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正岡貞雄のブログ一覧

2012年06月09日 イイね!

 スクラップ&ビルド計画 ~環八水滸伝 藤崎眞孝の巻③~

 スクラップ&ビルド計画 ~環八水滸伝 藤崎眞孝の巻③~「ひな壇展示」を皮切りに、藤崎眞孝グループの「業界常識の壊し屋」ぶりが加速する。西武モータース販売時代からの苦楽をともにしてきた盟友、福島友利さん(㈱マツダアンフィニ横浜西・代表取締役)が、『眞諦録』に収録された座談会「フレックスグループ創業のころ」で、こう証言する。
――自動車雑誌への「実車の写真入り広告」というのは、実はある雑誌が、「こういうのをやってみたいが協力してくれないか」と話をもってきた。どこも乗らなかったが、うちだけ「面白い、やってみよう」と食いついた。二、三の親しくしていた環八あたりの業者さんにも声をかけた。雑誌社側はテストケースだから無料でいい、と。ところが雑誌が発売になったその日から、電話が鳴りっぱなしだった。

 1日に70本の電話は信じられない反響だった。眞孝は疑う。
「これは雑誌社が掲載料を、次から有料にしたいからサクラを使って電話させているのかもしれない」
 しかし、現実には客が来た。他社にきいても電話が凄いといってきた。こうして「写真入り広告」は、それからの業界の常道と化していく。

「藤崎一家」の常識破壊へのチャレンジはとどまることはなかった。失敗もあったが、ひるまなかった。
「頭金ゼロ」のローン設定は大きな賭けだった。最初は36回払いからスタートして、それが48回に増え、ついには60回にまでになる。
「いまでこそローン会社がすべて代金を回収してくれますが、昭和50年代の初めのころは自社のローンでしたから、リスクもあった一方で、督促のノウハウのいろいろも習得したものです」(福島さん)
「頭金ゼロ」方式のインパクトは強烈だった。クルマが目に見えて売れ出した。 


*「ベストカーガイド」創刊号に掲載の西武モータースの広告ページ

 それ以上にヒットしたのが、18項目の部品をすべて新しくして売るという「18項目リフレッシュ」だった。自動車雑誌の広告が出た月は、来客数が目に見えて違って来た。

――「創業期」の記憶を、出席者3人は誇らしげに回想する。
福島 「18項目リフレッシュ」は最初、現場の連中がみんな反対した。そんなことをやったら利益が出ないといってね。なにせ18種、2万7千円分もの部品をとりかえるんだから。
山下〔慶一・㈱フレックスオート東埼玉社長〕 バッテリーは全部新品にしちゃうし、要するに使えるものまで外して新しいものにしようということだから、何もそんなムダをしなくてもいいじゃないかと。
藤崎 〔孝・フレックス自動車販売㈱社長 眞孝次弟〕 ほとんどの現場の者が反対したけれど、結局押し切られてしまった。でも、ベルト類なんかそう高くないし、一番値の張るバッテリーなんか、大量仕入れをするので、市価1万円以上するものが、3、4千円で手に入った。
山下 5千円はしなかった。あのへんも、車を売ればバッテリー上がりでしょっちゅうクレームが来るといった、現場の苦労を、会長(眞孝)は見ていたんだと思いますよ。それを見ていて、ピーンとアイディアが浮かんでくるからすごい。

(正岡註:ベストカーガイド創刊号=発売1977年11月26日=をみると、「おもいきり新品部品と交換してしまうシステム《リフレッシュ18項目》」を正面に押し立てて商品広告を展開しているのが、5年後には「安心して乗っていただける《リフレッシュ車・厳重32項目》へとサービスを拡大している)

 社名も「西武モータース」から「フレックス」に改める。3人は、グループが業界の中では中堅クラスのスケールから、年を追って膨れ上がっていく様子を語り合っている。昭和49(1974)年ころは3拠点、4センターで、月に120~130台を売っていたのが、51年に町田店ができたあたりから、毎年1店舗から2店舗ずつ増えていく。

藤崎 当時、中古車業界は大規模1拠点というやり方と、小さな拠点で数を多く増やすフレックスのようなやり方と二つあった。
山下 うちの会長は、今後は人口のドーナツ化現象が出てくるとみていた。都心にある店がだめになれば、それを潰して郊外に新しい店をつくって、スクラップ&ビルドを繰り返す計画だった。だからそれほど大型店をつくらないで数を増やそうということで来た。
福島 そうして新店舗を出しても、会長の場合、だめだと思ったらスパッと引く。無理の取り戻そうとしないし、メンツなんか考えていない。そのへんの割り切り方はこっちが戸惑うくらいクールでしたね。

 こうした激動の時代を、展示場センターでクルマ磨きをしながら、身近で目撃していた中学生がいた。眞孝の10歳下の末弟で、ベストカーガイド・グループが講談社とのコンタクトをはじめる機縁となった清孝さんである。
 その体験が後年、フレックスグループのそれからに何をもたらせたのだろうか。それを検証したくて、この国の中古車TVオークション取引システムのパイオニア会社「オークネット」の秘書室にインタビューを申し入れた。末弟の清孝さんが、そこの代表取締役社長なのだ。折り返し、OKの連絡が入った。

 5月下旬の風が心地よく頬を撫でる。千代田区三番町にある東急ビルを目ざした。「オークネット」はその5階にある、と教わった。皇居や英国大使館に面した千鳥ヶ淵通りから、大妻女子学院のあるあたりの谷間へ折れてみると、そこはかつて「ホテル霞友会館」のあった場所にみごとなオフィスビルが聳えたっていた。それが東急ビルであった。

 5階の応接室へ通されると、すぐに藤崎清孝さんが現れた。もうすぐ60歳を迎えるはずなのに、どこか初々しい。そのわけを、次回、ご紹介しよう。
 

*10歳年上の長兄の命令は逆らえない。「クルマ磨きの少年」だった清孝氏
Posted at 2012/06/09 21:19:29 | コメント(1) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2012年06月03日 イイね!

業界常識の壊し屋  ~環八水滸伝 藤崎眞孝の巻②

業界常識の壊し屋  ~環八水滸伝 藤崎眞孝の巻② ちょっとしたサイドビジネスのつもりで創めた藤崎眞孝の中古車売買。さっそく大きな壁にぶつかってしまう。いつしか在庫車も30台に。初めのうちこそ、近所の空き地や、神社の境内やその脇の道路に並べておき、夜中に駐車違反にならないように移動させていたが、昼間は通産省の外郭団体に勤務する身には何ともつらい。その上、風邪をひいて寝込んでしまい、車の移動ができないときがあり、ついに警察の取り締まりに遭い、大目玉を食らう。限界だった。
 この1件を契機に、昭和42(1967)年、勤めを辞めて中古車販売に専念する。24歳だった。
 まず、その頃は東京の郊外だった調布の甲州街道沿いに中古車展示場を設け、西武モータース販売(のちのフレックス自動車販売)の看板を掲げる。

 51歳で急逝した藤崎眞孝の追悼文集『眞諦録――藤崎眞孝をおもう』は、短かったが鮮やかに生きてきた男への鎮魂の想いを、関係者が精一杯、書き綴った珠玉の1冊である。その中から、この時期の秘話を明らかにしてくれた、いくつかを紹介したい。

 まず、斎藤定三郎さん。鎌倉幕府に仕えた斎藤一族の末裔で、調布市在住の大地主。

――「こんばんは。おじゃまします」。夜になるとたずねてこられた若い人。それが藤崎眞孝さんだった。まだ学生に見えたが、通産省の出先機関に勤めているということだった。勤め人だから昼間は働いている。だから、そのため、夜の到来となったわけだが、「中古車の販売をやりたいので土地を貸して下さい」ということだった。
 私は百姓の倅で調布市内に土地はたくさんあったので、一時使用の形で、間組や、トヨタカローラやマツダ南オートなどの会社にお貸ししていた。地代はみな、半年間の前払いという契約だった。
 当時の藤崎さんは、お金はなかったが情熱にあふれ、何より熱心だった。土地を貸したからといって、トラブルの起こるような人でないことはよくわかった。だが、広い土地を借りたら、そこにたくさんの車をおかないといけない。金利だけでも大変だ。藤崎さんの印象がよかっただけに、どちらかというと、失敗させたら可哀相だという気持ちが本当のところだった。最終的に120坪の土地を、1か月ごとの前地代ということでお貸しした。特例だった。



 藤崎が小さな船で大海に乗り出したときの、このエピソード、どこかで聞いているぞ、とお思いに違いなない。そう、ベストカーガイド・グループの講談社首脳との接触時と同じ波長が伝わってくるからだろう。巧みなセールストークより、着眼点の良さとそれを成し遂げようとする情熱。それに人柄の持つ誠実さ。恐らく、それが藤崎のなによりの武器だったのだ。

 斎藤さんはさらに書き継ぐ。
――その後、藤崎さんは毎月ご自身で地代をもってみえ、一度として遅れたことはなかった。あるとき、ゴルフの会員権の仕事をはじめたいといわれた。なんと藤崎さんは昼間、会員権売買をしている会社に就職してしまった。半年間のことではあったが、夜は社長業をこなすわけで、相当きつかったと思う。
 ある時、藤崎さんが関西から年配の経営者を招いたことがあった。都内のホテルに部屋をとって。食事をしたり、お茶を飲んだりしながら、まる一日、経営上の参考になるいろいろな話をしてもらう。お礼が100万円ということだったが、私に「一人で聞くのも二人で聞くのも同じだから一緒に話を聞きましょう」と誘ってくれた。いつの間にか、経営上のアドバイスを受けるのに、100万円をポンと支払う実力を身につけられていた。
 やがて、オークネットを創業され、私などよりずっと大きな会社を経営されるようになったが、些(いささ)かも態度は変わらない。毎年、忘れずに声をかけてくれるし、昼食をごちそうになった時、わざわざ迎えの車を寄越して下さる。初対面から男が男に惚れ込むような人物だったが、その人柄は最後まで変わらなかった。



*GT車専門の柿の木坂センター。往時の藤崎眞孝社長の姿がある貴重なショット

 藤崎の目配りは、自分に利を運んでくれる対象ばかりではない。1歳年下の悪ガキ時代の相棒からのメッセージに彼を慕う心情が溢れていて、とくに中古車販売創業期での藤崎の行動規範を生き生きと伝えてくれる。
「競争」と題した加藤嘉利さん(元・オニキスコーポレーション代表取締役)の一文がそれである。

――(藤崎さんとは)子供のころから家が隣近所で、小学校は私より1年先輩でした。5年生か6年生の頃、彼と二人で隣町の小学校のプールへ行き、地元の子とケンカをして負けて帰ってきたことなど、いまも頭をよぎります。(中略)
 私は21歳から1年半、スナックを経営していました。なにか他の仕事を考えようと家にいたころ、藤崎さんから「よっちゃん、そうやっていても収入がないから、ぼくのやっている車のアルバイトをしてみないか」との誘いを受けたのがはじまりです。アルバイトに精を出し、一時期は毎晩のように藤崎さんの家に顔を出して指導を受けていました。先行き、車の販売会社をやろうという話になって、私は本格的に中古車販売を学ぶために、ディーラーの中古車部へ入社。彼は勤務先を辞め、会社を設立する準備に入りました。会社の登記は、費用がもったいないので自分で勉強して司法書士には依頼せず。名称も、西武とつければ誰もが知っているだろうから、西武モータース販売と。

「加藤のよっちゃん」のこの回想には、どこにでもある男たちの青春が匂いたっていて、愛嬌がある。会社の名前を決めるのに、西武なら誰でも知ってからと、堂々とパクる才覚。社員はアルバイト時代から手伝っていた藤崎のすぐ下の弟・孝さんと、「よっちゃん」の弟・竹四郎さんが加わって、計4人。営業所は藤崎が見つけて交渉してきた。例の大地主・斎藤さんから借りた国領店(調布センター)である。展示場をオープンするに当たっては、整地、砂利敷き等を藤崎抜きの3人ですませた。スタートから、営業はすこぶる好調だったと、「よっちゃん」は嬉しそうに書き添える。

 国領店オープンから4、5ヵ月が経った頃、藤崎が「もう一店出店しよう。よっちゃんが国領店をやってくれれば新しい店を出せるから」と、いい出した。間もなく練馬区関町に土地を見つけ、すぐに契約。国領店のオープンの時と同じ3人で、関町店も整地から砂利敷きまで仕上げた。藤崎が関町店と全体の経理を見て、よっちゃんが国領店を担当、売り上げ競争に熱中した。楽しんで仕事ができた時期だった。

――あの頃のことは、いまでも思い出します。子供というか青年というかの時代に、藤崎さんと一緒に会社のヨチヨチ歩きの時を過ごせたことは私の心の財産で、いまも感謝しております。 

 この「よっちゃん」とは面識があった。ベストカーガイド・グループ立ち上げのときのメンバーですでに「日昇自動車」の経営者。環八水滸伝」「の共演者のひとりである。 


 こうして船出した「藤崎丸」は、次々と新しい中古車販売の方式を生み出し快走をはじめる。業界常識の壊し屋の異名をとる、いくつかのアイディアを生み出す。まさに右に出るものはなかった。

「ひな壇展示」
「写真入り広告」
「座席シートのビニールカバー」
「頭金ゼロ」
「18項目リフレッシュ」

 その「ひな壇展示」について、すぐ下の弟・孝さん(現・フレックス自動車販売社長)がこう証言する。

――昔のディーラーは、車の展示場は塀で囲っていた。その柵を取り払い、ひな壇にしてお客さんに見えやすいようにした。聞いてしまえば、コロンブスの卵だけれど、それをやっていたところはなかった。始めたのは調布からだけれども、そのあとの関町、柿の木坂、世田谷の各店舗も、みんなひな壇展示形式にした。

2番目の「写真入り広告」などの藤崎流アイデアにあふれた新機軸については次回、詳細を紹介するつもり。だんだんと『べストカー』創刊の核心に近づきつつある。
Posted at 2012/06/03 09:52:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2012年05月28日 イイね!

命運を決めた一言   ~環八水滸伝③ 藤崎眞孝の巻~

命運を決めた一言   ~環八水滸伝③ 藤崎眞孝の巻~ 貴重な資料を、幸運にも入手したので、今回はその紹介からはじめよう。

 ――昭和52(1977)年6月11日、F氏が突然私の家に訪ねてきた。
「ちょっと相談にのってもらいたいことがありまして……」
 F氏は中古車業界の大手販売会社と書店を経営しており、私の親戚筋にあたるが、彼の話は私を緊張させた。
 中古車業界の若手経営者が中心になって、自動車雑誌を出すことを計画、すでにそのための会社を作って動き出しているのだという。しかもこの計画は、銀行筋から二、三の出版社や有力新聞社にも流れ、タイアップを申し込んでいるところもあるというのだ。
 中古車業界としては、できれば自分たちだけで雑誌を出したいのだが、販売面など難しい問題があり、その点の力添えがほしい、というのがF氏の相談内容だった。

 この気配りのきいた簡潔な一文は、1981(昭和56年)4月に解離性大動脈瘤のための急逝した講談社副社長・足澤禎吉氏の没後1周年に当たり編纂された『追悼の足澤禎吉(たるさわていきち)』(足澤禎吉追悼集編纂会・非売品=全480ページ)の中から、とくに寄稿者の了解を得て、抜粋したものである。


*故・足澤禎吉講談社副社長の在りし日の姿(中央)と追悼文集

 タイトルは『命運を決めた一言』。寄稿者である井岡芳次さんは、『週刊少年マガジン』の2代目編集長を務めたのち1977年当時は講談社編集総務局の担当部長、ぼくの先輩編集者のひとりである。さらに言えば、『環八水滸伝②クルマ雑誌創刊の機運』の項で登場した西武モータース販売の藤崎眞孝社長の末弟・清孝さんの義父(つまり清孝夫人の父親)にあたる。

「ベストカーガイド社」(仮称)設立総会の席で、藤崎社長が「講談社と交渉をはじめたい。ルートはある!」と言い切って早速、井岡さんにコンタクトした経緯がみごとに証言されていた。井岡さんは、こう書き継いでいる。

――販売面ということになれば、私は専門外だ。やはり足澤専務(註:当時)に相談するしかない。F氏にもそのことを伝え、結論が出るまで他社との交渉をストップするように頼みこんだ。
 翌朝早速、専務の出社を待って、F氏からの相談内容を報告した。
「わかった。すぐにその人に会おう。きみから連絡して会社へ来てもらってくれ」
 話し合いはその日の午後、応接室で行われた。まずF氏から、自分たちが考えた自動車雑誌の企画の経緯と、中古車業界の現状について説明があり、足澤専務からも次々に質問が鋭い飛び、会談は1時間に及んだ。
「とにかく、ぼくに任せなさい。悪いようにはしないから……」
 専務のこの一言に、F氏もほっとして帰っていった。専務から私に電話があったのは、それから1時間後だった。
「いい企画だと思うので、ウチ(ヽヽ)でやらせていただく方向で検討するから、すぐにFさんに伝えてくれ」
 F氏は、講談社側の結論が出るまでに、少なくとも三、四日はかかるだろうと考えていたらしく、あまりに速い決断にまずびっくり。それに、頼りがいのある足澤専務の人柄にも強くひかれたようだ。

 この講談社経営幹部と井岡さんの動きを、そのころのぼくは至近距離で知ることのできる立場にいた。社長室秘書として、何度も井岡さんがあわただしく役員室に出入りしていたのを目撃していた。
しばらくしてから、足澤専務と、編集担当だった久保田裕専務に別室によばれ、そこで一連の動きの説明を受けたうえで、講談社が新しい自動車雑誌に取り組むに当たり、きみに編集責任者を引き受けて欲しい、と切り出されたのも記憶している。そのあたりの詳細はかなり複雑な背景があるので、改めて触れることにしたい。


*1971年3月当時の講談社本社と音羽界隈(奥田徹氏撮影)

*編集総務局担当部長時代の井岡芳次さん

 井岡さんは「追悼文」として、こう締めくくっている。

――中古車業界との話し合いは、その後も何回か続けられ、五か月後に「ベストカーガイド」が誕生したわけでが、もしもあの時、足澤専務の素早い決断と、“ぼくに任せなさい”の力強い一言がなかったら、この雑誌は、或いは他社から発行されていたかもしれない。
 毎月二十六日、新しい「ベストカーガイド」を手にする度に、足澤専務にF氏を紹介したあの日の光景が、私の脳裏にはっきりと甦ってくるのである。

 F氏。つまり藤崎眞孝さんはこのあと、自動車雑誌の立ち上げが一段落したところで、引き続き中古車のTVオークションシステムの構築に挑戦し、それも成し遂げる。が、残念ながら病を得て、51歳の若さで、この世を去る。だから、『環八水滸伝』というドラマの前半部で姿を消すことになるが、その存在感は計り知れないものがある。
 
 さきに「昆虫売りの少年」と題して、そのダイナミックな動きを伝えたJAXの松本高典社長を「動」の主役とするならば、藤崎眞孝さんは静かに松本社長と手を携え、目標へ向かって確実に集団を推し進めた「静」の主役だった。

 
*ベストカーガイドグループの推進役だった松本高典さん(環八・用賀陸橋にて)

 その頃の二人の関係を、松本社長はこう書きとどめている。

――藤崎君との出会いは、いまから20年にさかのぼる。
 中古車販売会社40社ほどがまとまり、自分たちの出版社をつくろうという運動を展開していた。やがてそれは三推社設立(註:「ベストカーガイド」発行元、現在の講談社ビーシー)となって結実するのだが、着実に店舗網を広げつつあった藤崎君を仲間にどうしても迎えたかった。
 いまだによく覚えているが、初めての電話で説得するのに1時間も費やした。「同じ土俵の上で同業者が競争しても、過当競争になるだけ」というのが、その反対の理由だった。何とか説得して、とにかく一度直接会う約束を取り付けた。初対面の印象は穏やかで、何より人の意見を聞く耳をもっていた。同じ世代ということもあったろうし、なんとなくウマが合うというのか、それからは同業の原信雄君を交えた3人で、週に1度は会って、飲みながら話をする間柄になった。(後略)――追悼集『眞諦録・藤崎眞孝をおもう』より。

なるほど、である。二人の結びつきがわかった。となると、ここでやはり『環八水滸伝』の主役の一人として、藤崎眞孝さんがどうやってこの業界と関わるようになったのか、そのあたりのエピソードからアプローチしてみたくなるではないか。

 昭和40(1965)年3月、東京理科大学を卒えた藤崎(敬称略)は、通産省の外郭団体、日本機械デザインセンターに就職する。バイクで通勤。ところが早速クルマと衝突して、骨折する。そこで母親が、これからを按じて当時18万円のコンテッサ900の中古車を買ってくれる。その愛車をやがて売りに出そうと考えた。そこで無料で掲載してくれるクルマ雑誌の投稿欄を使ってみた。すぐさま電話が入って「商談成立」。ところが、次から次へと電話が入ってくる。
「クルマ、買いたいんです。売ってくれますか?」
  が、コンテッサ900はもうない。さて、どうしたものか。最初は、「もう、買い手が決まって、売ってしまったんです」と答えていたが、引き続き電話が入る。
 ちょっと待ってよ。これはビジネスになるんじゃないか。閃くものがあった。手元にクルマがなければ、探してきて、売ればいい。――サラリーマン1年生の藤崎の頭脳にパッと広がった鮮明なイメージ、それが中古車専門の販売業であった。


*藤崎眞孝さんの人生を変えたコンテッサ900
 
 日曜日。藤崎は中古車屋さんを回って仕入れに精を出し、夜は車検に精を出した。1か月に20台~30台が藤崎の手からユーザーへ。サラリーマンのサイドビジネスとしては破格の収入が転がり込んだ。なにしろ、月給が3万円。そこへ毎月30万円の稼ぎが入ったらどうなるか。新しい脱サラ人生の船出が待っていた。資本金400万円の小船が大海に漕ぎ出したのである。
Posted at 2012/05/28 08:57:53 | コメント(3) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2012年05月10日 イイね!

それからの「昆虫売りの少年」~環八水滸伝② クルマ雑誌創刊の機運~

それからの「昆虫売りの少年」~環八水滸伝② クルマ雑誌創刊の機運~ 裏山で獲ってきたクワガタやカブトムシを売って、堂々と「商売」をしていた高典少年の「それから」をつづけよう。少年期から青年期へ、舞台は京都から、東京へ。

 クルマと出会ったことで、松本高典青年は人生設計を、一大変更をする。
 電気か機械のエンジニアとして、発明品をひねり出し、特許をとる。その夢のために日大の理工学部に入ったものの、どうやら先輩たちを観察してみると、日立、東芝、日本鋼管のサラリーマンエンジニアになるのが関の山じゃないか。これでは、特許で儲けてリッチになるなんて、夢のまた夢。(アグネス・ラムちゃんと彼女の愛車カルマンギア

 変わり身は速かった。車の世界に狙いを絞った。まず伊藤忠自動車販売へ入社する。1962(昭和37)年である。まだ国産大衆車の覇権をめぐって、カローラとサニーが激突する時代には、もう少しの時間が必要だった。
 2年後、先輩のヒキがあって、西武日産へ移り、セールスマンとしての実績をつくりながら、脇目もふらずに貯金に精を出した。

 ところが、その貯金のほとんどを失いかける災難が襲いかかる。それがJAX設立の遠因となるのだから、高典青年、並はずれた運気の持ち主であった。

 ことの起こりはこうである。その頃、カーセールスにはふたつの販路があった。一つは、ユーザーとの直取引。もう一つは、修理工場との取引である。その修理工場との親密なつき合いで、彼はしくじった。頼まれて、個人的にも10万円、15万円と都合してやる。その総額が80万円に達したころ、修理工場が倒産。取り立てに行ってもお金は返ってこなかった。
 やむなく会社に辞表を出して、貸金代わりに引き継いだ修理工場の経営に没頭するが、この商売は手間がかかるだけで、もうけは薄い。そこで方針を転換する。


*ツーリングカーレースではスタードライバーの高橋国光ともジョイント

*ついには富士グラチャンレースにチームとしてもエントリー。ドライバーには当時人気絶頂の桑島正美を起用

 1968(昭和43)年。環状8号線で、中古車センターを始める。これが当たった。
「売れましたねェ。まだまだ、中古車センターが少なかったこともあるけれど、50坪ほどの土地に、常時、14~15台の中古車を並べておくと月に50~60台が売れたんです。仕入れてきて、店でワックスをかけていると、お客さんが寄ってきて『コレください』そんなふうだった。
 大晦日(おおみそか)の日なんかは、地方から出稼ぎに来ている人たちが郷里にクルマを土産に乗って帰るっていうんで、現金を持って買いに来る。名義変更はあとでいいって騒ぎで、夜の12時まで営業していましたよ」

 こんなメルヘンチックな時代が、この国に間違いなくあった。それがJAXの前身である大協自動車の半世紀前の姿である。

 1975(昭和50)年、社名を《ジヤクス・カーセールス》に改める。地方ではジヤクス・カーセックスと読み誤られたり、電話を取り継がれる際に、「ジャカスカさんからだよ……」といわれたり、エピソードは限りなくある。そして、社業の発展とともに、JAXは自動車の販売業界に不動の地位を固める。

 JAXと名乗り始めて10年目、その実績は凄かった。月間平均販売台数、外車150台、国産車250台。売上高55億円。外車輸入ディーラー国内第3位。社名も《ジヤクス・カーセールス》から《ジヤクス》に変更した。業界を舞台とした活躍も一段とスピーディに、ダイナミックとなる。フィアット、アウトビアンキの総代理店、1984年のシーサイドモーターの倒産で空白となっていたランボルギーニの日本代理店に。

 1986(昭和61)年、キャピタル企業から「ルノー輸入権」がJAXへ移る。
 1987(昭和62)年、民族系インポーターとして初めて東証に株式を上場する。

 ここまでになるために、「昆虫売りの少年」はつねに大胆に行動するだけではなく、きめこまかくアイディアを駆使して、広告宣伝に新機軸を打ち出し続けてきた。たとえば――。
 中古車をショールームに堂々と展示したこと。自動車専門誌に値段入りで中古車を並べて見せるフォーマットを創りあげたことである。この広告ページを出稿したことで、松本青年、いや松本高典社長は「クルマ情報」と「カーマガジン」のあり方に、興味を持った。と、そこへ、カーマガジン側から広告料金の値上げを宣言された。

「中綴じのいわゆる週刊誌タイプのクルマ雑誌が、急速に部数を伸ばしてきたのは有難いこと。出稿側としても喜ぶべきことなんだが、1ページあたり3倍の広告料金をいわれたんじゃ堪んない。じゃ、いっそ、自分たちの手でクルマ雑誌を創って対抗しようじゃないか――。となって、環八中心に、元気のいい中古車専売の仲間に声をかけたら、ドドッと40社余りが賛同してくれた。1社100万円を出し合ってグループを結成したわけです」

 みんな、若くって、威勢がよくって、まあ、ソコソコにお金も持っているから、話は早かった。かといっても、国産車中心のグループと、外車で勝負しているグループとでは、主張する狙いは共有できても、アプローチする方法論などで、お互いが譲れないものが、すぐに噴出してしまう。その調整に神経をすり減らした時期もあったが、ともかく、グループで新会社をつくった。

新雑誌創刊という『錦の御旗』は、とてつもなく魅力があった。しかし、雑誌つくりは素人。問題は編集制作をどこと提携するか、だった。販売・販路の問題もある。広告だけは自分たちで賄える。

当初、クルマ雑誌を発行しているモーターマガジン社(ホリデーオート誌)、交通タイムス社(カートップ誌)とも折衝したが、不調に終わる。結局、海陸出版という出版社を買い取り、新しくグループで「ベストカーガイド社」を設立する方向を打ち出して、総会を開くところまで漕ぎつけた。

ここでも松本社長のアイディアは、すでに動き出していた。渡米してニューヨークやカリフォルニア州のクルマ事情を視察した際に、ハワイに立ち寄り、そのころ人気絶頂だったアグネス・ラムを訪ね、彼女の愛車、カルマンギアを買い取り、創刊誌の目玉企画として読者とのオークションを用意したほどだ。
 
 さて、ここに一枚の、少々色の褪せた写真がある。「ベストカーガイド社設立総会」の模様を捉えたショットで、1977年のカレンダーがめくられたばかりの時期のものである。



中央でマイクを前に、発言中なのが松本高典JAX社長。向かって右側で薄く目を閉じているのが、原自動車の原信雄社長、一人置いて、背中と横顔を見せているのが、西武モータース販売の藤崎眞孝社長である。左端でサングラス風のメガネをかけているのがエリートの安藤良一社長。恐らく、新雑誌旗揚げのスケジュール打ち合わせでもしているのだろうが、およそ、それらしき熱気が伝わってこないのはなぜだろう。カメラマンがプロではなく、単なる記録のためにシャッターを捺したからだろうが、この時、ほかに2枚のスナップ写真が残されているが、いずれも、出席者は腕を組み、ただ話を聞いているだけ。

 そのはずだ。グループの中で、最も冷静な判断力の持ち主として人望を集めている西武モータースの藤崎社長が、真っ向から異を唱えたからである。

「世の中では、ぼくらはたかが中古車屋のオヤジの集団だよ。それが小さな出版社を買い取って、雑誌を出したところで、すぐに踏み潰されるのが関の山じゃないか。もっと、大所と組もうじゃないか。しかも、これまでクルマ雑誌とは縁のない出版社で、新雑誌開発に関心の高いところと……」 


*当時の西武モータース(のちのフレックス自動車販売)藤崎眞孝社長

 そんな夢のような話で、会を潰す気か! 会場のどこかで、怒号が飛ぶ。そこを捉えて、藤崎社長が強い声で言い切った。

「夢じゃない。ある!」
「それはどこだ!?」
  松本社長が目配せしてきたのを確かめてから、意を決して、藤崎社長が口を開く。
「講談社だ。ルートはある。講談社がクルマ雑誌を検討しているのは事実だ。よかったら、その交渉をはじめたい」

 この時の設立総会での異様な空気を、後年、お互いのジョイントが成立して、親しく交流が深まるにつれて、松本社長が明かしてくれたのである。その証として、この写真が提供されたのである。

 さて、そこからの動きについては、こちらも関わってくる。それは次回に、じっくりと書き込んでみよう。


Posted at 2012/05/10 18:05:15 | コメント(5) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2012年05月05日 イイね!

昆虫売りの少年       ~環八水滸(すいこ)伝 序章①~

昆虫売りの少年       ~環八水滸(すいこ)伝 序章①~ その少年が、生き抜いて行く上で、人並はずれたアイディアとエネルギーの持ち主として成長していく源泉は、彼の人生劇場の主舞台となる東京の環八とは、およそ関係のない裏日本の舞鶴港(福井県)からはじまる。

 昭和21(1946)年3月、中国大陸からの引揚げ者の群れがさまざまな苦難を乗り越えて、祖国の土を踏んだ。そのなかに、まだ6歳に過ぎなかったその少年は、ボロボロになりながらも、母親と、4歳、2歳の弟と離ればなれになることもなく、一緒に父親の実家がある奈良県西大寺に向かう。少年の父親は満州映画の監督で、現地での召集をうけ、一兵卒としてどこかへ連れ去られたままだった。

 西大寺の父親の実家は、いわゆる豪農と呼ばれるほどの裕福な家だったのが、農地改革によって没落。少年一家は田んぼでイナゴを取り、それをオカズにした。汁の実にタンポポが使われた。が、その時代、それほど珍しい話ではない。

 半年後、父親が無事復員してきた。それを聞きつけて、日活、東映から入社を請う使者が訪ねてくるのだが、
「そんなちっぽけな会社で、なんでおれがメガホンをとるんだ」
 父親はついに首をタテに振らなかった。東京帝国大学、つまり東大の文学部を出て、満映のカントクを務めた父親は、誇り高く、一徹だった。
「男は気位を持たなきゃいけない。他人に頭を下げてまで金を稼ぐことはない。いい仕事をすれば、金はむこうからやってくるはずだ」
 父親は結局、映画とは縁のない京都府庁に、やっと職を得る。昭和23(1948)年のことだった。当然、少年の一家は京都・伏見墨染に移住する。少年にとって、父親はすでに反面教師に位置づけられていた。夏、少年は裏山に入ってクワガタ、カブトムシなどを採集し、それを家の前で売った。小遣い稼ぎを堂々とやった。いくら気位が高くたって、お金がなければどうしようもないじゃないか――。


*「水滸伝」とは中国で書かれた伝奇歴史小説。梁山泊というところを根城に様々な英雄・豪傑が集まり、痛快な生き様をみせる。この浮世絵は歌川国芳の描いた豪傑像。

 昆虫少年は、小学校4年生の時に鉄道模型少年に変身し、電気に親しみだす。進駐軍の基地に行っては、落ちているバッテリーを拾ってきて、豆球を灯し、自転車のライトにした。 
 趣味はエスカレートする。この少年はそれを彼なりに、ビジネスに結びつけてしまう。非凡なところだ。中学1年生のころに、ダイオードが市場に出回り始めた。ラジオ工作に使うと、それまでの鉱石(ゲルマニウム)よりも性能の安定度が段違いだと知る。しかし、お値段が高すぎる。1個、1000円もする。
 少年はそこに目をつけた。筆箱にダイオードを仕込んで《寝室ラジオ》として1800円で売り出したのである。20個がさばけた。町の小さな発明家の誕生であり、日本で最も小さなラジオメーカーの誕生だった。

 中学2年の時に、一家は東京へ移住する。まず世田谷区の三宿へ。次に中野の都営住宅へ。高校時代の小遣い稼ぎも、もっぱら電気だ。テレビ、ラジオ、洗濯機の修理をやることにした。そのために《修理うけたまわりマス》のビラを電柱に貼って歩いた。広告の有効性を、すでに彼は心得ていたのだ。

 電気とは別に、音楽が好きになった。高校のブラスバンドでトロンボーンを担当、これがまた商売につながるのである。
 大学は日本大学の理工学部で電気一筋。一方、アルバイトはブラスバンドで習得したトロンボーンを武器に、ディキシーランドJAZZバンドに入り演奏活動へ。バンドは引っ張り凧だった。ナイトクラブ、それに基地めぐり。立川、厚木、横須賀、遠くは青森・三沢まで足を伸ばした。
 
 とにかく、大学時代は忙しかった。昼間は大学に通う。夜はスイングJAZZの演奏活動。それにもうひとつ、夕方の商売を彼は持っていた。中古車の売買である。
 JAZZで稼いだ金が資金(もとで)だった。当時、スポーツ新聞は無料で自動車売買の通信スペースを設けていて、彼はこれをフルに利用する。が、自動車ビジネスにつきものの土地(スペース)の確保に直面する。ひとまず、在庫車をストックしておく場所が必要なのだが、1960年ころの東京はまだまだ土地利用もせせこましくなく、クルマの置き場はいくらでもあった。彼の場合、自分の住んでいる都営住宅の敷地をそれに当てることができた。

 7~8台の在庫をかかえ収入もよかった。ビュイック、クライスラー、プリマス、ダッジなどを扱った。手元には60万円の現金が残った。

 スイングJAZZ。アメリカのクルマ。FEN(極東ラジオ放送)からはエルビス・プレスリーの激しく甘いロカビリーが流れる……。熱くスイングする元・昆虫売りの少年の青春は、それはそのまま戦後ニッポンの青春時代とピッタリと重なるのだ。

 彼がクルマに出会い、その魅力の虜(とりこ)になったように、ニッポンもまた、クルマに出会って、やがてはその製造販売を、国の基幹産業にすえる。モータリーゼーションが華やかに語られはじめ、ノックダウンに近い形態から、国産車は独り立ちしてヨチヨチと歩みはじめる。この新しい「テーマ」の舞台となる「環八」も、やっとこのころぼくらの前に登場する。


*環八通りで、ある時期、スパーカー少年が蝟集した煉瓦造りのショールーム

 東京都道311号環状八号線を、ぼくらは「環八」とよび、クルマにかかわる「自分史」のなかで、さまざまな出来事と重ね合わせて、親しく位置づける。
 東京という大都会の西側を、半円形に包み込むこの交通の大動脈は、起点を東京湾に面した羽田空港近くとし、大田区、世田谷区、練馬区、板橋区を横刺しにして、今では北区赤羽を終点として、44キロ余りが稼働している。

 もともとが、旧東京市の大雑把な都市計画からの出発だったから、戦時体制に入るとすぐに計画は放置される。そして終戦。たくましく復興していく東京。まず、環状七号線(環7通り)が産業道路や東京オリンピック関連として、スピーディに工事が進む。
 環八にやっと陽が当たるのは、昭和40(1965)年に第3京浜道路が開通してからだった。東京・世田谷と横浜・三沢を結ぶ有料道路である。なにか「自由」の風が、そこだけは吹いているような解放感を味わえる、特別なルートとなった。
 
 昭和43(1968)年の東名高速道路が開通する。あっという間に、環状8号線が高度成長の道をまっしぐらに突き進む東京の「新しい顔」になっていく。

 さて、それからの昆虫売りの少年が、環八を舞台にどうダイナミックに生きていくのか。それは、次のエントリーで。

 もういいだろう。少年の名を、松本高典という。JAXカーセールスの創始者である。
Posted at 2012/05/05 00:38:51 | コメント(4) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
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