雪するだろうといっていたが、的中した。午前8時、西側の窓の外を、白いものが舞いはじめていた。向かいの邸宅の屋根はすっかり白化粧を終わっているではないか。



 特に外出する予定はない。「みんカラ」も「R35 GT-R MY17」の続編に取り掛かったが、気になる調べごとがあって、そちらへ方向転換する。

 そろそろ公開してもいいだろう。
 半年ほど前の「みんカラ」Special Blog(6月6日掲載)で“『局長』が局長になるまでの『仕事』を掘り起こす”(こちらをクリック)を連載すると予告し、週刊現代の創刊期に新入社員のわたしが体験したことをボチボチと書き進めはじめたところ、それを是非、大急ぎに仕上げて単行本にまとめないか、といってくれる出版社が現れたのである。

 旧知の間柄だし、こちらも、取り組むとしたら今しかない、と考えていたから話はトントンとまとまった。

 出版の目標は2017年の3月。果たして書き上げられるかどうかは別にして、改めて確認したいことや、読まなければならない資料が山ほどある。そんな中で関わりのあったジャーナリストや評論家、作家からいただいた書簡もあるはずなのに、行方不明なのだ。この1ヶ月、時間をつくっては心当たりの書類袋や収納棚をゴソゴソやっているのだが、なかなか辿り着けないでいた。半年前にはどこかにあったのを見ているのに……。


*右から作家の藤原審爾さん、中央が大森実さん、そして左が日刊ゲンダイの元社長だった川鍋孝文さん。残念ながら、皆さんはすでに鬼籍の人となった。

 雪の降りしきる窓の外をぼんやりと眺めていたら、ひょいと頭に浮かんでくる場所があった。家人が封筒や切手を収納している、抽斗のついた、ガラス張りの扉を持つ、北欧家具調の本棚である。

 期待をこめて南ベランダ寄りのリビングルームへ。抽斗は上下に2段、それも4つあった。その左端、上段の抽斗に目星をつけて、手前に引く。おお、手紙類の束があるではないか。その中に、国際事件記者で鳴る大森実さんがカルフォルニア・ラグナビーチから送ってくれた7枚綴りの「近況」や、国民的歌手、三波春夫さんからの見事な筆書きの礼状が、家人の手で保存されていたのだ。
「あったぞ!」
 歓声をあげると、家人が何事かと顔を出す。説明すると、
「あら、それなら訊いてくれればよかったのに……」
  蔵ってある場所は決まっているじゃない、と、いつものやりとり。

 黄ばみ始めた大森実さんの名前を刷り込んだ便箋を読んでみる。そうだった、と往時の記憶が蘇る。大森さんとは、2度目の週刊現代務め(1972=s47から2年間)をした際に、大ヒット連載『直撃インタビュー』で深く関わり、爾来、数多くの仕事を共有してきた。

 真っ先に用意しないといけないレジュメの構成に、だんだんと肉付けができはじめたぞ。初雪の効用のおこぼれだな。

 窓の外は、雪が斜めに降りしきっている。風が出て来たのだろうか。
 午後4時。また、ひょいと気がついた。近くの図書館で借りていた葉室麟の『日本人の肖像』の返却日が過ぎていないか、ということだった。案の定、23日が返却日。早速、図書館に電話を入れてみた。祭日の翌日だから休館している恐れがなくもない。が、大丈夫、やっていますという返事。

 薄く雪化粧をしたマンション玄関からの階段を、傘をさして下りていく。雪の降りかたは弱くなっていて、足元も雪で滑るほどではない。マンションを出る時、ちらりと駐車場を見る。わがプログレのルーフは白雪を冠っていた。あとで雪下ろしをしてやらなくては。



 1日遅れの返却を咎められることもなく、さらに新しく1冊の本を借り出した。同じ葉室麟の小説『鬼神の如く(黒田叛臣伝)』である。秀吉の軍師・黒田官兵衛の跡を継いだ長政の嗣子・忠之と、その陪臣・栗山大膳との葛藤を描いた「お家騒動」もので、かねてから一読を狙っていたものだが、なかなか借り出す機会に恵まれなかった。これも「チョンヌン」の効用か。「OH、ラッキー!」と相成った。

 早く読んでみたい。ついつい、心を急がせて、雪上がりのいま来たばかりの道を、速足で取って返した。

「ただいま!」といった途端に、何か変だと気づいた。そうだ、図書館の傘立てに、傘を置いてきたままだよ、と。いけない、あの傘はとても大事な想い出のこもったものの一つであった。

 再び、急ぎ足で2度目の、図書館への道を急ぐ。「アリマツの花見傘」と名付けている、今はなき旧友の遺品は、大人しく傘立ての端っこでわたしが迎えに来るのを、待っていてくれた。

 雪は完全に上がってしまっているが、昏(く)れはじめた空へ向かってパッと開いてやった。地色が淡いベージュの布地。グリーンのストライプが3本ずつ粗い束になって、縦横に交差している。そしてもう1本、薔薇色の線が走っていた。どこかで出逢ったことのある織物の世界! 雪に塗れた地色が鈍い光りに透かされて、沖縄特産の芭蕉布を連想させたのだった。

 グリップの感触が妙に温かい。クルリと湾曲しているあたりが偏平になっていて、男性用香水で有名なブランド名の「ARAMIS」と焼印が捺されている。






 図書館に続く銀杏並木の下へ一歩、踏み出した。わが左手は、いまは亡き友の指と連帯しているみたいだった。なんという心地よさ。アラミスの傘、か。ふと気づいた。アラミスのスペルにTUを加え、ちょいと順列を崩してやれば、「ARIMATSU」となってくれるじゃないか。TUって、フランス語で親しい意味をこめた「きみ」だったな。
「おい、有松よ。そうだろ?」
 にわかに、風が騒いだ。樹々がざわつき、ヒラヒラと黄色の葉が舞い落ち、傘が揺れた。
「おっ! 有松が返事している!」



  このすでに20年も昔に鬼籍の人となってしまった旧友・有松正豊は中学時代からの仲。北九州で歯科医を営んでいたが、台湾へ旅立つ飛行機のなかで変調し、異国で逝ってしまった。

 きみ逝くと 電話の奥で 妻のふるえ声     
 信じてなるかと こころ踏んばれど
 ふき出る涙 とめどなし
 きみよ いま一度 逢いたし
 いま一度 きみが笑顔に 染まりたし
 きみが笑顔は われらが宝物なりしを

 有松の死を確認した日、詩のようなものを記ためてしまった。そうでもしなければ、心が鎮められなかった。もちろん、彼との別れの式に北九州まで向かい、列席させていただいた。

 有松家を辞して斎場へ向かおうと外へ出た。雨足が強まっていた。
「どうぞ、これを使って。有松が使っていたものよ」
 差し出された傘にこめられた夫人の想いが、切なかった。
「うん、遠慮なく。東京まで持って帰りますね」

 それ以来、ずっとこの傘だけは、わたしと一緒に暮らしている。

 この旧友については、いまや幻となった西日本サーキット(美祢サーキット)を舞台にした「《お邪魔虫》故郷に錦を飾る!」と題した長いレポートの後半で紹介してある。よろしかったら、ぜひお立ち寄りいただければ、この辺のニュアンスがもっと深くお伝えできるので、是非どうぞ。





 賑やかな、子供達の歓声がきこえる。台地の斜面を利用して出来上がっている公園が、にわかに白いゲレンデと化していた。その楽しそうな光景を、おそらく「ムクゲ」とおぼしき、アオイ科のピンクの花が、見守っていた。(追記:後日、皇帝ダリアとその名が判明)

 11月24日。この初雪の日に、もうひとつ大事な探しものが手元に帰って来るのだが、それは別の機会に譲り、これにて「FIN」としよう。
Posted at 2016/11/25 21:24:13 | コメント(2) | トラックバック(0) | 局長の仕事 | 日記
2016年10月28日 イイね!

司馬遼太郎さんの描いた「局長・近藤勇」像

司馬遼太郎さんの描いた「局長・近藤勇」像~「局長の仕事」流山異聞②~

 流山で得た収穫は、いろいろとある。中でも、新撰組局長という男について、もう一歩踏み込んで「逢ってみたい」という気になったのが、いい。

 まず、手元にある「玉手箱」を久しぶりに書棚から取り出した。
『司馬遼太郎 短篇総集』は総ページ1076。函入りで厚さは8センチ。53本の短篇作品が収められていて、当時(1971年・S46)で定価2800円。今ではほとんど入手不可能な貴重本。



 

 司馬さんといえば「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「翔ぶが如く」などで、「時代の群像を含む人間の成長を追い、歴史の推移を捉える長編ものの名手で知られているが、同時に珠玉といわれる短篇の書き手でもある」(尾崎秀樹・文芸評論家)。

 その短篇は、概ね初期に書かれたものが多く、それがやがて司馬さんの中で発酵し、途轍もなく新しい魅力をたたえた「交響曲」に成長するわけだが、作品の原点を理解する上で、この『短篇総集』は大事なネタにもなってくれる。



 ところが、である。長編で『新選組血風録』『北斗の人』という新選組を題材とした傑作がありながら、この短篇の中に「近藤勇」だけを描いたものはなく、「芹沢鴨の暗殺」「虎徹」あたりで、その姿・形が少々、読み取れる程度。どうやら司馬さんは土方歳三や沖田総司には心を通わせていながら、彼らがリーダーとして担いでいた近藤勇という存在が、相当にお嫌いらしかった。ちなみに司馬さんは神戸で育った。関東人の無骨な土の匂いが性に合わないらしかった。

 そこでもう一つ、別の作品集からアプローチしてみた。
 こちらは2007年(H19)に刊行されている『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅(かいこう)』(中央公論社刊)というエッセイ集で、ズバリ、近藤勇を直線的に取り上げたものを発見した。『葛飾(かつしか)の野』というタイトルがつけられていた。




 少し紹介してみようか。こう書き出す。

「江戸のころは葛飾から百姓が季節のものを売りにきた。百万とか二百万とかいわれた、江戸のぼう大な人口を養っていた農業地帯のひとつである。
 葛飾というのは、万葉集に出てくる可豆思加のことであろう。南は東京湾に発し、北は茨城県(下総=しもうさ)、群馬県(上野=こうずけ)の境に接するというほどにひろい野で、江戸の詩人菅茶山(かんさざん)も、
〈荒原百里、みどり縦横たり〉
 と、この景をうたっている。新選組の領袖(りょうしゅう)、近藤勇(いさみ)が最後に身を託した場所は、この葛飾の流山(ながれやま)であった」

 そして、近藤勇たちが京都から江戸に逃げ戻ってからの様子を、簡潔に記している。彼はあくまでも主戦論を唱え、恭順派の徳川慶喜や勝海舟の対官軍外交の邪魔になった。勝はこの近藤に五千両の軍備と兵器を与えた。
「甲州(山梨県)を鎮めればどうか」
 甲州一国は旧幕領で、まわりの地方と合わせて百万石。それを自由にしろと勝は暗に勧めたのだ。追い出し策だったが、その政略に、近藤は乗った。

 司馬さんは考察している。このひとは上昇気流に乗っているときは、京都での活躍のように無類の能力を発揮するが、ひとたび気流から外れると、ただの平凡になってしまう型のひとだったかもしれず、その証拠に、江戸から甲州街道を西へ甲州に向かうときの彼の行装は、大名行列そのままであった、と苦々しく描いている。長棒のついた塗り駕籠に乗り、沿道の村々で酒宴を催しながら進んだ。甲州街道ぞいの武州の村々は彼の故郷だけに、いわば故郷に錦を飾ったつもりであったろうが、官軍はすでに京を出発して東進しつつある現実を、どれほど認識していたのだろうか、やはり二流の人物にすぎなかったようだ、と冷やかに斬って捨てている。

「近藤は浮かれ散らして甲州に入ったが、すでに一足違いで、甲州は土佐の板垣退助を司令官とする官軍に占領されていた。勝沼で一戦し、配下の新募兵は灰を吹き散らすように四散し、近藤もふたたび東へ逃げた。
 流山を再挙の地とした。
 ここも旧幕領で、江戸中期からミリンの生産地として知られ、このため町にはその醸造と貯蔵のための大きな倉庫も多い。そのうちの一軒を兵営とした」



 ここまで読んで、慌ててわたしは『葛飾の野』の出典を確かめた。(「高知新聞」一九六八年六月十三日朝刊ほか、三友社配信)と明記してあるじゃないか。それで得心がいった。この一文は「高知新聞」をはじめとする地方紙連合に連載されたものとわかる。それも、一九六八年、つまり昭和43年のことだ。
 それならば、司馬さんは執筆する段階で、この近藤勇の敗走に関する「史料発見」のニュースを、当然、ご存じないわけだ。

 流山市立博物館の生涯学習部による「新選組と流山」レポートによると……。
「慶応4年(1868年)4月2日大久保大和と名乗る近藤勇を隊長とした幕府公認の治安隊(実態は新選組の生き残り)が流山に駐留してきた。

 この流山駐留について、従来の研究では、会津入りを果たすための中継地として、約2週間の駐留が行われたものと考えられてきた。しかし、昭和50年(1975)に足立区西綾瀬(当時の五兵衛新田)の金子家から慶応4年3月から4月にかけての動向を示す貴重なる文書が発見され、歴史の空白を埋めることになった。
 金子家資料によれば、慶応4年3月6日に甲州勝沼で板垣退助の率いる官軍に敗れた甲陽鎮撫隊150名は江戸に敗走。13日夜には浅草から五兵衛新田の金子家へ入った。この夜、大久保大和を先頭に48名、2日後には約50名の第2陣が内藤隼人(土方歳三)に率いられて金子家に入った。





 これ以降、4月1日まで隊士の徴募をおこなったあと、4月2日未明から午前中にかけ、総勢200余名が流山への移動したのである。流山での駐留は、本体が酒造家長岡家へ、分隊は光明院、流山寺などに宿をとったと見られている」

 結局、この金子家史料発見後は、地元・流山を中心とした近藤勇捕縛の顛末を記した石碑や史資料の記述は、「流山駐留」をわずか三日足らずで、四月三日の夕刻には縛についた、と現在は書き換えられていたのだ。

 そのため、『近藤勇陣屋跡』や『新選組流山本陣跡』の記述を読んだ時には「うん?」と温度差を感じたものだが、その訳がわかった。

 新選組に関しては、子母澤寛さんの聞き取り集「新選組始末記」を下敷きにして小説や映画、TVドラマが生まれている。司馬さんにしてからが、子母沢さんに敬意を表して話を聴きに訪問しているくらいだ。だから、流山の近藤勇についてはそれまでの「通説」の域を出なかったわけか。



 もう少し、司馬さんの『葛飾の野』を続けよう。

〈(醸造元の一軒を兵営として)近郷の百姓の子弟を徴募して銃器を渡しているうちに、官軍の一部隊に包囲された。この段階になって、
「恭順する」
 と、にわかに言いだした。かれの副将であり幼な友達でもある土方歳三(ひじかたとしぞう)は大いに反対し、その無駄を説いたが近藤が聞かず、ここで土方は東北で戦闘を継続すべく近藤と別れた〉

 近藤はこのまま敗北を覚悟しての戦闘を続けるか自害するか、いずれかの道しかないはずであったが、恭順という名での降伏を選んだ。
 しかし、板橋で斬られた。官軍の指揮官は土佐人であった。
 土佐軍には、旧陸援隊士が多くまじっていて、自分たちの領袖の中岡慎太郎と海援隊領収の坂本龍馬を殺したのは近藤であると、この時期の土佐人は信じていた。
 捕縛後近藤はそれについてきびしく訊問され、「私ではない、あれは見廻組(みまわりぐみ)のやったことである」といったが、彼らはきかず、ついに首をはねられた。

〈その近藤の屯所のあとを、私(司馬さんのこと)が訪ねたのは春もまだ早いころであったが、ミリン蔵にはもう蚊が出ていた。「ミリンのあまい匂いがしますから、蚊が寄ってくるのです」とその持ち主の家の人が説明してくれた。
 町には小高い丘があり、旧幕府の代官所跡がある。丘からの葛飾の田圃を一望に収めることができる)

 どうやら、坂本龍馬たちを生んだ「地元紙」を意識した一文であったか、といささかの「未消化感」が残った。

 そこでもう一歩踏み込むと、三好徹さんの『史伝 新選組』(光文社2004年7月刊)が待っていてくれた。三好さんには沖田総司をテーマにした『六月は真紅の薔薇』(週刊現代連載)があるが、最近のものは読む機会がなく失礼していた。なにしろ、わたしが「週刊現代」から「日本」という総合月刊誌に移ってから、親しくご一緒に仕事をしている懐かしい直木賞作家(第58回)である。読売新聞社会部のエース記者でもあり、彼の史資料調査力は並外れたものがあり、教わるところが多かった。





*右が三好徹さん。同じ直木賞作家の生島治郎さんと。

 その彼が『史伝 新選組』の中で「流山の近藤勇」を描いているではないか。そして相変わらずの「斬れ味」にうっとりさせられた……。        
                     (この項、続けます)
Posted at 2016/10/28 16:31:31 | コメント(3) | トラックバック(0) | 局長の仕事 | 日記
2016年10月18日 イイね!

『疾れ!逆ハンぐれん隊』再生と『新選組』の終焉

『疾れ!逆ハンぐれん隊』再生と『新選組』の終焉 〜「局長の仕事」流山異聞〜 

 五木寛之さんが23年ぶりに『青春の門』を再開するというニュースに慌てて、お預かりしたままの長編活劇ロマン『疾れ! 逆ハンぐれん隊』全15話の電子書籍版を完結編まで仕上げるべく、江戸川河畔の旧い街、流山までやってきた。

 ConTenDoという専用ビューアとe-book専門モールをもつi-press Japan社の3Fに通された。すでに大型のスクリーンには、こちらが意図している『疾れ! 逆ハンぐれん隊』の各編の内容に呼応する『五木作品に登場するクルマたちよ!』をどう見せるか、その試作見本が映し出されていた。







「これですよ。実はある時期のベストモータリングには“リトルマガジン”という小冊子をパッケージングして、本編撮影の舞台裏、キャスターの試乗記、登場車のテストデータとか、ベスモは2度美味しい、と言われる時代をつくり上げましたが、この電子書籍版はそれを狙っています」

 ついつい、声が上ずってしまう。時間をかけて準備しておきながら眠らせていたものに、これならやっと陽の目を見させてあげられそうだ。

 詳しいことは、完成する頃に明らかにするとして、30話まで、すでに創り上げている“リトルマガジン”部分は、そっくり割りふって使えそうだ。

 ガンさん、中谷明彦君の「動画付きスペシャル版」に続いて、Polaris(ぽらりす)eBooksの『クルマ仲間・名作ガレージ』に新しく、まさに北極星のような巨きな星を、輝かせることができそうな予感……。






*この「疾れ!逆ハンぐれん隊」コーナーはここからどうぞ入れます。

 常務の味戸さんも力強く言い切る。
「お預かりしている“疾れ……”は全10話までを、ConTenDoで小説をそのまま素(す)で読めるようにしていますが、そこへプレミア版として、リトルマガジンみたいに、あなたが書き上げている“五木寛之Carワールド”の4回ずつを一つにして各編に合体させる……すぐにやりましょう。12月にはスタートさせたいですね。プレミア部分の補充をそれまでにお願いします」

 すでに、前回の「みんカラ」BLOGでB7、テスタロッサ、メルセデス300sel 6.3がらみの項は紹介済み。そのほか、こんなのを用意しているんだよ、とちょっぴり画像を抽出してみた。こんな具合に……。

● ひとりだけの箱根試乗会への招待


● 迷走! ヨーロッパ3000キロ




● 義経渡海伝説を追って、龍飛崎に立つ


趣向だけは、大胆に凝らしているつもりだ。

1時間があっという間に経った。
「そろそろ、行きますか? 同じ局長の誼(よしみ)で」
「そうしましょう。局長が捕縛された陣屋跡へ」
 味戸さんが気を利かせてくれた。味戸さんのご先祖は、なんと幕末の京都守護職として新撰組をバックアップした会津藩の藩士であった、と聞く。
 詳しく知っているわけではないが、甲府で官軍に敗れた局長・近藤勇は、名を大久保大和と変え、会津を頼って敗走する途中、この流山に立ち寄り、ついに捕らわれた、とか。これも因縁のなせる業だろうか。

 事前にi-press Japan社から、近藤勇の率いた新撰組が本陣を構えたという醸造元「長岡屋」の跡地まで、江戸川に向かって大きな通りを二つほど跨げばいい、ということは把握しておいた。

 心を弾ませて、プログレで流山の街を横切った。流山線というローカル線が行先を遮った。行き止まりだ。さて、ここからどう行こうか? 
「市役所で訊きましょう。すぐそこです」と、味戸さんのアドバイス。

 確かにそれが正解だった。少し高台にある市役所はたっぷりな緑に囲まれていて、ロータリー広場の真ん中に据えられた二人の若い女性の裸身ブロンズ像が、訪問者の心を柔らかく包んでくれる。素敵なもてなしではないか。『姉妹』とタイトルされていた。



 味戸さんが素早くプログレから降りて、市役所の中へ。その間、こちらは『姉妹』の裸身をしっかり鑑賞できた。どこかに見覚えがあつた。作者はあの「東洋のロダン」と呼ばれた彫塑の巨匠、朝倉文夫氏で、流山では『平和の像』として導入したものらしい。納得。

 味戸さんが戻ってきた。手にはプリントアウトしてもらった「近藤勇陣屋跡案内図」と小冊子の「流山本町 江戸回廊」と「ことりっぷ 流山さんぽ」。ありがたく頂戴して、改めて目的地を目指した。

 今度は迷いなく、市役所を出てすぐの角を左折して流山・松戸県道に入る。情趣のある老舗風の商家が続く。かつては賑わった街道に違いない。このあたりが、夜になると切り絵行灯が町並みを彩るのだろうか? 
 
 二つ目の角を右折する。と、それらしき蔵造りの白壁の建物が見えた。やっと「陣屋跡」に着くことができた。白地に青い文字で「誠」と染められた旗が、手招きしている……。



 断っておくが、近藤勇や新撰組について詳しいわけではない。はっきり言って、小説に登場する殺人集団・新撰組には嫌悪感を抱いていた時代もある。尊皇攘夷という大義を抱いて京に上りながら、いつしか江戸幕府の走狗となって働く集団の首領、近藤勇に興味は持てなかった。むしろ彼を支えてきた土方歳三や沖田総司の方に「個性の輝き」を感じとっていた。

 それが、この「みんカラ」ブログの「プロフィール」に紹介しているように、クルマを理解する近道はサーキットランにあり、と45歳にしてA級ライセンスを取得、「富士フレッシュマン・レース」などに参戦。そのせいで、サーキットでそれなりの「顔役」となる。星野一義をはじめとするレーシングドライバーやレース仲間、クルマメディア関係者だけではなく、いわゆる「読者」までも、わたしのことをいまだに新撰組の近藤勇ばりに「局長」と気軽に声をかけてくれる。「ベストカー」の編集局長に由来する、と。
 そうやって、気軽に「局長」と呼んでもらっているうちに、気分だけは「親戚」になってしまった。
 だから、この陣屋跡に吸い寄せられるように足を運んだわけだが、ここに展示されている『流山観光協会』の解説がひどく素直で、平衡感覚があり、わかり易かったので、そのままそっくり紹介しよう。その「緊張の逮捕シーン」など、知られていないことを参考までに。



「新選組(正岡註:ここでは”新撰組”の表記ではない)の誕生から江戸帰還まで
 文久3年(1863)2月、多摩出身の天然理心流宗家・近藤勇は。門人の土方歳三らと上洛し、3月に同志と「京都守護職松平肥後守御預浪士組」を結成、浅葱色の羽織を着て市中見廻(治安維持)を任務とした。8月に「新選組」を拝命、9月には筆頭局長の芹澤鴨らを粛清し、近藤局長・土方副長の体制となった。翌年6月の「池田屋事件」では長州の京都放火・天皇拉致計画を未然に防いで名声を馳せた。
 慶応3年(1867)6月、黒羽織・黒袴で活動した主要隊士は、幕府直参の武士の身分となったが、「大政奉還」や「王政復古の大号令」を経て、官賊の立場は逆転した。
 慶応4年1月の鳥羽伏見戦争で、旧幕府軍(会津・桑名・新選組など)は薩長軍に敗走して江戸へ戻った。近藤は甲陽鎮撫隊を組織して、3月1日に甲府入城を目指し出立したが、甲府柏尾坂で新政府軍の攻撃を受けて敗走。

流山での新選組とその後
 3月中旬に永倉新八や原田左之助らが脱退し、六十余名となった新選組は、五兵衛新田(足立区西綾瀬)の金子邸に屯集、歩兵などを取り込み下総鎮撫隊を組織して、4月1日夜に二百数十名が流山に転陣した。
「丹後の渡し」から流山に入った下総鎮撫隊は、醸造家の永岡三郎兵衛方を本陣とし、光明院などに分宿した。情報を得た新政府軍が3日に「羽口の渡し」から急襲し銃撃を交えたが、本陣は包囲された。大久保大和(近藤勇の改名)は切腹を決意したが、内藤隼人(土方歳三の改名)は近藤の改名が知られていないことを利用し、徳川家の鎮撫隊を主張し説破するよう勧めた。
 大久保は出頭して「谷河原の渡し」から流山を去り、事情説明のため越谷宿(埼玉県越谷市)に赴いたが、新政府軍により板橋宿へ連行され、大久保が近藤勇であると露見し捕らえられた。
 土方は江戸で勝海舟らに救出工作を試みるが、近藤は4月25日に板橋宿で処刑、梟首された。残された新選組本隊は流山を脱出し、会津を経て箱館戦争で降伏、土方も戦死した。



 目を石碑に移す。刻まれた「近藤勇」の最期については、こう伝える。

「一説に、近藤は、兵災の町民に及ぶことを憂い、みずから敵手に身をゆだねて、決戦を避けたという」


 そうか、あの局長の最期の地はここではなく、東京の板橋宿だったのか。そこに近藤勇の墓がある、という記憶が、蘇ってきた。よし、早速、東京・板橋へ行ってみよう。

 10月12日の午後、時間の都合がついて、板橋に行くことにした。場所は池袋から埼京線で一駅、「板橋駅」から1分だという。電車で行こうか、それともプログレにしようか。迷った。
 結局、プログレにした。その日の午後3時、首都・東京は突然の大停電に見舞われ、大混乱に陥った……。まさか、局長の祟りか! (以下、次回更新へ)
Posted at 2016/10/18 22:28:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | 局長の仕事 | 日記
2016年10月11日 イイね!

『あの局長、囚われの地』流山へ

『あの局長、囚われの地』流山へ〜五木寛之さんと新撰組・近藤勇がコラボする世界〜



 初めて流山(ながれやま)という江戸川沿いの古い街に足を運んだ。そこは、東京・埼玉の県境と肩を寄せ合う千葉県北西部の低地地帯だった。


 ここまでの書き出しで、すでに「140日記」として、わたしが盛んに愛用している『何シテル?』欄の「10月7日午前8時30分の項 これより東京外環をひとっ走りして、常磐道へ。と言っても行き先は筑波サーキットではない。三郷JCTから一つ目の流山へ参る。」の拡大版、そう見抜いている「みんカラ」仲間も、結構いらっしゃるに違いない。

 その通りだ。大泉が西側の起点となっている東京外環道から20分ほどを走ったところで三郷JCTに。そして常磐自動車道に合流して料金所を抜けると、直ぐに江戸川を渡る。関東平野の広がりが丸見えだ。その最初のICが野田・流山である。そこからはプログレのカーナビに素直に導かれて、黄金色に輝く稲田の間を縫って、流山市内の目的地へ向かった。10分足らずで、利根運河沿いに情趣のある家並みが道筋に続き始めた。右手に川筋の高い土手が見える。



「幕末のこの地方は水陸交通の要衝で、醸造業の地として知られ、各種問屋、船宿、旅籠等が軒を連ね、その繁栄は近隣に比べるものがなく……」と、地元の石碑にも記されているほどだが、それを味わう前に訪問先のビルの前に着いてしまった。約束の時間は午前10時。その10分前到着は計算通りだった。

「知っている人は知っている。あの新撰組・近藤勇局長が敗走して、捕まったことで知られる町。電子書籍の打ち合わせだが、その《局長、最期の陣屋跡》にはぜひ立ち寄りたい」

 と「140字日記」で予告しているように、「電子書籍」の打ち合わせ先、アイプレスジャパン社との重要、かつ緊急の用件が待っていた。

 ことのきっかけは10月1日付けの「朝日新聞」朝刊にあった。五木寛之さんが週刊現代で断続的に連載していた大河小説『青春の門』の続編を、23年ぶりに、来年1月から再開するというのだ。




 五木さんとはお互いに30歳台になったばかりで、「青春の門」連載が始まる前からのお付き合いである。そして、その連載中もずっと、様々なステージで交流を重ねてきた。この作品は昭和10(1935)年に福岡・筑豊の炭鉱町に生まれた伊吹信介を主人公に、高度成長一途だった時代の熱気に躍った青春群像を描いたものだった。単行本と文庫で延べ2000万部を越すベストセラーである。
 ついでにいえば、その時代設定はわたし自身が、筑豊と隣りあった製鉄の町・八幡で同じ年に生まれ、やがて早稲田大学文学部露西亞文学科を志ざし上京する……つまり同時代の伴走者である、ということだ。 





 さて、その朝日の記事によれば、五木さんはその執筆再開の心境をこう述べている。
「読者に会うと、必ず続きはどうなるんだ、と聞かれる。ずっと借金のように心に残っていた。読者の要望や編集者側の事情、自分の体力など状況が重なって機が熟した。この得難い機会を逃したくなかった」

 このところ、ご本人とお目にかかる機会がないが、グサリと心に刺さるものがあった。こちらこそ、五木さんと約束していながら、やり遂げないまま、前進できないでいるプロジェクトを抱えたまま、3年近く、もたついている。それを五木さんから、「あの約束はどうなっているのか?」と叱られたような想いが湧き上がった。

 その悔恨の正体はこれ! 1985年(S.60)7月から『ベストカー』が月2回化にステップ・アップするのを記念して連載がはじまったあの痛快CARロマン『疾れ!逆ハンぐれん隊』全15話を、電子書籍化するプロジェクト。それにプラスして、1話ごとの各パートに登場するクルマたちを素材にして、その当時のエピソードを記録しておこう、という、相当に手のかかる試みであった。

 その辺の詳細はすでに折に触れ「みんカラ」で紹介済みなので、以下のタイトルにクリックすれば、改めてお読みいただける。断るまでもないが、これはごく一部をピックアップしたものだ。

●五木寛之作品に登場するクルマたちよ!

●ついに登場 メルセデス300SEL 6.3

●電子書籍版『疾れ! 逆ハンぐれん隊』に賭ける「風の仲間」の夢

●「夢」の正体 ~『疾れ! 逆ハンぐれん隊 Part・6』までの全リスト~


 ともかく、五木さんを中心に今はなき徳大寺さん、それにガンさんが一緒になって築き上げた『風の仲間ワールド』を、北畠主税、サイトウサダチカ両君の素敵なフォトシーンを添えながら、再構築してみよう……

 これらは、ある時期、完成、公開寸前までこぎつけていたのだが、何しろ当時としてはファイルが大きすぎて、予定していたプラットフォームでe-bookとして公開するまでには至らないまま、わたしの手元で今もなお、眠っている。

 朝日の記事はこう締めくくった。信介にどんな運命が待っているのか。
「外国人部隊に入り、アフリカ、アジアの植民地の独立戦争に参加する。現地で、故郷を奪われ、根無し草になった人たちとで合わせていきたい」

 来年の連載再開が待ち遠しくてならない。その上、書籍化されていなかった『風雲編』はこの12月に刊行される。

 時、来たれり、ではないか。五木さんとの約束を果たすのは『青春の門』で五木ロマンを堪能していただく一方で、五木さんのもう一つのスペシャルな「世界」を、今こそ、仕上げようではないか。

 幸い、2015年度の中谷明彦『動画付き特別版・ポルシェ911ドライビングバイブル』と、黒澤元治『動画付き特別版 新・ドライビングメカニズム』を、電子書籍ストアであるコンテン堂モール内に立ち上げてくれた「アイプレスジャパン」なら、こちらの無理な注文でも応じてもらえそう。



 早速、味戸常務と連絡をとって、こちらから伺うことを伝えた。
「え!? こちらに見えるのですか? 本社は千葉の流山ですよ」
「流山だから、伺いたい。例の新撰組局長が敗走のはて、流山で囚われたんですよね。その陣屋跡にも行ってみたい。同じ局長の誼(よしみ)で……」
「あはは。了解しました。わたしも近くにいながら、一度も行っていません。ぜひお供させてください」

 交渉成立。かくして到着した流山。セキュリティの厳しいチェックを受けて3階へ。『プレミアム版 疾れ……』の煮詰めが始まった。「局長」に会いにいくのは、それからであった。     (以下、次回更新へ)





*これが「プレミアム版」の試作パターン。縦書きで読んでほしい。



Posted at 2016/10/11 01:07:57 | コメント(3) | トラックバック(0) | 局長の仕事 | 日記
2015年08月17日 イイね!

『PVページ』8月12日の大異変

『PVページ』8月12日の大異変〜このごろの「開店休業」ぶりへのお叱りか!?〜



【左の写真:箱根・芦ノ湖スカイラインにて。霧のむこうに目を凝らす。何が見えたのか】


 さて、そろそろ「お盆休暇」も終わりにしようか。で、その前の準備運動として、140字日記の宝庫『何シテル?』から1ヶ月前の部分を切り取ってみた。そして自らの怠惰ぶりを、まず叱る。なんだ、情けなや。『みんカラBLOG』の記述はその時の動きで止まったままではないか。

7/09 14:53
エグイ面構え。すっかり馴染まされてしまったTOYOTAデザイン。このごろは、これでなくっちゃ物足りなくなった。今週末を一緒に暮らすことになったこのSUV。ハイブリッド。その名もLEXUS NX300h。国産グループの代表として選んだ。明日はガンさんの待つ御殿場までひとっ走りだ!

7/10 10:10
やっと晴れ間の到来。これから御殿場へ。まずAudiのQ3&A1の試乗会に。輸入車のSUV攻勢の牽引役であるQ3の本陣へ、国産勢のホープLEXUSのNX300hで乗り付ける。ちょっとした現役気分。A1もダウンサイジングされた1ℓ3気筒ターボエンジンに注目。終了後、ガンさんを訪問。

7/10 23:27
乙女峠を右折して懐かしいワインディングを楽しみながら長尾峠へ。ターンが忙しいがAudiQ3 2.0TFSI quattro(180 PS)はしなやかに追従してくれる。次は箱根スカイラインだ。霧が流れている。ここは20年ぶりかな。パドルシフトでパンパーンと。俺、うまくなったのかな。



7/14 09:09
いつものように週末を一緒に暮らした《相棒》LEXUS NXを洗車・給油して、百日紅の脇でお別れの記念撮影。次に芝浦運河脇の返却先へ。快適な市街地クルージングはそこまで。炎熱下を喘ぎながら地下鉄三田駅へ向かう。途中のスタンド自販機で買った【午後の紅茶】のなんという旨さ。生きているぞ。

 そうだった。喘ぎ喘ぎの炎暑のもと、8月に入っても、911GT3を中心に据えた、2度目の『PORSCHE特集』用の企画準備や広報車借り出しの手続き、そして撮影やらで、もうひとつ、PCのキーボードに向かう気力が湧いてこなかった。ひょっとしたら体力の衰えかな。ま、そんな時は、焦らずに、潮の満ちてくるのを待つ……そういえば、今朝(8月17日)の「マイページ」管理欄のうち、見落としていた5日前分の「PVページ」(このページの有効期間は1週間程度と断ってあるので、デイリー・データで詳細が確認できるかどうかのスレスレであった)を開いて目を剥いた。



なんと「4948」というアンビリーバブルな数字がカウントされている。新しいページを書き上げた日でもせいぜい2000、何事も変化のない日なら1000をカウントされるのがやっとのこのごろ。いったいなにが起こったのだろう? 気になる。

 ともかく、「デイリーPVレポート」を開いてみる。

アクセス数のトップは、 
 ① 73 ガンさん「新ドラメカ動画付版」配信を緊急告知した朝
なんだ、ごく普通のなりゆきではないか。
 ② 32 『思い出BLOG』の宝石② 中谷明彦君のこと
ほう、この辺が、いつもと趣が違う。これって、中谷君がわたしとの関わりを珍しく丁寧に触れ、なぜ彼がベストモータリングという映像メディアを大事にしてきたか、「将来レースを引退したら貴方が編集長をやればいいんだよ」とわたしに言われていたなどという裏話を披露しているのを取り上げたものだった。このところ「電子書籍+動画」の第1号として「911ドライビングバイブル」を紹介することが多かったせいだろうか。

 ③ 31 汚された英雄・ガンさん ~元祖「不死鳥伝説」Partⅲ~
なるほど。このテーマはBLOGをアップしてから間が空くと、決まっていつもトップに収まっている。ちなみに開設以来のトータルアクセス数ではダントツの25,108。これは、いろいろと参考になる、すごい数字だ。





 そのトータルアクセスの結果を拾ってみると、2番目には11,888で「標的にされた《速すぎる男》〜それからのドス黒いドラマ②〜」となっていて、その次に11,791で「ドグミッションって何だい!?」、11,270の「風に消された23歳・高橋徹の光と影」とレースアクシデントに関わる人間ドキュメントへの関心の高さがうかがえる。

 その意味では、8,940のアクセスをもつ「紳士の顔をしたモンスター300SEL.6・3」が8位の割り込んでいるのは特筆ものだろう。

 視線を「8月12日」の大異変に戻すと、4948ものアクセスがあったというのに、どこといって突出したところは見当たらない。なぜだろう?

 あっと気づいたことがある。「デイリーPVレポート」の前月分、つまり「2015年07月分」を開いてみる。それまで、今年に入ってから不思議と月に1回、どの週かの木曜日に、ドカッとアクセス数が異常に膨らむ日があった。
 このカテゴリーのデータ保存は3ヶ月だから、5月までしか遡れないが、5月27日の水曜日に「2813」の来訪客がある。が、確認してみると、新しくBLOGを更新した日でもなく、その3日後に《「私鉄沿線」の小さな駅に降り立った朝》をあげた5月30日は「1602」をカウントしているのだから、いわゆる何もない日なのに不思議な兆候が始まった、といっていいだろう。

 次は6月、である。この月も1回だけ噴き上げていた。6月11日、木曜日。カウント数、2846。5月とよく似た数字で、特別に吸引力の有る日とも思えない。それカレンダーを1枚めくった7月、特に木曜日になるたびに毎週「噴火」しているのだ。



 そして、この8月、エネルルギーがさらに圧縮されて、8月12日の水曜日に大きく噴き上げたのである。どうやら、わたしのあずかり知らぬところで、なんらかのグループが、この「ベストモータリングを創った男のブログ」をテキストにして、「読書会」のようなものを定期的に催しているのだろうか。

 もし、そうならば、ぜひお声をかけていただきたい。喜んで参加させていただくものを……。

「8月12日」をもう少し、冷静に、詳(つぶ)さに検証してみた。2011年6月15日の『ファーストラン』にスタートして、295回目のブログアップが今月4日の『ガンさんドラメカ動画付き版配信を…』であるが、その全ての回に万遍なくアクセスがあり、その合計が4948という数字。

 悩ましい。どなたか、心当たりのある方にはぜひ「メッセージ」をいただけないだろうか。
 そういえば、そのメッセージ欄に、この7月の上旬、京都在住のベスモ同窓会メンバーから、わたしの書きかけのテーマ『環八水滸伝』にぜひ登場させたいと予告していた「オートロマン」三上祥一社長(故人)が自費出版した『道』を入手したけれど……という想いもかけない吉報を頂戴した。







 それが先日、函入りの特装本が手元に届けられた。ある時代を激しく生き抜いた「カーガイ」のゾクゾクとするような熱い想い。創作意欲が噴き上げてくる。そうだ、凍結したままの『環八…』を解凍していく手がかりをプレゼントされたのだ。

『局長の仕事』と題して、これまでのブログを本にする企画も、中途半端のままだった。そうだ、飯嶋洋治さんとも、ご無沙汰している。早速連絡を取ってみよう。そして引き続き書き込むつもりだった《SUVと紫陽花の関係》もあげなくっちゃ。元気が戻りつつあることのこの報告……それをわたしの身勝手な「残暑、お伺い」とさせていただこう。
Posted at 2015/08/17 21:12:25 | コメント(3) | トラックバック(0) | 局長の仕事 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「3連休中日、富士フレッシュマンレースで青春を燃やした中・老年男の同窓会をFBで速報。今を支えるエネルギー源を確認。そのせいか翌24日のみんカラPVレポート欄の第1位は【還ってきた愛しのEXA】。FBレポート末尾でリンクした8年前のみんカラブログに未読の仲間が訪問してくれたわけか。」
何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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