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正岡貞雄のブログ一覧

2015年12月31日 イイね!

『理想のクルマ創り』と『幸運の30cm』

『理想のクルマ創り』と『幸運の30cm』〜勝負のときの「五木寛之&星野一義」頼み〜


 鼻の奥がムズムズっと来たら、もう赤信号どころではない。いきなり「クシュン」「クシュン」、そして「へクション」が止まらなくなる。その反動で腰を痛めないように腰を落として構えないと、あとで大変なことになる。ひとしきり、ノッキングの猛襲に耐え、嵐の通り過ぎるのを待つしかない……。

 はじめは、いつもの花粉症かとタカをくくっていたが、今回は違う。いきつけだった耳鼻科の先生は引退、新しく通い始めたクリニックの先生は、抗ヒスタミン薬の錠剤とフルナーゼ点鼻薬の噴霧スプレーを処方してくれたが、そう簡単には治ってくれるやわな相手ではない。今回の「発症」は古い資料の片付けとネガ整理をはじめたのと歩調を合わせている。ということは? カビやダスト、そしてそれに紛れ込んだダニの攻撃だったのか?



 そうした作業を他人に任せるわけにはいかない。今にも崩れ落ちそうな段ボール箱から取り出した1冊、1冊に目を通し、残しておきたいページをスキャニングしていく作業なのだ。それに途轍もなくでっかい「宝の山」に出くわすこともある。まあ、資料の整理といっても、ある種の狙いがなければ、なかなか手をつけられるモノでもない。

 今回は「ベストカーガイド(ガイドが付属していた)」と暮らした「1980年代」に狙いを絞った。創刊して3年、やっと軌道に乗り、そして85年に月2回刊にシフトチェンジした、あの、思い出しても浮き浮きしてくる時代に焦点を合わせることにしていた。

 きっかけはSUVが「時代の寵児」となり、AudiのQ5を皮切りに、PorscheマカンやLEXUS NX300hと試乗を重ねたことだった。こうしたタイプのクルマの出現を望み、ついにはTOYOTAのバックアップを受けて取り組んだ35年前の「プロジェクト」のめざしていたものが、まさにこれだった、という確信……。



 それをもう一度、確認・検証しなくては、と考えていた。その連載企画のスタートが1980年2月号だった。題して『五木寛之/ティーチイン 理想のクルマを創る‼︎』。8ページを動員し、1年間にわたって取り組もうという態勢だった。
 その第1回、徳大寺有恒さんをアドバイザーに、そのころライトエースをベースにしてファミリーワゴンを開発中だった製品企画室主査、デザイン部次長を交えて、コンセプトづくりから始めているが、その内容はこれからクルマ関係を志す向きには絶好の教材となるだろう。

 たとえば、こうだった。五木さんが目指すべきクルマについて言い切る。
「ぼくの夢というか願望をこめたクルマは言ってみればアヴァンギャルドだから、実際にそれが実用にされなくても、一歩も二歩も進んだクルマを創ってみたい。現実にコマーシャルな価格で、しかも使う人の個性に合わせていけば、きっと面白いクルマができる。専門家の協力やアドバイスを受けながら、ことし1年間をかけて、ぼくの理想とするワンボックス・カーを創ってみたい……ぼくには要求だけがあるんだ」



 そして言葉を継いで専門家に斬り込む。
「(ファミリーワゴンを指差して)TOYOTAが乗用車タイプのワゴンを試作なさったというのは、これから10年後、とても大きなものになるだろうから、育てていこうくらいの気構えでおられるのか、そこのところ、おうかがいしたいですね」
 TOYOTA側からデザイン部次長が受けて立った。
「おっしゃる通り、5年、10年には乗用車的な者に育てたいと考えております。現在では、たとえばライトエースの走りは乗用車並みになってきたけれど、まだトラック的要素が、やや残っています、正直いって」
 五木さんが、さらに突っ込んでいた。
「そのトラック的な要素と乗用車的な要素というのは、具体的にいえばどこが違うんですか?」
「シャシーですね」と答えたデザイン次長に替わって、製品企画室主査が説明する。
「こんどのライトエースについては、ほとんど乗用車だと考えているんです。全く乗用車的なレベルになっていると思います」



「大変に素人的質問で申し訳ないんだけど、TOYOTAのたとえばクラウンと、ライトエースのシャシーはどこがどう違っているのですか?」
「いちばんわかりやすく説明しますと、クラウンは4輪ともコイルスプリングで、エースのほうはリーフスプリングなんです。
 それがいちばんの差でしょうね。コイルスプリングのほうが柔らかくできているんです。エースのほうは荷重がかかりますからスプリングが完全にペタンとならないように、やや硬い。
 それともう一つ大事なことはランニング・ギアですね。エンジンをミッションで落としてデフで落としますが、トラックの場合は小さいエンジンで、重い荷物を積んで駆動力を出さなくてはならない。だから、各ギアが簡単にいえば伸びないんです。ロウが、すぐにピークに達してしまう−−−」

 こうしたやり取りから、話は発展して、ワゴン車にオートマティック・トランスミッションは取り付けられないのか、シートはドイツ式かフランス式か、などと白熱、あっという間に2時間が経過する。そこで五木さんがアドバイザーの徳さんに「ぼくとTOYOTAの方々の第1回の意見交換をお聞きになって、専門家としてはいかがですか?」と、締めくくりを求めて、第1回のティーチインは終わる。



 連載第2回目。五木さんと徳さんは、横浜から東京へ向かう第3京浜国道を、『理想の1BOXカー』のベースとして有力候補に上がるTOYOTAハイエースを走らせながら対談、そこで細かい点までつめたTOYOTAへの要望書をまとめ上げる。
 連載3回目。TOYOTAから基本デザインと仕様書が回答される。担当もTOYOTAの別働隊として評価の高いTRDの開発室と決まった。五木さんもベース車となるハイエース購入の手続きを済ませた。動きがどんどん具体化していく。クルマ創りのドキュメント。
 
 そうだ! この連載企画を35年たったいま、そっくりPDF化して「POLARISクルマ仲間名作図書館」で閲覧できるようにしよう。

 それから5年後、月2回刊にシフトアップ。その号の奥付けページに総編集長として以下のような誓いの言葉を述べていた。これもその時代の証言としてスキャンしておこうか。

《8年近くつづいた「30日型編集」が、この号から「15日型」に変わります。−−−−つまり、書店やブックスタンドには半月しか置いてもらえないのです。
 編集する方も、これまでの2分の1のサイクルで対処するのですから、すばやい決断と集中的な作業を要求されます。
 その代償?として“情報もぎたて感”いっぱいの、ジューシイな「ベストカーガイド」をお届けできるわけです。NEWカーの初期露出と実車試乗との間にタイムラグがありすぎることもこれで解消できるでしょう。
 モータースポーツもたっぷりした充実感と速報性で対応できるのは、心強い限りです。
 しかし、私たちはスピードばかりに頼る、単純な速球派ではありま戦。五木寛之さんの新しい連続読み切り小説は、これまでのクルマ雑誌にはなかっただけに、強烈な衝撃(インパクト)を与えることうけ合いです。舘内端さんも新企画で大張り切り、もちろん徳大寺有恒、黒澤元治、竹平素信の強力トリオも、登板回数が倍増され、見せ場がふえると大喜び……(後略)》
 
 月2回刊という勝負どころ。講談社各部門からのバックアップで様々な手を打ったのがよくわかる。その一つが「NISSANマーチTURBOが当たる記念プレゼント」と応募者全員に用意した『チャンプの走りを盗め! 俺だけのNO.1テクニック』(B6版・96ページ オールカラー) の2大プレゼント。









  さらにズラリと並ぶ推薦者の顔ぶれ。ハッと気づいた。勝負どころで必ずお付き合い願っているふたりがいる……五木さんとレーシングドライバー・星野一義。五木さんについては説明の要はないだろう。しかし、なぜ星野一義なのか。モータースポーツ系の企画だけではない。「闘う男」とか「男が疾る」といったヒューマンドキュメント企画の第1回は、決まって指名させていただくことにしている。一種のゲン担ぎかもしれないが、決まってヒットしている。星野一義という男は、そんな強運の持ち主なんだ。





 ページをめくる手が、一瞬止まった。「オリジナルBOOKプレゼント」の告知「から6見開き目のモノクロ・グラピアページ、『30cmの幸運…』というタイトルが踊り、その下にコース灯のポールに叩きつけられているフォーミュラ・マシン。そう、あの星野一義のゼッケン②。なんとヘルメットとポールの間にはほとんど隙間がなかった! ということは?



 このアクシデントシーンは、ひょっとしたら「月2回化」記念号のなかで最も読者のこころを鷲掴みしたのかもしれない。星野一義の強運にホッと胸を撫でおろしたときの記憶が甦る。だが、どこかが異なっている。確か、赤いマシーンで見たはずだが……。疑問はすぐに溶けた。その年の「PHOTOGRAPH OF THE YEAR」に選んだ時にカラーページへ格上げしたのと混同していたのだ。そのページに当日の模様が詳細に記されていた。

 それは5月26日朝の鈴鹿サーキットの出来事だった。 
 JPSトロフィーレースの決勝を前にした朝のフリー走行で、そのアクシデントは発生した。普通ならマシンの最終チェック程度にその与えられた40分を費やすのが普通だが、星野一義だけは必死だった。前日の予選は4位と低迷、しかもシーズンに入ってからは宿敵中嶋悟の背中を見続けている。このフリー走行でマシンを煮詰め、どこか吹っ切れない自分の走りをチェックしなくてはならなかった。日本一速い男はいささか焦っていた。
「私がいたのは第2コーナー。こんなに早起きしたカメラマンはいなかったですね。フリー走行がはじまってしばらくたって、まあ他のドライバーは適当に流して走っていたのですが、星野さんのクルマだけは攻めていましたね。私が見ても明らかにオーバースピードでコーナーに入ってきたんですよ。スゲーなって思っていたら途端にケツを振り始めて、そのままグリーンを横滑りしてコース灯にぐっしゃりですよ。悪いけれどダメだと思った」



 シャッターをきり続けた小泉正博カメラマンの証言である。
 写真は連続写真で一部始終を捉えていた。わずか30cm、いや20cm差でコース灯への激突をまぬがれたことがよくわかる。
 星野はkの30cmの幸運で勝利の女神を自分のものにした。14日後の事故後の初レース(GC)を勝ち、4回目のGCシリーズチャンプに輝いた。事故後、また速くなった星野派やっぱり日本のニキ・ラウダなのかも知れない。

 その星野さんもすでに引退、IMPULチームの監督としてレース界を賑やかせている。が、盟友の金子豊マネジャーを喪い、寂しい2015年の大晦日を迎えているのだろうか? 年が明けたら、逢いに行こう。そう心に決めて、‘85年7月26号のスキャンを終えようとして、念のため、後半のカラーグラビアページに目を通すと、待ったいたように「IMPUL」の見開き広告ページが現れた。まだ三鷹市でホィール中心のショップを開いて時代のもので「狼の子供たちよ」というレーシングスピリットをテーマにしたコピーが懐かしい。






*ベストカー2016年1月26日号のセンター見開きページ掲載のIMPUL SERENAの広告ページ


 あれからずっと、星野さんは「ベストカー」を育てつづけてくれている。2015年の最終発売号、2016年1月26日号にも「IMPUL」のカラー2Pがセンター見開きのページを飾ってくれているではないか。熱いものがこみあげてくる。ずっとずっと連帯の想いを共有してくれている。

 年の瀬が迫って素晴らしい贈り物が届けられた……。

「みんカラ」の我が友へ。この1年をありがとう。そして、よいお年を!
Posted at 2015/12/31 22:38:09 | コメント(1) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2012年01月09日 イイね!

いざ!『悪魔のリンク』と勝負じゃ!! ~雨と霧のニュルOLDコース~

いざ!『悪魔のリンク』と勝負じゃ!! ~雨と霧のニュルOLDコース~「悪魔のリンク」とは、よくぞいってくれた。初日はレーシングドライバー気分で、日本人で初めてのNewリンク走行を愉しんだぼくらにとって、2日目の雨と霧は、衝撃的な舞台装置となった。
 OLDコースは1周22・835km。もしもどこかでクラッシュやコースアウトでもしたら、救出作業に時間がかかる。まっぴらご免だ。走行路は、まるでロマンチック街道か、日本でいうなら奥蓼科あたりの雰囲気で、ヒマラヤ杉を中心とした森の間を縫うように上下している。176のカーブが牙を剥いてぼくらに襲いかかる。

●千変万化! 176のカーブを熱走報告
 その辺のところを、こんな状況ではもっとも無難なCR-X(欧州仕様)を駆っての「熱走」を実況レポート風に──
「えー、ただいまピットを飛び出してから最初の下りのS字にさしかかりまァす。軽くブレーキング。きれいに回ってくれますね。えー、3速にホールドしたままS字を左へ。カーブ⑧の看板です。1㎞地点通過。ガスが流れてきます。またS字。林の中を抜けます。3速にして、下りはじめました。見晴らしがいいなァ。右が原っぱ、左が畠。ブリッジを渡ります。あ、バタつくなあ。25の看板をみて、駈け上がる。はい、ストレート。路面はニュルニュルだなあ。右へ大きく曲がります。減速します。おいおい、どこへ行くんだ。わあ、ガードレールが近づく。助けてくれ。ふーッ。止まってくれたか。腰がひけるなあ。この程度のコーナーでスピンしたんじゃ、先が思いやられるよぉ」








「(中略)メーターは150。下ります。前が見えねェな。53の看板でーす。2速に落とす。右に町が見えてきました。はい、左に大きく回って、右へ上がっていって、よし、いいストレートだ。64の看板です。あ、ここでラウダのフェラーリが燃えたんだな。大して難しいところじゃないのに。あれ、また右回りか。難しい、難しい。こけるなよ。さて、カルッセルの谷はまだかな。長いなあ。あ、背後から1台追いかけてくるぞ。クアトロだな。誰かな。長い上りのストレート。150、155、160! まるでゴルフ場のフェアウェイを走ってるみたいだぞ。あれ、うしろのクアトロ、ウインカーを出して、こちらをパスしようとしています。津々見(友彦)さんか。どうぞ、どうぞ。左へ軽く切って、右へ持ち出して。 11Km地点か。コカコーラの看板を、右へ回って、はい2速に落とす。これか、カルッセル(大逆転の意)の谷は……きれいな樹だな。林の中を下ります。うわっ、凄いや。路面に枯葉が……。ガスで先が見えないぞ。こわい、こわい。よし、よし、それでいい。タイヤが硬いな、この路面じゃ、皮むきもしていないのはきついよ。昨日のままにしてくれればいいのに、畜生! きついよ、この下りは。ウェット性能は思ったより悪くないぞ。さあ、最後のストレートか。行け、行け! 160、165、170……オーバーブリッジ、ブレーキング! はい、ご苦労さん……」

 というわけで、タイムは13分15秒台。冷汗びっしょり。とにもかくにもマシンを壊すこともなく、たどり着けただけでひと安心だった。



●リンクにF1が帰ってくる!
 小気味よいフットワークを誇るCR-Xでスピンしたのがよかった。クアトロ以下、スタリオンなどのほかのマシンは、ともかく丁寧に周回したこともあって、雨と霧の悪魔のリンクでの試走会は、全車無傷で無事終了。

 クアトロのぼくのタイムは12分03秒、あの津々見友彦さんが11分34秒だから、1㎞につき1秒ほど遅いタイムは、まずまずと納得したが、清水和夫さんあたりの速さといったらない。最後のストレートのオーバーブリッジでは5速全開で駆け降り、200㎞/hを記録するのだから、別次元の話だ。ぼくが清水和夫さんに注目し、言葉を交わすようになったり、彼のドライビングを助手席から観察できたのも、この旅の収穫であった。

 別次元といえば「4D(ディメンション)」というネーミングは4次元からきている。空間という3次元に速度(時間軸)を加え、人-メカ(タイヤ)-地形の一体化したパフォーマンスの意味をこめたという。なるほど、思う。速さに追従するだけでなく、タイヤが速さと一体化して、ぼくらのニュルブルクリンク試走会をなんのトラブルもなく終了させてくれたのだろう。



 ただし、残念なことに、比較用にとり寄せるはずだった「トランピオC―2」タイヤが届かないため、サーキットというミューの高い条件下で従来品と比較できなかった。たとえばコーナー立ち上がり速度の違いなどを味わいたかった。ま、その辺は徳大寺さんの本格的レポートに譲るとして、ぼくの場合、どうしても「熱走報告」にウェイトがかかってしまう。
 最後に──ヨーロッパF1グランプリはニキ・ラウダの事故以来、8年ぶり、ニュルブルクリンクに帰ってくるという。
 
 付記すれば、このあと944でハイデルベルクに遊ぶ。相棒は、例のロマンチック街道以来の笹目氏。いやぁ、フランクフルト手前のストレートで944のメーターが300を刻んだのは、なんとも痛快で、得がたい収穫だったね。ドライバーはどちらかって? さて?

●主演・黒沢元治 ベストカー・レーシングチーム死闘レポート
 この旅には、エキストラがある。「シティブルドックレース第2戦」のある鈴鹿サーキットへ赴くことになっていたのだ。

 ニュルプルクリンクの試乗会から成田~大阪国際空港と乗り継いで、レーシングチームのスタッフの一人に差し回してもらった愛車BMWで鈴鹿入りしたのがケチのつきはじめだった。ポルシエ944でアウトバーンを高速クルージングしてきたことを思い出しながら、阪神高速、名阪道路を快適に走っていたところ、「このルート、覆面パトカーが多いんですよね」という スタッフの言葉に「えッ!?」といったときにはもう手遅れだった。背後にピッタリはいついていた黒いクルマが、いきなり赤灯を回しはじめたのだった。

すっかり不機嫌になって鈴鹿入り。ところがチームのエースであるガンさんはもっと不機嫌な顔でぼくたちを出むかえた。聞けばこの日(5月25日)の公開練習で、ブルドッグのターピンがいかれてしまったそうだ。
 前戦で藤田、高武の両選手にぶっちぎられているだけに、今戦に賭けるわがレーシングチームの意欲は大変なものである。ボディの補強、エンジンの再調整を「無限」にお願いして万全の態勢で臨んだつもりだ。
 実際に5月19日に行なわれた「ブルドッグ講習会」でのマシンは調子よかった。ところが――タービン不調……。
 徹夜でタービンの取り換え作業をしたものの、即、本番。正常に過給してくれるかどうか保証のかぎりではない。
 はたして予選のガンさんは無残な走りに終始した。―周目、はやくもピットイン。プラグは白く焼けている。ガスが薄いのだ。調整してピットアウト。

 だが、それでも効果はなかった。直線で抜かれ、コーナーで抜き返しても立ち上がってから後はまったく話にならない。
 予選終了。⑤藤田、(45)高武、⑪中島たちは2分34秒台のタイムだが、ガンさんはなんと2分41秒21で、出走22台中、21位だ。
「面白いじゃない。ガンさんが何台抜くか見ものだよ」と明るく振舞ったものの、ぼくの声に力がない。その日もタービンの再調整などでスタッフは半徹夜を強いられたのだった。



 さてレース当日、小雨がパラつく。「雨、雨、降れ、降れ」とぼくらは大合唱。ところがその願いもむなしく路面はドライ。
 レース開始。たぶん、ガンさんがこんな順位からスタートしたのは初めての経験だろう。なにしろトップは遥か前方で後ろにはマーシャルカーがいるだけで、まるでフレッシュマンのデビュー当時のぽくみたい。
 1周目、12位で帰ってきた。⑦篠田の背後にピッタリついている。2周目は10位。4周目、⑩松田秀士が2コーナーで転倒。そのあたりからガンさんの伸びは止まった。1周2分36秒台だったのが、38秒台に、それでもゴールでは8位まで上がっていた。
 なんと13台もプチ抜いたわけだが、喜んだのは観客と中位を走っていたドライバーたち。⑩熊倉重春、⑮中谷明彦あたりは「ガンさんの走りについていこうとしたが速くって。しかし、ラインどりなど、かなり勉強させてもらいました」「ガンさんがトップを走っても面白くない。こんなレースこそ『ブルドッグレース』の真髄ですよ」と、関係者になぐさめられ、ガンさんの不機嫌もどこかへ飛んでいったようだ。
 さて、次戦は7月8日。一度くらいは優勝させてもらうおうか。 


*3月の第1戦のブルドックレース

 実は、この死闘レポートは「ベストカーガイド」(1984年8月号)の「悪魔のリンク」挑戦レポートと同載されており、立体感を演出した面白さの一例として、付け加えてみたが、いかがでしたか。それともうひとつ、付け加えておく。すでに勘の鋭い向きはお気づきだろうが、のちに「ベストモータリング」を興こしてからの主要キャスターたちの名前が、この頃から登場し始めていることだ。まだ、映像マガジンの発想はなかったが、いま、己が体験していることを、8ミリテープにでも撮ってみてはどうか、という想いが頭をもたげ始めた時代であった。         (この項、おわる)          
Posted at 2012/01/09 23:35:21 | コメント(4) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2012年01月08日 イイね!

『悪魔のリンク』からの招待状 ~1984年5月、2度目のニュル~

『悪魔のリンク』からの招待状 ~1984年5月、2度目のニュル~ 1982年5月末にニュルブルクリンクという、とんでもないサーキットに踏み込んでからというもの、すっかりその魔力に慿(とりつ)かれてしまい、いつかは自らがクルマで、176のコーナーを攻めて見たいという夢を、年甲斐もなく、抱いてしまった。ま、クルマ野郎なら、だれでもそうであろう。現に、前回の『黄金の日々』で紹介した「Hawk Yama」氏もその一人で、44歳でその夢を叶えている。しかし、恐らく、次なる挑戦目標ができてしまって、すでに始動しているに違いない。

 そうはいっても、そのころのぼく(おお、48歳、若かったね)に、ニュルを攻めるだけのドライビング技術なんてありはしない。日産レーシングスクールの修了生とはいえ、実際のフレッシュマン・レベルのプロダクションレースに出場しても、予選通過もままならぬ有様だった。帰国してからは心機一転、まずNISSANパルサーのNPレースに打ち込んだ。やっと中位あたりをはしれるようになったいた。仕事も、滅茶苦茶、忙しくなっていた。新車ラッシュだった。TOYOTAから初代MR2が発表されて、走り屋たちのスピードマインドに火がついていたし、鈴鹿サーキットを舞台にした『CITYブルドック・レース』もはじまったばかりで、東奔西走の毎日だった。

 そんなところへ、新しく開発した高性能タイヤ「トランビオ4D」を、ぼくら自動車ジャーナリストに、ニュルブルクリンクでテスト試走してみないか、とメーカーの東洋ゴムが大胆に誘ってくれる。その2年前にWEC観戦の際にバスで垣間見ただけの夢のサーキットで専有走行できるという、思いもかけない招待状。よほどの自信作が出来上がったに違いない。否応もない。新しくARAIから支給されたばかりのフルフェースのヘルメット、レーシングスーツなど一式を、旅行バッグに詰め込んでしまったことから、ぼくの浮かれようを想像してほしい。『熱走報告』を書くから、と周りを強引に説得した。アイキャッチのカラーページ(「ベストカーガイド」1984年8月号)はそのときのもので、ご覧のように4色カラーつきの4ページを動員している。

*新しく誕生したグランプリコースに立つ F1はここで開催

 1984年5月、西ドイツ(まだ統一前であった)へ向かう機中の人となっていた。
 ヨーロッパに飛ぶのは、あっという間に6度目を数えるようになったが、ルフトハンザ/ドイツ航空を利用するのは、初めてである。言葉の通じないドイツ人スチュワーデスに、さぞかし悩まされるのではないかと危惧していたが、なんのことはない。大阪発、成田経由のフランクフルト行き定期便には、日本女性がちゃんと用意されており、なんの不自由もない。まるでJALにでも乗っているようだった。違うのはレカロ製のシート。こいつはひどく快適で、16時間を超える長旅も、なんとか耐えられた。加えて、ぼくの心を弾ませてくれたのは、アンカレッジを出てから上映されたニュース番組「ルフトハンザマガジン」のイントロ・シーンである。

 疾走するフェラーリのF1マシンがガードレールに接触、そのまま右側の丘にむかって弾かれる。クラッシュ。炎上。タンカーで救出されるドライバー。

 このシーン、記憶にある! 1976年のドイツGPでニキ・ラウダが演じたあの悪夢の惨劇ではないか。そして、その凶々(まがまが)しい舞台こそ、これからぼくらが挑戦しようとするニュルブルクリンクである! なぜ、今頃そんな映像を流すのだろうと首をひねった瞬間、場面は一転し、お祭り気分の明るいサーキットが大写しされ、クラシックカーのパレード。その中にラウダの笑顔も見える。
7年の歳月をかけて、ニュルブルクリンクは変身した。1周22.835キロメートルの旧コースはそのままに、あたらしく4.542キロメートルのモダンなサーキットが誕生したのだ。安全性を確保した広いグリーン。アウトバーンから駐車場まで直結された高速路──。現在、ヨーロッパラウンドのF1GPは、ここで開かれる。

 5月12日のオープニング式典が、嬉しいことに当時の西ドイツではどんなニュースより優先するというわけだ。そのサーキットで、もうすぐぼくは走れる。偶然とはいえ、まるでドイツがぼくらを歓迎してくれているみたいじゃないか。

  *     *     *      *     *     *

 5月20日と21日の2日間、ぼくらはたっぷりとニュルブルクリンクのNEWとOLDの両リンクのそれぞれ異なった魅力を満喫した。
 用意された6台の高性能マシンは次の通りで、見合ったサイズの「トランビオ4D」が装着されていた。 
*NEWリンクのピット前で。左から当時出たばっかりの欧州仕様のCR-X、スタリオン、323i
          
▼アウデイ・クアトロ(205/60R15)
▼ポルシェ944(215/60R15)
▼ベンツ190E(195/60R14)
▼BMW323i(195/60R14)
▼ホンダCR-X欧州仕様(185/60R14)
▼三菱スタリオン欧州仕様(215/60R15)

 初日は快晴。使用コースはお披露目がすんだばかりのNEWリンクであった。ピットは2階建てに改装され、コントロールタワーも全コースが俯瞰できる高さになった。すべてが様変わりしている。観客席には日曜日とあってか、500人近いギャラリーがそぞろ歩きを愉しんでいる。そして、極東の遥かな国からやってきた連中の、6台だけの奇妙なレース(?)に声援を送ってくれるのだ。

 持ち時間は20分。1周4.542キロメートルをクアトロや944は2分20秒前後で駆け抜けていたから、最低7周はできる。参考までに、ポルシェのバイザッハR&Dのコンピュータがはじき出した予想ラップタイムをお伝えしよう。Flマシンで1分35秒13(平均170・1㎞/h)だという。カーブ数は14、右回りが8、左回りが6、高低差はあまりなく、第1ヘアピンを88.5㎞/hでクリアし、3.5㎞地点からのストレー卜で、286.8㎞/hで駈け上がる計算である。



 このサーキットの諸元表でみる限り、かなりの高速サーキットといえる。で、実際はどうか。最初に割り当てられたスタリオンはDIN170ps/5500rpmと巨大なパワーを発揮する。軽く2ラップを流し、最終コーナーを立ち上がるところで本格的にこの大ぶりな挙動をもつマシンで「4D」を攻めることにした。

 アクセル全開! 左にメインスタンド、右にピットを見ながら直線750m、デジタル速度計が170に達したところで第一コーナー、減速、4Dはきれいに車速を殺してくれる。右へ大きくステアリングをきると、スキール音を発するものの、限界を報せる悲鳴ではなく、快いサウンドだ。応答性も横剛性も悪くない。

 こいつはいける! それが4Dの第一印象である。レーシング仕様でもないのに、まるでスタリオンのP仕様にでも乗っている錯覚に陥ったほどだ。

 第1ヘアピンから第2ヘアピンまでは下りの高速ライン。4速までシフトアップしたところで第2ヘアピンのCPを狙って2速に落としながらのブレーキング。そして、柔らかくアクセル・オン。スタリオンのテールはずるりと左へ振り出し、立ち上がりの挙動にどこまで対応できるか、ぽくを試そうとする。

 ステアリング操作で、ぼくは踏んばる。4Dがそれを助けてくれる。これが、東洋ゴムの開発者が「4Dは人間が動物である部分を剥き出してくれますから、どうぞ、そこのところを味わってください」と、耳打ちしてくれた〈正体〉がこれか!

*NEWリンクのS字コーナーをポルシェ944で楽しむぼく。

 *     *     *     *     *     *

 この27年前のニュルブルクリンク・トランピオ4D試乗会の思い出話で、ひとしきり花が咲いた。モータージャーナルストのなかで理論派で知られる両角良彦さんと、あるメディアの「忘年会」で一緒になったときの話である。この人とは妙にウマが合う。
 いまでこそ、この国の各自動車メーカーも、ニュルブルクリンクを開発の『聖域』として北コース通いに重ねているが、最初に注目したのは、BS、YOKOHAMA,それにTOYOといったタイヤメーカーだったじゃないか――このぼくの指摘に、両角さんが賛同してくれた上に、当時、三栄書房「モーターファン」の編集者だった彼は、そのTOYOタイヤの招待メンバーの中にいたと言うのだ。

 そうだったのか。申し訳ないが、ぼくは記憶していない。津々見友彦、清水和夫、早津美春、伏木悦郎と言った面々と接することが多く、さきの「ピレリ遣欧団」以来の友人であるCGの笹目さんや、FISCOの走り屋仲間であるオートテクニックの飯塚昭三編集長と一緒することが多かった。そうした同業者の交流を促進し、走りの本質に対して見識を深める機会を設定したイベントが、どれだけモーター・ジャーナリズムの成長に寄与していたことか。

*2日目、リンク傍のHOTELの前で、津々見(右)、笹目(左)の両氏と。

 1日目の走行が終わり、2日目を迎えた。宿泊先は「ピレリ遣欧団」の時と同じ、1時間ほど離れた温泉保養地だったが、迎えのバスに乗ろうとすると、雲行きが怪しい。
「本コースのあたりは雨だね」
 だれかが不吉なことをいう。が、その予言が当たってしまう。リンクに着いてみると、雨どころか霧が立ち込めている。よりによって……。それからの悪戦苦闘は、次のアップで。

Posted at 2012/01/08 22:56:57 | コメント(5) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2011年12月29日 イイね!

ああ、ぼくもニュルを走りたい!~WEC1000㎞/決勝レポートから~

ああ、ぼくもニュルを走りたい!~WEC1000㎞/決勝レポートから~  1982年5月30日午前9時30分、サーキット着。10;00、パドックへ。ランチャマルティニに人気が集中。前日のクラッシュと打撲にも負けないでパトレーゼが出ている。
 ロンドーのロルフ・シュトメレンはこの国の英雄、前日、バスでこのコースのガイドをしてくれたドライバー。

 11;00、第28回ADAC1000キロ耐久戦がスタートした。フォーメーションラップは1周22,8キロのコースだから、正面スタンド前のストレ―トから第1コーナーをクルリと回り、ピット裏を抜け、第2コーナーを入るところで右に大きくショートカットし、高速道の流入口のようなバンクを小さくターンして、再び正面前に戻ってくる。
 
 ぼくはピット前にいた。あっという間に青信号になっていた。あれ、あれ。レースは始まっていた。と、第1コーナーでアクシデント発生か。オフィシャルと救急車が慌ただしくコースに飛び出した。と思ったら、ド、ド、バ、バッ、ギューンとトップ集団が第2コーナーを今度は左へ折れ(註:そこからが現在の北コースというわけだ)、下りS字の高速コーナーへ消えた。










*ランチアを脅かした④ヨ―ストポルシェ


*その年の10月、FISCOで圧倒的な強さを発揮するようになるM1軍団  

 7分あまりの静寂。アナウンスの声だけがやたら大きく感じられた。なにやら喚きたてているのは フォードC100がトップにいるかららしい。管制塔の手前に電光掲示板があり、トップがいま、どこを走っているかを教えてくれる。そうでもしなければ、間延びる。豆電球が一つにつながりコース図が浮かび出たとき、轟音とともに先頭集団が還ってきた。ポールポジションを奪ったフォードC100にG6ランチア2台がぴったりくっつく。


*フォーメーションラップに入った先頭集団。ここが第1コーナーで、すぐに右に回り込み、ピット裏の短いストレートが待っている。最初の難所。


 全車が一周を終えた。打合せ通りに、ぼくらは正面スタンド右端の記者席へゾロゾロとし移動。(ここではプレスカードは万能。その発給ぶりも簡単そのもの。富士スピードウェイの勿体ぶったやり方に比べて、どうだ!)
 記者席にたどり着いたのと同時に、2周目を終えたトップグループが時速300キロをこすスピードで駆け抜けていく。この難易度ウルトラのコースに耐え抜いて帰ってくる彼らに「やあ、お帰り」と声をかけてやりたくなる。

 12時からFISAのバレストロス会長とADAC会長とのプレスコンファレンス。かれらは日本のモータースポーツ界を、なんとしても巻き込みたい意向を隠さない。ADACは会員700万人。数こそ、JAFとさほど違わないものの、その質といい、伝統、歴史となると勝負にならないのを、ぼくらははっきり知っている。香港の出資で中国にサーキットが建設されるというニュースの提供。欧州のレギュレーションをもとに汎太平洋、アメリカと一つにして新しい世界選手権を発足させるべく、彼らは走り出そうとしていた。

■第1コーナーのクラッシュに巻き込まれかけた「ふたり」

 先日のアウトバーンクルーズでパートナーとなって以来、すっかり打ち解けてくれたCG誌の笹目さんがただならぬ、青ざめた、ひき吊った表情でそばへ来た。
「死に損なったんです。バーンとラジエターがとんできて、すぐ隣のカメラマンがぶっ飛んで、ぼくは咄嗟に横に伏せていたんです」
「え!? あのスタート直後の第1コーナーに行っていたの!?」
「能登山君と一緒に。彼は金網をよじのぼって逃げました」
「みんなカメラマン?」
「そう、22番(BMW、地元で大人気)がバッと押し出されて、こっちに吹っ飛んできたんです」
彼の報告がグループに行き渡り、みんなが集まって来た。慄然。良助氏も「もし巻き込まれていたら!?」と、首をすくめる。

 一時の興奮が収まると、笹目さんがプレスカードをどこかで紛失しているのに気付く。レースに戻る。ランチアの51番が①フォードC100を抜いた。G6仕様のランチァ集団はレギュレーションの変更で、3年目の今年が最後。なんとしても、いまのうちに勝っておきたい。タイヤはP、ショックがB。今回のテーマにぴったりのマシンなのだ。良助青年が手を叩くわけだ。
「このままで行けば阿部商会は万々歳!」


*フォードC100の脱落でトップに立ったパトレーゼらのランチアマルティニ


*強烈な下り坂から右へターン。コース脇の観客はご覧の通り 

その途端、51番は白煙を吐いてピットIN。慌ただしくピットが動く。51番は一挙に6位まで順位を落とす。①のフォードC1000が逞しく周回を重ねる。局面はしばらく膠着状態に。

 午後1時、バスでコーナーの見える観覧席に移動。 最後の長いストレートに突入する直前の難関に狙いをつけたのだ。腕力だけでランチアを抑えこんでいたC100が、ぼくらの前をたよりないエキゾースト音で通過したとき、レースは決まった。パトレーゼがファビに替わってハンドルを握った。上半身を裸にして日向ぼっこの観衆は大拍手。その人気者が高速コーナーをホッピングしながら駆けおりてきた。たちまち先行車のIN側につき、強引にパスし、丘のむこうへ消えていく。

 見所となるコーナーにはパーキングが設けられていて、クルマと観客が溢れている。キャンピングカー、上半身を裸にした若者たち。思い思いにレースを楽しんでいた。多分、ルマンも同じ光景だろう。

 最初にへばりついたのは、左回りから急坂を駆け下り、谷底から右へ切れ込み、パトレーゼが吹っ飛んだいわくつきのジャンピングスポットが待ち受けるポイントだった。富士のグラチャンマシンに出てくるようなクローズドマシンは、バンバン跳ねながら、ドライバーが腕力でコーナーをクリアしていくのに較べ、サルーンクラスはテールを滑らせ、カウンターを当ててくぐり抜ける。タイヤのスキール音の合奏。

 お次は、少し戻って、最後のストレートに挑むちょいと手前の、左右に捩れ、しかも高低差のある高速ベント。サンドウィッチを齧りながら、熱い日差しをもろに浴びる。観客を掻き分け、叢の斜面に貼りついて、カメラのシャッターを押しまくる。

 300ミリの望遠レンズ。CANON。ドイツの若者の注目の的だった。ビールを飲めと金網越しに執拗に迫る、朗らかに。レース初日からこのポイントに座り、仲間とキャンプ暮らしをしているという。それは親父の世代から引き継がれ慣わしであつた。この辺の違いに衝撃をうけた。
「きみの家の伝統はわかったが、なぜこのポイントなの?」
「だって、ここが一番難しいコーナーでドライバーの腕とマシンが一体になっていないと吹っ飛ぶからさ」

 各車は丘の頂上から左に回り込む。このときマシンがホップする。ステアリングが真っ直ぐでないと、たいへんなことになるはずだ。下るとリアがばたつく。それをがっちりと抑えこんで、右、左のCPにきっちり車首を向けないといけない。それが終わると、アクセル全開で長い、長いストレートへ。C100で時速350Kmに達するという。そのC100がボッ、ボッと頼りない、鈍いエキゾースト音でぼくらの前を通り過ぎる。と、BMW320にあっさりパスされた。ピットにたどり着けるのかな。エムデ氏の話によれば、各車とも5周でピットインして、給油、タイヤ交換、ドライバー交替をやるらしい。

 やがてC100がリアアクスルのトラブルから息の根をとめた、と知る。
あとはランチァ50番の独壇場だった。51番はタイヤトラブルなどから20周目にリタイヤしている。そこで変だな、と気付いた。なんと51番をドライブしていたパトレーゼが、いまでは50番の方にも乗っているではないか。パトレーゼ、パトレーゼと絶叫する場内アナウンスとラジオの声。2カーエントリーの場合、ダブってエントリーできる仕組みだった。Xという名前で……。なるほど、そんなのアリとは面白い。

 そのパトレーゼが高速ベントを物凄い勢いで駆け降りてきた。オフィシャルが青旗を出す暇もないほどのスピードだった。あっという間に先行するアスコナのINについた。高低差が激しいから、アスコナのミラーに50番の姿は映らなかった。気がついたときはもう、右後方から50番はパスしようとしていた。ハンドル操作とブレーキング。タイヤがロックして左に流れる赤いアスコナ。やった! 身を竦めた瞬間、アスコナは体勢を立て直す。パトレーゼも右のタイヤをコースからはみ出させながら、懸命に耐える。耐えながら高速ベントをクリアする2車。アスコナは50番の強引なパスを許さなかった。

 旗を出し遅れたオフィシャルをよく見ると、20歳前後の可愛いコちゃんだった。
午後4時54分、パトレーゼはシルバーストーン、モナコにつづいて勝利のチェッカーをうけた。2位はすっかりぼくらとお馴染になったシュトメレンのロンドー。日本車ではただ1台決勝に進出したRX―7が大健闘、総合6位、クラス優勝。この耐久戦、やがて10月の富士で再現される。  


*総合6位、クラス優勝と大健闘のRX-7  
 
 フィニッシュはメインスタンドから見た。レンズで捉えた表彰台。ドライバーの真後ろでカメラを向ける山本浩道オーテク氏の姿があった。きっとどこかの世界のモータースポーツ誌面を飾るに違いないぞ。そして、ぼくは誓った。これから日本に帰ったら、もっとドライビング・スキルを磨いて、いつの日か、このコースを走ってみせるぞ、と。 多分、この日の仲間は全員、同じことを考えたに違いない。それがニュルブルクリンクの魔力かも知れない。    

Ps その秋、ロルフ・シュトメレンの哀しい訃報が届く。アメリカのツーリングカー戦で激突死したという。 


*ニュルのボス・エムデ(左)、シュトメレン(中央)とチーフメカの各氏

*ホームストレート前で。今ではグランプリコースに変身。 

(註:この一連の『ピレリ遣欧使節団の記録』は「ベストカーガイド」1982年8月~11月号に連載したぼくのレポート『欧州クルマ見聞録』に、現在の記憶と想いを加えて書き直したものです)    
Posted at 2011/12/29 01:27:06 | コメント(3) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2011年12月28日 イイね!

『悪魔のリンク』初見参! ~『聖地』ニュルブルクリンク①~

『悪魔のリンク』初見参! ~『聖地』ニュルブルクリンク①~■技術を磨き、こころを磨いている。それが歴史を守るということか 

 ぼくは歴史が好きだ。歴史のもつほんものの重み、深い味に触れるのが、とても好きなのだ。今回の17日間の日程で、5つのイベントを盛り込んだ「ピレリ漬けの旅」の終わりを迎えながら、ぼくはずっしりとした手応えを感じていた。本物とは、こうやって熟成され、育てられてのち、やっと世界の一流品となることを。

 これまでは、いくらヨーロッパの一流品をつきつけられても、ぼくのなかでは「日本」を通してしか、その意味合いを、受け止めることができないでいた。ただ単に、その歴史だけをひけらかすものは、もう滅びるしかない、と思っていた。しかし、その歴史を大事に育てながら、新しい世代に対しても開発を怠らない。つねに技術を磨き、こころを磨いているこいつらは、凄い力の持ち主だと知ってしまった。そのときに記しておいたぼくのメモ帖から、その要点を摘出してみると――。

◎ピレリ P7以降の開発ぶり。P8、P5。CN36の古さ=ポルシェ911。いま偏平タイヤを高効率の観点で捉えている。フットワークの研究、それがヘッドワークなのだ。
◎ポルシェ スポーツカーへの揺るぎない自信。アウトバーンとワインディングの両面を同じように征服するマシン。馬力とトルク。やたら馬力だけで売ろうとする輸入総代理店「三和自動車」(その当時)に問題あり。ユーザーを盲だと思っている。なぜ、正しく育てようとしない?
◎ビルシュタイン トリアという古い町。ワイン、アウスレーゼ。ローマ帝国の北限で遺跡がごろごろ。工場見学。ひたすらショック(ガス封入)にこだわるその自信はどこからくるのだろう。
◎ニュルブルクリンク コースを走って、納得。
◎サーブ P8の積極的な採用。東洋的なストイックさ。

 旅も終わりに近づいた5月27日。シュツットガルトのホテルを9時に出立。ビルシュタインからの迎えのバスのシートは硬くてリクライニング式。ライン河のほとりでいったん休憩。4時すぎにトリーアの街に入った。トリーアはローマ帝国の侵入に抵抗して、城壁をつくったというくらい、古い街だった。モーゼル河。古代ローマ浴場、劇場。10キロむこうはもうルクセンブルグの国境。街道筋にあるホテルに一泊。この日もダブルのベッドを一人占め。黄色の壁に花柄模様の安楽椅子。まことに乙女チックなり。


*古代ローマの遺跡、カイザートルメン(皇帝浴場)でサッカーを興じるトリアの街の人たちと

 28日はビルシュタイン本社を訪問したあと、バートナイワ―という、有名な温泉保養地のシュタインベルガーという格式のあるホテルへ。

 5月29日。8時にモーニングコールがあるという。それなのに6時40分には目が覚めていた。9時に出発。バスはニュルブルクリンクへ。1時間足らずで着く。第28回ADAC1000km世界耐久第3戦の観戦が用意されていたのだ。この日も、やたら快晴。おれたちゃ、サンシャイン軍団さ、と笑う。

■人気NO.1のパトレーゼが高速コーナーで消えた?
 
 ドイツのニュルブルクリンクといえば、世界でもっとも難しいサーキットとして知られている。1周、22.835㎞。鈴鹿の約3・7倍、富士の5・3倍にあたる。

 この気の遠くなるような長丁場には、176のカーブが牙をむいてドライバーとマシンを待ち構えているのだから、コースとの闘いは想像を絶するものがあるに違いない。だが待てよ。ヨーロッパF2選手権シリーズの新着情報によれば、第4戦でT・ブーツェンがニュルブルクリンクをパーフェクトに克服したというではないか。金曜日の練習走行で7分4秒48というF2での最高タイムをマークし、決勝では天候が雨だったため、タイムはあがらなかったが、ホンダ/BS勢として、ことしはじめての優勝を飾っている。調べてみると、このブーツェンの7分4秒48というタイムは、75年にC・レガツォーニがたたき出したF1による7分6秒4を破ってしまうたいへんなものだ。

 ブーツェンといえば、昨年の鈴鹿F2で、なんどか中嶋、星野、松本らに、赤ん坊のように、手もなくあしらわれたドライバー。いくら鈴鹿がスペシャリスト向きかは知らないが、鈴鹿をマスターできないドライバーが、ニュルブルクリンクを昨年につづいて、連続制覇できるくらいだ。「世界一きびしいコース」もあやしいもんだ――そんな単純な疑問を抱きつつ、はじめてのニュルブルクリンクと対面したわけだ。


*注目の的だったのに公式予選で、高速コーナーで飛んでしまったR・パトレーゼ


*初日の予選ではアルボレ―トがドライブしたランチア・マルティーニ・グループ6

 この日は公式予選日。ぼくらをのせた貸し切りバスがリンクに着いたとき、パドックは大揺れに揺れていた。つい先日のF1モナコGPで優勝したばかりの人気ドライバー、パトレーゼが、「シュバルベンシュバンツ」とよばれる丘の高速ブラインドコーナーで10メートルも空中にとんでクラッシュしたという悪いニュースが待っていた。

「じゃあ、明日の決勝には出てこないのか」
 いささか落胆しながら、ビルシュタイン社モータースポーツのボス、H・エムデ氏に問いただした。
「それもパトレーゼ次第ネ。マシンはメカニックが徹夜をしてでも間に合わすはずだ。パトレーゼが首をやられていなければ問題ない」
 エムデ氏にはリンクのできごとが即刻わかるらしい。なにしろ、予選通過の54台中、ビルシュタイン装着車は45台、83%におよんだ。しかも耐久レースともなれば、サスペンションの設定が重要なポインの一つ。各チームのドライバーやメカがレース用ショックを大事そうに抱えて、パドックの入り口中央にデンと据えられたビルシュタインの基地にとびこんでくるからだ。

 そのたびに、エムデ氏は有名と思われるドライバーを、ぼくらに紹介してくれる。 ともかく、ピットを出て、出走車を見ないと、レース気分は盛り上がらない。パドックから地下道をくぐり、右へ折れるアプローチをのぼりつめると、ぽっかり視界がひろがり、明るいサーキット風景が待っていた。

■フルコースをぼくらのバスで1周の大サービス

 ピットは折から、グループCとグループ6、グループGTUで構成されるクラスの第1回目公式予選が終了した直後で、ごった返していた。2回目の走行は、午後2時半からだ。

 富士スピードウェイなら、差し詰め星野一義選手が使用するに違いない、管制塔に近い便利なピットを、ここでもビルシュタインが占領していた。その隣はピレリがフルにタイヤサポートしているランチア・チーム。どうも不思議でならない。ビルシュタインが、なぜこうもこのリンクのパドックといい、ピットといい、いわば“一等地”を与えられるのだろう。鈴鹿や富士でカヤバやトキコが、こんなふうに振舞っている姿は見たこともない。生き生きと各チームの間を飛び回っているのは、BS、ダンロップ、アドバンのタイヤメーカーの担当者であり、レーサーが息抜きに立ち寄るのは、アライやショーエイのヘルメットメーカーのテントである。


*予選トップのフォードC100を見守る観客たち

 やがて、その謎はとけた。午後の予選も終了して、コースが翌日の決勝をひかえて短い休息に入ったとき、例のエムデ氏がヨーロッパ貴族の後裔のような端麗な顔をほころばせながら、ぼくらのバスに至急乗車するように命じた。
「遥かなる極東の国から来てくれたジャーナリスト諸公に、私のできる最大のサービスをしたいと思う。このリンクは1920年代の初めに、ドイツ政府が国策としてアイフェルの山を切り開いた歴史的なサーキットであり、その難しさは走ったものにしか体感できない。明日のレースの観戦ポイントも、それ抜きでは気の抜けたビールみたいなもの。平日なら、1周5マルク(550円)の走行券でじっくりコースを味わっていただけるが、レース開催中はそれも不可能。そこで、諸公らのバスでコースを一周しようじゃないか!」

 一同、大拍手。と、とことこバスにのりこんできたひとりの男。眼鏡の奥の柔和な目が印象的だった。どこかでお目にかかった顔。
「わが社の契約ドライバーのロルフ・シュトメレンだ。モンツァのWEC開幕戦をポルシェ935K3‐81で2位になったのはご存じだろう。彼はリンク・オブ・マスターとよばれ、このコースの隅から隅までしっている男で、今からガイド役をつとめる」

 緊張したのは運転手のホルスト君。彼にとってシュトメレンは憧れの大スター。たとえ観光バスのドでかいやつとはいえ、緊張しない方がおかしい。ぼくはコースを実地検分できると聞いた途端、最前列へとんでいっていたから、その辺の様子がよくわかる。で、ゆったりとコース・イン。ところが入り口で鍵のかかったバリケードに阻まれた。 いたく権威を傷つけられたらしく、エムデ氏は白い顔を紅潮させ、バスから降りるなり、コース管理室の方へ駆けていく。

 シュトメレンがニヤリとしながら解説する。
「彼こそがボス・オブ・リンクである。彼の協力なしにリンクに挑めば、マシンはコースの外に飛び出すか、1周30秒はタイムロスするだろう」と。


*ひときわ背の高い紳士がバスガイド役で登場したシュトメレン選手

■やはりこのコースはただものではない!

 バスは正面スタンドとピットに挟まれたストレートでいったん停止した。そこがスタート地点。コースは時計回りだ。この時、コース図を入手していない失敗に気づいて、ぼくは慌ててノートを開く。せめて、見取り図だけでもとってやろうというのだ。
 第一コーナーはスプーン状にクルリと回って、いま来たばかりのストレートの裏側を、ピットを挟むようにして折り返し、左の上りコーナーへ。そこでコースは二股に分かれる。右にカーブするのは、ショートカット用のエスケープロードで、まるで高速道路の流入口のようにループしていた。本コースの、いったん上りつめたコーナーが直角に折れると、富士の第一コーナーを裏返しにしたような下りの勾配。と、すぐにS字が五つも連続する。それも森の間を縫いながら、谷底に落ちていく感じだ。
 グループCマシンはブレーキングを多用しながら、3速で駆けおりる。 ここが観戦ポイントらしく高速ベントへの入り口だ
 このハッチェンバッハとよばれる難所をクリアすれば、橋をわたって急な上り坂。路面がうねっていて、バスが軽くジャンプするくらいだから、サスペンション・ストロークの短いレーシングカーなら、それはもう、たいへんな跳ね方をするにちがいない。

 さて、アデナウの森。ここで4速から全開へ。ゆるい下り。300km/hに達するという。右手にニュルブルクの古城が見えるあたりから、コースはさらに右に左にカーブし、エクス・ミューテと名づけられた左側が崖、右に土手のある高速下りストレートにさしかかる。


*ポスト64の看板のある地点でニキ・ラウダが大事故に見舞われ、それ以後、このコースでのF1は開催中止

「76年のドイツGPで、ニキ・ラウダがここで大惨事をひきおこし、以来F1はこのコースを使用しなくなった」
 シュトメレンは、左側のガードレールを指さし、ラウダのマシンが右側にふっとんだ地点を教えてくれる。
「ともかく、これほどめまぐるしく変化するコースだから、サスとシャシはよほどハードでなければ耐えられない」

*「大逆転(カルーセル)の谷」の異名をもつ名物コーナー 

 名物のカルーセルの谷底コーナーも抜けた。コースの左半分がバンクになっている。

 コースが大きく開けたところが、どうやら観戦ポイントらしく、林の間にキャンピングカーが点在していたり、若者たちがコース上にとび出してローラースケートをやっていたり、あるいはヒッチハイク気取りで、右手親指を突き出して、ぼくらの貸切りバスを止めようとする愛嬌者もいた。

 パトレーゼがその朝クラッシュしたあたりは高速のブラインドコーナーで、そこからの下りはS字になっており、クリッピングポイントを狙うだけで、目がまわりそうだ。そして、最後のストレートの長いこと。1・5キロもある。それが適当なうねりを隠しもっているから、先行するマシンはポカッと視界から消えてしまうそうだ。 この時はバスで1周しただけの印象記に過ぎないが、2年後に、雨と霧の中を、実際に自分で周回する機会に恵まれる。まさに<悪魔のリンク>であった。その実況レポートはいずれ。



 最後の長いストレートに入ると右手のニュルの古城が見えてきた。

 ニュルのサーキットホテルのプレス夕食会が済んで、バスでバートナイワーの、あの天井の高い、格調のありすぎるホテルに帰り着いた時は、もう11時過ぎ。といっても陽がとっぷり昏(く)れるのは10時近くだから、そんな時間とも思えない。部屋から外を眺める。なんとももったいない街のたたずまい。テラスの向こうを川が走り、尖塔の黒い姿が月の光を浴びて、だんだんに露わになってきた。

 カジノもあるという。ぶらりと散歩に出かかったが、翌日の決勝レース観戦に備えて自粛。決勝の模様は次のアップまで、お待ちあれ。



Posted at 2011/12/28 01:42:58 | コメント(6) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「3連休中日、富士フレッシュマンレースで青春を燃やした中・老年男の同窓会をFBで速報。今を支えるエネルギー源を確認。そのせいか翌24日のみんカラPVレポート欄の第1位は【還ってきた愛しのEXA】。FBレポート末尾でリンクした8年前のみんカラブログに未読の仲間が訪問してくれたわけか。」
何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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