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正岡貞雄のブログ一覧

2015年01月23日 イイね!

『新・ベスモ疾風録』への招待!!

『新・ベスモ疾風録』への招待!! ~Best MOTORing遺伝子培養の専用サイトを開設!〜
【左のカットは第2回ベスモ同窓会in東京のもの】


 現役だったころは、出勤するとまず、机の上に積まれた「クルマ仲間=読者」からのハガキに、一枚一枚、目を通すことからはじまったものだ。

 それが今では、i Mac PCの「お目覚め音」を聴いてから、「Safari」 を開き、「ブックマーク」ホルダーから「みんカラ」へと渡っていく……。「お気に入り」から「マイページトップ」へ。そして「ブログ」をチェックしてから再び「マイページ」へ。それからは「メッセージ」「コメント管理」「イイね!」「グループ」と順に訪問し、最後は「管理」のコーナーから「PVレポート」で前日の「訪問客」の総数と、詳細にカウントされているコーナーの来客数を、一喜一憂しながら、確認する……。


*社長室です。この頃の「2&4モータリング社」は光文社、キングレコードと同じビルの9Fにあって、フロアーもキャッチボールができるくらいに広かった。

 この国で最強のクルマ総合情報サイト「carview!」の柱である「みんカラ」で「SPECIAL BLOG」執筆陣の一員となって2年半。貴重で、充実した「新しいクルマ仲間」との交遊が始まった。

 現場から退いて『幻のルーツ紀行』や、漫画家の矢口高雄さんと組んで、パリダカ優勝の増岡浩、サッカーのゴン中山、加山雄三、藤あやこといった、当時「輝いていた人」たちを訪ね歩く『釣りキチ三平の対談構成』など、好きなことに熱中しながらも、こころのどこかで、すきま風を感じ取っていた。「空白の10年」と、わたしが勝手に呼んでいる「あれ」である。


*中山サーキット。第3回のときの「朝の風景」。


*こちらは「第2回」のときの「ガンさんサイン会」

 やっと、それを克服できそうだ。この4月6日に岡山・中山サーキットで開催する「ベスモ同窓会」も、そうした日々の中で、「みんカラ」を通して生まれ、育ちつつイベントである。となると、それを舞台にもっと何かやれることはないのか?

 わたしの悪い癖が、また頭を擡(もた)げ始める。「ベスモ同窓会」はメンバーに登録した「みんカラフレンド」に限定されている。その中から、わざわざ岡山の山間部まで足を運んでくれるのだ。それに応えるステージに育てなくっちゃ。
 萩の「カリスマ教官」をはじめ「とにとに」さん、「FRマニア」君、関東組の「MDi」「CMO」「RA2ひら」「2315」「イワタカズマ」「エムシー34」「Ku Ta Desu!」の諸君たちとの交遊をかさねながら、何をすればいいのか、何がもとめられているのか、を模索していた。


*第3回には大井貴之君が駆けつけてくれた。彼からのプレゼントをめぐって「ジャンケンポン」!


*こちらはガンさんが第3回のJAFグランプリ優勝時に着用したレーシングスーツ。ガンさんにサインをねだった上で「オークション」に!

 結局、難しいことをあれこれ思い煩うより、わたしの出来ることをわたしなりに料理して、創り上げ、提供していく。それしかないな、と肚を決めた。すると、具体的な方策が浮かんできた……それが「ぽらりす」開設というアイディアであった。

 これまで、「ベストカー」「ベスモ」で関わってきた作品、業績、願いが眠りかけているなら、それを揺すり起こし、改めて生命の水を注ぎ込もうじゃないか。幸い、「みんカラ」を通して、インタネット通信、PCもソコソコに操作できるようになっている。難しいときにはサポートに駆けつけてくれる「クルマ仲間」もできた。で、新しいステージ創設に踏み出したわけである。

 かつての『風の仲間』にも協力を願った。彼らの著書・作品の電子書籍化。中谷明彦君との、かねてからの約束だった『ドライビング・バイブル』のe-Book化もでき上がった。この作品に彼の「語り」と「動画」をコラボする発想も、いま現実化しようとしている。それはさらに『中谷塾』に発展していくはずである……。

 ともかく、頑張ってみよう。「ぽらりす」のホームページを、Webデザイナー、「燦」の原茂雄さんの好意に甘えて、創設できた。


*ここをクリック! つづけて「新・べスモ疾風録」のコーナーの下段にある「第1回 創刊号とその前夜」をクリックすると……

 

 そのオープンの目玉として『ベスモ疾風録』(全20回)を、今の視点を加えて、蘇らせようと思う。かつて『ベストモータリング』が20周年記念を迎えるにあたって、その軌跡をわたしの文章と該当するシーンを「ベスモ」のなかから抽出し、ダイジェスト動画を添えた、意欲に満ちた企画だったが、不幸にして、媒体の廃刊のあと、編集制作会社まで消滅したため、宙に浮いた「記録」となっている。なんとももったいない話である。
 
 こうしてでき上がった「ぽらりす」の専用サイト。運営していく「資力」確保のために、やむを得ず、有料「コンテンツ」として設けているが、その中身こそ、確実に、「Best MOTORing」の「遺伝子」を内蔵する「宝物」であることを信じて、お届けしたい。


*「ひとりはうまからず」と彫り込まれたクリスタル。参加メンバーからの贈りもの。大感激!


*「MDi」さんのビートに乗り込むガンさん。なんと車載カメラが回っていた。ちかく、その動画を「ぽらりす」で特別公開予定!



 このあと、「ホーム」欄でご覧いただけるよう、「第3回ベスモ同窓会」の走行イベントで収録した、車載カメラによるガンさんの「Beat」のドライビングや、当日の模様などを文章と「動画」で準備しつつある。ああ、「ベスモ同窓会」って、こんなイベントなんだ、と一発でおわかりいただける仕組みだ。

 新ステージの開設、それが『Best MOTORring』 のDNAを培養し、なにがしかの新しいエネルギーの震源地にならんことを希(ねが)って、われらが「クルマ仲間」へ、メッセージする次第である。

 付記すれば、やっぱり、新しいサイトが出来たのが嬉しくてたまらないのだろう、早速、「リンク・クリック」の最上段に告知しております。ポチンとやってください。そして、お楽しみください。


 
Posted at 2015/01/23 21:38:47 | コメント(4) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
2011年07月18日 イイね!

ドライビング・イズ・アート ~ガンさんの「ドラテク塾」開講への道②~





ベスモが船出してしばらくは、徳大寺有恒、黒沢元治の両大御所には創刊号から欠かさず出演願っていたものの、「ベストカー」との兼ね合いもあって、主軸はあくまでも専属キャスターに抜擢した若手の伏木悦郎と中谷明彦、というスタンスをとっていました。
だから今でも、創刊時の話になると、ガンさんから揶揄されてしまう。「あの頃、年寄りはいらねえって、冷や飯を食わしたのはだれだっけ?」と。

徳大寺有恒、黒沢元治、そしてぼく。昭和10年代前半生まれの3人は、「ベストカー」という自動車雑誌を舞台にして結ばれてきました。そのへんのいきさつはいずれ詳しく触れなければなりませんが、創刊して1年が経過したところで、内容の充実を目指してその3人が、改めて足並みを揃えて走り出したのが「ドラテク特訓合宿」という企画でした。それはこんなシーンから始まっています。(正岡註:以下は「べスモ疾風録・第3話」に詳述してありますが、ドラテクものの真髄にかかわるので、あえて再録します)

「ドライブというものは実に奥の深いもので、難しい。ま、ぼくについていうと、免許をとって35年にもなるのに、いまだにうまくドライブできない」
こう切り出しながら、傘をさした「徳さん」の語り口はなめらかで、ガンさんのことをしゃべるのが、いかにも嬉しくてしようがないらしい。
「今、わたしとガンさんは日本海間瀬サーキット(新潟県)にいます。これからそのガンさんのドライブを教材にして、みなさんに、ドライブとはどういうものかを、お見せしたい。ガンさんのドライブというのは、まるで一流のバレリーナが踊るように、荘厳で、無駄がなく、そして美しい。それはガンさんの長い経験と基礎をきっちり固めたことによる、と思うのですが、もう一つ、大事なことは、ガンさんはいつも考えながらドライブしている。もっとも美しくて、もっとも効率のいいドライブとはどういうものか、を。一つ、これからお見せするものを楽しみにしてください。ガンさん、よろしくお願いします」

 会釈する「徳さん」に、挨拶を返すガンさんの笑顔が、これまた初々しい。そしてタイトルが流れる。「徳大寺有恒からの熱きメッセージ 黒沢元治を目指せ!!」……それは新しい「ドラテク道場」の開設宣言でもあった。

この開設宣言に添えて、第1級のお宝映像が流れます。


*ガンさんのドライブするR382.伝説の最強GCマシン

*左がガンさんの後塵を拝した北野元選手

1969(昭和44)年の第6回日本グランプリ。舞台は富士スピードウェイ。ガンさんの日産R382は予選2位、ポールは同僚の北野元。37年前のFISCOの長いストレート、ヘアピン、そして伝説的な存在である30度バンクを疾駆するガンさんの若き日の勇姿。栄光のチェッカーを受けたのは、もちろんガンさん。このシーンを背景にして、二人の味わい深いやりとりがはじまっていますので、もう少し聴いてみましょうか。

徳さん「どんなことを考えて、ここまで30年間、やってきました?」
ガンさん「どんなことをしてもいいから、より前にクルマを持って行くこと」
徳さん「それだよね、ガンさんが今までやってきたことは。少しでも速く走る」
ガンさん「そうです。それがまた、裏返せば、一番安全にもつながる」
徳さん「普段の練習だよね」
ガンさん「第1に練習ですよ。たとえば小石や舗装の凹みがあったら、それをタイヤのどちら側でヒットするか。きちんと確かめて走ること。それで、サーキットに来たときに縁石をきれいに通るとか、日頃からある程度の訓練、経験を積んでおくことです」
ここで徳さんはガンさんのドライブで、スープラ3.0ターボに乗り込む。
「いま、この間瀬サーキットを相当のハイスピードで走っておりますが、一つのコーナーにこだわったドライブというのを、ガンさんはしない。(中略)ガンさんのステアリング・アクションを見て欲しい。少しもムダがない。最初のアクションで(ステアリングを切った)あとはスロットル・コントロールに任す、と。ぼくの知る限り、ガンさんのようなムダのないステアリング・アクションを使うのはガンさんと星野(一義)だけですね」



こうして聴いてみると、徳さんはガンさんの「最高の応援団長」である。ガンさんのドライビングに触れるのが楽しくてたまらないのだ。最終コーナーでガンさんの走りを外からチェックしたかと思うと、再びガンさんの助手席に座る。
今度はガンさんの方から想いを明かす。
「ご存じのように、今のクルマはどんどん高性能になっている。タイヤもそうです。もしクルマやタイヤに言葉が話せれば、もっとうまく乗ってくれれば、われわれももっと速く、もっと安全に走れる力を持っているのに、と嘆いているように聞こえる。若いドライバーが、少なくとも女のコに、あなた、運転がヘタね、といわれないようにしてほしい」
「うん、スターリング・モスがそれについてうまいことをいっている。現代の男にとって、もっとも屈辱的な言葉は、あなた、運転がヘタね、といわれることと、あなた、メイクラブがヘタね、これだって(笑い)」
「ぼく、その言葉、使わせてもらいます」
「じゃあ、もうひとつ、大事な言葉を贈ろう。ドライビング・イズ・アート。アートは美術でも、芸術でもいいんだけど、ともかく、きちっとスケッチして、基礎から勉強するとまあまあ巧くなれる。ドライビングも同じで、ステップ・ツー・ステップ。一生やれるんだから」
「確かに。奥の深いものがあります」


*特訓前夜、参加した読者代表と懇談するご両所 「ベストモータンリング」1989年5月号より

こうしてガンさんの「特訓合宿」そして「全国行脚・特訓道場」といったマン・ツー・マンに近い一連の「ドラテク」シリーズがスタートします。ポンと背中を押したのが徳さんであったのもお解りでしょう。
それがいま、プロ―モートの母体であるベスモが消えたのです。しかし、思い出のブログを拝見しても、このシリーズの復活を望む声が圧倒的です。はたして、それに応える方策とエネルギーがどこにあるというのでしょう。模索する日々がつづきます。


*左が波田昌之教官
そんなとき、ひと筋の光を見出したのです。以下、「消えたべスモBLOG」の項でそのコメントを紹介した波田教官とぼくとの、それからのメッセージのやりとりから、開講への道筋を固めるべく動き始めた、何かを感じ取っていただきたい。
 
○正岡より 日付 2011/07/13 22:13:23
その後、教習所のほうはいかがでしょうか。当方は、もう2回のシニア講習を受け、思うところあって、リアウィンドウにクローバーマークを装着して街中をはしっています。案外に、いい感じです。走りがよりマイルドになって。
ガンさんのドラテク道場の再開を模索して、2代目編集長の山本亨君とあってきたところです。中谷君も合流したいと言ってくれています。ま、もうちょっと煮詰めないとなりませんが。

●波田より 2011/07/13 23:59:32
ええ!  正岡さんがすでに高齢者講習を受講されているとは・・・・。ガンさんや正岡さんが高齢者講習にこられれば、大概の指導員は自分の無力さを思い知らされるはずです。
でも私は是非担当させてもらいたいと思いますが・・・・。実は私の運転姿勢の取り方は、ガンさんのATドライビングテクニックから引用させて頂いています。
「ハンドルを片手で一杯に切った時に肩甲骨がシートから離れない」
この言葉は、我々の指導要領や運転教本には決して書いてない素晴らしい表現だと確信しています。
最近、高齢者の事故が多いのは、間違った知識・基本がきちんと伝わっていないのではないかと思われます。だから、もっと基本的な事を順序立ててきちんと伝える本物のプログラムが必要だと感じています。
本当は我々指導員がもっときちんと教えて行かなければならいのですが、そこには検定と言う受験がありカリキュラムと言う縛りが邪魔をしてジレンマを感じています。

そこで私なりに考え、現在一般の方の企業研修でGセンサーを使ったジムカーナを教習所内で行っています。
教習所内では騒音とタイヤの問題で通常のジムカーナは出来ないので、0.4G以上になると室内のパトランプとブザーが知らせる装置を使い、スムーズな運転をするためのブレーキの残し方・ハンドルを切る速度・運転姿勢・アクセルワークを体験して頂いています。
テーマは「助手席の子供を酔わせない !」です。
これは私がBMから学んだ、私なりの安全運転への答えです。
以前、大井さんがガンさんのニュルのドライビングは他のどのドライバーより安定していて怖くないと言われているのを思い出し、出来ることなら今の若者に、間違いなく世界一であろうガンさんの究極のドライビングを一般公道の助手席で体験出来ればこれ以上の安全運転講習は無いと考えています。
ただ、その場合はまず一番バッターは私が行かせて頂きますが・・・・・。
高度なドライビングテクニックも、毎日の運転の中で意識して築き上げられるものです。
出来れば、ガンさんや中谷さんみたいな方が今一度、初めて運転する若者や免許を持っている方の多くの間違った知識をそれは違うよと、正しい方向へ向かう何かを残して欲しいと勝手と思いつつ、長文になりましたが書かせて頂きました。

○正岡より 2011/07/14 16:38:35
波田レポートは大変参考になりました。ガンさんも息子さんたちがそれぞれ通用するようになったので、安心して、これからの「残された人生」に、再び挑戦したいようです。
そこからがぼくらの仕事。どういうふうに「全国行脚」するのがいいのか、研究しましょう。ただ、べスモというメディアがバックにあるわけではないので、いろいろと難儀な点、多々あり。

●波田より 2011/07/15 00:23:01
ガンさん全国行脚、確かにBMと言う後ろ盾が無くなった今では問題が多いのは事実でしょう。でも何よりガンさんと正岡編集長が燃えているのが嬉しいです。そこで一つご提案ですが、もてぎ・鈴鹿・HSR九州では一般の人向けに車両貸出しによるHDS(ホンダドライビングスクール)が開催されています。
以前、山口県の指導員有志で大井さんを呼んでHSR九州で貸切スクールをやった事があります。結構好評で、若手指導員も感動していました。
これからは、そういった施設と車両の心配も無いスクールの仕方も一般の門戸を広げるためにも必要ではとないか思います。

○正岡より 2011/07/15 04:38:26
なるほど、一般人向け車輛貸し出しを利用した「ドラテク・ガンさん塾」ですね。ありがとうございました。なにごとも、手を付けてから育てていくくらいでないと前へ進みません。ただこれでは場所が限定されますので、いくつかの実現可能なパターンと組み合わせればいいですね。

●波田より 2011/07/15 12:19:03
「ドラテク・ガンさん塾」ぜひ実現したい現在の目標ですね。
人との繋がりが色々なアイデアを生み助け合って、現実のものになって行く過程は、まさにBM創刊当初の志と同じものを感じて、こちらもわくわくします。こうして局長(今後はこう呼ばせていただきます)とのやり取りの中で、やはり映像だけでなく言葉の大切さ(指導員の立場としては特に)をひしひしと感じており、学ばせてもらいたいと思っています。
でも局長、返信の時間帯にはびっくりです。今だに現役編集長ですね。
無理しないでと言うより、楽しんでいる局長の姿を思い浮かべながら、今から高齢者講習頑張ってきます。

○正岡より 2011/07/17 01:07:02
お尋ねします。ガンさんのドラテク合宿で波田さんが出演したのは、どの号だったでしょうか? ざっとさらってみたのですが、うまく拾えません。それとも、ぼくの記憶違いだったのでしょうか。バックナンバーを拾い出すと、はまってしまって前に進めなくなります。よろしくお願いします。


*中山サーキットの最終コーナーでやってしまった平尾忠士さん


●波田 2011/07/17 07:13:38
残念ですが、私が出演したのは清水さんのシリーズでガンさんシリーズは出演しておりません。この件に関しては、局長の記憶違いかと思います。ただ正直言うと、当時本当に出演したかったのはガンさんシリーズで、出演したいがため何度もハガキを書いていました。
ちなみに、中山サーキットでのガンさんドラテクでクラッシュした平尾君は直接話したことはないのですが、私の友人の親友でした。
また、ガンさんドラテクと言えば谷口信輝君。彼も、当時私がお世話になっていた広島のショプRiOの大西さんと共に、大井さんからホットバージョンGT-R特集に出演したのがきっかけでガンさんドラテクに出演が決まりました。大西さんとの昔話で、これも波田さんがベスモに出た縁があったからだよと言われたのが実は私のプチ自慢なんです。

しかしこうした人との縁の不思議さ、でもこれは自分の世界から飛び出さないと獲られないないチャンスだったのだと思います。
谷口君とは大西さんの結婚式でしか話せませんでしだが、あの容姿からはうかがえませんが局長が言われる通り、非常に礼儀正しくそして努力家で、以前レブスピードのドラテク編で、「ベスモ出演のプロの走りを何度も見て一つの気付い事がある。ハンドルを切る一瞬上手い人は拳一つ分切ったのちにバンドルを切っていて、要はためがある」と解説していました。
正直こうした具体的な意見を書いたプロは大井さんと谷口君だけだと思います。当然この部分の教習にも引用していて、生徒さんにも結構好評です。


*「特訓道場」が谷口信輝選手を生んだといいていいだろう。下が現在の同選手。

私の仕事は運転が上手いだけだけではだめで、ある意味お医者さんと同じであると考えています。それは、患者さんに合った正しい見たてとそれに合った薬を処方する事が共通点です。だから人にものを教えると言う事は、その人の悪い所を確実に理解し正しい対処方法を伝える事がポイントだと思います。
その意味でも谷口君の分析力と文章力は、新世代の子供たちにも共感できる可能性を感じています。さすがあのガンさんをうならせたこれまた本物です。
その宝物を手に入れる旅、私も今一度出かけて見たい。ついついそう思ってしまう企画ですね。

○正岡より 2011/07/17 07:45:55
さっそくのレスポンス、多謝。やっぱり、ぼくの勘違いでしたか。バックナンバーをあっちに行ったり、こっちに行ったり。お陰で半日を潰してしまいましたが、それはそれで、いろいろと収穫がありました。

谷口くんをはじめ、平尾君の話、とひとのぬくもりを伝えてくれる、佐野眞一さんのいう「小文字」によるレポートでした。とっても魅力があります。

そんな話をきくと、やっぱりガンさんは「千葉周作」だ、とするぼくの設定は悪くないと確信しました。山岡鉄太郎、勝海舟、坂本龍馬などを輩出した玄武館道場。みんなが入門したくなる特別の塾。ぼくもそこの弟子の一人だし、あなたもそう。大井もいる、谷口もいる、そのほか、ベスモを通してどれくらいの「弟子たち」がいるのでしょうか。

●波田より  2011/07/17 23:31:14
ガンさんは「千葉周作」、その通りだと思います。幕末から明治維新にかけて激動の時代を駆け抜けた先人たちの生き方を、我々も決して忘れてはいけません。どんなに素晴らしい車も、作るもの運転するのは人です。人との温もりが感じない所に感動は生まれません。この人はと言う、師匠の存在はいつもの世にも必要なのです。
こりゃ心引き締めて、師匠たちの足を引っ張らない弟子でいなければならないと感じております。               

さて、いよいよガンさんに逢いに行く。箱根の緑もいいなぁ。

 
Posted at 2011/07/18 01:37:29 | コメント(7) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
2011年07月16日 イイね!

ガンさんの全国行脚「ドラテク塾」開講への道  ~『思い出』の宝石④~


*霧の中から突然あらわれたF40。この姿にみんなが痺れた。
*瑞浪モーターランドのガンさん。

楽しくなる「宝石」の数々を発見。それが楽しければ楽しいほど、いま、ぼくの胸は痛んでならない。それはさておいて、宝石たちの輝きをもう少し紹介しよう。それらは、それぞれが自動車メーカー勤務をめざしているとか、籍を置いていた「読者」というのも、ひとつの特徴でした。「oukey」さんは大学生。まだクルマは買えない立場ながら、そのドラテクを研究室の教授に褒められたのです。なぜ? 以下、3個の「宝石」を続けて紹介することにします。

①ouKey より: 2011 年 4 月 26 日 9:35 AM
初めてコメントします。僕がベスモに出会ったのは中学生の時です。近い親戚にモータース兼SUBARUの販売をしている人がいまして、その方と一緒に見たのが最初です。
いろいろなレーシングドライバーの方々の面白いトークや素晴らしい運転に心を奪われ、車に興味のなかった自分も、気づけば、無駄に車の知識がついていました(笑)。

大学生になり、車の制御についての研究をしています。最初、研究室のシミュレータでサーキットを走ってみて、先生に「日頃運転してないのに、ライン取りとかブレーキングとかうまいね~」と言われました。これも、べスモを長い間見てきて身に着いたのでしょうか(笑)。

さて、大学生になりましたが、お金がないのでまだ車は買えませんが、いつか買う日のために毎月べスモを見て、後悔しないよう自分に合った車を買おうといつも思っています。
今の若い人達は(自分も若いですが)、車にさほど興味がありません。周囲の人は「乗れればいい」「軽で良い」「見た目で決める」といった残念な意見しか言いません。中身重視のSUBARUはどうしろと、いうんでしょうか (笑)。
日本人の車に対する意識が低いせいで、日本車のレベルは低いままになってしまいそうで心配です。僕が自動車会社に就職して、開発にかかわった車がいつか復活したベスモで紹介される日を夢見て、皆さんに笑われないような車を作れるよう努力します!! 打倒ドイツ!!

②199301 より: 2011 年 5 月 3 日 2:41 AM
「いつかは」と思っていましたが本当に残念です。1993年1月から継続的に購入してきました。ベストモータリングならではの記憶と言えば、やはりフェラーリの走りでした。過去も現在も「フェラーリなんて実はあまり早くないんじゃない」と思っている人は数多くいると思います。
実は私もベストモータリングを見るまではその一人でした。しかしF40の凄まじさ。そしてその後登場する一連のフェラーリの完成度の高い走り。衝撃でした。
私は別にフェラーリを褒めちぎりたいわけではありません。それまで雑誌や漫画、スペック表、プロモーションビデオの様な走りの「イメージ」でしか伝えられてこなかったことが、「リアル」な走りとしてまざまざと発信される。それに本当に衝撃を受けました。
素人目ですが、この18年間で速さでは日本車は世界のトップにたちました。しかし高級車という分野ではまだまだ世界レベルから大きな差があると感じています。この差は「モノづくり」よりも「文化の違い」から生まれており、その文化の違いこそがクルマの最大の魅力だと思います。そしてこの現在の日本の「クルマ文化のレベルの低さ」がBMの休刊へと追いやってしまたのだと思います。
徳大寺さんが「クルマは非常に冷静であり且つ情熱的だ。それはまさに人間そのもの。だから人々は夢中になる」というようなコメントを書かれていました。この「人間そのもの」が日本のクルマ文化に欠如してしまったことが非常に残念です。そして私もその一人になっているのかもしれません……。・
大学で自動車の研究をし、自動車サプライヤーへ就職。設計も。一時はクルマ文化を創る側にいましたが、転職後は半分受け止める側の仕事に。それでも「クルマ文化を創りたい」と思いを今でも持ち続けています。長い間クルマ文化を支えて頂き本当にありがとうございました。休刊になっても皆様の熱い遺伝子は、日本のそして世界のクルマ文化で、そしてクルマを愛する人々の心の中で生き続けると思います。


*「こまッちゃん」の操るMR2(AW11)


③こまっちゃん より: 2011 年 5 月 13 日 2:40 AM
今月号はLF-Aが出ていましたので、Webでチェック~♪ と思い観て見たらびっくりです! 自分は創刊直後くらいから拝見していたと思います。初めて購入したのは確か、「走るパルサーGTI-R」だったと記憶しています。清水和夫さんがドライブするパルサーの助手席に乗っていた、開発主管の方のこわばった表情が印象に残っています。

それ以降はず~っと毎月購入していました。田部さんが参加されていたかと記憶していますが、何号だったか…ゴルフポカールレースもとても楽しそうでした。ガンさんや、土屋さん、中谷さん、大井さん、多くのキャスターさんの車載映像がとても楽しかったです。
当時は、自動車メーカーにおりましたので商品開発の参考にさせていただいたり、自身のドラテク向上にも役立ちました。
90年代はベスモと共に、自分も自社の車も成長できた年でした。10年ほど前に退職し、田舎に帰ってきてからはベスモの購入率も正直落ちてきておりました。企画と車で選んでいた感じです。ホーンバトルやウォッシャー攻撃も懐かしい思い出ですね。

このコメントの主であり「こまっちゃん」は、今でも、グランツーリスモ等でオンラインレース中にはホーンを鳴らしてしまいます、と笑っていますが、この軽い乗りとその名前に、なぜか記憶がある。確か、ガンさんのドラテク道場か、全国行脚シリーズに白の初代MR2(AW11・ジムカーナ仕様)で参加し、みごとにガンさんヘルメットを獲得した、あの「小松」さんではないだろうか。出場希望の応募はがきには、名古屋にあるNO.1メーカーで商品実験の現場勤務(正岡註:テストドライバーだったかな?)と書かれていたような……。


*ベストモータリング1990年9月号「MR2オーナーをしごく!」より

早速、手元にあるバックナンバーから、「追跡調査」を。ありました。1990年9月号でした。
その時期、べスモはクルマという存在を通して、メディアの受け手である「読者」と交流できる舞台として、「ドラテク特訓合宿」や「全国行脚・特訓道場」に力点を置きはじめたところです。そのあたりのいきさつは、『べスモ疾風録』第3回「忘れじのお宝映像たち」や、第10回「素晴らしき門弟たち」で、動画つきで詳しく紹介していますので、そちらも参考にしていただきたいのです。

ドラテクに力を入れ始めたその頃、スカイラインGT-Rが16年ぶりに復活。その富士スピードウェイを疾駆するGT-Rのスクープ映像を巻頭に飾ったのです。もう、余計な説明はいらなかった。赤いRのエンブレム。各コーナーから湧き起こるタイヤのスキール音。エンジンの咆吼。圧倒的なスピード感。クルマファンは目を剥いた。スペックも翔んでいた。おお、このクルマで思いっきり走ってみたい。そのためのドラテクをなんとか体得できないものか!
みんなの「走り心」に火がつきました。それからというものは、製作コストアップを無視して(?)全国各地のサーキットをステージとした「ドラテク特訓」を展開したのです。そして9月号で訪れたのが岐阜県・瑞浪モーターランド。GT-Rの向こうはってTOYOTAからミドシップスポーツMR2が登場。その「MR2オーナーをしごく!」がテーマでした。その時、ガンさんの目に留まったのが「こまっちゃん」こと、小松高人さん、当時21歳。とにかくステアリング操作の乱暴さが目立った。それをガンさんに矯正されると、1キロちょっとの短いサーキットで、あっという間に2秒ほど、タイムを縮めてしまった。
特訓終了後、ガンさんからレプリカ・ヘルメットを手渡されるときの「こまっちゃん」が見せた澄みきった少年の目。それをそのまま、失っていないと思わせるコメントに出会うことができたわけです。

――走り心に火をつける。そうだった。べスモと一緒に育ってきた「宝石」たちの心に焼きつけられた「共通項」は「走り心」でした。どんなにクルマの流行り廃りがあろうとも、クルマを操る「技術」を会得しようとすることからはじまるカーライフとの融合。みんなが待望しているものが、見えつつあります。
 ベスモという舞台はなくなったが、もう一度、ガンさんに声をかけて、全国行脚の「ドラテク特訓塾」が開ける、新しい道はないものか。

 そんなとき、山口・萩の「波田教官」(「消えたベスモBLOG」に登場)から素晴らしいアイディアをいただくのだが、それは次回の更新ページでお披露目しよう。



Posted at 2011/07/16 00:24:39 | コメント(2) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
2011年07月13日 イイね!

「出世魚ブリ」になる日を夢見た果てに ~「思い出BLOG」の宝物③~




*黒沢元治さんのGT-Rによるニュルアタックは今も鮮烈に記憶に刻まれている


*やっと編集機のある事務所で仕事に打ち込めるようになるには、2年かかった

ある時期、映像マガジンという未知の分野で「べストモータリング&ホットバージョン」という定期刊行を創りあげた2&4モータリング社は、音羽グループ(講談社の関連会社のことを業界ではそう呼びならわし、小学館・集英社の一ツ橋グループと対比しています)における出世魚でした。
ご存じでしょうが、ブリはワカシに始まって、イナダ、ワラサを経て、90センチを超えるとブリに出世できる。で、「ベスモ」が「イナダ」となり、「ワラサ」となり、やがて大海を悠々と遊泳する、あのブリとなる日を待ちわびていたのです。

事務所の移り変わりからみると、それがはっきりしてきます。なにしろ、うまく軌道に乗ってくれるかどうかも分からない新事業ですから、身丈に合った構えではじめるしかなかった。親会社の講談社からわずか200メートルほど離れたマンションの2階に、20坪ほどの事務所を借り、そこを創刊の拠点としたのです。
ついでにいえば、その地下が元巨人軍外野手の経営する居酒屋「なかい」で、ジャイアンツの勝ち負けで一喜一憂するファンで繁盛していたし、同時期に女子プロレスの一団が5階で合宿していたから、とんでもなく賑やか過ぎるマンションでした。そこでスタッフ全員が一つの部屋で寝食を共にする……そんな感じで2年近く頑張ったところで、業績も順調に伸長しはじめ、自前の技術スタッフも拡充しなければならないこともあって、思い切って60坪のスペースを持つ「第2音羽ビル」への移転に踏み切ったのです。

つまり、「ベストカー」を編集・発行する三推社(現在、講談社ビーシーに改称)と同じビルにステップ・アップできた、という方が、分かりやすいでしょう。なにしろ、このビルは一階が吹き抜けの駐車スペースとなっている。クルマをテーマとしたメディアがやっと専用の駐車場を確保できたわけです。
さらに、編集スタジオとまでは行かないまでも、社内で最終行程手前までの編集作業ができる専用ルームを用意することもできました。「ベスモ」の士気が盛り上がらないはずがありません。

4年後の1994年1月。ぼくらは、さらにスケールアップした新社屋へと移転します。今度は1階から4階までが「女性自身」を看板雑誌に持つ「光文社」が占め、5階から8階までを「キングレコード」が本拠とする「音羽ビル」の最上階・9階ワンフロア(約100坪)が親会社から提供(もちろん有料)されるところまでに成長したのですから、スタッフのモチベーションが高まらないはずがない。
R33GT-R以降の「スカイライン神話の内幕」該当号や「チャンピオンズバトル」は、ここで生まれ、その年は、年間実売率82.4%、部数前年比102.4%を確保する充実ぶりでした。

さらに3年後、講談社の新社屋建築に伴い、9階建ての「音羽ビル」は取り壊され、2&4モータリング社は、護国寺に隣接する豊島が岡御陵の真向かいにある「講談社護国寺ビル」の3〜4階に腰を据えることとなったのです。

1997年1月号をもって、ぼくは10年近くあたためてきた編集長の椅子を山本亨君に譲り、さらに2000年1月号で発行人から解放されるのです。講談社の内規に合わせて社長を退任、資材育ちの講談社常務に後事を託したのです。そのころのべスモはぼくの評価が甘かったのでしょうか、充分に生長したブリに見えていたのです。ぼくの腹心算では、雑誌畑でもまれた編集出身幹部に取り組んでもらう手筈でしたが、講談社側は、もう充分に人材も育っているようだし、次に強化すべきは管理部門ではないか、という考えでした。あそこで、なぜもっとおのれの意志を粘り強く主張できなかったのか。編集という分野で、結局、講談社とのパイプを一代限りとしてしまったぼくの責任が強く問われる所以でしょう。


*右から二人目が故・野間惟道社長。左端が挿絵画家の村上豊さん、右端、半村良さん。

2&4モータリング社というネーミングは、講談社5代目社長・野間惟道さんが「2&4は2輪と4輪かい? それで動きをつけて、MOTORにINGをドッキングさせるんだね。それ、いいよ」とても気に入ってくれたので、即座に決定されましたが、その惟道社長が、創刊号が出来上がる直前に急逝される、という信じられない事態に見舞われました。
87年10月、護国寺の墓所に眠る惟道社長の墓前に、香華と一緒に出来上がったばかりのベスモの創刊号をお供えし、かならず一流のメディアに育て上げることを誓った記憶。それなのに、24年経って、お詫びの報告をしなければならないとは!

そんな想いで、最終号を見守り、読者からのあまりにも熱い惜別のコメントに接していたさなかに、「中谷発言」です。ぼくも改めてコメントをする必要に迫られたのです。

2011 年 5 月 7 日 土曜日
一連のスナップ写真を紹介したいばっかりに、久しぶりにべスモ・ブログに書き込みを。
読者の皆さんからの「思い出」があっという間に100通を超え、べスモとの結びつきがどんなものだったか、痛感しました。これをそのまま「1冊の本」にしたいな、とか、べスモを創刊号からスペシャルものも加えて、「べスモ劇場」として、WEBで電子書籍のように公開できるといいな、とか、いろんな想いが湧いてきます。



中谷明彦君が「思い出」の中でぼくが「こんなべスモなら消えて当たり前」といっていたと紹介しているので、その真意のほどを、ここで公開するつもりでしたが、この1連の写真を見て貰えば、もうなにも語る必要はないでしょう。

そうだ、一つだけ言っておこう。ガンさんのドライビングぶりはいつもながら美しく、見飽きないはずだが、荒君を横に乗せたあの正面斜めからのアングルはなんだ! ディレクターも編集長もよくあれでOKしたもんだ。最終号だけに残念極まりない。スーパーバトルも、だからどうなの?といいたくなる。見てくれている読者とこころを通わすものが皆無。ロケと出来上がった最終号をみて、あらためてそう思う。24年の財産とは何なのか。関係者はもう一度、それぞれの胸に手を当てて、問うて欲しい。ご意見があれば、いつでもどうぞ。
「思い出」に田部君が心をこめて対応しているだけだ。他の連中はブログを読んでいないのだろうか。

後日、機会があって、講談社から出向して、関連のクルマメディアを束ねている役員と面談しました。その際、このぼくのコメントに今のスタッフがショックを受けていますよ、と伝えられた。どの点で?と、問うと、「そりゃあ、創業者から、ああいうふうにいわれれば」という答えでした。

それはいいでしょう。しかし、読者のひとりひとりに誠実にお礼をいうのを、田部君ひとりに任せっぱなしでいいのかい? だったら、以下に紹介するそれぞれの言葉の重みを、どう受け止めるつもりなのか、答えて欲しいね、と。

それはこんな、東日本大震災に見舞われた仙台からの「声」でした。

藤本広幸 より: 2011 年 5 月 4 日 12:56 AM

宮城在中、被災地にいる36歳の男です。二十歳の頃に友人からかりたベスモ、HOTバージョンをきっかけに車の世界に興味をもち、サーキットや峠での走行を楽しみ、給料の半分を車につぎ込むほどの車好きになってしまいました。現在進行形ですが……私は仕事中、今回の地震、津波の被害にあいました。自宅は津波の被害はなくベスモも助かりましたが、地震で被災した当初、3月25日の発売日にガソリンの供給も停止、ライフラインも復旧しない中でも、自転車に乗り被災の少ないとなり町の書店に行きました。しかし、入庫しておらず、入る見込みもない状態でした。それほど楽しみにしていたベスモ、16年間買い続けた私のベスモコレクションは、震災月のベスモだけがない状態です。(註:今月の6月号は買えました)
その今月号をみてみると休刊という知らせです。この最後の映像にかなりのショックを受け、こうして初めてコメントをかきました。悲しいです。ベスモ復活のその日まで、私は待ち続けていいでしょうか。勝手な期待ですが……。

以下、200通の声を整備して、次の更新で、綴るつもりです。
Posted at 2011/07/13 14:50:33 | コメント(5) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
2011年07月08日 イイね!

『思い出BLOG』の宝石② 中谷明彦君のこと





「中谷発言」について、正確を期すため、そっくりそのままを再録しておきます。
●中谷明彦 より: 2011 年 4 月 27 日 11:56 PM
ベストモータリングの創刊を準備されていた初代編集長の正岡さんからお話をいただいた時に、ついに待望の媒体ができる!と胸が躍った。
それ以前に僕はカートップ誌の編集部員として筑波サーキットで市販車の比較テストをする時にレース形式で競いその行方をレポートする「CTグランプリ」なる企画を手がけていたのだけど、写真と記事だけでは伝えきれない事象がたくさんあって動画媒体でなければ事実を正確に表現できない、と考えていたからだ。
ベストモータリングでは「バトル」という名でその願いは実践され多くの真実を伝えることができた。
しかし後年、映像媒体の持つ危険因子である「編集」や脚色、脚本による「情報操作」が生まれ娯楽性は高まったと思うけど真実を正確に映し出せなくなってきていたことに大きな不満を抱いた。そんなことを僕の好きなファミレス(^^;でベスモ編集部スタッフと7時間も論じたこともあった。
僕は妥協も迎合もしないことを理念としてベスモを去った。正岡さんからは「将来レースを引退したら貴方が編集長をやればいいんだよ」と言葉をいただいていたが、そのベスモが無くなってしまうのでそれも叶わなくなってしまったね。
でもここに寄せられている読者の皆さんの言葉を見ていると、やはり動画で事実を伝えることの必要性もまた強く感じている。
こんな時代だから、バトルして動画作ってお金儲けしようなんて筋道はない。営利目的では成立しないから休刊して会社が清算されてしまうのは不可避だったろう。
「クルマが好きだから」
それだけの理由で大きな負担も苦にしない理解者を探し出すしか再生への道は無い。
ビデオやDVDには編集上カットされてしまった名場面や核心的なコメントなど埋没させてしまうのはあまりにももったいない。

結局ベスモ休刊を知らせてくれたのは田部君だけだった。最後のロケを見に行ったけど、帰りに正岡さんが「こんなベスモなら無くなって当然。毎月見てくれていた読者に申し訳なかった」と言われたのが象徴的だったね。

――まず中谷君は、べスモ創刊準備中のぼくから話があった、と書き出しています。そうでした。ぼくが中谷君に注目し始めたのは、1981(昭和56)年だったろうか。そのころはまだ、中谷君は「カートップ」の編集部員で、ぼくは「ベストカーガイド」(ガイドつきの時代だよ)の編集局長兼編集長。日本カー・オブ・ザ・イヤーを立ち上げた直後ということもあって、クルマ専門誌編集長間の交流が活発で、ライバル誌である「カートップ」の杉山忠志さん(故人)と一緒になる機会が多かった。ある時、杉山さんがこんな内輪話をしてくれました。

「ウチに変なのがいるのよ。部屋のなかを移動するときも、両手を突き出しハンドルを切る格好で狭い机の間を猛スピードで抜けて行くんだよ。最初のうちはガキみたなことをやるアホがいるな、ってみていたんだが、よく見るとそのコース取りと言い、スローイン・ファストアウトの速度感といい、こりゃ、タダモンじゃないって思わせるんだよね」と。
つまり、一つの部下自慢だったわけだけど、「変な奴」が中谷君です。そのころちょうど、鈴鹿サーキッドでF2の年間を通してのサポートイベントとして、シビックによるワンメークレースが企画され、HONDA広報部からの要請もあって、モータスポーツ活動に力を入れているクルマ雑誌のいくつかが参戦することとなった。


●シティブルドックレースはこんな感じでした(ドライバーはガンさん)

ちなみに「ベストカー」はドライバー・黒沢元治、総監督・五木寛之、監督・徳大寺有恒、チーフメカニック・小野昌朗(レーシングカー設計の第1人者)というメンバーで臨んでいた。称して「五木レーシングチーム」。マネジャーがぼく。「カーグラフィック」「月刊自家用車」とともに「カートップ」もエントリー。そのドライバーが中谷君で、そのカミソリのような切れ味を持つドライビングは、一部の注目を集めたものです。そのときピットクル―として一緒だったのが、カメラの北畠主税君。カート時代からのライバル?だったとか。

翌年か翌々年に、新しくシティブルドック・レースがスタート。その最終戦あたりで、中谷君は第1コーナーへのアプローチ攻防で接触、ガードレールにはりついてしまう。それが引きがねになったかどうかは別にして、かれはフリーのモータージャーナリストとして独立する。

彼の速さは業界内で知られはじめ、三菱のミラージュCUPが始まると、試しに提供された広報マシン(他チームのマシンに比べると、その戦闘力はノーマル過ぎた)で、並みいるプロ級を抑えて優勝をさらってしまう。そして、次の年のマカオGPでも、ジャッキー・チェン杯を獲得してしまう。まさに「サンライズ」のイメージにぴったりの存在として、ぼくは興味をもったのです。


 ●石川秀美・助手席にはうるさい私なんです「ベストカー」1987年6月26日号所載



しかし、ジャーナリストとしての資質はどうだろう? そこは編集長の特権です。「ベストカー」誌で5ページものの連載を用意したのです。題して「新人類系クルマニアンJaponica」。新時代を予感させる人物を、中谷君がどう料理するのか、を試そうとしたわけです。登場したのはイラストレーターの渡辺和博さんにはじまり、女性歌手の石川秀美さん、同じレース仲間でプレイボーイ誌の村松康生、作家の赤羽健美の各氏となかなかのものでした。とくに石川秀美というアイドル歌手の人間観に触れながら、じつは自分のレーシングドライバーとしての「今」と「資質」を顧みているところに、例えようもない彼の新鮮さを読みとったのです。この青年を、新しく立ち上げる映像マガジンの専属キャスターとして、お願いしよう。もちろん、もう一人の専属キャスターをお願いした伏木悦郎さんの「試運転」も同じベストカー誌で展開しつつありました。彼の「アメリカ現地報告」がそれでした。

さて、それからの中谷君の「ライジング・サン」ぶりは、みなさんがご存じのところです。一時はF1チーム「ブラバム」との契約もほとんどまとまりかけ、「ベストモータリングからF1ドライバーが生まれた!」という突拍子もないコピーが、ぼくの頭の中でグルグルと踊りまくったくらいです。

さて、次のテーマです。
《最後のロケを見に行ったけど、帰りに正岡さんが「こんなベスモなら無くなって当然。毎月見てくれていた読者に申し訳なかった」と言われたのが象徴的だったね。》

ファイナルバトルの収録が終わり、さて最終号にあたって、ともに24年の歴史を創りあげてきた先人達が富士スピードウェイに集ってきている訳だし、何らかのアクションが用意されているのかな、と思っていたら、コース上で記念写真(映像用のカメラは回っていないよ)を撮っただけで、はい、終わりま~す。なんじゃ、これは、です。読者からの目線を喪失している。本編の出来上がりを見なければわからないが、おおよその見当はつきます。最終号を見ていただく読者の心理が全く読めていないし、それにこたえる仕掛けもアイディアも感じられない。そうでなくても、だだっ広いこのサーキットのどこにも、興奮の余韻すらないではないか。咄嗟の開催だったかもしれないが、せめて最終ロケの模様を観ていただき、せめてもの想いを伝えるとか、中谷、大井、田部というおなじみの連中もいっしょにいるんだよ、という懐の広さが欲しかったね。

第一、走りは別として、レクサスLFAというクルマの客観的な評価、意味合いを、LFAで参戦中の木下君が語ったところで誰が評価するというのだろう。その辺の資質が、すでにこの映像マガジンから見事に消えている。その感想の一端を、富士スピードウェイを離れて、相談があるからという中谷君の誘いで立ち寄った横浜青葉ICそばのファミレスで、コーヒーを飲みながら話したまででした。だから、そのことについて、言葉足らずのところもあることだし、ぼくは再びべスモブログに「最後の日」と題して、当日のロケ風景のスナップ写真を添えて、書きこむことにしたのです。以下はつぎの更新の際に。
Posted at 2011/07/08 13:10:06 | コメント(8) | トラックバック(1) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
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何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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