いまや幻となった西日本サーキットでの「セピア色の記憶・第7幕」
ミラージュCUP「名人の部」第2戦&F3000オールスターレース
(1987年5月10日)
「年に一度のお祭りじゃろが! みんな、ドーンと来ンかい!!」
わたしの北九州弁が聞こえたのか。九州、中国、四国の各地方のモータースポーツファンが、その年のゴールデン週間が終わったばかりにもかかわらず、山口県美祢市の西日本サーキットにどっと押し寄せた。5万人。どのコーナーも鈴なりの人垣だった。
お目当ては、もちろんF3000レースだろうが、その直前に行われるミラージュカップも、結構注目の的だったようだ。その熱気に応えたのか、ベストカー’87年6月26日号は1色グラビア4ページを費やして、わたしの参戦&観戦レポートを掲載させてくれている。題して『お邪魔虫・ゼッケン⑫(F3000&ミラージュ)の明と暗』。今回もこのレポートを参考にしながら、稿を新しくした。いやぁ、いろいろな記憶が甦ってきて、身の置きどころがなくなる……。
*なんとも田園チックなサーキットだった西日本サーキットの佇まいがおわかりいただけるかな。
予選のあった土曜日も、グランドスタンドが満員に近かったし、混雑を恐れて、午前7時前にサーキット入りした決勝レースのある5月10日なんぞは、すでに2万人近い観客が、思い思いの観戦ポイントを占拠していて、ドライバー全員が張り切らざるを得ない雰囲気になってしまう。それにしても……西日本サーキットは聞きしにまさる難コースだった。その辺を少し説明しておこうか。
全長2815.5km。距離が短く、日本では数少ないカウンター・クロックワイズ(反時計の左回り)のコースで、トリッキーなコーナーが連続し、また最大標高差が15mもあり、アップダウンに富んでいて、路面のミューの低さは飛びぬけていた。だから、ドライバーには極度の集中力と、その持続力が求められるわけだ。あの星野一義ですら、「ストレートが少ないから、忙しくって」と、顔をしかめたほど。
第1コーナーはどこがベストラインなのか、何度走ってもわかりゃしないし、3つのヘアビンコーナーと、名物のインフィールドのS字はマシンの前後荷重が激しく、タイヤとブレーキにシビアな注文をつけてくる。最終コーナーも厳しい。右端いっぱいにふくらむと、もうコンクリートの壁がすれすれに迫ってくる。
土曜日の予選に備えて、金曜日は30分間、3回のスポーツ走行に挑戦した。参考までにトップ集団のタイムを聞いて、目の前が真っ暗になった。㉜中谷明彦の1分26秒台はよしとしても、ほとんどのドライバーは27~28秒台、㉚松本和子ちゃんも30秒台をマークしているという。当方はといえば最初の30分間でやっと36秒、2度目の30分間で34秒、そして3度目の走行でなんとか32秒台に滑り込んだに過ぎなかった。 どのコーナーもビュンと追いつかれ、あっという間に離される。悔しい。故郷に飾る、なんて豪語?して臨んだこの第2戦。さて、どうしたものか。
*前を行くのが⑰辻村寿和
*㉚松本和子も遠征していたんだ
そんな時、頼りになるのが眞田睦明親分だ。
「そいつぁ簡単よ。上り下りの激しいS字をインベタでいくのよ。⑪鈴木政作なんざ、それでバッチリ1秒縮まったね」
*インベタ走行で1秒縮めた⑪鈴木政作
午後2時22分、予選開始。15分間のうちに、なんとか1分30秒台をマークしたいものだ。走り始めて、自分の視線の動きに、変化が出だしたのに気づいた。たとえば第1コーナー。それまではどこでブレーキングしようか、と一点を見つめる固定型だったのが、いつの間にか、ポンとブレーキを当てた後、3速にシフトダウンしてからマシンが流れていくラインをイメージし始めたのだ。しめた! 景色が変わりだしたぞ。
*怪我の功名で左足ブレーキングをマスターしたインフィールド
*小幡、見崎車を引率して最終ヘアピンへ!
5周目あたりで、ピットから31秒台に突入したとメッセージがきた。途端に元気が出る。背後から忍び寄る白いマシンが2台。④田部靖彦と㉒見崎清志。いつもなら、お先にどうぞ、とあっさりラインを譲るはずだろうが、こちらも燃えてきたところだ。実力で抜いてみな。各コーナーで頑張りはじめた。
もしどちらかのマシンが鼻先ひとつでも前に出れば引くつもりだったが、そこが西日本サーキットの面白さなんだろう、お邪魔虫が変に頑張ると、レースの流れが、そこで滞る。㉒見崎がヘッドライトを点けて、グングン迫ってくる。いいねぇ、この感じ。
*PPを獲ったした③横島久の走り
10周目に④田部にパスされたが、すぐに予選終了。1分30秒82はポールポジションをとった③横島久の4秒遅れ。順位はともかく、心を弾ませて、日曜日の決勝レースに臨めるわけだ。意気揚々と下関のホテルへ引き揚げることができた。
ホテルに帰ってみると、なんと、中学時代からの同級生二人が、奥さん同伴で、夕食を誘いに来てくれていたのだ。そうか、前回の「セピア色の記憶⑥」の終わり際に、思わせぶりに紹介した「白のトレンチコート姿の女子大生とおぼしき、楚々とした年頃の女性」を見かけたのは、土曜日ではなく、1日早く、練習走行のために下関入りした、金曜の夜のことだったのか。さて、くだんの「後年、ミラージュCUP女豹軍団のリーダーとなるお方」とは、佐藤久実さんであった。この時の「ミラージュ観戦」で意を決し、すぐに「ミラージュCUP新人の部」からデビューしてしまう。
さて、土曜の夕方、中学時代からの旧友がわざわざ迎えに来てくれたくだりについては、少し説明の要あり、か。
1954(昭和29)年春、中学時代からの仲良しが、五木寛之さんの『青春の門』さながらに東京の大学へ進んだ。誘い合わせて、博多駅23:00発の夜行列車『銀河』に乗って20時間、煤にまみれて東京駅に着いたものだ。
歳月が流れ、ぼくだけが東京に残り、他の連中は故郷の北九州にUターンして、それぞれの道を進んだ。歯科医と洋品店主が、この日、訪ねて来てくれた。頭髪はすでに白いものが目立つ。でっぷりと落ち着きのいい体躯。
夕日の沈んだばかりの響灘を眺めながら、新鮮な海の幸に舌鼓をうちながらの会話。
「いい歳をして、何故に危険な自動車レースごときに熱中するのだ。立場も考えろ!」
「もっともな疑問であるが、百聞は一見に如かず、招待するから、明日はサーキットに来い」
「よし、行っちゃるわい。お前の惨めな姿を見に、な」
「馬鹿たれ。お前たちに若返りの秘法を教えちゃるんじゃ!」
■闘いながら『左足ブレーキ』の極意を会得!
日曜日も快晴だった。ミラージュレースがやがて開始されようというのに、奴等の姿がなかなか現れない。やっぱり、恐れをなしたか。
マシンのお尻を押してコースインする直前、VOLVOに乗って奴等がやって来た。あまりの観客の多さに腰を抜かしたあとで、まるでお祭りのようだと今度ははしゃぎ始めた。
おしゃべりの相手をする暇もなく、こちらはコクピットにおさまった。スタートはバッチリ。右横にいた㉕橘田明弘が、ゆっくりと後退する感じだった。⑩中村誠の背後に貼りついた。
有松正豊、51歳(1987年当時)。北九州在住の歯科医。つまり、わが同級生の目に、わたしのミラージュレースがどう映ったか。
*旧友との晩餐。懐かしい記憶。
「ミラージュってえらく派手なクルマだけど、こんなの街の中で見たことないよ。音も凄いね。レースは、ゆっくり1周したかと思ったら、いつの間にか、始まっていて、何が何やら。ただ最初のうちは全部が一塊りだったのに、3周目くらいからバラバラになる。正岡の奴は、一番うしろの方で、3台ばかりで競っていたけど、1台だけがポツンと遅れ、その少し前を、一所懸命、前のクルマに離されないよう、しがみついていた感じで、いやあ、見ていて、冷や汗が出たね。息子たちと同じ年齢の者と一緒になって汗をかく――なるほど、こういう世界もあるのかね」
少しは理解できたらしい。レースは③横島を脅かしていた常勝の㉜中谷だが、タイヤの性能の差に気づいて、2位キープを狙い出した時に、勝負はついていた。シリーズポイントを考えると、冷静な中谷の判断だ。
*③横島がポイントリーダーの㉜中谷明彦を抑えて嬉しい初優勝を飾る
わが⑫ベストカーミラージュは、スピンした㉙D・スコットをうしろに従え、1周ごとにタイムを上げた。実は2周目の1コーナーで左足のふくらはぎが、痙ってしまい、一瞬、クラッチ操作の出来ない状態に陥ったが、どうにかおさまったところで、左足をむしろ頻繁に駆使しようと考えた。左足でブレーキングしてやるのだ。これは低速コーナーで、ノーズの向きを変える時に、特に効果があった。
これまで、及び腰でマシンの尻をひねっていたのが、右足のアクセルをゆるめず、ドーンと左足をブレーキに乗っける。
みるみる、先行する㉕との間が縮まる。㉙スコットは後方に消える。30秒フラットをマークしたのも、このせいだった。よし、次戦、筑波フレッシュマンは、これでGOサインだ!
■さてお次は、F3000オールスターレースの観戦レポートである。
たった今、自分が攻め終わったばかりのコースを、わが国のレースカテゴリーの最高峰にあるF3000のマシンが、同じように駆け巡るのを観戦できるのは、まことに不思議な、ぼくらだけに許された幸福な感覚だ。
予選2位に、55鈴木亜久里が星野を抑えて、のし上がった。
「西日本は縁起がいいんです。走ったときは、いつも優勝か、2位。期待していてください」
威勢のいい亜久里だった。前夜もなんの屈託もなく、眠りについたという。若い力の台頭がやっと顕著になってきた。
①星野一義とは、彼がレーシングスーツに着替え、戦闘状態に入る前に、雑談を交わした。
「ここは気が抜けない。それにサスのセッティングがまだビシッと来ない。それより、ぼくの前に2人もいる。それがとにかく、許せないんだ。でも、やるから、見ててよ」
③鈴木利男は、このところHONDAのF1テストに加えられたこともあって、めきめき力をつけてきた。一頃の中嶋悟がそうであったように、パドック裏のワンBOXの中でひっそり、出番を待っていた。
「もうひとつ、タイムが伸びなくって。でも西日本のようなコースは好きですから」
口数は少ないが、珍しく、覇気をみせた。ミラージュではゼツケン③が優勝したよ。
「はい。縁起いいですね」
松本恵二は、まだ低調さから脱出できないでいた。
「予選で今だと思って出ていくと、遅い前のクルマにひっかかっちゃう。その繰り返し。弱音は吐きたくないけど……」
そんなスタードライバーたちの本番前の素顔を、嬉しそうに一緒に観戦する旧友たちに説明してやる。だんだんとサーキットの雰囲気に慣れてきた51歳集団、どうやら病み付きになってくれそうな気配。
午後2時20分、藤田直廣競技長の左手で日の丸の旗が振り下ろされ、レースが開始された。
インを衝く⑨リース、それを抜群のスタートで飛び出した55番亜久里がかぶせる感じ出第1コーナーに入った。やや押されたようにリースの左前ウイングが、走路を区切ったパイロンに接触、パイロンを支えていた古タイヤが弾かれ、跳ね上がってコースを横切った。リースが大きく立ち遅れ、7位あたりまでドロップした。
55亜久里、①星野、③利男、⑫チーバーの順で序盤戦が展開した。追い上げる星野。亜久里との差が縮まった9周目、亜久里が最終ヘアピンでスピン、それを避けようとして、星野が亜久里のタイヤに乗りあげた。
亜久里と星野が、復帰した時には利男が単独で、トップを走っていた。
*3位争いの先頭を行く⑫チーバー。背後に⑨リース⑯関谷、⑧松本、そして①星野とつづく。
亜久里が利男を追いつめはじめた17周あたりで、3位以下10台が団子状態になった。
3位の⑫チーバーが5秒台の、ひどく遅いペースで走っている。それを激しく、⑨リース、⑯関谷がパスしようと試みるのだが、チーバーのブロックで、どうしても前へ出られない。前を行く2台との差はますます開くばかり。焦る後続集団。
抑圧されたエネルギーが負の方向で爆発したのが23周目だった。第1コーナーでインから⑨リースがスルスルと前へ出た。⑯関谷がアウトから⑫チーバーの前へ出た。つまり、チーバーは挟まれたまま、それでも引こうとしない。その時だ。チーバーが右へふくらみ、関谷を右へ弾き出した。行き場を失った関谷はスポンジバリアへ翔ぶ。さらに関谷にのしかかるようにして、チーバーもスポンジバリアに埋まりこんだ。危うく追突しかける、⑧松本と①星野。
大惨事が予測された……。赤旗が出て、レースは中断された。救出作業。関谷は右耳あたりから鮮血を滴らせていた。ヘリコプターで救急病院へ。嫌な感じだ。旧友の奥さんは、身体を震わせ、恐怖の表情を、隠そうとしなかった。
「失礼。ちょっとピットへ行って様子を見てくるから」
旧友たちを残して、わたしはピットへむかって駆けた。
星野は身体いっぱいに怒りを露わにして、指先が震えていた。煙草に火を点けてやりながら、心を鎮めようと努めている星野の眼の奥を覗きこむ。
チームメートの負傷もさることながら、お邪魔虫となった チーバーの走りに怒っていた。
「このレースはF3じゃないんだよね。F3000はもっと厳しくドライバーを選定してくれなくっちゃ、危なくって」
こうした場合、ひとつの解決法として、競技長が目に余るドライバーに対して、ピットインを命じ、膠着状態をなくさせることもできようが、そんな対応もなかった。確かに、西日本サーキットのようなタイプのコースでは、故意のブロックがレース展開の流れを堰き止めやすいのは、わたし自身が体験しただけに、その排除方法はあってもいいだろう。ただいたずらにエキサイトして、一個人を誹謗するやり方は避けねばなるまい。レースをハンドリングする側の断固とした判断こそ必要なのだ。
*初優勝した③鈴木利男。後方は再スタートでピットから出た鈴木亜久里は4位まで順位をあげる。
さて、1時間の中断で、残り周回数も15周に減らされた。
いったん緊張の糸の切れたレースは、もはや、なんの盛り上がりもない。リースと亜久里のエンジンがスタート時にストールしてしまい、ピットスタートとなり、レースは③利男のものとなった。初優勝の利男クンはこれで自信を得て、一皮剥けてくれるだろう。
「おい、来年もこいよ。今度はみんなに呼びかけて、ドカッと押しかけるから」
51歳の仲間たちにとって、この日はいったい何だったろうか。息子たちに、いい土産話のタネができたのか。いや、違う。激しいエネルギーの爆発を見た感動が、彼らに<一瞬の青春>を蘇らせてくれたに違いない。
それから、何年の歳月が流れたのか、指折り数えてみた。26年か。故郷に錦を飾る舞台となった西日本サーキットも、一度は「美祢サーキット」と改名して延命を図ったが、いまではMAZDAの車両開発試験場に変身し、レースとは無縁となった。
あの時、わざわざ下関まで逢いに来てくれた有松夫妻も、すでに鬼籍の人……。う~ん。