
「歴史の闇」に光を当てる、などと大見えを切ったばかりに、少々、肩に力が入ってしまい、敷居を高くしてしまったようだ。そこで気軽に、好きな歴史もののおしゃべりでもするような気分で、綴ってみようかな。
日曜日のNHK大河ドラマ『平清盛』は、ロンドン五輪にふりまわされて、2週続きで、放映はいつもより1時間遅れて9時から、となってしまった。見せ場である崇徳(すとく)上皇の呪詛シーンも影が薄くなっていた。厳島神社へ経文を納めるための清盛の船を襲う怨霊。あれは凄かったのに、視聴率の低落が取り沙汰されているのだから、恐らくご覧になった「みんから仲間」も数少ないに違いない。
*讃岐に幽閉され、怨霊となった崇徳上皇(歌川国芳画) フリー百科事典 ウイキペディアより
これまで、大河ドラマにはきまってヒットする定番があり、その一つが織田信長と豊臣秀吉の登場する、室町時代から戦国時代にかけて繰り広げられた、あの激動と殺戮のドラマであった。その大河ドラマの中で、狂言回しの役割できまって登場する個性的な人物がいた。室町幕府最後の15代将軍、足利義昭である。
*京都・等持院におさまっている足利義昭像
「流れ公方」「流浪将軍」ともよばれ、天下布武を目指して牙を剥く戦国大名たちを、口先一つで、つまり知力と毛並みだけでキリキリ舞いさせる、ある意味では痛快な男である。ドラマの中では、これまで玉置浩二や和泉元弥、三谷幸喜といった異色のタレントがそれぞれに演じてきているが、玉置浩二の義昭はよかった。手紙(御内書とよぶ)を乱発して、あちこちに紛争をもたらす妖しげな厄介者を見事に演じていた。
それに引き替え、室町時代の終焉を象徴するシーンとして、烏帽子姿の義昭が謀(はかりごと)にやぶれ、畑の中で農民たちに打擲されつづける惨めな姿をさらしている和泉元弥扮する義昭は、すこしは歴史を齧っているものには、史実とは無縁の、噴飯ものの演出だった。
発祥の地、四国・松山で、正岡一族の末裔たちが、4年に1度の「正岡祭り」の式典参加、史跡めぐりをすませた翌日、そのエキストラとしてレンタカーを調達してまで、歴史の正史からはうかがえない、正岡一族に語り継がれてきた「秘話」を確かめようというプロローグを紹介したが、その発火点がこの「足利義昭」なのである。
足利義昭について、その波乱に満ちた行動の軌跡を整理するとこうなる。
1537年(天文6・11・3) 足利義昭生誕。父は12代将軍・足利義晴、母は近衛尚通の女(むすめ)、兄が13代将軍義輝。5歳で出家。義昭、18歳の時、兄、足利義輝は松永久秀に殺害され、義昭も幽閉されるが、脱出して還俗する。幕府再興を宣言、従五位下左馬頭叙任されて義明と名乗る。
1568 年(永禄11)、越前国、朝倉義景の一乗谷城で元服して、義昭と改名、9月、信長の岐阜に行き、信長とともに上京。14代将軍義栄死去。その11月,征夷大将軍となる。が、翌年には信長と対立し、信長は岐阜へ帰ってしまう。このころ毛利氏が勢力を拡大。その一方で大坂石山本願寺と信長が対立、合戦が起こる。
1971年(元亀2)6月、毛利元就死去。
1573年(天正元)7月1日、義昭、ついに挙兵したものの粉砕され、ここに足利幕府が亡んでしまう。義昭、京都を出奔し、地方豪族を頼る。その時、37歳。頼りの朝倉氏・浅井氏も亡ぶ。しかし、孤立した義昭を、信長と敵対する顕如上人が、大坂石山本願寺にかくまう。
2年後、信長と顕如が和解。義昭は伊予水軍に迎えられ、大坂山を脱出、伊予国越智郡の島嶼より、備後国鞆ノ津黒木御所に入る。義昭40歳、このとき、伊予国河野左京大夫通宣の長女章子(18歳)、黒木御所に奉仕する。流浪将軍にたまゆらの平和が訪れる。
*流浪の果てに、義昭が毛利氏の支援でやっと定着した鞆ノ浦。 最初の居城となった鞆城址は今では歴史民俗資料館に。
*「黒木御所」があったと想定される山田・常国寺の裏山にある「伝・義昭将軍塚」は崩れ落ちたままである
1580年(天正8)、大坂石山本願寺合戦、終了。その翌年、河野章子の父、通宣逝去する。1582年(天正10・3)天目山の戦、次いで信長が中国征伐に乗り出す。が、本能寺の変により、信長自刃。襲撃した明智光秀こそ、信長と義昭を連携させた功労者だった。秀吉、と毛利氏が和す。
1583年(天正11)毛利氏は豊臣氏に近く、伊予河野氏は土佐国、長曽我部氏に接近したため、秀吉は河野氏を快く思わなくなる。この年、義昭と章子の間に昭王丸誕生。
1584年(天正12)昭王丸の父、義昭、秀吉にむかえられ、山城国槇島に1万石をもらって、上京。昭王丸、父と別れ、母章子と共に伊予に帰り道後湯月城に養われる。輔育役が越智郡竜岡・幸門城城主、正岡右近大夫経政であった。
ところが、この章子・昭王丸母子について、義昭に関する歴史記述書のどこを探しても、見事なくらいに、なんの痕跡も残されていない。
* * * *
国道317号を今治方向へ、レンタルしたカローラAXIOでむかっている。
車中、そんな「最後の流浪将軍」について、一応の講釈をしながら、最初の目的地、竜岡上・中村の渡瀬城館址を目ざしていた。
松山市民のための水甕「石手川ダム・白鷺湖」の左岸をかすめると、いよいよ水ケ峠の真下を抜けるトンネルだった。全長、2800メートルあまり。四国では、寒風山トンネルに次ぐ長さである。
*大正13年(1923)作成の愛媛県図。水ヶ峠トンネルもなく317号線もない時代。
このトンネルが完成したのは15年前の平成9年。それまではクルマだと、松山から今治へは海沿いの道で迂回するしかなかった。
「トンネルの真上にある水ヶ峠は、たかだか標高700メートル程度の古い峠ですが、正岡一族が栄えた時代に視点を巻き戻しますと、この峠があったからこそ、これから行く竜岡地域が、身を潜める格好の秘境であった理由がわかりますね。だから、こうやってトンネルを抜けて、下りに入った瞬間から、まったく別の世界に入っていくような、ゾクゾクッと来る、一種の霊気を感じてしまうのです」
*廃墟と化した竜岡木地
*廃校となった小学校分校
これが、ぼくの率直な感懐だった。同行する正岡孝紹さんたちも大きく肯く。
「このあたりは、昔は山を渡り歩く木地師が住んでいたと聞きますが……」
助手席に陣取った長兄の秀章さんが、うれしい質問をしてくれる。
「よくご存じで。この先、左手に《竜岡木地》というところがありますが、今は廃村状態で、観音堂と廃校となった小学校の分校址があるだけです。もう一つ、いま、ぼくらは蒼社川に沿って下っていますが、この川の分流である鈍川には《鈍川木地》があって、近年、住民が帰ってきていると聞きます。機会があったら一度、足を運びたいものですね」
*317号線を今治方向へ。「渡瀬」はこの看板を見たら、そろそろ右へ下がる道が現れる。見逃さぬよう注意!
*渡瀬城館址。どんな歴史の闇が刷り込まれているのだろうか。
前方に一塊の集落が見えてきた。近年は317号が整備され、それがバイパスの役割をはたしているため、うっかりすると通り過ぎてしまうが、「理観山龍岡寺」の標識を確認してから、一旦、停止した。集落の中を貫通する旧道が、317号から分かれる手前で、蒼社川へ向かって1本の道が右側へ下っている。これが「渡瀬」へ通じる唯一のルートである。車でも十分通れる下り坂で、橋を渡ると「森建設」という建物にぶつかる。
橋の下を、蒼社川が渓谷となって、玉川ダムへむかっている。橋の袂に石碑が建っている。この新しい道が開通した記念らしい。今の時代にとって、どれだけ重要な役割を果たしているのかわからないが、どうやら上流に新しい堰堤ができたらしいのだ。そのお蔭で、こうやって車で訪れることができる。
南東側の斜面の杉林は、そのまま高縄半島最高峰の楢原山に続く。北西を望むと、北三方ヶ森の高峰があり、その奥が高縄山になる。
渓谷沿いの道を川上に向かう。一段低い一角に人家が一棟。誰も住んでいる気配はない。と、左手に石垣の列が見える。忍び返しのついた見事な石積み。高さが5メートル強か。まさに城壁そのものだった。よくみると、ここはだれかの屋敷跡だと気づく。それも、かなり昔の時代に。が、それらしき案内板、標識はなにひとつない。
ぼくらはクルマから降り立った。夏の陽がヒリヒリと焼きつく。蒼社川からの瀬音だけが涼しく耳を打つ。なんとぼくらは全員帽子をかぶり、長袖に長靴を履き、マムシ除けのスプレーまで携行しなければならなかった。その理由は、いずれお分かりいただけるはずだ。
*ご一緒した「正岡虎三郎」さんのお孫さんグループ。なぜ夏の盛りにこんな完全武装をしなければならないのか?
*明治末期から大正にかけて竜岡村長を務めた虎三郎氏
結論から言うと、ここが幸門城から分派して、首將・正岡経(常)政を補佐してきた弟の常為、その子の常貞が居館とした渡瀨城館址であった。明治中期から大正初期まで竜岡村村長として、里人の信頼と敬慕を集めていた正岡虎三郎さんの屋敷跡でもあった。
そして、ここへご案内した正岡秀章、孝紹の兄弟、長姉の巳奈子さん、従妹の伸子さんは、虎三郎村長の孫たちであった。 (以下、次のアップへ)