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正岡貞雄のブログ一覧

2020年02月16日 イイね!

ノムさん、84歳。『同時代の花』の死に心騒ぐものあり

ノムさん、84歳。『同時代の花』の死に心騒ぐものあり〜「デイリースポーツ紙」の喪に服したページ創りに寄せて〜


 84歳(1935年6月生まれ)。虚血性心不全で、独りひっそりと、彼岸へ旅立っていった野村克也さん。同時代を生き抜いた巨人・長嶋が太陽を燦々と浴びた「ひまわり」なら、わしは所詮、月を仰ぐ「月見草」よ、とぼやいてみせたノムさん。その突然の死を悼んで、T V各局はもとより、スポーツ紙全紙が競って工夫を凝らした特集を組んでいた。

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 その中で、長嶋茂雄さんやノムさんと同じ時代の空気を吸いながら生きてきたわたしが、吸い寄せられてしまったのは「デイリースポーツ」。まるで喪に服したような異色の紙面づくり。現役時代の野村捕手(以下、ノムさんと呼ばせていただく)が二塁へ向かってスローイングしているモノクロ姿を大写した第1面だった。追悼の想いがたっぷり込められていた。そのノムさんに添えた追悼のコピーの黄色の文字も似合っていた。

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*デイリースポーツ第1面(2020年2月12日)

「ノムさん ありがとう  天国でサッチーとおしどり夫婦」
そして赤い文字が短冊のように添えられる。
「戦後初三冠王」「本塁打王9度」「史上最強捕手」「I D野球で日本一3度」
「ヤクルト、阪神で《野村再生工場》」「ボヤキや名言も数多く残し」……


「生涯一捕手」として野球を愛した男、ノムさんの経歴も丁寧になぞってあった。
 1954年、テスト生で南海(福岡ソフトバンクの前身)に入団、契約金0円の無名選手は人一倍の努力と洞察力で打撃を開花させ、65年に戦後初の三冠王を獲得、70年に選手兼任監督に就任。その後、ロッテ、西武に移籍し、80年に現役引退するまで、首位打者1度、本塁打王9度、打点王に7度輝いた。
 90年にヤクルト監督に就任。データ重視の「I D野球」で就任3年目の92年にリーグ優勝を飾ると、翌93年に球団史上初の連覇をかざると同時に15年ぶりの日本一に輝くなど、9年間で4度のリーグ優勝、三度の日本一と黄金時代を作り上げた。

 問題はここからだった。わたしがデイリースポーツの紙面づくりに吸い寄せられた本当の理由も「ここからの出来事」にあった。後年、ノムさんも「その時代」を痛く悔いていたものだ。
 
三顧の礼で迎えられ、99年に阪神監督に就任。「野村T O P野球」を掲げ、長く低迷するチームの立て直しを期待された。
「野村再生工場」では遠山を巨人・松井キラーとして再生させ、遠山−葛西−遠山−葛西の投手リレーや、新庄を投手との二刀流に挑戦させるなど話題を呼んだが、3年連続最下位に沈み、沙知代夫人が脱税容疑で逮捕されたこともあり、01年オフに辞任した。

その時の阪神ファンの野村批判の声を真っ直ぐに反映させたのが、御用達メディアの「デイリースポーツ」であった。ノムさんが采配した3年間の虎軍団は、シーズンの前半こそ生き生きと闘うが、夏場からはがくんとモチベーションを喪うのが通例だった。その辺の悪しき症状にノムさんも対処するエネルギーを失って行った‥‥‥。

 これで「野村株」は急落し、それから5年後に楽天の監督に起用されるまでは、ノンプロチーム「シダックス」の監督を引き受けるなど、雌伏の苦々しい日々を送ることになる。

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*楽天時代の野村監督(TBSテレビ特番より)

 阪神での3年間を、ノムさんも「失敗だった」と認めたというが、その時の「デイリー」がどんな攻撃の矢を射ていたのか、近く国会図書館に行って調べてやろうか、などと思いつつ、2月12日発売の同紙をめくっていくと、あるわ、あるわ「ノムさん追悼」のページが9ページも割かれていた。

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 その中で、特にわたしが注目したのは、『野村監督歴代担当記者の思い出』集で、中でも1999年の阪神キャップだった中村正直記者の寄稿を、ぜひご一読願いたい。そこにはノムさん番ならではの交流が窺われ、◎印を付けさせていただいた一文であった。

■猛虎時代の到来を感じさせた『愚公移山』
青天の霹靂(へきれき)で阪神監督に就任した野村克也氏に、正月紙面の登場をどうお願いするか、かなり考えた。いまから22年前の1998年12月、阪神吉田義男監督の後任問題で“へま”をし、マンマと他紙に野村新監督を抜かれてしまった。せめて正月紙面ぐらい他紙にないものを企画しよう!と考えたのが、中国の故事から採った四字熟語『愚公移山』の1面、終面連版だった。
 歴史好き、書物好きの“ノムさん”をうならせる故事を探し出すのは苦労した。しかし『列子』という書物を読むうちに、当時の阪神にそっくりな逸話を見つけ出した。それが『愚公、山を移す』だった。
 これをノムさんに説明すると「ワシは知らんわ」と言いつつ、ニヤッと笑って快諾。後日、毛筆でこの『愚公移山』をしたためてくれた。
 1999年元旦、その文字がデイリーの1、終麺を飾り、野村監督による猛虎新時代の到来を感じさせた。しかし、時はまだ熟していなかったのだろう。さまざまな革新的な挑戦には感服したが、まだ劇的に当時の“ダメ虎”を変えるまでには至らなかった。ノムさんの“常識”に、当時の阪神がついていけなかった—というのが私の実感ではある。
 野村のおっさん……。デイリーは、いや、俺はイヤミな敵、だったかもしれない。しかし、ホント、本当に尊敬していた。山を動かそうとしていたおっさんこそ『愚公』かもしれない。冥福をただただ祈りたい。

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*デイリースポーツ編集部に貼ってある野村克也氏の『愚公移山』の書

 さて、本稿の本題はここから始まる。実は同世代のプロ野球選手で、これはと思われる光り輝いたプレーヤーとは「雑誌編集者」という仕事を通して、ほとんどインタビューしたり、対談をお膳立てしたり、あるいは連載ページをお願いしたりとナマでお逢いして来た。

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 「週刊現代」の創刊3号(1959年4月26日号)で、当時東映フライヤーズの新人選手の張本勲選手をグラビアページでクローズアップ(「創刊3号」と《駆け出し時代》の痛い記憶をクリック)するため、夜の東京駅プラットホームで撮影したのを皮切りに、国鉄スワローズの金田正一投手の特集グラビアで張り付き取材をしたのも自慢話の一つ。さらにいえば、長嶋茂雄、村山実、江夏豊といったレジェンドとも貴重な単独取材の時間があったりしたのに、なぜかノムさんだけはノータッチであった。
 なぜか。その心残りが今も悔やまれてならないが、次回はそのあたりから、始めようか。
Posted at 2020/02/16 01:47:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2018年03月22日 イイね!

あえて《傷だらけの助走時代》を告白した日

あえて《傷だらけの助走時代》を告白した日『東京駅頭 愛の像よ 永遠なれ』秘話 パートⅱ

「ともかく、2月26日の夕刻に撮影した《東京駅頭 蘇った愛の像》をご覧いただきたい。能書きは、それからだろう」

 前回、こう断ってから、わたしのカメラが捉えた「愛(アガペ)の像」を紹介した。東京駅の駅前にこんなに人々の祈りがこもったブロンズ像があったのか、という驚きの声が「みんカラ・フレンド」からも、多く寄せられた。それでは、と調子に乗って、その「能書き」に入らせていただくとするか。 

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*2017年12月に改修を終えてオープンされた東京駅前広場を「愛の像」のある南口バス停側から。

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*「愛の像」の背後にJPタワーが。

 東京駅の丸の内中央広場の西側に、かつては東京中央郵便局があった。それが平成14年にJPタワーに変身してしまった。

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  その低層棟の商業施設であるKITTEビルの6階に、京都の伝統的な「おばんざい」や旬の素材を活かした炙り焼きなどを出す和食の店『菜な』がある。そこの宴会用個室からは、平成12年10月に、創建当時の赤レンガに復元された東京駅を一望できるので、それ以来、少なくとも年に1回、好んで仲間のミーティングに使っている。

 昭和の23年から26年までの3年間、北九州の小倉・足立山の麓にあった中学校の学び舎で、同じ「未熟な青春時代」を共有した3クラス100名ばかりの男女のうち、社会に出て、いまだに東京で暮らす連中が男女合わせて15名ほどいる。その連中が60歳の還暦を過ぎてからは折に触れ、お互いが元気でいられるのを確認するために、と年に2回ほど「おしゃべり会」をもっていた。回を重ねるごとに、地元の北九州からも何人かが、東京まで遠征して加わるようになった。

  2017年6月。「愛の像は、いま、どうなっているのか?」とJR東日本の東京本社広報室に問い合わせて、「千葉の専門業者に預けてあって、いつ、どこに再生されるかどうかはわからない」という虚しい返答を得た直後、いつものKITTEビル6階にある『菜な』に昔の中学仲間が寄り集った。それぞれが、近況とか今の心境を率直に吐露しあっても大丈夫な、気兼ねが要らない会である。

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*6Fの「菜な」にやってきた70年来の「心を許した」仲間が三々五々……。

 わたしの番が来た。ちょっと芝居がかった仕草だったかもしれない。立ち上がって窓際により、外を指差した。

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*「菜なミーティング」の第1回、2014年に撮影したものである。改修工事がスタートして、愛の像は見事に何処かへ運び去られている。

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*撮影は2017年7月12日。まだ「愛の像」は帰ってきていなかった。

「ここから、東京駅が丸見えだろ? きっとみんなもそれぞれに想いがあるはずだ。ぼくは世の中に出てすぐ、幸か不幸か、当時創刊準備に入った週刊誌の編集部に配属され、その初仕事がこの東京駅前で、ビラを撒く小野田寛郎さんの母親、玉江さんの取材をしてくることだった。ルバング島の密林で抵抗する息子を射殺しないでくれ、と書いた横断幕の前で、懸命にビラを撒く母の姿は、創刊第2号で『ルバング島の秘密指令』とタイトルしたトップ記事に掲載されたものだ……」

【註:週刊現代創刊2号、1959年4月29日号に関しては、すでに当ブログで紹介済み。詳しい状況なら、こちらから『創刊第2号異聞』へどうぞ】

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*東京駅頭でルバング島の密林に潜む、息子・小野田寛郎を射殺しないで、と懇願のビラを手渡す母・玉江さん

「おい、おい。ぼくらが大学を出て、世の中に出たのは昭和33年(1958)だ。まっさん(昔の仲間は、わたしをそう呼ぶ)の話は1年、計算が合わないよ」
 一橋大学を出て務めた海運会社から自立して、今では陸送会社を自前で興し、大きく育て上げた俊才のT君である。82歳になってもボケがないのは流石だ。

「いいところを衝いてくれて、ありがとう。そうなんだよ。その1年のズレと、この東京駅の景観がどう関係しているのかを聴いてくれるか?」
「いいよ、どうぞ。なんだか面白そうだな」
 わざわざ、北九州から孫の顔見たさに、この会合をダシにして上京しているに違いない、元・新聞記者のI君が景気づけをしてくれた。

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 ここから、まっさんの「告白タイム」となった。
「有り体にいえば、一年余計に在籍したわけよ。就職先も決まっていて、卒業試験もあと3科目に漕ぎつけたところで、その安堵感もあって、同部屋の後輩を誘って夜の街へ。うどん屋でまず腹を満たして店のガラス戸を開けて表通りへ出たところで、記憶が途切れた。なんと通り抜ける軽トラックの突き出したミラーで額を割られ……気がついてみたら外科病院の白い病室よ」

そこからは、まとめると、以下のような内容となる。
  
       ☆     ☆            ☆            ☆

 二日後、下宿先に返された時には、すでに卒業試験は終わっていた。痛めた場所が場所だけに、後遺症の恐れも強かった。一瞬にしてお先真っ暗。1958年は就職難の年だった。周りはみんな四苦八苦していたが、幸いというべきか、わたしは剣道部の副将。剣道4段。就職は「剣道部幹部選手」の指定席、その頃、丸ノ内に本社を持つ生命保険相互会社に決まっていた。

 お世話をいただいた剣道部先輩で、その生命保険会社の重役に報告、今後を相談した結果したところ、卒業できなければ入社は取り消しとなるだろう、と。その上、「額の怪我」の様子もマイナス要因だ、と。

 一瞬にして、お先真っ暗な日々がはじまった。
 留年しよう、と肚を決める。卒業に必要な単位も3科目だけじゃないか、と。幸い、先輩重役の計らいで、アルバイトで1年、総務管理課の調査を手伝ったらどうか。その上で改めて次年度の入社試験を受けたら、というのだ。
 一筋の光を頼りに、4月から、丸の内の生命本社に通うサラリーマンそのものの日々が始まる。その上、週2回、夜は家庭教師を1軒、キープ。それで仕送りなしでやれるメドがたった。

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 額の怪我も、順調に回復。しかし、場所が場所だけに後遺症も心配だった。一方、その衝撃で目覚めた部分もあった。こんな目にあったのなら、いっそ、己れが本当に進みたかった道を行くべきじゃないか、と。妙に元気が真っ直ぐに出はじめた。
 
  わたしの「剣道」についてのブログが一つだけある。ご参考までに「こちら」にもお立ち寄りあれ。

 ●『剣道』というキーワードの私的ドラマ



 新しく取り組んだアルバイト先、生命保険会社での仕事のうちに「新聞の管理」があった。そこで毎日、朝日新聞の名物コラム『天声人語』と『社説』を読むようになる。そのうち『社説』を、昼休みになったら書き写すようになった。論理と感性をないまぜにして短くまとめ上げるトレーニングとなり、それがのちに効果を発揮する。講談社の論文試験のテーマに「勤務評定」が登場したのである。なんと一月ほど前の朝日の社説で取り上げられたテーマ、起承転結のある記事を試験用紙にそのまま書き上げることにつながっていく。

 本来なら、お先真っ暗で希望を失った日々を送っていたはずなのに、その時期、どうして毎日を生き生きと入られたのか。多分、新しいターゲットを心に設定できたからだろう。

 秋が来て、「講談社」を受験する。そしてなんと、面接試験に持ち込むことができた。この半年の「特別な日々」がやっと報われる。講談社の面接を受ける。そして追いかけるように講談社から「合格」の通知が電報で届いた。

……こんな「傷だらけの助走時代」があったからこそ『週刊現代』創刊時の「愛の像」にたどり着くわけだが、そのアルバイト通勤で東京駅丸の内広場を抜ける時にいつも見上げていた。台座にはシンプルに「愛」とギリシャ語で「アガペ」を彫り込んだだけで、その頃はまだ真新しく、若々しく両手を差し伸べたブロンズ像に、わたしは何度、祈りを捧げたことか。

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*2006年に撮影しておいた「愛の像」は広場の中央にあったのに。

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*2006年の台座。1955年に出来上がったときの素朴な形。それが今回はハート印に囲まれたデザインに。
ヘッド欄のフォトと比べられたし。

 話し終わった時、70年来の仲間が、口々に「まっさん、頑張ったね」という言葉と一緒に、拍手を送ってくれた。

 その日から半年後、東京駅頭に、あの愛の像が2度目の帰還を果たしたニュース。いそいそとカメラを携えて丸の内中央広場へ。

  さらに書き続けたいことが山ほどある……。

 でも今回は、ここまでとしようか。
Posted at 2018/03/22 14:43:34 | コメント(2) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2018年03月16日 イイね!

東京駅頭に蘇った『愛(アガペ)の像』秘話

東京駅頭に蘇った『愛(アガペ)の像』秘話
〜「朝日」が夕刊トップに掲載した「NEWSの奥行き」を掘る〜



 2月28日に、まだまだ活動していますよ、と足跡を慌てて残しておいた 《140字日記:何シテル?》を、ひとまず解凍することから始めたい。ヘッド写真として同載した2月26日付けの朝日新聞夕刊面をクリックしていただくと、「140字」に圧縮された中身が、ここに改めて登場するはず。

*先ずはここをクリックされたし。

 本来なら、この「140字」は、以下のような文章になるはずの内容だった。

————2月26日。16:00になった。さて、これから、本来なら1月22日に設定されていた「銀座の洒落た鮨バーを楽しむ懇親会」が、豪雪襲来で一ヶ月後に延期され、そのやり直し会(18:30集合)に赴く準備を始めた。と、コトンと新聞受けに夕刊の届けられた気配。
「どれ、どれ」
 朝日新聞を取り出す。開いて、第1面のトップ記事に目を剥いた。
『戦犯の祈り 平和問う像』の大見出しの真下に、大空に向かって伸びやかに両手を拡げるブロンズの青年像。その写真に吸い寄せられた。こんなネームが添えられている。昨年末、JR東京駅の丸の内駅前広場に再び設置された「愛の像」=東京都千代田区。

 
 さらに『東京駅前 台座に遺書集』と、この像の創られたきっかけとなった「世紀の遺書」(編集・巣鴨遺書編纂会)の外箱の山並みは画家の東山魁夷が無償で描いた。
 続けて《「愛の像」設置場所》の地図が小さく添えられている。どうやら南口バス乗り場の脇らしい。


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 信じられない。「朝日」を持つ手に、力がはいる。間違いなく「愛=アガペ」とだけ記されたあの銅像が、本当に東京駅頭に帰ってきたのだ。

 実は、昨年(2017)の6月19日にJR東日本の広報室に、こんな問い合わせをしていた。
「昭和30年(1955)11 月、東京駅前丸の内広場に建てられていた愛の像は、何度か広場の工事のたびに撤去、復活を繰り返し、今では今回の再整備のためでしょうか、どこを探しても見当たりませんが、どうなっているのか?」
 即答できる広報員がいないらしく、後ほど調査してから返事をくれるという。
 翌日、広報室から電話が入った。ちゃんと名乗ったところで、現在、あのブロンズ像は千葉県内の専門業者に預けてあり、再生されるかどうかは不明である、と。


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*2016年6月、丸ノ内広場に面したJPタワーからの眺望。もうこの時には「愛の像」は撤収されていた。

 そうか、あの深く、重い意味を秘めた美しい像に、再びお目にかかる日はもうやって来ないのか。がっくり、力が抜けて行った。

 その日から半年後には「愛の像」が、全面改装した駅前スペースに復活していたというニュース。まさに「え⁉︎」である。しばらくは絶句状態であった。

 そんなに「愛の像」にわたしがこだわる理由は何か。このあと、当然、触れなければならないが、ともかくこの目で確かめたい。そして撮影してきた『愛の像』を紹介する方が先だろう。

 幸い、銀座の鮨バー集合は18時。それならば東京駅前広場に立ち寄ってからでも、間に合うじゃないか。ショルダーバッグにNIKON5200を突っ込んで、急ぎ東京駅前に広がる丸の内広場を目指したのである。

 なぜ「愛の像」にわたしがこだわるのか。一つだけ触れておきたい。


 東京駅頭に建つ「愛の像」に初めて逢ったのは昭和34年(1959)秋であった。
 その年度の新入編集部員とし、いきなり創刊間際の『週刊現代』に配属されたわたしが、一人前に自前で企画を立て、取材し、そして5ページものとして書き上げたのが、12月27日号に掲載された『特別読物 “愛の像“に秘める戦犯の祈り』である、と前置きすれば、お解りただけるだろうか。

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『週刊現代』はその年の3月30日に創刊号を送りだした。
その年の最終号に『愛の像』の特別読物が5ページにわたって掲載された。


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 創刊1年目。『週刊現代』1959年12月27日号の目次である。まだ編集方針も確立していない。連載小説だけは豪華メンバー。週刊誌のセールスポイントは、まだそこにあった時代が読み取れよう。


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 『週刊現代』に掲載された5ページのうち、書き出しの2ページ分だけ紹介させていただく。建立に至る流れだけはお伝えできるだろう。しかし、ここまでではこの像を誰が彫り上げたのかも、まだ触れられていない。彫刻家の横江嘉純さんである。この記事を書くにあたって、目黒のお宅に伺った記憶が蘇ってくる……。

 ともかく、2月26日 の夕刻に撮影した「東京駅頭 蘇った愛の像」をご覧いただきたい。能書きは、それからだろう。
    愛の像を撮る!  2018/2/26

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  すっかり日が落ちてしまった。撮影はここまで。この足で、急ぎ銀座2丁目まで駆けつけなくてはならなかった。10分で行けるだろうか。

 次回はもう一歩踏み込んで、わたしの取材した「愛の像」にまつわる深い「人間ドキュメント」を、ぜひお伝えしたい。




Posted at 2018/03/16 02:32:34 | コメント(1) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2018年01月01日 イイね!

2018年 年頭に当たって

2018年 年頭に当たって恭賀新禧

【左のシーンは、秩父困民党が信州側へ敗走中に宿営地とした白井宿の取材で、十石街道からの坂道を登るときのもの】


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なんと晴れ晴れしい元旦の朝。

みなさま、佳いお年をお迎えのことと存じます。

2018年。本年も、どうぞよろしくおつき合いのほど、お願いいたします。

1月15日から『還暦+青春の22歳』の日々が始まります。

『クルマ一代』は、命ある限り、綴り続けていければ、と願っています。

まだまだ、取り組みたいこと、こころを注ぎたいこと、山ほどあります。

まだまだ欲張りな爺イです。

一つ一つ、磨き上げていければ、と願っています。

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*十石街道の起点から冬場は閉鎖される県道124号線でぶどう峠をめざすわがプログレ

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*白井宿と「秩父困民党」とのかかわりが、この白井宿の案内板からうかがえる

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いくつもの『いのちの坂』を超えてきた気がします。

そのたびに『生きることの歓び』を知りました。

一人は美味からず。

ベストモータリング、復活の狼煙も上がりました。

風立ちぬ。いざ生きめやも。

   2018年元旦           正岡貞雄
Posted at 2018/01/01 10:16:16 | コメント(5) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2017年01月09日 イイね!

『仕事始め』と『変なデビュー』秘話

『仕事始め』と『変なデビュー』秘話〜1月7日掲載の『何シテル?』欄の拡大版として〜
こんな内容でした。こちらからどうぞ!


 電子書籍のパートナー、アイプレスJAPANのコンテン堂・味戸さんから届いた年頭のメール挨拶で、お尻に火がついてしまった。
『Premium版 疾れ! 逆ハンぐれん隊』はPart.7までを購読できるように仕上げたものの、Part.8以降はこれから仕上げなければならない。そこへ早くも、その催促の連絡が入ってきたのだ。

「本年もよろしくお願いします。
Part8ですが、本文の『Part8−1~4』、付録の『Part8-1~3(パリ/ナンシー/デュッセルドルフ)』は、入稿いただいております。
◆『Part8-4付録』に相当する『Part9への導き』の最終稿入稿を12日(木)までに可能でしょうか?
◆「各付録の写真位置やキャプションの指定」、「扉画像(タイトル付き)の最終稿入稿」も含めておねがいできますでしょうか?
◆配信スケジュールは入稿データなどが上記通りで進行できれば、
 1月20日~31日の期間で配信開始できる見込みです。 
新年早々にお願いばかりで恐縮ですが、よろしくお願い申し上げます」


*Part.2の「凄春スピン・スピンターン」に付属している「五木ワールド」。その導入で「ハワイ」の特別試乗はふれられている。一連の試乗記は、今さらながら、絶品なり。 

 その件については、すでに肚が決まっていた。ヨーロッパから帰国して一息ついたところで、また五木さんを熱く誘惑したものだ。五木さん、ハワイでなら、ジャパニーズ・スーパースポーツとして登場したばかりのTOYOTAスープラを味見できますが、いかがですか、ハワイへいきましょうよ、と。
 
「いいね、ついでに北米仕様のフェアレディZXターボも用意してください」
「あ、よくご存じなンだ。それもいいですね。やってみましょう」



 その時の試乗記をそっくり1回でまとめてしまおうかな。別々に、というのも悪くないし……。

 もう一つ、腹案もあった。Part.8『ゴーストカーの秘密=篇』が完結すると、Part.9の『バンドー先生の逆襲=篇』は大和・奈良に舞台は移るので、ここは五木さんに「大和を語る」という仕掛けで登場いただくテもある。加えて、タンボちゃん(北畠主税氏の愛称)の「葛城古道、明日香の里を疾(はし)る」と題したくなるような『フォト・ギャラリー』も準備済みだから、その前宣伝として、一部を先行披露するのも悪くない。
 正直、迷っている。ま、ここらで踏ン切りをつけて、ズバリ、クルマ物であるハワイの記憶の方をなぞってみるとしようか。


                                     Photo by T.Kitabatake
 
 決めた! 2002年に「排ガス規制」への対応できないため、累計28万5280台の実績を残して生産を終えた、あのスープラへの挽歌を本編に添えるとしよう。そして、その次の回でオアフ島を縦断した『ZXターボ』の試乗記も……。

 仕事始めのこの日。午後から講談社BCに赴くことにしていた。
 ベストカーの現役局長、宇井さんに会って、かつて連載中の『疾れ! 逆ハンぐれん隊』に夢中だった読者に、小説の展開に伴走して、元祖・局長がまとめた『五木作品に登場するクルマたちよ』も一緒に読める『Premium版』が電子書籍で読めるようになったと紹介してよ、と頼み込むつもりであった。



*よろしかったら、是非どうぞ、お立ち寄りください。こちらからどうぞ!

 プログレで30分、仕事始めで活気の戻った音羽通りに到着。幸い、宇井局長は在席、快く、こちらの希望を受け止めてくれた。準備しておいた素材注入済みのUSBメモリーを渡す。どう料理してもらえるか、できあがりが楽しみである。

 次の約束は、3時半に茗荷谷で執筆進行中の『局長自伝』の打ち合わせ。取り組んでみると、手つかずのまま眠っている資料に遭遇しはじめていて、そこからムクムクと頭をもたげ始めた「新しい構成」への相談である。

 そのためには事前に事実確認しておきたいことも、いくつかあった。幸い「社友」の資格で講談社の資料センターを利用できる。そこで、まず地下駐車場にプログレを駐(と)め、次に受付を済ませて入館バッジを受け取ってから、資料センターへ。

 手始めに、講談社4代目社長の『野間省一伝』のあるページを確認したかった。すぐに探し求めていた「事実」を無事、確かめることができた。この『野間省一伝』の筆者は、わたしの「育ての親」のひとり、「週刊現代」創刊編集長であり、文芸誌「群像」の編集長も兼務していた大久保房男さんである。書く内容は厳しく吟味されていて、何よりも記述に品格がある。香りがある。この安心感ってなんだろう。

 該当するページのコピーをとって、もう一つの捜し物の存在を確かめることに移った。

 これは、一ヶ月半ほど前の11月24日、東京が初雪に見舞われたその日、それまでどこに蔵(しま)ったのか、と探していた『大事な物』がひょっこりと、まさに「初雪の贈り物」として手元に帰ってきた出来事の続編に当たるだろう。

 国際事件記者として鳴らした大森実さんや、評論家・草柳大蔵さんからの書簡の束と一緒に、講談社在籍時代のモノクロ写真が出てきた。その中に手札サイズの3葉の組み写真を、じつは「局長が局長になる前の仕事」に取り組んだときから、どこに行ったのか、と何度も探していたのである。

 手にとってみて、鮮やかに甦って来る記憶がある。それは1959(S.34)年、講談社に入社して、今度の新入社員の中に忍者のような奴がいる、と全社に知れ渡った「決定的瞬間」を捉えた、曰く付きの問題写真だった。



「週刊現代」に配属されて2ヶ月が経った5月の上旬だった、と思う。その時期の編集部は本館2階の北寄りの一郭にあった。多分、4冊くらいの校了作業の洗礼も受け、いくらか仕事も覚えて、時間的にも心理的にも余裕の出てきた時分であったろう。                           

 丁度、お昼時。ほとんどの先輩編集部員は食事に行ったか、取材かなにかで外出したかで、編集部にはグラビア担当の大先輩が一人と、いわゆるお使いさんと呼ばれた「少年社員」二人が在席しているだけだった。わたしは窓際の席で、多分、ほかの競争誌でも読んでいたのに飽きて、窓の外ではじまったバレーボール試合を、なんとなく見下ろしていたはずだ。




*もしもあの時、バレーボール競技シーンの左上の庇から真っ直ぐ、この高さでコンクリート面に落ちていたら、どうなっていたのだろう?

 明るい陽ざしが降り注いでいた。窓の下は書籍や雑誌の搬入口で、向かい側は倉庫類が肩を並べていて、その通路に当たるということで、ちょっとしたコンクリートの広場となっている。折から「社内各局対抗」の競技大会が始まって、バレーボールコートとして利用されていたのである。

 ネットを挟んでポーン、ポーンと音を立てて賑やかにコートを往復するボールが、何かに拍子に大きく跳ね上がって、1階と2階の間に突き出した庇(ひさし)の上の乗ってしまったようだ。試合が中断された。

「お〜い。週刊現代さ〜ん。ボールをとってくださ〜い」
 それを応えて、窓際から眼下をみると、灰色の庇の上にバレーボールがチョコンとのっている。
「はぁ〜い」
 気軽に応えて、ヒョイと庇の上に飛び降りた。と、ズボッと足元が抜けていく。いけない! 咄嗟に左手が枠の一端を掴んでいた。てっきりコンクリートかスレート張りと信じこんで飛び降りたところが、ガラス張りにすぎなかったと、やっと理解したのである。



 その時に味わった失墜してゆく感覚が、いまでもスローモーションでよみがえってくる。
 ともかく頼りの左手一本で、どれくらいぶらさがっていたのだろう。下を見てぞっとした。地面まで5メートルはあるのではなかろうか。そしてこちらを見上げる驚きの顔、顔、顔。

 やっと自分の置かれている非常事態を理解できた。「頑張れよ」と励ましの声が届いた。そこで、右手を添えて、ゆっくり左へ移動し、壁側に足を伸ばし、バランスを保っていると、上からわたしを引き上げてくれる救いの手が伸びてきた。  
「ありがとう」
 支えがあれば、自分の両腕で起き上がるのは、その頃のわたしなら簡単であった。無事、庇から脱出して、枠の上に立った。下から、拍手が沸き起こってきた。窓から部屋の中へ。帰還してみて、この時やっと、血の気が退いていくのを感じた。よくあの状態で、窓の枠を掴めたものだ、と。



 バレーボールの対抗試合が無事再開したのを見届けたところで、しばらく休息するようにと、と社内大会を運営する厚生委員会の先輩社員に当時6階にあった医務室に連れて行かれた。と、そこには落下したガラスの破片で傷ついた手の甲を治療して貰っている「被害者」がひとり、こちらへ笑いかけてきた。
「よく、あの状態で、下まで落ちなかったものだ。パッと片手で枠を掴んだんだってね」

 そのあと、一休みしたところで、今度は庶務課に出頭させられ、ガラス破損の始末書を書かされる。運動神経が抜群なのは認めるが、庇がガラス張りなのを確かめもせずに飛び降りた軽率さを、庶務課長から叱責される。

 この椿事をきっかけにして、「ことしの新入社員で忍者顔負けの運動神経の持ち主がいる」という評判が社内中に流れたらしい。そのせいだろうか、社屋の背後にある、通称「山の上」と呼ばれる高台の講談社剣道場で開かれた「社内対抗・剣道篇」では、普段では考えられない見物者が押しかけた。早稲田大学剣道部副将、4段がどんな技をみせるのか、一つ見てやろうじゃないか、というのだろう。変なデビューをしたばっかりに、それ以降、何かにつけ、スポーツに関わる催し物に、いつもかり出されるようになってしまう。


いまはもう解体された「講談社剣道場」にて。左が正岡四段


 そうした「社内大会」の存在を確認しようと、資料センターでチェックしたのが、その頃、定期的に社員に配布されていた『社内ニュース』であるが、流石(さすが)というべきだろう、きっちりと保管してあった。

 昭和34年5月31日発行の「社内ニュース」には、5 月8日、本社北側広場で行われた開会式の模様が写真で伝えられている。それもバレーボールのコートを上から捉えたアングルだから、まさにわたしの演じた軽率なデビュー劇の舞台そのものであった。





 プログレを地下駐車場に預けたまま、資料センターを辞した。

 約束の時間には少しばかり、余裕がある。茗荷谷までは、長い坂道を1本、上りつめればよい距離である。
 ぶらりと音羽通りを渡り、かつては学園付属通りと呼ばれ、いまでは「コクリコ(ひなげし)坂通り」と呼ばれている坂道に足を踏み入れた。と、やっぱり生き残っているではないか。一見、喫茶店風のレストランが、この時間は営業してないものの『西洋小料理・Coquelicot』の看板が風に揺られて手招きをしている。

 そうだ、茗荷谷での用件が終われば、今度はこの坂を下ってかなければならない。懐かしい「焼きカレー」を注文できるはずだ。そう、心に弾みをつけて、コクリコ坂を、改めて踏み出した。

 2017年の初仕事は、こうしてアクセルON。(この項、つづく)
Posted at 2017/01/09 01:20:20 | コメント(2) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
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何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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