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正岡貞雄のブログ一覧

2016年01月15日 イイね!

『As Time Goes By』をリクエストした夜

『As Time Goes By』をリクエストした夜 〜「時が経つにつれて…」もう一度確かめたいものがある〜






 70歳台があと数日しかない、という事実にたじろいでいる。「還暦プラス青春の19歳」と自らを励ましてきたが、いろいろとやり残していることが多すぎて、それも気になってならない。

 暮れからの正月休み、そして成人の日を含めた三連休。いっさいの遠出するスケジュールを入れないで、サイレントすぎる日々を愉しんでみた。それでも元日は近くの八幡神社に初詣して「大吉」という縁起のいいご褒美を頂戴したり、「ベストカー」から借りたままだったバックナンバーの「スキャン作業」が順調に進んだりと、穏やかな時間を楽しみつつ、いろんな発見にめぐり逢うことができた。





 その辺の空気は、折々の140字日記「何シテル?」で触れてあるので、確認のためにちょっとばかり拾ってみようか。

12/27 13:45
歳末恒例の身の回りの整理を、家人からきつく申し渡された。手を付けたのはベストカー〔ガイド〕のバックナンバー入り段ボール。で、必要なところだけPDFにスキャンすることに。手始めに1980年のものから。『五木寛之 理想のクルマを創る』の連載年、例えば、こんなページだ!おお!宝の山だ。

12/28 15:26
1980年代分のベストカーが秘蔵された段ボール箱整理も、あと2箱に漕ぎつけた。それはまさにその時代に生きた仲間と己れを再検証する仕事でもあった。そんな中から特にこのショット。《30cmの幸運》とタイトルしたクラッシュシーン。星野一義という男の強運。今夜はこのテーマでブログUPだ!

12/29 23:09
また一つ、宝物を掘り当てた。ガンさんがニュルでのBSポテンザRE71開発で乗っていた911ターボ・クレマー仕様。開発終了後、その記念としてBS側へ特にお願いして日本に輸送、かなりの期間、乗り回したあの「赤いポルシェ」のネガフィルム。いよいよガンさんのドライブに同乗し、ニュル1周へ。

01/03 00:54
やっとスキャン作業が1988年のもので一段落した。わたしが「編集人」としてクレジットされていたのはそこまで。すでに「べスモ」も1周年目を迎えて、二足の草鞋を返上。その記念号に「べスモ」の広告が。目玉がやっぱり「星野一義」になっている。IMPULがIMPALと誤植なのが残念だが、迫力いっぱいの表情がいい。



01/03 14:12
思いもかけず、あのガンさんがニュルから持ち帰った911ターボの動画をキャッチ! ステージは鈴鹿か。唸った! プラス、いろいろと伝えたい情報満載。これから若い仲間とおしゃべりオフ会あり。で、外出。今夜、紹介ブログをあげることを約束しよう。必見動画なり。素晴らしい贈り物なり。

01/09 16:17
3連休の初日。体調管理のためと資料整理、次の準備で自宅静養、のつもりでいたが好天に誘われて代官山の蔦屋書店へ。PORSCHE専用棚をチェックして、駐車場に戻ろうとして「え!?」。プログレがいつの間にかマカンに替わっている? あ、目の錯覚か。隣に黒いマカンが駐車しただけなのにね。

 そして3連休の最終日は、家人に誘われて隣町の光ヶ丘にあるレストランへ。テーブルに案内されると、なんとわたしの「Happy Birthday」をふたりだけど祝おうよ、という仕掛け。赤いキャンドルに灯がともされ、ピアノが奏でるお決まりのメロディに合わせて、お店の人たちが総出でお祝いの歌をプレゼントしてくれる……でも、こうやって祝ってもらえる日があと何回残っているのかな。ちょいと焦る気分もなくはなかった。



 ピアニストの女性がやってきて、間近にせまったBirthdayの祝辞がわりに「リクエスト曲はいかが?」と。
「ありがとう。それでは“As Time Goes By”をお願いしようか」

 やがて、あの耳に馴染んだ懐かしいメロディがゆったりと立ち上がった。悪くない弾き方だ。

🎵 You must remember this,
  a kiss is still a kiss,
  a sigh is just a sigh.
  The fundamental things apply
  As time goes by.


 
 往年の名画「カサブランカ」の挿入歌である。和訳では「どんなに時が流れようとも」あたりが適当だろう。E・バーグマンとH・ボガートが演じるかつて恋人同士だった男と女が、ナチス支配下にあったパリの酒場で再会するシーンが思い出される。確かDVDで保存してあるはずだから、今夜にでも改めて鑑賞するとしようか。アームストロングも顔負けするドーリー・ウイルソンの、あの渋い声も聴いてみたくなった。70年代から90年代にかけて精一杯エネルギーを燃やした世代にとって、心に灯をつけてくれる歌の一つで、それにまつわる記憶も、いくつか、いまだに発酵し続けている。

 結局、その夜は「カサブランカ」を観るにいたらなかった。DVD類を入れておいたプラスティックの函をゴソゴソやり始めてすぐに、別の探し求めていた手作りDVDを発見したからである。

「Raceアーカイブ ‘88 ミラージュCUP 第1戦 FISCO」
白いオモテ面に黒のマジックペンで書き込まれた文字が踊っていた。ご丁寧にサブタイトルまで添えてあった。
「BESMOミラージュ 予選17位 決勝17位 ’88.4.16〜17」



 これだよ、これだよ。実は1988年いっぱいまでの「ベストカー」のチェックが終わって、スキャニングしたPDFの中で未解決のままのページがあって、さてどこかから手をつけようかと腕をこまねいていた箇所を解明してくれるはずの「宝物」がそれだった。
 問題の1ページ。それは6月10日号のモータースポーツの欄で『ミラージュカップ開幕 今年もまだまだ走りますよ 本誌編集局長正岡貞雄』の見出しと顔写真、それにFISCOの第1コーナーから第2コーナーへ団子状態で抜けようとする6台のミラージュのカット写真が添えられている。まあ、そんなに長くない、半ページ程度のレポートだから、そっくり転載してみると……。

 4月17日の富士スピードウェイに新しい衝撃が走った。F3000とF3の2つのレースでどちらも20歳台のチャンプが誕生したことだ。
 鈴木亜久里と黒澤琢弥。亜久里はポールポジションからのスタートだった。ぽんと飛び出してから、あとは独走、独走のひとり旅。リースが2周目の第1コーナーで黄旗なのに強引に突っ込んでアウト側にはらむ大チョンボ。星野一義は関谷正徳をパスするのに精力を使いはたした感じで、亜久里にとってこんな楽な展開は予想外だったに違いない。ぼくら中年の目には、亜久里のマシンに星野がご丁寧に亜久里のヘルメットをかぶってドライブしているとしか映らなかったのである。

 いつの時代にも、新しいヒーロー誕生の向こう側には、ギリギリまで王座を死守してきた男の滅びの美学があるのだが、その節目に直面したらしい。
 F3を3戦目で制覇した黒澤琢弥にしてからが、ご存じガンさんのジュニアである。
 なにかがすっきり新しくなる予感がする。各チームを華やかに盛り上げているレーシングギャルも大増員だ。随分といろんな企業が力を入れはじめたから、彼女たちには、一つのやってみたいカッコいい、見入りのいい職種になってきている。観客席も当然、若い世代に移りつつある。主催者発表、5万2000人、信じていい数字だ。





 そんな舞台のサポートイベントであるミラージュ・インターナショナル・ラリーアートカップに、ことしも第1戦からエントリーしてしまった。モデルチェンジした今年のマシンは、ニュープロプロダクションのリプレのカテゴリーにあるとはいえ、ほとんどがTSに近い。ストレートエンドでは時速230キロに達してしまう。そこからのブレーキングはハンパじゃない。リアをふられることもたびたびだった。予選17位、決勝17位は、スタート直後のシフトミスで27位までドロップしたことを考えれば、まだ成長過程にあることを立証できた上出来のレースだった。52歳の特別プレス席もあと何戦かは、すわらせもらえるみたいだ。今シーズンもよろしく。

★     ★     ★     ★

 じつはこの「熱走報告」を最後にわたしのレースレポートは『ベトストカー』誌上から消えてしまう。かといってレースをやめたわけではなく、ますますヒートしていったはずなのだが。
 
 その辺の裏事情を雄弁に伝えてくれるDVDを、『As Time Goes By』をリクエストした夜に見つけ出すのだから、話が少しうまく出来すぎてやしないか。ともかく、再生機にディスクを挿入してみた。ブルーとイエロー、鮮やかなパステルカラーがボディに波打つ『ベストモータリング ミラージュ』がいきなり登場し、白と赤の、見慣れた『ベストカーミラージュ』は消えていた。









 なるほど、である。しかし、このDVDにいきなり登場する女性がいた。おお、今や大女優の高島礼子さんじゃないか! なぜ? 次号からその辺の「わが闘走・青春の日々」を復活してみたい。やり残し、書き残しを一つずつ、片づけていくためにも。
2013年03月20日 イイね!

『幻の11台抜き』と再びの『予選落ち』

『幻の11台抜き』と再びの『予選落ち』~セピア色の記憶⑧~

「プロとフレッシュマンの差はこれだ!」


■ミラージュCUPフレッシュマンシリーズ第2戦(筑波/1987年5月23~24日)&エキスパートシリーズ第3戦(富士スピードウェイ/6月6~7日)

 西日本サーキットから戻ると、2週間後には筑波での「新人の部」が待っていた。さらに2週間後には、富士で「名人の部・第3戦」に出場した。そんなことでよく仕事が進捗したものだと、いまさらながら首をひねる。それでも、月2回刊の「ベストカー」に『ドン亀奮迅録』などと嘯きながら、毎号、きっちり参戦記を掲載していた。(左のショットは、名人の部で52番土屋圭市と競り合う55田部)

 さて、筑波のレース。ここは予選順位がすべて、と百も承知していながら、なぜか今回も、周囲の期待どおりに失敗してしまった。そのへんのダメさを詳細に考察して「明日の糧」にしていくところに、わたしのレポートがサーキットヒーローたちにうけている(と、自負していたのだから、相当な脳天気ぶり)はずだが、今回は残念ながら1ページしか貰えないので、その部分は、泣き泣き割愛している。


*前年の筑波マーチレース王者⑯藤川と並んで第1コーナーへ突入!

 決勝のスタートは22位から。前戦で1分10秒台をマークしたのだから、今回は1分9秒台を夢みても不思議はなかった。にもかかわらず、予選時の路面がハーフウエットだったことも災いして1分11秒92に終わった。なんと、11秒台が11名もいる混線状況である。ま、スタートさえ失敗しなければ、1周目に少なくとも、17~18位に食い込めるはず、と読んだ。

 クラッチミートはバッチリいった。前列にいた2台、⑱照沼毅、84蒲原芽里ちゃんの間にスパッと割り込み、さらにその前列グループにいた、若葉マークドライバーの㊳金石勝智も、第1コーナーへ突入する前に捉えていた。こんな会心のスタートが、これまでにあったろうか、と自分でもビックリしたほどだが、それからが大変。イン側から第1コーナーにアプローチしようと、ややアクセルをゆるめた瞬間、前方の7~10位集団で大混乱が起こっているのを発見した。

 開幕戦の勝者②山本泰吉のマシンが横をむき、㉘金子繁夫がそれにからむ。それに黒いマシンが減速しきれずに激突する。あとで判明したのだが、⑧後藤政規であった。お気の毒に。
 そんな大混乱のルツボの中から、無傷のままで脱出できたのは、ぼくだけじゃなかったろうか。ともかく第1ヘアピンを10位あたりのポジションで、駆け抜けたのだから、「なんと11台抜きの大快挙!」だったわけである。

有頂天になるのは早急すぎたようだ。ダンロップブリッジ手前のポストから黒旗が振られているのを発見した。すなわち、レース中断なのである。咄嗟に、右腕を、開けたままの窓から、天にむかって突き上げ、後続車にスローダウンを指示した。わたしと同じように、大混乱から抜け出した㉚松本和子が、素早く反応して、右手を出してくれる。追突の不祥事を見事にはねのけた彼女の敏感さ。このところ、めっきり腕をあげている理由が飲みこめた一瞬だった。

 レースは短縮されることなく、15周をはじめからやり直すと決まった。傷ついたマシンは、それぞれに応急修理が認められ、戦列に復帰してきた。


*団子となってダンロップコーナーへ、㉚が松本和子


*優勝した④田部と2位の⑨福井守生

 レースが再開された。柳の下にドジョウが2匹いるはずもなく、今回は、19位で第1ヘアピンを通過。それからは84蒲原芽里を、⑯藤川基生(前年の筑波マーチシリーズのチャンプ)と束になって追い上げる展開となった。走りながら、第1コーナーと最終コーナーが、これまでと異なった景色となって、わたしの視野に入ってくるのに気づいた。なにも、コースが改修されたわけではない。こちらの走りが、どうやら一皮剥けたためらしい。要するに、高速から精一杯減速してからコーナーに飛び込む瞬間が、楽しくなったということだろう。それまで難攻不落だったコーナーが、飴のように溶けてくれ、その中へ、おのれを同化させる新しい感覚。なにかが、理解できはじめたらしい。



 結果は15位。よし、この次こそ、シングル入りを! 次戦に夢を託そうとする己れが、可愛いなと思った。
「平日はエディター、週末は活字を忘れて、サーキット通い」
機嫌よく、筑波から家路を急ぐ、1987年5月の週末であった。

その2週間後の6月6~7日は、ミラージュCUP のエキスパートシリーズの第3戦 が催される富士スピードウェイへ赴いた。
同じミラージュカップでも上のクラス、つまりエキスパート軍団が高いレベルで、技とスピードを競い合うこのシリーズに臨むときは、当然、こちらの心構えも違ってくる。第1戦の富士は予選落ち。第2戦の西日本で19位。もうちょっと何とかならないのか――メカをやってくれるTEST&サービスの面々がぼやくているのは、知っていた。

だからこそ――木曜、金曜の2日間、それぞれ45分間のスポーツ走行をこなして、予選に臨む。エンジン快調、タイヤもBSから61Sがワンセット届けられた。
「言い訳なしよ」と宇賀神大明神が、ポンと肩を叩く。心が逸る。が、練習時からタイムがいっこうに伸びない。
 ドライバーズサロンで、憂鬱そうにコーヒーをすすっていたからだろう。このところ親しく言葉を交わすようになった㉒見崎清志さんが傍にやってきた。
「どうしたのよ?」 
率直に悩みを訴えた。何周かひと塊まりになって走行しているから、こちらの状態を見崎さんは知っていた。まず高速からのブレーキングが不安定だと指摘された。FF車だからいいものの、FR車だったら確実にスピンしてしまう、とのこと。次にステアリングの舵角の当て方が大きすぎるから、コーナーの奥でモタモタしている、と。
「コーナーの進入スピードは高くなっても、出口では遅くなっている。第1コーナーは何速で回っているの?」
 5速から1速省略して3速に落とし、次に2速に。
「87年モデルは3速のままで充分です。ただし、ブレーキを解くのをグッと我慢し、やわらかくアクセルを開けてやるように。で、100Rは?」
 4速からブレーキングし、それから3速に入れておいて……。
「あれっ、あそこは4速のままでいいはずだけどね!」
「あれっ!」はこっちの台詞だった。ヘアピンも、ニューコーナーも全部違っていた。これまでのスタイルに固執して、何の疑いももたず漫然とコーナーを攻めていたのか!  

6月6日、午後0時20分、予選開始。つい先頃までは、GCマシンの第1回目の予選タイムアタックが行われていた。その余韻だろうか、路面温度は60度を超えていた。こんな時は、タイヤのポテンシャルは、早めに落ちてしまうから、5周目までが勝負。55田部靖彦のお尻にくっついてコースイン。3周目、ニューコーナーの入り口で③横島久に割り込まれたのがマズかった。あっという間に離され、いつの間にか単独走行。


*予選で一瞬の隙をついて30位の滑り込んだ⑪鈴木政作

 残り時間もない。それ行け! 第1コーナーを⑪鈴木政作と並んで、快適に進入した。3速のまま、ノーズをインに向けた。と、先行していたはずの⑩中村誠がスピンして、こちらを待っていた。慌てるな、と心に言い聞かせ、⑩中村を回避したのはいいが、⑪鈴木の先行を許した分だけ、タイムが落ちた。
 実は、それが運命の岐かれ目だった。その周に⑪鈴木は54秒80を出し、25位にポンと入り、こちらは55秒49で31位にとどまった。決勝進出は30台と決められている――ということは……。
6月7日の決勝は第1コーナーに陣取って、また孤独な観戦レポーターになってしまった。






*オイルに乗って第1コーナーではドカン、ポカンの合奏

常勝の㉜中谷は予選16位からのスタート。 PPは③横島。注目のフレッシュマン軍団から最上位についたのは55田部。㉒見崎に次いで9位に位置していた。
スタート前から嫌な予感がしていた。ミラージュカップの直前に行われたJSS戦で、コース上は大量のオイルが流れ、それに石灰をかぶせただけの応急処置が気になったからだ。
 スタートはPPの③横島がスムーズに発進していった。それを①伊藤、⑥小幡栄が追う。第1コーナーへ。③横島がベストラインに撒かれた石灰の真上を走った。白煙がパッとあがった。もう、後続車には、前が見えない状態だ。


*第1コーナーを抜ける55番田部は土屋と競り合うラッキーチャンスを得た。⑰は辻村寿和

 そんな中で、⑮村松康生がスルスルと前へ出て、2位にあがっていた。①伊藤が身をよじらせるようにし半スピン状態で、第1コーナーを曲がった。52土屋圭市はインから突入して、やや走路を乱した。そこへダッシュよく突入してきた㉒見崎が、完全に横をむく。⑦奥山道子が行く手を阻まれドカンと見崎の横腹へ。そこへ、中団から抜け出した中谷がさらにドカン。あとはもう、ドカン、ポコンの合奏で、大混乱の渦。それでも、潮がひくように戦列に復帰する各車。残されたのは走行不能の奥山と、中谷だった。

 55田部は、見崎を避けていったんアウトのダートに飛び出し、大迂回をして、コースに戻ったときには13位あたりをウロウロしていたが、とくに第1コーナーを厳しく攻め、周回ごとに順位をあげ、一時は6位まできた。が、終盤で52土屋に競り負け、7位でフィニッシュした。


*このレースからゼッケン番号は④から55になった田部靖彦。就職先も決まって……。

「観ていてくれたんですか。自分でも驚くくらい気合いが入っていました。これまでレースをするため勤め先をやめ、風来坊だったのが、今回は心置きなくレースのできる就職先がきまったので、心が充実していたんです」



 心の充実――レースにもっとも重要なものはこれだった。その時、田部靖彦、26歳。このレースから鈴木亜久里と同じ55のゼッケンを背負うことになった。そういえば、ひところプロダクションレースのパルサーで、同じ55を背負って走っていた「新人」がいたのを思い出す。

 1987年の初夏、レース活動の合間を縫って(?)富士・筑波と東京を往復しながら、「ベストモータリング」創刊にそなえて、連日、ゼロ号(つまりテスト版)制作やら、企画の練りこみで燃えていた。そのスタッフの一人に、新しく田部靖彦が加わっていた……。
2013年03月17日 イイね!

《お邪魔虫》故郷に錦を飾る!

《お邪魔虫》故郷に錦を飾る!いまや幻となった西日本サーキットでの「セピア色の記憶・第7幕」

ミラージュCUP「名人の部」第2戦&F3000オールスターレース

(1987年5月10日)


「年に一度のお祭りじゃろが! みんな、ドーンと来ンかい!!」

 わたしの北九州弁が聞こえたのか。九州、中国、四国の各地方のモータースポーツファンが、その年のゴールデン週間が終わったばかりにもかかわらず、山口県美祢市の西日本サーキットにどっと押し寄せた。5万人。どのコーナーも鈴なりの人垣だった。

 お目当ては、もちろんF3000レースだろうが、その直前に行われるミラージュカップも、結構注目の的だったようだ。その熱気に応えたのか、ベストカー’87年6月26日号は1色グラビア4ページを費やして、わたしの参戦&観戦レポートを掲載させてくれている。題して『お邪魔虫・ゼッケン⑫(F3000&ミラージュ)の明と暗』。今回もこのレポートを参考にしながら、稿を新しくした。いやぁ、いろいろな記憶が甦ってきて、身の置きどころがなくなる……。


*なんとも田園チックなサーキットだった西日本サーキットの佇まいがおわかりいただけるかな。

 予選のあった土曜日も、グランドスタンドが満員に近かったし、混雑を恐れて、午前7時前にサーキット入りした決勝レースのある5月10日なんぞは、すでに2万人近い観客が、思い思いの観戦ポイントを占拠していて、ドライバー全員が張り切らざるを得ない雰囲気になってしまう。それにしても……西日本サーキットは聞きしにまさる難コースだった。その辺を少し説明しておこうか。

 全長2815.5km。距離が短く、日本では数少ないカウンター・クロックワイズ(反時計の左回り)のコースで、トリッキーなコーナーが連続し、また最大標高差が15mもあり、アップダウンに富んでいて、路面のミューの低さは飛びぬけていた。だから、ドライバーには極度の集中力と、その持続力が求められるわけだ。あの星野一義ですら、「ストレートが少ないから、忙しくって」と、顔をしかめたほど。



第1コーナーはどこがベストラインなのか、何度走ってもわかりゃしないし、3つのヘアビンコーナーと、名物のインフィールドのS字はマシンの前後荷重が激しく、タイヤとブレーキにシビアな注文をつけてくる。最終コーナーも厳しい。右端いっぱいにふくらむと、もうコンクリートの壁がすれすれに迫ってくる。

 土曜日の予選に備えて、金曜日は30分間、3回のスポーツ走行に挑戦した。参考までにトップ集団のタイムを聞いて、目の前が真っ暗になった。㉜中谷明彦の1分26秒台はよしとしても、ほとんどのドライバーは27~28秒台、㉚松本和子ちゃんも30秒台をマークしているという。当方はといえば最初の30分間でやっと36秒、2度目の30分間で34秒、そして3度目の走行でなんとか32秒台に滑り込んだに過ぎなかった。 どのコーナーもビュンと追いつかれ、あっという間に離される。悔しい。故郷に飾る、なんて豪語?して臨んだこの第2戦。さて、どうしたものか。


*前を行くのが⑰辻村寿和


*㉚松本和子も遠征していたんだ


 そんな時、頼りになるのが眞田睦明親分だ。
「そいつぁ簡単よ。上り下りの激しいS字をインベタでいくのよ。⑪鈴木政作なんざ、それでバッチリ1秒縮まったね」


*インベタ走行で1秒縮めた⑪鈴木政作

 午後2時22分、予選開始。15分間のうちに、なんとか1分30秒台をマークしたいものだ。走り始めて、自分の視線の動きに、変化が出だしたのに気づいた。たとえば第1コーナー。それまではどこでブレーキングしようか、と一点を見つめる固定型だったのが、いつの間にか、ポンとブレーキを当てた後、3速にシフトダウンしてからマシンが流れていくラインをイメージし始めたのだ。しめた! 景色が変わりだしたぞ。


*怪我の功名で左足ブレーキングをマスターしたインフィールド


*小幡、見崎車を引率して最終ヘアピンへ!

 5周目あたりで、ピットから31秒台に突入したとメッセージがきた。途端に元気が出る。背後から忍び寄る白いマシンが2台。④田部靖彦と㉒見崎清志。いつもなら、お先にどうぞ、とあっさりラインを譲るはずだろうが、こちらも燃えてきたところだ。実力で抜いてみな。各コーナーで頑張りはじめた。
もしどちらかのマシンが鼻先ひとつでも前に出れば引くつもりだったが、そこが西日本サーキットの面白さなんだろう、お邪魔虫が変に頑張ると、レースの流れが、そこで滞る。㉒見崎がヘッドライトを点けて、グングン迫ってくる。いいねぇ、この感じ。


*PPを獲ったした③横島久の走り

10周目に④田部にパスされたが、すぐに予選終了。1分30秒82はポールポジションをとった③横島久の4秒遅れ。順位はともかく、心を弾ませて、日曜日の決勝レースに臨めるわけだ。意気揚々と下関のホテルへ引き揚げることができた。

ホテルに帰ってみると、なんと、中学時代からの同級生二人が、奥さん同伴で、夕食を誘いに来てくれていたのだ。そうか、前回の「セピア色の記憶⑥」の終わり際に、思わせぶりに紹介した「白のトレンチコート姿の女子大生とおぼしき、楚々とした年頃の女性」を見かけたのは、土曜日ではなく、1日早く、練習走行のために下関入りした、金曜の夜のことだったのか。さて、くだんの「後年、ミラージュCUP女豹軍団のリーダーとなるお方」とは、佐藤久実さんであった。この時の「ミラージュ観戦」で意を決し、すぐに「ミラージュCUP新人の部」からデビューしてしまう。


 さて、土曜の夕方、中学時代からの旧友がわざわざ迎えに来てくれたくだりについては、少し説明の要あり、か。

 1954(昭和29)年春、中学時代からの仲良しが、五木寛之さんの『青春の門』さながらに東京の大学へ進んだ。誘い合わせて、博多駅23:00発の夜行列車『銀河』に乗って20時間、煤にまみれて東京駅に着いたものだ。
 歳月が流れ、ぼくだけが東京に残り、他の連中は故郷の北九州にUターンして、それぞれの道を進んだ。歯科医と洋品店主が、この日、訪ねて来てくれた。頭髪はすでに白いものが目立つ。でっぷりと落ち着きのいい体躯。

 夕日の沈んだばかりの響灘を眺めながら、新鮮な海の幸に舌鼓をうちながらの会話。
「いい歳をして、何故に危険な自動車レースごときに熱中するのだ。立場も考えろ!」
「もっともな疑問であるが、百聞は一見に如かず、招待するから、明日はサーキットに来い」
「よし、行っちゃるわい。お前の惨めな姿を見に、な」
「馬鹿たれ。お前たちに若返りの秘法を教えちゃるんじゃ!」

 ■闘いながら『左足ブレーキ』の極意を会得!

 日曜日も快晴だった。ミラージュレースがやがて開始されようというのに、奴等の姿がなかなか現れない。やっぱり、恐れをなしたか。

 マシンのお尻を押してコースインする直前、VOLVOに乗って奴等がやって来た。あまりの観客の多さに腰を抜かしたあとで、まるでお祭りのようだと今度ははしゃぎ始めた。

 おしゃべりの相手をする暇もなく、こちらはコクピットにおさまった。スタートはバッチリ。右横にいた㉕橘田明弘が、ゆっくりと後退する感じだった。⑩中村誠の背後に貼りついた。

 有松正豊、51歳(1987年当時)。北九州在住の歯科医。つまり、わが同級生の目に、わたしのミラージュレースがどう映ったか。


*旧友との晩餐。懐かしい記憶。

「ミラージュってえらく派手なクルマだけど、こんなの街の中で見たことないよ。音も凄いね。レースは、ゆっくり1周したかと思ったら、いつの間にか、始まっていて、何が何やら。ただ最初のうちは全部が一塊りだったのに、3周目くらいからバラバラになる。正岡の奴は、一番うしろの方で、3台ばかりで競っていたけど、1台だけがポツンと遅れ、その少し前を、一所懸命、前のクルマに離されないよう、しがみついていた感じで、いやあ、見ていて、冷や汗が出たね。息子たちと同じ年齢の者と一緒になって汗をかく――なるほど、こういう世界もあるのかね」

 少しは理解できたらしい。レースは③横島を脅かしていた常勝の㉜中谷だが、タイヤの性能の差に気づいて、2位キープを狙い出した時に、勝負はついていた。シリーズポイントを考えると、冷静な中谷の判断だ。


*③横島がポイントリーダーの㉜中谷明彦を抑えて嬉しい初優勝を飾る

 わが⑫ベストカーミラージュは、スピンした㉙D・スコットをうしろに従え、1周ごとにタイムを上げた。実は2周目の1コーナーで左足のふくらはぎが、痙ってしまい、一瞬、クラッチ操作の出来ない状態に陥ったが、どうにかおさまったところで、左足をむしろ頻繁に駆使しようと考えた。左足でブレーキングしてやるのだ。これは低速コーナーで、ノーズの向きを変える時に、特に効果があった。

 これまで、及び腰でマシンの尻をひねっていたのが、右足のアクセルをゆるめず、ドーンと左足をブレーキに乗っける。

 みるみる、先行する㉕との間が縮まる。㉙スコットは後方に消える。30秒フラットをマークしたのも、このせいだった。よし、次戦、筑波フレッシュマンは、これでGOサインだ!



 ■さてお次は、F3000オールスターレースの観戦レポートである。

 たった今、自分が攻め終わったばかりのコースを、わが国のレースカテゴリーの最高峰にあるF3000のマシンが、同じように駆け巡るのを観戦できるのは、まことに不思議な、ぼくらだけに許された幸福な感覚だ。
 予選2位に、55鈴木亜久里が星野を抑えて、のし上がった。
「西日本は縁起がいいんです。走ったときは、いつも優勝か、2位。期待していてください」
 威勢のいい亜久里だった。前夜もなんの屈託もなく、眠りについたという。若い力の台頭がやっと顕著になってきた。
 ①星野一義とは、彼がレーシングスーツに着替え、戦闘状態に入る前に、雑談を交わした。
「ここは気が抜けない。それにサスのセッティングがまだビシッと来ない。それより、ぼくの前に2人もいる。それがとにかく、許せないんだ。でも、やるから、見ててよ」

 ③鈴木利男は、このところHONDAのF1テストに加えられたこともあって、めきめき力をつけてきた。一頃の中嶋悟がそうであったように、パドック裏のワンBOXの中でひっそり、出番を待っていた。
「もうひとつ、タイムが伸びなくって。でも西日本のようなコースは好きですから」
 口数は少ないが、珍しく、覇気をみせた。ミラージュではゼツケン③が優勝したよ。
「はい。縁起いいですね」
松本恵二は、まだ低調さから脱出できないでいた。
「予選で今だと思って出ていくと、遅い前のクルマにひっかかっちゃう。その繰り返し。弱音は吐きたくないけど……」

 そんなスタードライバーたちの本番前の素顔を、嬉しそうに一緒に観戦する旧友たちに説明してやる。だんだんとサーキットの雰囲気に慣れてきた51歳集団、どうやら病み付きになってくれそうな気配。

 午後2時20分、藤田直廣競技長の左手で日の丸の旗が振り下ろされ、レースが開始された。
 インを衝く⑨リース、それを抜群のスタートで飛び出した55番亜久里がかぶせる感じ出第1コーナーに入った。やや押されたようにリースの左前ウイングが、走路を区切ったパイロンに接触、パイロンを支えていた古タイヤが弾かれ、跳ね上がってコースを横切った。リースが大きく立ち遅れ、7位あたりまでドロップした。

 55亜久里、①星野、③利男、⑫チーバーの順で序盤戦が展開した。追い上げる星野。亜久里との差が縮まった9周目、亜久里が最終ヘアピンでスピン、それを避けようとして、星野が亜久里のタイヤに乗りあげた。

 亜久里と星野が、復帰した時には利男が単独で、トップを走っていた。


*3位争いの先頭を行く⑫チーバー。背後に⑨リース⑯関谷、⑧松本、そして①星野とつづく。

 亜久里が利男を追いつめはじめた17周あたりで、3位以下10台が団子状態になった。
 3位の⑫チーバーが5秒台の、ひどく遅いペースで走っている。それを激しく、⑨リース、⑯関谷がパスしようと試みるのだが、チーバーのブロックで、どうしても前へ出られない。前を行く2台との差はますます開くばかり。焦る後続集団。

 抑圧されたエネルギーが負の方向で爆発したのが23周目だった。第1コーナーでインから⑨リースがスルスルと前へ出た。⑯関谷がアウトから⑫チーバーの前へ出た。つまり、チーバーは挟まれたまま、それでも引こうとしない。その時だ。チーバーが右へふくらみ、関谷を右へ弾き出した。行き場を失った関谷はスポンジバリアへ翔ぶ。さらに関谷にのしかかるようにして、チーバーもスポンジバリアに埋まりこんだ。危うく追突しかける、⑧松本と①星野。

 大惨事が予測された……。赤旗が出て、レースは中断された。救出作業。関谷は右耳あたりから鮮血を滴らせていた。ヘリコプターで救急病院へ。嫌な感じだ。旧友の奥さんは、身体を震わせ、恐怖の表情を、隠そうとしなかった。

「失礼。ちょっとピットへ行って様子を見てくるから」
 旧友たちを残して、わたしはピットへむかって駆けた。

 星野は身体いっぱいに怒りを露わにして、指先が震えていた。煙草に火を点けてやりながら、心を鎮めようと努めている星野の眼の奥を覗きこむ。

 チームメートの負傷もさることながら、お邪魔虫となった チーバーの走りに怒っていた。
「このレースはF3じゃないんだよね。F3000はもっと厳しくドライバーを選定してくれなくっちゃ、危なくって」

 こうした場合、ひとつの解決法として、競技長が目に余るドライバーに対して、ピットインを命じ、膠着状態をなくさせることもできようが、そんな対応もなかった。確かに、西日本サーキットのようなタイプのコースでは、故意のブロックがレース展開の流れを堰き止めやすいのは、わたし自身が体験しただけに、その排除方法はあってもいいだろう。ただいたずらにエキサイトして、一個人を誹謗するやり方は避けねばなるまい。レースをハンドリングする側の断固とした判断こそ必要なのだ。


*初優勝した③鈴木利男。後方は再スタートでピットから出た鈴木亜久里は4位まで順位をあげる。

 さて、1時間の中断で、残り周回数も15周に減らされた。
 いったん緊張の糸の切れたレースは、もはや、なんの盛り上がりもない。リースと亜久里のエンジンがスタート時にストールしてしまい、ピットスタートとなり、レースは③利男のものとなった。初優勝の利男クンはこれで自信を得て、一皮剥けてくれるだろう。



「おい、来年もこいよ。今度はみんなに呼びかけて、ドカッと押しかけるから」
 51歳の仲間たちにとって、この日はいったい何だったろうか。息子たちに、いい土産話のタネができたのか。いや、違う。激しいエネルギーの爆発を見た感動が、彼らに<一瞬の青春>を蘇らせてくれたに違いない。
 それから、何年の歳月が流れたのか、指折り数えてみた。26年か。故郷に錦を飾る舞台となった西日本サーキットも、一度は「美祢サーキット」と改名して延命を図ったが、いまではMAZDAの車両開発試験場に変身し、レースとは無縁となった。
 あの時、わざわざ下関まで逢いに来てくれた有松夫妻も、すでに鬼籍の人……。う~ん。
 

2013年03月16日 イイね!

哀れな予選落ち! 敗者の条件を話そう ~セピア色の記憶・第6幕~

哀れな予選落ち! 敗者の条件を話そう ~セピア色の記憶・第6幕~ミラージュCUP名人の部・開幕第1戦>(1987年4月18日=富士スピードウェイ)

 富士山麓の4月中旬は、桜が満開なんだぜ。それと菜の花が真っ盛りで、黄色い絨毯があちこちに敷かれて、絶好の行楽気分。
 観客もどっと来た。なにしろF3000の関東初お目見得とあって、全盛期のグランチャン並みの盛況である。主催者発表で5万5000人。だから、レースが終わっての帰り道の混雑ったらなかった。(左のカットは見崎清志さんと)

 さて、本題。見事に予選落ちしてしまう。そんなこと、タイトルを読めばわかっているわけだが、わたしの場合、何も、こんなにいいレースができました、とか自慢話をしたってだれも読んでくれるわけじゃないし、むしろ、こんなテイタラクだったから、やっぱりダメでした、と正直に報告したほうがレースの面白さ、難しさ、年甲斐もない情熱なんぞが、それとなく伝わって、まあ、そっちのほうがいいのではないか。それ、やせ我慢か。


*ベストカー1987年6月10日号のグラビアページより

 正直言って、富士スピードウェイでミラージュCUP名人戦の行われるのを楽しみにしていた。どこでやるより確実に速く走れるつもりでいたから、予選落ちなんて考えてもいなかったし、むしろたとえエキスパートクラスのシリーズ戦とはいえ、ひょっとしたら10位あたりにはいけるんじゃないか、などと密かに狙っていたくらいだった。周りだってそうだった。例の宇賀神大明神にいたっては、フレッシュマンシリーズの開幕戦で㉚松本和子と㊳金石勝智が予選でしくじっているもんだから、若い二人にかかりっきりで、ちっとも構ってくれない。それだけ富士なら大丈夫と安心していた証拠だ。

 12時40分、予選開始。汗ばむほどの暑さにまで気温は上昇していた。路面温度は高いだろうから、勝負はタイヤのグリップがタレてくる4周までだな、とわたしは読んだ。参加出走台数、39台。ということは9台がふるい落とされる勘定だ。


*当時は人気の的だったレイトンカラーの八島選手

 スタートの順番がきた。3台ほど前に⑲のゼッケンをつけたレイトンカラー。仲良しの八島正人さんだ! 第1コーナーをまず作法どおりにインベタで回って100Rへ。ヘアピンを過ぎた。さあ、アクセル全開!

 シケインを抜け、4速で最終コーナーを駆け上がる。長いストレートがきた。コントロールタワー前を通過。まだ6500回転だ。5速にシフトアップするのはもう少し我慢。ピットにいるわが田代メカをチラリと視認したところで、5速へ。スポッと気持ちよくギアが吸い込まれた。

「これだぜ!」 

 87モデルはボディ剛性が高くなったので高速コーナーが特に速くなったに違いない。となると、少なくとも2~3秒はタイムがよくなるはず。わたしの場合、前年のベストタイムが1分54秒2、だから52秒台は確実に出せるはずだ。金曜日の練習ではストレートがアゲインストの風だったせいもあって、54秒5がやっとだったが、本番ではいけるはず。ところがどうだ! ストレートで5速になってからは、タコメーターの針がなかなか跳ね上がろうとしない。

 どうやら、高回転域で伸びないタイプのエンジンか。むしろ筑波向きか。それでもストレートエンドは210km/hはマークしている。残り150mの看板あたりでガツーンとブレーキング。5速から1段飛ばして3速へ。軽くエンブレがきいたところで、右へステアリングを切り込みながら、2速へシフトダウン。ぴったり背後に⑭鈴木淳が貼りついてきた。


*⑭鈴木淳、⑨福井、㉒見崎、⑫正岡がヘアピンに雪崩れ込む

 これで気分が乗らなきゃおかしい。しかし、どうもシケインの入り口で、リアのタイヤの流れ方が気に入らない。マシンの向きを変えてからも、ノーズが一定方向におさまってくれず、なにやらダダをこねている感じ。

 やばいよ、これは。そんな気分を抱いたまま、第1コーナーへ。ド、ドッと3台のライバルたちにインを刺された。白い㉒はあの見崎清志! えっ、ずいぶん後ろにいたはずなのに、もう追いついちゃったの? 第1コーナーを駆け降りるスピードが圧倒的に違うじゃないか。途端にガックリきた。それでも一方ではシメシメだった。しっかりついていれば、ストレートでスリップストリームを使って……これは案外イケるかも!

 ニタニタしながらシケインの入り口で、ブレーキング競争。と、どうだ。シケインへお尻を流しながら入ったのはいいが、流れ方が大き過ぎる。しかも左のダートの中に他車のフロントカウルが投げ出されているのを見てしまった。あっという間もなくマシンは振られ、こちらも、ダートの内側に呼び寄せられてしまった。

 これで第1回の大事なアタックは失敗した。それからというものは、同じ場所にいく度に、あっちにユラユラ、こっちにフラフラの状態で、55秒台がやっとだった。こんなはずがない。どうやら、判断力を失ったらしい。やたらコーナーの立ち上がりでもアクセルを踏み込んでしまっている。

いやぁ、それからの屈辱の思いを、どう説明すればいいか。

 明けて4月18日の決勝。先にいったように、スタンドは超満員。TV朝日は中継をする。楽隊つきで華やかに、ミラージュCUPの選手紹介が用意されていた。まして前回のフレッシュマン戦で予選落ちして泣いた連中が、なんとも眩しい。本来なら自分が走っているはずのレースを観戦するのも、今回限りにしたい。


*ぶっちぎりの㉜中谷明彦。

 F3レースをブッチギリで優勝し、まだシャンペンの酔いも醒めていないはずの㉜中谷明彦が、予選2番手からスルスルと飛び出し、15周で2位に12秒6もの大差をつけてチェッカーを受けたといえば、レースの様子はもうおわかりだろう。しかし、2位争いは壮絶だった。前年シリーズチャンプの①伊藤清彦の背後から、㉒見崎がライトをつけて追い回す。4周目に22番が前に出た。そして各コーナーで強烈なブロック・テクニックを使い、①に抜かせない。

「いい勉強になりました。プロのブロックってああやるのか! だから10周目で前に出れたんで、同じことをやってみたんです」

 目を輝かす伊藤。えれぇこと教えたらしいよ、見崎さん!


*FISCOの第1コーナー。⑥小幡と①前年チャンプの伊藤清彦


*壮絶な2位争い。㉒見崎、①伊藤、③横島

 完走28台、フレッシュマングループからは、②山本泰吉の4位が最高位で、以下⑨福井守生8位、④田部靖彦10位。29位のD・スコットは鳴物入りでデビューしたばかりのF3ドライバーであった。



 それにしても不甲斐なきは⑫のドライバーであった。応援にきてくれた徳大寺さんにトクトクと『敗者の条件』を4つも挙げていた。
① 運転技術の未熟。
② 装着タイヤBSポテンザ61の特性を知っていながら、多忙にかまけてNewタイヤの皮剥きをしてないから、本番をツルツルでいって、コーナーの入り口でいつもより大きなテールの流れについていけなかった。
③ レースに精神を集中できないでいる。前日の練習走行にも来なかった。しかもメカに足まわりをセッティングさせるとは、レーシングドライバーの風上に置けぬ。
④ 体調が悪過ぎた。それは確かだった。5月末に新雑誌『TANDEM-RUN』の創刊するため、大変な時期であったのはたしか。


*1987年5月創刊の「TANDEMRUNの表紙は、わたせせいぞうさんにお願いしたのに……

 ならば誓えるか?と自らに問いかけた。 次なる5月10日の第2戦は言い訳なしで臨めるか、と。ミラージュCUPエキスパート第2戦の舞台は、西日本サーキット(いまではMAZDAのテストコースとなってしまったが)に移る。そこで、わが故郷、北九州のテリトリー。どうぞわれに錦を飾らせたまえ、などと呑気にレポートを締め括っている。

 はたして、第2戦は、決勝レースを走ることができたのか。
懐かしい記憶がよみがえる。予選が終わって下関のホテルに戻り、遅い晩飯を摂るべくロビーでスタッフと待合わせていると、白のトレンチコート姿の女子大生とおぼしき、楚々とした年頃の女性が、心細そうに誰かを待ち侘びているのを見かけた。後年、ミラージュCUP女豹軍団のリーダーとなる、そのお方の初見がそれだった。ミラージュCUPが、ますます華やかに育っていった時代であった。
2013年03月14日 イイね!

腕自慢の若武者たちとバトルせし日々よ ~セピア色の記憶・第5幕~

腕自慢の若武者たちとバトルせし日々よ ~セピア色の記憶・第5幕~ マカオGPの白熱した魅力を、はじめて熱っぽく説いてくれたのは徳大寺有恒さんだった。
 TV録画でその模様をみて、度肝を抜かれた。ヨーロッパのヤングタイガーたちが、大挙して出場していて、本場以上のドライビングを見せてくれるF3レース。壁やガードレーをまったく気にしない強烈な走りだ。ホイールが壁に接触して火花が散る。


*マカオGPの華、F3レース( photo by T.Kitabatake)

ミラージュCUPも凄かった。クラッシュの連続だし、6.1㎞のコースの難易度をどう説明すればいいのだろう。だからこそ、いつかは自分も走りたい、いや87年こそ、マカオを走ってやる。周りに、そう宣言してしまった。が、マカオのミラージュCUPに自力で出場できるのは、シリーズの5位だけで、あとはジャーナリストと外国選手の招待枠しかない。ならば、ジャーナリストとして、1年間をミラージュCUPで活躍して、招待されるしかない。

 動機なんて、その程度のもの。男は狙ったものにこだわるかどうかで価値が決まる!
そんな勝手な理屈を並べて、1987年は、全レース(エキスパート6戦、フレッシュマン5戦)、つまり11戦も、強引に出場することにしたのである。

  と、ここまで書き綴っていると、3月23日に開かれる『ミラージュCUP同窓会』の幹事・久保健さんから、参加メンバーの中間報告がはいった。当初、30人も集まればいいね、と言っていたのが、すでに倍以上に膨らみそうな気配である。ただ、フレッシュマン組からのレスポンスが、いささか弱くはないか。そこでひと言、メッセージを送る。
  

*そのころ、三菱ダイヤトーンのCMに登場した辻村クン


*フレッシュマンデビュー戦から結構一緒に走った⑱照沼選手。

「辻村寿和、照沼毅さんら、フレッシュマン組に声をかけましょうか?」と。すると、わたしの「セピア色の記憶」の舞台で、懐かしい若武者たちの走りっぷりや、その顔が躍動しはじめたのである。

 そんな時、役立つのは、書庫でねむっているベストカー誌である。1987年4月26日号で、見開き2ページをもらって「フレッシュマンシリーズの開幕戦」筑波サーキット3月14~15日)をレポートしていたのである。

 題して『腕自慢の若武者たちとの大バトル!』
「クルマは速くなり、エントリーも過熱。タダじゃすまない予感がした!」と、ご丁寧にもサブタイトルまでそえて、わたしの不安を煽っていた。

――エントリーリストを受けとって驚いた。出走予定35台。前年の緒戦が17台だったから、その盛り上がりようは大変なもの。次にメンバーをみて、腰を抜かした。いる、いる!腕自慢の若武者がズラリと顔を揃えている。


*EXAのチャンプとなってステップアップした田部靖彦


*IWAKIレーシングチームからの松本和子。どうして中谷が背後にいるのか


④田部靖彦は富士フレッシュマンEXAレースで圧倒的な速さでシリーズチャンプとなった26歳。⑭鈴木淳も田部と同じRS中春軍団で、EXAのシリーズ2位。㉕橘田明弘はダート王者のひとりだし、㉘金子繁夫は音に聞こえたラリースト。


*その金石選手もいまやレジェンド・ドラーバーのお仲間に

 最年少は18歳の㊳金石勝智。どこか聞き憶えのある名前。おっ、そうやった。関西のカートチャンプで、自動車免許を取得する前からFJ化RJかのマシンが用意されているとかで話題をよんだ大阪のシンデレラボーイやないか。

②山本泰吉はミラージュ使いの名手、伊東清彦の愛弟子だし⑥伊藤勝一と61堀正義は筑波で鳴らしたホープさん。さぞかし大張り切りしているに違いない。決勝に出走できるのは25台。となると10台が予選落ちの憂き目をみる勘定だ。はたしてドン亀51歳がそんな連中を相手にしていいものだろうか。

 それにしても、と思う。どうしてこんなに有望なステップアップ組がミラージュカップのフレッシュマンにどっと殺到してくれたのだろう。

 まず、賞金がズバ抜けているのも確かだ。優勝すれば20万円だし、全5戦のチャンプにでもなれば50万円のボーナスがつく上に、マカオGP観戦の招待まで用意されている。が、その恩恵に預かれるのはごく一部に限られる。そんなことより、要はミラージュカップそのものに魅力があるからだろう。まずフレッシュマンで腕を磨いて、次に同じマシンで上のクラスに挑戦する。そこは名だたるツーリングカーの猛者たちの火の出るような闘いの場。そこに身を置いた己れを想像するだけでも、若者ならずとも、男の血が騒いでしまう!


*日芸に籍を置く⑦中林香は1戦ごとに速くなっていった

 こんなに面白くて、夢のあるカテゴリーが、ほかにあるだろうか。おっと失礼、女性ドライバーも3人いる。前年から引き続いて出場の⑦中林香は日大芸術学部に在学中だし、⑩井上弥生はGCドライバー中村誠が、手取り足取りして特訓中の恵まれた環境のお嬢さん。そしてもう一人が㉚松本和子。「わたしもレースがやりたいよゥ」と、5年前からわめいていたタレントさんだが、去年、GOLFポカールレースにデビューして本懐を遂げたのだが、ついにわたしの後を追って、ミラージュに転向。これまた、あの岩城滉一がつきっきりで、ああだ、こうだと心配してもらえるシンデレラ姫。ともかく、かくも燃え上がった開幕戦。タダじゃすまない予感がした。

 噂によれば、87モデルミラージュは、旧型に較べて戦闘力が格段にアップしたという。筑波で2秒近くは速くなったとか。ホントかね。ならばこちらも、87モデルにチェンジしておいたから、こりゃ1分10秒台が夢ではなくなったぜ。

 ワンデイレースの<87筑波チャレンジカップ>。運よく前日からの雨もあがって、路面はドライに近かった。予選開始は午前9時20分。2台が欠場して33台が順次コースインした。



 わが⑫ベストカーミラージュは快調そのもの。計測の始まった1周目から11秒台をマークしたとピットが知らせる。前が詰まって、いったんは12秒台にドロップしたが、㉚松本、顔馴染みの⑱照沼毅、栃木からデビューした83並木松雄をパスしてからは、もう破竹の勢い。苦手のダンロップ下のコーナーは、テールが左に流れようがマシンのほうが勝手に立ち直ってくれるし、最終コーナーも思いっ切り奥まで進入してしまう。こんなことってあるのかなぁ。

 予選終了。夢の10秒台は間違いなし!
今回から面倒をお願いしたホリエ自動車の田代メカ(一見ミュージシャン風のいい男だぜ)がラップチャートをヒラヒラさせながら駆け寄ってくる。この一瞬が嬉しいんだよね。コースとピットと離れ離れになって一つの目的を達成しようとするサーキット戦士の安息と連帯。

「やりましたよ!」
 その一言で充分だった。
「予選落ちはないよね」
「もちろん。10秒台を2度マークしていますから」
「よかった。ともかく、ぼくの腕じゃないね。マシンが勝手にきれいに行ってくれる。87モデルはボディ剛性が高くなったことと、ミッションが変則の5速でなんなったことで、フィーリングが抜群によくなったものね。だからほかの連中はもっといいんじゃない?」

 その予言は不幸にして的中する。正式の予選結果が発表されてみると、9秒台が8人、10秒台が6人もいた。で、いつもの定位置の13位に、10秒75のわたしがいた。なんと予選カットラインは11秒88。去年までのわたしのベストタイムが12秒6だよ。このあとの決勝レースはどうなることやら、思いやられた。
 そこへ、トコトコ、新参フレッシュマンが挨拶にきた。カーマガジン仲間の『オプション』から出走した桂伸一(正岡註:あのコボちゃんとの初対面だった)である。顔に似合わず、憎いことをいう。「こちらは旧型マシンで走っていますから」と。なるほど新型で走ったわたしより1秒近く速い。そのことをわざわざ、言いに来たのか。

 開幕第1戦の栄光のポールシッターは、1分9秒83の③福井守生。86年最終戦の覇者である。スタートは丁寧に行きすぎた。青ランプが点灯したのを確認してから、クラッチをつないだのでは、出遅れるのは当然。第1コーナーはアウトから。特に混乱はなし。狭いS字を両側からライバルたちにつつかれながらも、無事通過。第1ヘアピンでいつの間にか18番手スタートからわたしの前に飛び出していた⑦中林が、㉖高橋明彦と絡んでスピン。さらにダンロップ下で、⑭鈴木淳がコースアウト。そのあおりを食って、トップ集団と10位あたりで団子になっていたわたしのグループとの間に大きな差ができてしまった。

 周回が進むにつれて、戦線が膠着した。③④②が熾烈なトップ争い。少し遅れて、常連の㉗長島秀夫ら7台が続く。2秒遅れで⑯藤川基生と㉘金子。そこからさらに3秒遅れてわたしを先頭にした第2集団が……。

 そんなレース展開が、走っているわたしにわかるはずがない。後日、手元に届いたVTRで、わが師ガンさんと報告代わりに観戦して把握したにすぎない。

 「なんですか、局長! 折角、集団の頭に出ていながら、前に追いつかないじゃないですか。本当なら、前のマシンは先行車に邪魔されて、ラップタイムが落ちるから、追いつけるはず」

 ガンさんの雷が落ちた。そうなんだ。背後からしきりに仕掛けてくる⑮お馴染みの鈴木の哲ちゃんは抑えたものの、どうしても前との差が詰まらない。

「うん、コーナーの抜け方は舵角を当てたまま、滑らかに出ているからマル。ダメなのは入り口! タイヤをロック寸前にするくらいのブレーキングの突っ込みが欲しいね。まだ優しすぎるのね」

 わかった。次戦(5月24日/筑波)のテーマができました。かくて、13周目のヘアピンで目の前を行くマシンがエンジンをブローさせ、その振り撒いたオイルに乗ってとっちらかり、⑮に抜かれたのを除けば、精一杯にやれて、いい汗をかいた開幕戦であった。(参照資料・ベストカー87年4月26日号)



 改めてレース結果を見てみると、予選3位から出た④田部靖彦は2位に。トップ②山本泰吉とは1,6秒差。コボちゃんは5位、⑰辻村は8位、⑱照沼はエンジントラブルで予選落ちしていた。㊳金石勝智は予選の1周目で最終コーナーをしくじり、フェンスに張り付いて、息絶えていたのを思い出す。

 それから26年、そのころの若武者たちとも「同窓会」で逢える。どんな年齢をかさねてきたのだろうか。そこからまた、新しいことがはじまるといいのだが……。



スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「3連休中日、富士フレッシュマンレースで青春を燃やした中・老年男の同窓会をFBで速報。今を支えるエネルギー源を確認。そのせいか翌24日のみんカラPVレポート欄の第1位は【還ってきた愛しのEXA】。FBレポート末尾でリンクした8年前のみんカラブログに未読の仲間が訪問してくれたわけか。」
何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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