〜『次回、更新へ』の約束の行方②〜
よっしゃ、今回も「次回、更新へ」で一区切りして、次回でそこのところを詳しく・・・・・・などと見得を切った手前、早速に「更新」に取りかかった。
時は、9月。この季節は筑波での『メディア対抗ユーノス4時間耐久』観戦レポが定番であった。それをこんな風に書き出している。
————暦(こよみ)が9月になった途端に、それまでミンミン蝉に替わって健闘していたツクツク法師の歌声もピタっと聴かれなくなった。その代わりに濃蜜な金木犀の香りが漂ってきて、秋の訪れを宣言した。テンポが早すぎる。そして台風18号が日本列島を蹂躙した。ブログ更新を半月以上も怠けてしまった。少しは、9月になってからの日々を遅れ馳せながら、おさらいしておこう……。
題して⑤
《遅れ馳せながらの『筑波メディア対抗』観戦レポ》(2017年9月19日)。詳しくは「こちら」から。要約すると以下のように。
午前9時に東京・練馬を出発、東京外環の川口JCTから東北道の乗り、新しく出来た白岡JTCで圏央道へ。そのあと、この2月末に延長された新しい「板東IC」で下道に降り、筑波サーキットをめざす。
午前10時45分、メディア専門の受付ゲートに到着。サポーターパスを首から提げて、パドック・ウォーク。タイミングを計ったように、このごろ、アゴ髭に白いものの多くなった大井貴之クンが顔を見せる。第28回目を数えるこのイベントに、第1回から欠かさず出場しているのだから、選手紹介で「レジェンド大井」とアナウンスされたのも納得できた。
そんな風に、逢いたい人と触れ合える。それが楽しみで、この夏の終わりのイベントに足を運んだわけだが、片山右京、松田秀士、津々見友彦、中谷明彦、清水和夫といったレジェンド達と旧交を温めることができた。そうした様子は一休みしてから、お伝えしたい。
ほら、来た。「一休みしてから」と。そして9日後、律儀に「Part2」を書き継いでいた。
⑥
2017年09月28日 同時代の仲間たちとの『筑波讃歌』。詳しくは「こちら」へ。
この日は予選の様子を、いつもの第1ヘアピンの観客スタンドからではなく、その先の芝生広場からカメラにおさめたあと、パドックへ戻った。これから、ドライバーズサロンに隣接する特設イベントステージで、出場26チームの紹介が予定されていて、三々五々、会場に集合し始めたところだった。
いつも人の心を一発で明るくしてくれる笑顔で談笑中の片山右京、松田秀士の両レジェント。
「ベストカーの三本和彦さんとの対談、読みました。ああいう秘話ものを、もっとやってくださいよ」
わたしの顔を見るなり、松田のヒデさんが「お上手」をいってくれる。たとえお世辞でも、やっぱり嬉しくなる。右京さんと顔を合わせるのも久しぶり。今、彼の主宰する自転車競技集団『チーム右京』がワールドレベルに勝ち上がったため、これからが大変なことになりそう、などと彼の夢を聴かされるのも、快い。彼の目、志は、いつも新しい世界に注がれている。
結局、この「観戦レポ」はなかなかゴールにたどり着かない。それどころか、レースそのものも、まだスタートしていない。でも、今回はこの辺で一休みさせていただく。できるだけ早く、次回に取りかかれるといいのだが……。
★ ★ ★
そうだった。ここで大事な忘れ物を「松田のヒデさん」が示唆してくれているのに気づいた。ベストカーでの『三本対談』がそのままになっていることを。それは10月10日号で『正岡貞雄の自動車業界回想録・瑠璃色の時代』とタイトルされた2ページ物の対談だった。タイトルの下に小さく「註」が付けられていた。「青く澄みきったクルマ業界の意」と。
改めて読み返してみて、そっくり『クルマ一代』に採録しておきたくなった。三本さんと逢ってお話をしようと願った『ヘソの部分』がそこにあるからだ。
《承前》
三十二年前に三本和彦さんから頂戴した一通のペン書きの葉書。そこから蘇った《天正遣欧少年使節団》の記憶をやりとりしただけで、前号の「金口木舌」は、その容量が一杯いっぱいになってしまった。実はここからが「本題」部分。徳大寺さんの薦めで三本さんが「カーグラフィック」で長年連載中のコラム『フロム・アウトサイド』をまとめて、単行本にしませんか、と申し入れるために初めて伺った先が、葉書の表面に記されていた「六本木・麻布メゾン五〇二」。その日のことを、今でも鮮やかに思い出すことができるのはなぜだろう? あれは一九八三(昭和五八)年の夏の終わりだった。 (正岡貞雄)
徳さんのあなたを語る時の熱く嬉しそうな声が聴こえる
正岡(葉書をお見せしながら)実はね三本さん、この「麻布メゾン」という洒落た名前のマンションに伺ったのは『昭和の遣欧使節』としてスペインでご一緒する2年前のことでしてね。麻布十番一ノ橋の交差点にある更科蕎麦屋で腹拵えをしてから、飯倉片町へ向かう上りの坂道を息と心を弾ませながら……。
三本 編集局長にわざわざ事務所まで来ていただいたのを覚えています。事前の電話のやりとりから、掲載誌側の小林彰太郎さんから許可が取れたので、ということでしたね。
正岡 そうです。結局、単行本にまとめる分をそっくり選んだのも、言い出しっぺの徳大寺さんでした。
三本 それを聞いて内心「しまった」と思った。だってね、記事の中には、徳大寺さんを批判がましく書いた覚えがあって、あるいは改めて不快な想いをさせたのではないか、と。八方破れの喧嘩腰人生を送っている自分自身がちょっぴり恥ずかしかったな。
正岡 それは杞憂というもの。だってね。徳大寺さんがあなたについて語る時の熱く、嬉しそうな声が、今でも耳元に残っています。
三本 それは光栄。どんなお話でしたか?
正岡 徳大寺さんが『もう黙っちゃいられねえ』(ベストカーブックス)の前書きでも触れていましたが、仕事の関係上、三本さんと話をする機会があって、二度ほど海外旅行にもご一緒したが、そんな時の三本さんはとても愉しく、かつその博識なことで尊敬できる先輩である、と。
三本 それは徳さんの持ちあげ過ぎですよ。
正岡 いやいや。当時はまだ西ドイツと呼ばれていましたが、あそこのアウトバーンは走りやすい、といったら、「当たりメエよ。あそこの1レーンの幅が日本の高速道路より、15センチ広いんだよ。それを知らないで、いいも悪いもないだろう、と三本さんに叱られたって。徳さんはアウトバーンでは時速200キロを楽々キープできるのも、おそらく1メートルは広いのではと思っていたので、それがショックだったらしい。
三本 あ、は、は。そうなんだな。直線部が多いのはわかっているけども、どうしてだろうと思ってね、日本から高速道路の研究に来ている人がいたので訊いてみた。答えにこちらはびっくりしましたねえ。
正岡 それが、たかだか15センチだけ広いということ?
三本 そう。ご本人も不思議がってたった15センチで、こんなに違うなら、日本の道路もそうすべきだ、と言い出してね、日本に帰ってから開設予定地の数字を全部弾き出して、それを金額にして上層部に報告してみたんだって。
正岡 それは凄い。で?
三本 三ヶ月もかけて調査したけど、たった15センチでも、ものすごい金額に膨らんで、結局、諦めたって。
正岡 そうだ。今度、新東名ができたじゃないですか。あのレーン幅はどうなんだろ?
旧東名に比べて。ちょっと調べたくなったな。
*ドイツのアウトバーン
*こちらは「新東名高速道路」。設計速度が120km/h。やっと試験的に時速110キロに。
【正岡追記】東名高速道が出来た当時は高速道路の明確な基準がなく、幅員はアメリカの道路幅12フィートを参考に3・5メートルで造られたと言われている。今度の新東名は設計速度140キロを担保とした構造になっており、車線幅員は上限の3・75メートルで造られました。それで路面も新しいし、幅員もところによっては25センチも広い。新東名が走りやすいわけです。
三本 ベストカーをここまで推しあげた原動力のひとり、徳大寺さんが亡くなってから、もう3年近く経ちますか。
正岡 2014年11月7日でした。
三本 こうやって、徳大寺さんと深く関わったことを知り、心に沁みるものがあります。実は、ずっと現役を続けながら、いつかはこの「ベストカー」に書かせてもらいたい、どんな形でもいいから関われないものか、という想いがあって、ずっと辛抱だったですね。
正岡 ありがたいことをおっしゃる。
三本 徳大寺さんの『俺と疾れ!』のようにはまいらぬが、彼への感謝をこめて、ボクなりにこれからも志だけは燃やし続けていたい。
正岡 もうちょっと単行本のモトとなった『フロム・アウトサイド』のことを続けさせてください。
三本 どうぞ、どうぞ。
正岡 徳さんと一緒に、どのページを生かすかをチェックし合っていた時、目に飛び込んで来たのは、黒沢元治さんが関わった富士スピードウェイでのGC炎上死亡事故です。三本さんが、鈴鹿のプレスルームで事故発生から5分後に知った、という話からはじまる短文。しかし、恐ろしく内容たっぷりで、この事故への、当時のマスコミ情勢の一端を知ることができました。さすが、と唸らされました。
*1974年6月2日、富士グラン300キロレース第2ヒートで多重クラッシュ事故が発生し、風戸裕、鈴木誠一の両選手が死亡したこのレース。事故調査に警察も介入。事故の直接的な原因を引き起こしたとして黒澤元治選手が業務上過失致死傷害の容疑で、書類送検されてしまう。翌年2月、不起訴が決定したが・・・。
三本 はい。とても嫌な事故でしたね。
正岡 あれはGC第2戦で1974年6月2日のことなんですが、三本さんはその第1戦を観戦して、なんとなく心にひっかかるレース運営があった。それでGC第2戦は助手だけを取材に出し、ご自身は鈴鹿でモーターサイクル・レースを取材することにした、と書いています。
三本 そうでした。「何かありそうですから……」と富士スピードウェイへ行った助手のカンは正しくて、鈴木、風戸の両選手が死亡するような大事故が発生してしまい……。
正岡 黒澤さんはその後、この事故の責任を取る形で、一度はレース界から引退する。しかし不死鳥のようによみがえる。そんなことも含めて、磨かれた辛口の卓見がうかがえる貴重な資料の一つでした。
三本 あの事件は、なんだか胸に大きな空洞ができたように感じました。
正岡 さてこの頃、新車の発表会には?
三本 できるだけ行くようにしていますが、昔の新車発表のように向こうも魂を入れた感じがないじゃないですか!
やっと吼える三本さんが登場したところで、ベストカーでの対談は終わった。
また次号でページをとっていただければその中身を紹介したい、と編集部に届けた「まとめ原稿」には、そう添え書きしておいたが、残念ながら『以下、次回更新まで』のまま、実現していない。実は、プログレがデビューした当時、三本さんはその四輪駆動バージョンを、わたしはiRバージョンを購入した内幕などもあって、このまま眠らせておくのは勿体ない。
そうだ。この《『三本×正岡』密談(対談ではない)》を、当欄で「つれづれなるままに」書き綴っていくのはどうだろう・・・・・・というところで、
以下、次回更新まで。