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正岡貞雄のブログ一覧

2012年06月12日 イイね!

あ!? 朝日の第1報記事が剥ぎ取られている ~国会図書館での不祥事報告~

あ!? 朝日の第1報記事が剥ぎ取られている ~国会図書館での不祥事報告~ 中部博さんの『炎上』(文藝春秋・刊)が書店の棚に並ぶ頃合いを見計らって、感想やら収穫を紹介するのがマナーというものだろうから、と執筆を差し控えていた。

 それでも、このノンフィクション作品の主題となる「1974年6月2日」が、突然やってきたのではなかった、という視点で、その「前夜」の出来事や世相を、幕が上がる前の「序奏曲」として記しておこうと思い立って、1973年11月23日に発生した「富士グランチャン最終戦の惨事」を解析した。主にこの死者まで出してしまった「多重事故」を引き金として、主要全国紙がどう報道していったのか、を伝えたつもりである。

       https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/26228665/

 手元に届けられた『炎上』は、自動車専門誌「Racing on」2007年11月号から2009年4月号まで、18回にわたって連載されたものを、著者が改めて2年の歳月を費やして、加筆・再構成した、ノンフィクション作品である。それも、さすが、文藝春秋刊とあって、ハードカバーの四六判360ページ。装幀も、つい手にとりたくなるような、緊迫感でこちらに迫ってくる。使っている現場写真は、あの「稲田理人」氏のものだ。表紙カバーに巻かれている帯のコピーも、いささか煽情的ではあっても、許される範囲で盛りあげを図っている。ここも、さすがだ、というべきか。



●モータースポーツ史最大のタブーに挑む!
●マシン4台が爆発炎上、選手2名が焼死、観客関係者6名が重軽傷を負った大事故
●封印された真相が、38年目に明らかになる
●生き残ったレーサーたちが語る38年目の真実
●1974年6月2日、富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦。スタート直後の多重クラッシュから始まった事故は、レーサー1名が書類送検、という意外な展開を見せる。
●接触事故は故意か、過失か?
●モータースポーツの光と影を描く傑作ドキュメント

 中部博さんとは、この単行本の執筆活動中に面談している。最初は執筆中、2度目はちょうど『炎上』が書きあがったばかりで、出版社側からゲラ刷りが届くのを待っているところだった。そのとき、ぼくが入手したばかりのDVDによる「問題の映像」をお見せした。
さて、どこを、どこまで書き込んだのだろう。心弾ませて、ぼくはページを開いた。

 定石通り、筆者は「事故の現場」にむかってクルマを走らせる。予備知識のない読み手にも、いまの「富士スピードウェイ」のロケーションがわかるように、丁寧に誘導する。
 東名高速の御殿場インターチェンジに着いた。出口料金所はふたつ。ひとつは御殿場駅を中心とした市街地に出る第1料金所で、もうひとつは国道138号線バイパス側にある第2料金所。富士スピードウェイへむかうクルマは、ほとんどがこちらを選ぶ。レース事故の発生した1974年当時は、このバイパス・ルートは建設中で、その料金所はまだなかった。

 料金所を出ると左折。国道246号線へむかう。晴れた日には前方に富士山が見える。246号線との立体交差点で、一旦、東京方向へ右折。しばらく直進。やがて静岡県小山町の交差点。ここからは、サーキットまでの道案内看板に従えばいい。雑木林を突っ切る一本道。急に風景が広がり、高級霊園として知られる富士霊園の参道にぶつかる。そのT字路を右に曲がると、すぐに富士スピードウェイである。その富士霊園には、その1974年のレース事故で夭折したレーシングドライバーの墓がある。その人の墓参をしてから、富士スピードウェイの事故現場を検証したい、と筆者は考えていた……。

 非業の死をとげた二人のレーシングドライバー、鈴木誠一と風戸裕について、筆者は鎮魂の想いをこめて、丁寧に紹介する。その上で、事故がおきたレースに出走していたレーシングドライバー17人について、手際よくまとめている。
 
 生沢徹と高橋国光は、レースに興味のない人でも名前を知っているほどのスター選手であった。とくに生沢はもっとも人気があった。レーシングドラーバーといったら彼の代名詞であるほどの知名度があった。
 高橋国光はオートバイライダー時代にはホンダ・レーシングに所属してオートバイ世界GPに挑戦し、1961年(昭和36年)の西ドイツGP250ccクラスで勝ち、モータースポーツの世界選手権で初めて優勝した日本人。このレース事故があった1974年当時は、日本最強のレーシングチームといわれた日産自動車のワークスのエースドライーバーと目されていた。

 そのほか、68年日本GPで優勝した北野元、69年日本GPの勝者である黒沢元治、このほか高原敬武、津々見友彦、長谷見昌弘などといった当時のトップクラスのレーシングドライバーが出場していた。

 ここで筆者は、前置きの声量を一段と高める。

――こうした当代一流のレーシングドライバーたちのすぐれた運転技量と豊富なレース経験を疑う余地はないだろう。だからこそ限度をこえた鍔迫り合いになって、二人のレーシングドライバーが死亡するほどの事故になったのか。それとも最上級のスポーツドライビング・テクニックの持ち主でも避けることのできない、想定すらできない事故だったのか――。


*6月3日付けの『朝日新聞』朝刊(東京版)社会面のトップ記事

 そのようなレース事故が、1974年6月2日に富士スピードウェイでおきた。
 翌日、6月3日の『朝日新聞』朝刊(東京版)は、社会面のトップ記事で報道している。「レーサー2人焼死・富士スピードウェイ・時速200キロ、一瞬の惨事・フェンス激突、炎上・観客ら6人重軽傷」の大見出しで、社会面の半分ほどをしめる9段抜きだ。

 他の全国紙である『毎日新聞』と『讀賣新聞』の朝刊(東京版)は、社会面トップに首都圏の国電(現JR)停電事故をもってきているが、このレース事故の報道はどちらも社会面の約4分の1をさいた9段抜きの記事である。

 このように、中部さんは全国紙も異例の報道ぶりだったことを取り上げているのだが、ぼくにとって、違和感がありすぎた。ご記憶のかたもいらっしゃるに違いない。2月20日にアップした当ブログは≪翌日の「朝日新聞」を読む~運命の第2ヒート・再び⑤~≫というタイトルで、こう検証していた。

<2日、富士スピードウェイで、二人のレーサーが死んだ。風戸裕選手は国際経験も豊富な「慎重派」。鈴木誠一選手は、オートバイとストッカー(市販車)で鳴らした筋金入りの「超ベテラン」。事故原因は調査中だが、よりもよって、なぜ、この二人が死んだのだろうか。
この日のスタートは、ペースカーが先導し、隊列をととのったのを見て、いっせいにスピードをあげて走りだすという《ローリング方式》。これまで停止したままエンジンをかけ、競技長の合図でいっせいに走り出す方式だったのが、昨年秋の死亡事故にこりて、ことしから安全なローリングに切り替えた。
 だが、安全なはずのローリングが安全でなかった。事故の起こった午後の第2決勝ではペースカーが中途半端な走り方をしたため、ローリングを2周も回ってスタートの「緑旗」が振られ、正面スタンド前を通過した時は、17台の車がしりと鼻を突き合わすように1団となって、ばく進した>
 これが、あの多重事故の起こった翌日、1974年6月3日(月曜日)、朝日新聞スポーツ面に掲載された記事の書き出し部分である。スペースは4段組みに、いわゆるベタ記事と呼ばれる地味な扱いであった。が、注目度は高い。プロ野球では巨人や阪神が圧倒的な人気を集めた時代だし、東京六大学で早慶両大学が競り合っていた。そんな華やかな記事に挟まれて、写真こそ付けられていないが、かなりエキセントリックな見出しが4本、踊っていた。「山下」という記者のクレジットが付されていた。

 率直にいって、他紙に比べてこの朝日の妙に冷静な報道ぶりに、「おや?」と感じていた。しかし、間違いなく、国立国会図書館で縮刷版を閲覧した際、6月3日付けからは当該記事以外、見当たらなかったのである。

 それが『炎上』では、スポーツ欄からのものではなく、社会面からの9段抜きの報道が紹介されている。狐につままれる、とはこのことだろうか。中部さんはこのあと、細密に朝日の第1報社会面記事を引用している。う~ん。これはもう一度、国会図書館に行ってみるしかない。


*国立国会図書館二景


 5月中旬の水曜日、クルマで赴いてみると、駐車場に「休館日」の張り紙。出足をくじかれた。そして6月5日、やっと国会図書館へ。手続きをすませると、まっすぐ、新館4Fの新聞閲覧室をめざした。縮刷版はフロアーのもっとも奥にあって、自由に閲覧できるシステムになっている。もう何度も通ったコーナーだ。1974年6月分を取りだし、閲覧テーブルでページをめくる。

 スポーツ欄には例の4段組の「山下レポート」はおさまったままだ。さて、最終見開きとなるべき「社会面」を探す。が、やっぱり、ない!! ページナンバーが、74でプツリと終っていて、左のページは77に飛んでいた。状態がよく飲みこめない。

 見開きページの喉元を見る。と、何者かの手によって、75、76に該当する裏表の一枚が、無残にも剥ぎとられた形跡がある。綴じ代の糸がみえた。何者かのドス黒い意志か。それとも、単純な悪戯なのか。

 確実にいえるのは、ぼくが初めて該当縮刷版を手にした2012年2月16日の段階で、すでに剥ぎとられていた、ということだった。

 
 早速、図書館側に不祥事を報告する。幸い、マイクロフィルムが別途所蔵されていて、当該ページの内容は閲覧することはできたが、一体だれが、何の目的で、過去の記録の宝庫である新聞縮刷版から、「そのページ」をむしり取ったのか。

 この悲しむべき事実を、早速、中部さんに伝えた。間違いなく、中部さんが閲覧した2年ほど前には「そのページ」は、縮刷版のなかで安らかな日々を送っていたことが確認できた。                                                            
                                            (この項、つづく)

Posted at 2012/06/12 16:38:28 | コメント(4) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年04月27日 イイね!

『朝日新聞』は偏見に満ちていたのか ~1973.11.23の『炎上惨事』②~

『朝日新聞』は偏見に満ちていたのか ~1973.11.23の『炎上惨事』②~『レーサーの死』の著者・黒井尚志さんが「偏見に満ちた記事」と指差した朝日新聞は、どんな報道だったのか。その検証からはじめたところ、右肩上がりの連続で、すっかり精神の抑制が利かなくなっていたあの時代の記憶が蘇ってくる……。

 1973(昭和48)年11月24日の朝日新聞は、第3面を「〈渋い連休〉ノー・ガソリンデー初日」と題して各地の話題を集めていた。なにしろ、日本道路公団(当時)のハイウェー計40か所をはじめ、全国約4万3000か所のガソリンスタンドの多くが休業、ドライバーの給油がシャットアウトされたのだから、その騒動ぶりは容易に想像できる。


*1973年11月24日の「朝日新聞」朝刊第3面

 この日の交通量は全国的にみると3割減で、東名高速道路は、浜名湖サービスエリアの駐車場がいつもと違って空間が目立ち、6,7割程度の利用。静岡県小山町の富士スピードウェイではグランプリと同じくらい人気のある富士グラン・チャンピオン最終戦の決勝レースが行われたが、つめかけたマイカーは約4000台(御殿場署調べ)で、いつものレースの3分の1だった。――と前置きして、各地の道路で燃料切れに呆然とする車が続出するなか、トランクに予備ガソリンの容器を積んだちゃっかり組に、それがいかに危険な行為であるか、警告を発するスタイルをとって、「社会の公器」としての使命を果たしていた。

 また第21面の「東京」欄では、「消えたネオン 消えぬ社用族」という大見出しで、節減令どこ吹く風の「夜の銀座」の狂騒ぶりを辛辣に、そしていささか、自嘲気味に伝える。

「夜10時、外苑通りの日航ホテル前にハイヤーがどっと集まってきた。駐車場所を確保するため、けたたましくクラクションを鳴らし合い、陣取り合戦。約50メートルの長さの駐車場所に、ざっと15台の車が斜め駐車し、その外側にも身を寄せるように車が列をなし、たちまち30台。
 かっぷくのいい紳士が3人、4人と車から降り、クラブやバーに消えると、かしこまっていた運転手らは外に出て背伸び、「お客さんが出てくるまで2時間は待たされるだろうな」「エネルギー危機なのにムダだって? ムダはわかるけど、こうやって使ってもらわないと食っていけないよ」
 そばでタコ焼きの屋台を出しているおばさんが、こうした光景を、冷めた目で見続ける。
 11時を過ぎると、客を降ろす車、迎えに来た車の往来が一段と激しくなった。



 大手ハイヤー会社の銀座営業所。ここだけで92台の車を置いているが、1日平均400件の利用があって車庫に車が遊んでいることはめったにない。大手建設、商事会社などがお得意さん。朝のお出迎えにはじまって、昼は商談、夜は12時から1時ごろまで接待、というケースが多いようです、と営業所の係が話す。この営業所だけで、1日入ってくるハイヤー料金は計200万円、使うガソリンは約3000リットルだそうだ。

 こんなスケッチも。
「店がはねる11時半過ぎ、家路を急ぐホステスと客が歩道を埋めた。有楽町や新橋駅へ向かう電車帰りの人たちだ。買い込んだトイレットペーパーを抱えるホステスもいる。流しのタクシーは「新宿まで1500円だよ」と、相変わらずの乗車拒否。
 近くのタクシー乗り場に長い行列ができたが、止まらない車が多く、30分以上も待ち続けるのはザラだ。そんなイライラを横目にハイヤー族が車に乗り込む。午前零時過ぎ、外堀通りは客を家まで送るハイヤーと、身動きできずにいら立つタクシーがひしめき合い、サイレンを鳴らした救急車が立ち往生、救急車はサイレンを鳴らすのをあきらめた。
 この間、銀座の大きなビルのネオンは消えていた。
 同夜、銀座に集まったハイヤーや高級車は延べ1000台以上、やっと駐車場所からハイヤーが姿を消したのは午前1時をまわっていた。

 そして23ページ目にある「社会面」は10段のスペースを使って、富士スピードウェイ炎上事故の詳細を掲載している。

「恐怖のカーレース」「激突炎上し4人死傷」「テレビ実況中 惨事、茶の間へ」
 もう見出しを並べただけで、内容もわかってしまうようなものだった。

――約10年前から始まった日本の自動車レースで4人が一度に死傷するという大事故は初めてだが、このレースはテレビで実況中継されていたため惨事の瞬間がテレビでそのまま茶の間にも送り込まれ、ブラウン管を赤々と染める火災と黒煙が大きなショックを与えた。



 すでに前回、読売の報道で事故の模様は紹介済みなので、重複する部分は省略するとして、「朝日」ならではの指摘部分については、極力拾い上げたつもりである。

 その書き出しは新聞記事というより、雑誌的な「情緒」をたたえたものだった。
「さる3月からシリーズで行われてきた排気量2リットルのレーシングカー・レース、富士グラン・チャンピオン・レースの最終戦、富士ビクトリー1200キロ(6キロコース33周)は、2万4000人=主催者調べ=のファンが見守る中で同日午後零時45分スタートした。競技長の振るスタートのフラッグを合図に34台の車が耳がつんざくような爆音をあげて一斉にスタート。約1キロの直線コースを、各車が先を争って飛び出した。コースはそこから右に急カーブ。しかも走路が、右下がりに30度も傾いている難所のバンク。主催者側の発表によると、第2集団にいた生沢選手が、バンクに入って間もなくスピンを起こし、その後ろにつけていた中野選手が、よけようとして、これもスピン。コース上部のガードレールに激突して車体がバラバラになり、あっという間に火炎につつまれ、走路を下へと落ちて行った」
 そこへ後続の3台があいついで追突。この3台も燃えあがり、一緒に転落していった、という。描写がつづく。が、事故の発生場所こそずれているが、半年後に起こったあの惨事と酷似しすぎる。



*当時の30度バンクのレースシーン(1974年6月2日の富士GC 東京12Ch放送録画より)

*同上放映シーンより、事故現場へ走る観客

「事故が起こったのは、スタート後1分足らず。もくもくとあがる黒煙に場内は一瞬静まり、すぐどよめきに変わった。現場を目ざしてファンがすすきの野原を走る。消防者と救急車がけたたましくサイレンの音を響かせて現場へ。この異様なふん囲気に、関東をはじめ、中部、関西から集まった“カーキチ”たちも、ただだまって見守るだけ」
 レースはそのまま続行されたが、観客のほとんどはレースなど見ていなかった。事故から2時間後、中野選手の死亡が公式に発表される。選手たちの話によると、病院に向かう前に中野選手は死亡していた、という。
 事故発生と同時に御殿場署は現場検証を行い、業務上過失致死牀の疑いがあるかどうか、関係者から事情を聞いているが、同署は「レース中の事故なので、刑事上の責任を問うのはむずかしい」とみている。

 それが半年後、黒沢・北野の両選手の接触が招いた多重事故の際の取り組みは、随分と温度差がある。そこが当事故を「序奏曲」と想定して、ながながと「朝日」「読売」の報道記事をおさらいする所以であり、池田英三さんが「引き金」と指摘したのも、肯けるではないか。

 辛辣で、率直な記事がつづく。改めて横書きの見出しで、こう謳う。

「マシンは高性能 追いつけぬ技術」「選手は賞金に血まなこ」
 ――4台が炎上するという大事故の現場に残っていたのは、焼けただれた醜い細い鋼鉄製の棒だけだった。高性能を追及するクルマ、それに追いつけない選手の技術、選手を血まなこにさせる賞金と商品、それにつけこむコマーシャリズム――事故は起こるべくして起こった。

 そして、マシンの高性能さの裏に潜む危うさに、こう言及する。
「死亡した中野選手の車は、排気量1975ccのシェブロンB23。エンジンは決められた排気量の中で、スピードがめいっぱい出るように改造され、車体も極端に軽くしてある。外見はいかにもカッコいいが、普通の車と違ってレーシングカーの中身は細いパイプばかり。そのうえ外装も軽金のマグネシウム合金の板。手で押せばへこみそうなほどチャチなもので、火に弱い。中野選手がガードレールに激突した瞬間、クルマ全体が火に包まれていたという」

 この危険性については津々見友彦選手をはじめ、心ある関係者は強くアピールしていたのは、事故後のAUTO SPORTの特集号でもうかがえる。その手当をしないまま、富士グラン・チャンピオンシリーズは、新しい1974年のシーズンに突入する。その状況を踏まえて、中部博さんの『炎上』が店頭に並んだ。

 どこを、どこまで書き込んだのだろう。心弾ませて、ぼくはページを開いた。
Posted at 2012/04/27 00:03:37 | コメント(3) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年04月24日 イイね!

引き金となった前年の『炎上惨事』 ~1973.11.23の最終戦をめぐって~

引き金となった前年の『炎上惨事』 ~1973.11.23の最終戦をめぐって~ ノンフィクション作家の中部博さんから、4月15日付の丁寧な手紙が届いた。
「……4月25日に、自著『炎上 1974年富士・史上最大のレース事故』を文藝春秋より上梓することになりましたので、ご報告申し上げます。この本の原稿は、月刊『レーシングオン』に連載しました〈1974.06.02 まだ振られていないチェッカーフラッグ〉をもとにして書き上げたものです。(このあと、ぼく=正岡との交流への謝辞を頂戴しているが、ここでは省略)ノンフィクションを書き続けてきたわたしは、愛好するモータースポーツを、記録文学として成り立たせたいと傾倒してきました。いまだに文章修業の道なかばではありますが、その仕事がひとつかたちになったと思います。これからさまざまなご批評をいただくところでありますが、ともあれ日本のモータースポーツ発展の一助になれば幸甚とねがっております。拙著は版元からお手元へお届けする次第です」

 念願の本が書きあがって、世の中へ出る。物書きとしての期待と不安、達成感と反省。さまざまな想いがないまぜになってドッと押し寄せる。中部さんはいま、そのど真ん中で揉みしだかれる至福のなかにいることだろう。

 日を置かず、文藝春秋からその本は届けられた。早速、拝読。ここから先は、中部さんの『炎上』が書店の棚に並ぶ頃合いを見計らってから、感想やら収穫を紹介するのがマナーというものだろうが、この際、ぼくはその露払い役を務めたい。このノンフィクション作品の主題となる「1974年6月2日」が、突然やってきたのではなかった、という視点で、その「前夜」の出来事や世相を、幕が上がる前の「序奏曲」として記しておこう、と思い立った。


*1974年6月2日の炎上現場(当時の東京12チャンネルの録画放映シーンより)

 まず、これまで手元に集まっている資料を洗いなおすことから始める。

「74年シーズンの事実上のトリガー(引きがね)は、その全要因が73年11月23日に行われた富士グランチャン最終戦の惨事にスタートしている。その日富士30度バンクでスタート直後に起きた状況についてはあらためて書くつもりはないが、偶然この日から日曜、祭日のガソリンスタンド閉鎖が指導された例の石油ショックのスタートだっただけに、事故そのものよりのモーターレースに集まる何万人の観客のほうが社会的な問題としてクローズ・アップされてしまった。石油消費節減策の話題をまっていたマスコミにとっては、絶好のテーマとみられるように大きく扱われ、スポーツを罪悪視する空気が一気に広がった」
 この一文は「Auto Sport Year’75」に掲載された池田英三さん(故人)の「国内モータースポーツ’74~’75」の書き出しからの抜粋である。この当時、こんなに冷静に「富士多重事故」を解析し、将来への提言、処方箋まで目配りされたレポートが発表されていたことに、ぼくは注目していた。ちなみに池田英三さんは、稲門(早稲田大学)自動車部の草分けで、後年、AJAJという自動車ジャーナリスト集団の会長まで務めた重鎮のひとりである。

 池田さんの論述は、このあと石油供給不足のあおりでアタフタする自動車業界の施策に触れ、富士グラチャンのあり方についても、今になって読んでみても、なるほど、と首肯させられる内容であった。が、ここではひとまず、では、当時の新聞報道がどんなものであったのか、検証することから始めたい。



 まず、1973(昭和48)年11月24日(土)付け『読売新聞』朝刊の社会面。ど真ん中の10段を費やして「ガソリンスタンド休業初日」の様子を「“ガス欠”ハイウエー」と大見出しをつけて伝え、中見出し、小見出しが散りばめる。「相次いでSOS」「“知らなかった”“何とかなるさ”無関心、アツカマ族」「都内のスタンド99%休業」。読まなくとも、盛り込まれた内容が伝わってくる力の入れようだが、その左側を「浪費レジャー突っ走る」という黒地に白抜きゴシック文字が躍っている。
 そこへ「接触事故を起こし炎上するレースカー」とキャプションの添えられた2段にまたがる写真。さらに5段にわたってレポートが展開する。読んでみよう。

【御殿場】二十三日、静岡県駿東郡小山町大御神の富士スピードウェイで、時速二百キロのスピードを競う富士グランチャンピオンシリーズが開かれたが、前日から二日間のカーレース見物に二万台の車が押しかけたほか、出場車がハイオクタンのガソリンをまき散らす大量消費。同日の決勝レースが午後零時半からテレビで実況中継され始めると「ガソリンのムダ遣い」と抗議の電話が読売新聞社に相次いだ。そのあと事故でレーサー四人が死傷したためその後レースは中止、突っ走ってきた日本経済の現状を象徴するようなざ切の幕切れとなった。

 ここで読売の記者は、ガソリンがどれくらい費消されたかを計算する。

 主催者の富士スピードウェイ会社の話では、この日の決勝レースに用意したガソリン(ハイオクタン)は約三千四百リットル。二千CCクラス三十四台が出場したので、一台当たりの消費ガソリンは百リットル、一台が二百キロ走ったから、一リットル当たり二キロしか走れない計算で、普通車の四,五倍もガソリンを食っている。
 しかも、前日のタイムトライアル、一週間前からのトレーニングを含めると、こんどのレースで計約八千リットルのガソリンが消費されたことになる。また、二日間にわたるレース中、見物に訪れたファンの車は延べ2万台で、このガソリン消費もかなりのもの。

 そこへ、レースの事故が加わったのである。

 この日午後零時四十五分ごろ、同チャンピオンシリーズ最終戦の決勝レースのスタート直後、第一コーナーのカーブ(傾斜角度三十度)で、レーシングカー八台が接触したり、ガードレールに激突して、うち四台がコース上で炎上、ほかに二台が勢い余ってガードレールを飛び越えて大破した。
 このため炎上した車を運転していたヒローズ(ヒーローズの誤植か?)・レーシング所属の中野雅晴選手(二四)は車に閉じ込められ、救急隊が救出して病院に運んだが、途中、全身やけどで死亡した。ほかの炎上車から自力で脱出した清水正智(二六)田島基邦(二六)岡本安弘(三〇)の三選手も御殿場市内の病院に収容されたが、両手足、顔などに二-三週間のやけどを負った。
 御殿場署の調べでは、先頭グループにいた生沢徹選手の車がスピンを起こした。このため後続の車が避けようとしてそれぞれ激突、三台が炎上した。

 おおかたの状況は、ここまでの記事で把握できるだろう。が、さきに黒井尚志さんが「偏見に満ちた記事」と指差した朝日新聞は、どんな報道だったのか、つづけて検証したいが、それは次のエントリーまでお待ちいただきたい。

Posted at 2012/04/24 00:09:32 | コメント(2) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年02月28日 イイね!

浅岡重輝さん、衝撃の証言  ~ちょっと一服のつもりが~

浅岡重輝さん、衝撃の証言  ~ちょっと一服のつもりが~ この日は、時間の都合をつけて、なんとか国立国会図書館へ行くつもりにしていた。
 その前に、ちょっと息抜きを兼ねて、MAZDAの新型『CX-5』の発表会に顔を出すことにした。2月16日の午後1時30分開会、と招待状に記してある。場所は東京プリンスホテル「鳳凰の間」。誰か、懐かしい顔に会えるかも知れないし、「マツダの未来が、この車から始まります」というコピーも気になった。いま評判の「SKYACTIV(スカイアクティブ)技術」をガソリンエンジン、ディーゼルエンジン、ボディ、シャシーのすべてに採用し、気持ちのいい走りと、優れた燃費性能を両立させたSUV、という触れこみのグローバル戦略車。デザインも東京モーターショーで目を引いた《鼓動》の流れが生きているはずだ。

 ま、お披露目の日には、できる限り足を運ぶようにしてきたぼくなりのルールを、今回も守ることにした。結果、それが新しい展開を呼び寄せてくれるきっかけとなるのだから、気になったときには、やっぱり「足を運べ」にかぎる。

 20分前に着いてみると、会場は半分ほどが埋まっていた。係の人に中央のゾーンまで案内され、着席してみると、左隣から期待通りの懐かしい顔が、笑顔でこちらへ挨拶を送ってくれる。浅岡重輝(しげあき)さんだった。


*右端のサングラス姿が浅岡さん。中央は津々見友彦選手。

 どちらからともなく、「久しぶり」と声を掛け合ったものの、ぼくにしてみれば、ついさっき会ったばかりじゃないか、という気分だった。だから、浅岡さんに、「実は……」と断って、このところ取り組んでいる「1974年6月2日の富士GC第2戦第2ヒート」の「多重事故」に関する映像を、朝から検証していたのだが、そのエンディングシーンで、あなたと津々見友彦さんが燃えたマシンの残骸を前にして、深刻そうに話しこんでいるところを見たばっかりなもので……なんだか「天の配剤」の気分ですよ、と伝えてしまった。

「あ、そうだったの。あの時、ぼくは選手会長でコントロールタワーにいた。そしてあの事故が起きて、ともかく事態を把握して、矢面に立たなくてはなんなかったのよ」
「じゃ、例の接触シーンも後日、見せられたの?」
「見ましたよ。細かいことをどこまで記憶しているかは別にして……」


*F1GP前座有名人レースに招待されたときの記念すべき1枚。


*スターティンググリッドについた⑪S・Masaoka選手。前座レースとはいえオーストラリアF1グランプリですぞ。

 浅岡さんとは、不思議な縁で昵懇がつづいている。1985年11月1日~3日の3日間、オーストラリア・アデレードで開催された「F1グランプリ」の前座レースに招待された夢のような記憶。なんでも三菱が冠スポンサーとなって、「コルディア」のワンメークレースをやるから、ぜひエントリーしてほしいという要請があった。元プロのレーシング・ドライバーとアマチュア現役の有名人が二人一組となって、ジャック・ブラバムやバーン・シュパンといった世界的な名ドライバーと、新設された市街地コースで競うというのだ。
 その時の日本人チームのプロ代表として招待されたのが、元いすゞのワークスでいまはモータージャーナリストで活躍中の「S・Asaoka」と、富士フレッシュマンレースで奮闘中のクルマ雑誌の編集局長である「S・Masaoka」。「M」を削れば全く同じ名前じゃないか。
 これでは現地TV実況アナウンサーが混線してしまうのも無理ない。帰国して見せられた中継録画で、いいポジションで、コーナーを綺麗に抜けていく日本人ドライバーを絶賛している。
「ジャパンから来たジャーナリストのエス・マサオカがファンタスティックなドライビングをしているぞ!これは速い!」と。

 ミラージュCUPにステップアップしたときも、講師であった浅岡さんは丁寧にアドバイスをくれたのを、いまでも感謝している。

「いいですか、特定のコーナーで頑張ってはダメ。この富士スピードウェイを一つのコーナーだと思って、丸く、円を描くように走ってくださいよ」

 いつの間にか、周りの席は、取材に来た関係者で埋まっていた。『CX-5』の発表会がはじまろうとして、一瞬、会場のライトが絞られた。
「じゃ、来週初めのお昼、ご一緒しましょう。電話します」
 小声で約束を確認したところで、ちょうど、マツダの山内孝社長が登壇、新型車のアピールポイントを落ち着いた口調で説き始めた。



 発表会終了後、国会図書館へ急行。即日複写の受け付けは午後6時に締め切られるという。予期したように時間が足りない。「朝日」「読売」「毎日」「中日」4紙の1974年6月3日の朝刊を洗い出すのがやっとであった。

 2月21日。浅岡重輝さんとお昼のランチを、恒例の東京プリンスホテル1F『和食処・清水』でご一緒した。約束の時間ギリギリに着くと、浅岡さんは30分前からロビーで待ってくれていた。そんな躾の良さはどこから来たものだろう。以前から興味を持っていたから、ちょっと探りを入れてみた。
「浅岡姓のルーツを聞かせてくださいよ。まさか、徳川家の旗本だったとか」
「祖父の代まで美濃藩の家老の家だからって、いろいろ面倒だったらしいけど、親父が次男で、冶金の研究者、大学の教授だったもんで、結構自由な空気で育ったんですよ」
「だから、ヨーロッパ車に通暁した早熟少年に……?」
「そうですね。大学時代からスポーツカークラブを創設して、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリを始めるにあたって、レギュレーション創りに指名で狩り出されたくらいですから」
 
 この後、モータースポーツ草創期の秘話や内幕、いまだから明かしてもいいエピソードを、いろいろ訊き出したが、それはいずれ、ご本人の了解を得てから、明らかにしたい話ばかりだった。ま、ここは、こちらの本題を。

 持参したiPadをONにした。つぎに「あの瞬間」とタイトルをつけておいた映像ファイルを開いて、浅岡さんに見てもらうことにした。
 一通り見終わったところで、スローモーションのかかった正面からのショットを改めて点検する。そして意外なコメントが、浅岡さんの口から飛び出した。
「違うな。ぼくが見せられたのはこれじゃない。これはTV録画放映された分。ぼくが黒沢車と北野車の接触シーンとして確認したのは、もっとカメラアングルがグリーンゾーンから向けたもので、映像はもっとシャープで鮮明だった」

 また一つ、新しい課題が飛び出した。どうやら5万6000人の観衆の中から、「その瞬間」を撮影した観客を探し出し、警察側がガンさんに突き付けたと伝えられる、映像がそれだったのか。では、その映像はどこにあるというのか。
 
 ちょっと一服どころではなくなった。


 
Posted at 2012/02/28 01:00:46 | コメント(2) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年02月26日 イイね!

標的にされた「速すぎる男」  ~それからのドス黒いドラマ②~

標的にされた「速すぎる男」  ~それからのドス黒いドラマ②~ この朝日新聞の記事(7月5日付け)の書き手は、恐らく6月3日の事故第1報を執筆した「山下記者」ではないだろう。その内容に、モータースポーツに疎い読者に対しても、なんとか理解が届くようにと心を砕いた、あのジャーナリストの情熱のかけらも感じとれないからだ。有態にいえば、静岡県警捜査一課と御殿場署が、黒沢元治選手を「業務上過失致死傷」の容疑で静岡地検に書類送検する、とスクープしようと急ぐあまり、その容疑内容について警察側の資料をそのまま引用している、といえるからだ。それでも社会に与えるインパクトは強烈過ぎた。



*1974年7月5日の朝日新聞社会面(クリックで拡大)


 なにしろ当日の社会面を開くと、「特等席」といわれる左上欄5段スペースの半分を費やして、大きな3本の見出しと記事が踊っている。加えて、ガンさんの顔写真まで添えて……。
「富士スピードウェイ事故 黒沢選手を書類送検へ」
「規則を破り接触」
「競技事故 初の刑事責任追及」

 これでは、あたかも黒沢選手が事故を起こした罪により、いまにも逮捕されるような印象を与えるではないか。そして、その記事の内容がお粗末そのものだった。37年が経過した今になって「TV放映録画」をつぶさに見ることができたからこそ指摘できることだが、黒沢/北野車が接触した直後の様子を相変わらず、こんな風に間違ったまま、書いているのだ。

「これまでの調べでは、6月2日午後2時5分ごろ、1周6キロのコースを参加17台が2列縦隊で2周ローリングし、メーンスタンド前からそのまま一斉にスタートした直後、右回りの第1コーナーの手前200メートル付近で事故が起きた。先頭の高橋国光選手のすぐ後ろをほぼ並んで走っていた黒沢選手の車と北野元選手の車が数度にわたって接触、はずみで北野選手の車が左側ガードレールに衝突してはね返り、コースを横切って右側のフェンスを突き破った」

 確かに、それは一瞬の出来事で、黒沢車と北野車の接触が引き金となって、忌まわしい惨事が起こったのは分かるにしても、詳細は不明のままだった。だからこそ、新聞報道には正確な事実確認が望まれる。にもかかわらず、実際には北野車は黒沢車との接触でグリーン側に押しやられ、左の前後輪が抵抗の大きい芝生にはみだし、そこから右前のカウルが持ち上がり、次にカウルが元の位置に収まった瞬間イン側に切れ込んでいったのを、ガードレールに衝突してはね返り、と全く事実にないことを書いている。



 これは6月3日の「毎日」「読売」が同じような記述をしている。グリーンにはみ出す接触と、弾き出されてガードレールに当たり、そこから跳ね返されてコースを横切るのとでは、えらい違いようである。それに接触事故のあった地点の左側はコンクリートの壁で、ガードレールが設けられているのは、鈴木・風戸の両車が炎上した地点からである。

 そうした情勢を朝日の記者が確認・取材できないはずがない。記者自身がこう書いているではないか。

「同県警は、事故発生直後から約1か月間、参加15人のレーサー、大会責任者、観客など数十人から事情を聞く一方、レースを中継していたテレビ局のビデオテープ、観客席のアマチュアカメラマンが事故寸前まで撮った8ミリフィルム、燃えずに残った黒沢選手の車の傷痕などを調べた結果、黒沢、北野両選手がコーナーに入る寸前まで数度にわたって接触していたことがわかった」

 ジャーナリストとして、この事故原因の真実を突き止めようという気持ちさえ持ち合わせていたなら、この過程で映像をみるくらいのことは、できないはずがない。事情を聞かれたレーシングドライバー、関係者のなかの何人かは、映像を見せられたと証言している。もし、記者が見ていた側の一人なら、「ガードレールに衝突してはね返り」などというありもしない出来事を書くわけもない。だからぼくは、捜査側の資料から書き取ったものではないか、と失礼な言い方をしてしまった。

 しかし、この朝日の記事によって黒沢選手がますます窮地に追いやられた。3日後の7月8日、ガンさんはJAFに競技ライセンスの返上を申し出てしまう。その際、JAFスポーツ委員長に提出した文書はこうだった。

「今般、私に因を発する新聞を媒体とした社会批判は、モータースポーツ界に多大な悪い影響を及ぼし、とりわけ貴連盟、ドライバー諸氏、関係役員の方々、その他モータースポーツを応援して下さっているスポンサーの方々、ファンの方々にご迷惑をおかけいたしましたことは遺憾であり、申し訳ないことと、お詫び申し上げます。
 ここに謝罪と反省の意を表し、その証として貴連盟発行の競技運転者許可証を返上し、自身へのいましめとする次第です。      黒沢元治」




 このことを当時のCG誌が「国内スポーツ」欄で紹介していた。そして、こう伝える。

「(前略)すなわち、日本最速のレーシングドライバーの一人、黒沢元治が、そのレーシングドライバー生活からひとまず身を退くことを決意したのである。その数日前のA新聞に発表された“書類送検か”という記事が、彼の決意に少なからず影響を与えているといわれるが、結局彼は7月17日、静岡県警および御殿場署により業務上過失致死傷の疑いで静岡地検沼津支部に書類送検されてしまった。(中略)亡くなられた二人に続いて、日本のモーターレーシング界は、また一人、惜しむべき人材を失ったことになる。そしてある意味では、黒沢は第3の被害者といえるかもしれない。なお、現時点では、彼に対するJAF側の態度は決定していないといわれる」
 
 7月17日、CGの記事にあるように、ガンさんは「書類送検」される。
静岡県警がガンさんに過失があるとしたのは、なんと「安全無視の幅寄せ」だというのだから、驚きである。
「富士グラン・チャンピオンレースの特別規則書の安全規定に、周囲の安全を確認したうえで進路変更しなければならず、故意であるなしを問わず、幅寄せをしてはいけない、と定められているのに、黒沢が高橋選手の車のスリップストリームを利用し、コーナーを有利に回るため、すぐ左を走っている北野選手の車に注意せず、急激に左外側に進路変更した点。初めこれを否定していた黒沢も、その後の調べに対し過失があったことを認めた」(朝日新聞7月18日の記事より)

 それからさらに7か月後の1975年2月27日、静岡県警沼津支部はガンさんの不起訴を決定。事件はここで終結したはずである。が、ガンさんの泥沼でもがくような苦闘はこのころから、さらに深刻化していった。レース界に復帰するには様々なハードルが待ち受けていたし、家庭崩壊、新しく始めた事業の失敗。あっという間に、ガンさんは大切にしていたものをすべて失った。なぜガンさんだけが、それほどまでに人権を無視され、社会的な制裁をうけてしまうことになったのか。「ドス黒いドラマ」には様々な背景、思惑があるようだ。
Posted at 2012/02/26 05:05:34 | コメント(5) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
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何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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