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正岡貞雄のブログ一覧

2016年05月23日 イイね!

『海賊の島まで70km』の午後

『海賊の島まで70km』の午後トンネルを抜けると「ゆかりの場所」が待っていた!

【左のレリーフは『小説 村上海賊の娘=和田竜』の本屋大賞受賞を記念して地元特産の大島石で制作したもの】

 この7月16、17日の二日間にわたって、松山市で開かれる「第4回正岡祭」の最終準備・実行委員会は、さいわい午前中で抜け出すことができた。

 九州・秋月の取材で把握した「正岡一族」の意想外な展開を報告し、これから、その追跡調査で「越智大島」へ直行したい、まず「村上水軍博物館」に行って、そこの学芸員との面談を取り付けてあるから、と。


*実行委員会の面々、「まさおかサーン」と呼んだら、全員が「はい」と答える不思議な?グループです

 それなら、どうぞ、すぐにでも。「正岡一族二〇一六」の本の出来上がり、楽しみにしていますぞ。同じ正岡姓の会長も氣持ちよく送り出してくれる。

 挨拶もそこそこに、道後山の手ホテルからスイフトで「しまなみ海道」を目指した。道後湯月城に隣接する「正岡子規記念館」を右手に見ながら、温泉街を抜け、国道317線(以下、R317) に入ろうとして、にわかに空腹を覚える。そうか、朝からまともな食事を摂っていなかった。



 と、石手川を渡る石橋のたもとに、それらしい茶屋風の店構えが目に入った。
「水車」か。恐らく、かつてはこの旧街道を行く旅人たちの憩いの店があって、水車がまわっていたのではないだろか。「天ざるうどん」の「並み」を注文。讃岐うどんの流れを汲んだ麺はコシの強さで、ここはやっぱり四国だな、と喜ばせた。天婦羅のパリッとした揚げ方も悪くなかった。

 R317は松山市の中心部、勝山の交差点をスタートして道後の温泉街のそばをすり抜け、今治市へむかって山間部を抜けていくルートで、今治からは一旦、来島海峡に始まる海上部を「西瀬戸自動車道」(これが、有料)のしまなみ海道で大島、伯方島、大三島、生口島、因島、向島と瀬戸内海に浮かぶ島々をわたり、広島県尾道市に至る。松山道後から、「村上水軍博物館」のある大島・宮窪瀬戸までは、およそ70kmと見当をつけていた。



 改めてR317に入る。2車線の整備された登り一辺倒の路面が、段々と狭まり、荒れてきた。奥道後温泉ホテルを過ぎた。山の斜面に石を積み上げて、やっと暮らしのスペースを確保している幾つかの集落も現れなくなると、いよいよ本格的な山間部へ。
 
 走行距離5万kmオーバー、3代目スイフトの「K126」1.2ℓエンジンと副変速機付きのCVTの組み合わせは、結構、ちょっとした走りの気分を楽しませてくれた。これで「XSグレード」なら「マニュアルシフト」が選べるという意味も、よくわかった。シフトセエレクターは「D」と「L」でそれぞれに「OD」ではなく「S」と表示せれるボタンがついていて、シフトダウンに好適だった。
この秋頃にはモデルチェンジして、4代目の登場が取り沙汰され始めたが、インド生まれの「BALLENO」との兄弟喧嘩が楽しみだ。お互いのDNAがいい方向で競合しているのを、期待していいだろう。

 ついでながら、この辺の雰囲気を伝えるべく、過日、「RJC」のホームページに「SUZUKIバレーノ試乗記 『帰国子女』を乙女峠のワインディングに誘う」を掲載しているので、是非是非、タイトルをクリックして、ご一読を。

 松山市民のための水甕「石手川ダム・白鷺湖」の左岸をかすめると、いよいよ水ケ峠の真下を抜けるトンネルだった。
 全長、2800メートルあまり。四国では、寒風山トンネルに次ぐ長さである。 このトンネルが完成したのは20年ほど前の平成9年。それまではクルマだと、松山から今治へは海沿いの道で迂回した、という。たかだか標高700メートル程度の古い峠だったが、松山側からも、今治側からも、越すとなったら厄介で、その辺りがいわば「伊予の秘境」として、外敵の侵入を阻む、絶妙な地帯となっていた。
 
 ライトON。このトンネルがほとんど真っ直ぐに伸びているのが、よくわかる。不思議な霊気を、ここに入るたびに感じてしまう。キュッと身も心も引き締まる感じ。やがて光の束が大きくなって、トンネルを抜けた。

 R317は一気に下りはじめて、緑の世界がたっぷり視界を押し包んだ。右側を蒼社川が渓流となって元気良く、岩を噛んでいる。ここからは今治市玉川町。つい先日までは越智郡と呼ばれ、実は中世・戦国時代の終焉まで、この地方の領主・河野氏を補佐して「正岡氏」が首領となって治めていた「ゆかりの故地」であったのだ。

 時計を見る。まだ午後1時前か。「水軍博物館」には3時までに着けば大丈夫だと計算した。途端に、スイフトの車速をダウンさせる。



 この先は昭和45年(1970)に蒼社川を堰き止めてできあがった「玉川ダム」。その手前でちいさな石橋を渡った川の対岸に「渡瀬(わたぜ)」と呼ばれる特別の場所がある。戦国末期、正岡氏が野に下ったあとも、その支族が秘命を帯びて「再興の基地」とした城館址に、やっぱりご挨拶もしないで、通過するわけには行くまい、と。ここだけは辛うじて湖底に沈むのを免れ、「正岡氏の記憶」をわたしたちに伝えてくれる、大事な場所の一つである。

 はたして。虫が知らせたというべきか、「ゆかりの城館址」に、どなたかの手で窯場が出現し、煉瓦つくりの煙突がにょっきりと天をつく姿を目撃することになる。






 そそり立つ石垣の脇を、あわてて駆け上がる。無人の窯場が出現していた。     4年前に訪れた時、ここは栗林に雑草の広がる、何もない場所だったはずなのに。これでは、7月の「正岡祭」での「史跡めぐり」で案内するのは、いささかはばかれるのではないか。う〜ん。腕を組んで、しばらくその光景を眺めるしかなかった。

 さて「海賊の島」まで、まだ50km近くはあるだろう。ここは明日、松山の戻る際にもう一度、立ち寄ることにして、再びR317に復帰した。



 午後2時を少しばかり回ったところで、今治から来島海峡を渡り「しまなみ街道」大島南ICで降り立った。と、そこもまたR317の標識が。そうだった。この国道は海に分断されながら、西瀬戸の島々を渡りながら、尾道まで繋がっているのだった。





 あと、9キロ。「日本最大の海賊」能島村上氏に逢いに行く旅は、やっと目的地に近づいただけだった。なぜ能島村上氏にこだわるのか。その説明もまだできていない。もう少し、時間をお貸しいただきたい。

 それにしても、過日、現地で手にした《今治市 村上水軍博物館》のパンフレットの「解説」の出来のよさに感心している。この際、遠慮なく引用させていただくことにして参考に供したい。題して、「よみがえる村上海賊の記憶」。



 村上海賊(村上水軍)、は14世紀中頃から瀬戸内海で活躍した一族である。後世には三島(さんとう)村上氏などと呼ばれ、能島(のしま)・来島(くるしま)、因島(いんのしま)に本拠をおいた三家からなり、連携と離反を繰り返しつつも、互いに強い同族意識をもっていた。
 彼らは、海の難所である芸予諸島で育まれた海上機動力を背景に、戦国時代になると、瀬戸内海の広い海域を支配し、周辺の軍事・政治や経済の動向をも左右した。

 来島城を本拠とする来島村上氏は、伊予国守護の河野氏の重臣として活躍した。因島村上氏は、周防国の大内氏に仕え、のちに中国地方の覇権を握った毛利氏の有力な海の勢力となった。そして宮窪に本拠を構えた能島村上氏が独立性が高いとされ、とくに村上武吉の時代には、毛利・大友・三好・河野といった周辺の戦国大名たちと、時に友好関係、時に敵対・緊張関係となりながらも、独自の姿勢を貫いた。日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、能島村上氏を“日本最大の海賊”と称した。

 武吉および息子の元吉(もとよし)、景親(かげちか)の時代に全盛を謳歌する能島村上氏は、西は北部九州から東は塩飽(しあく)諸島に至る海上交通を掌握した。平時には瀬戸内海の水先案内、海上警固、海上運輸など、海の安全や交易・流通を担う重要な役割りを果たした。戦時には船舶を巧みに操り、「ほうろく火矢」など火薬を用いた戦闘を得意とした。また茶や香を嗜み、連歌を嗜む文化人でもあった。(中略)
 
 一般に「海賊」と聞けば、理不尽に船を襲い金品を略奪する無法者、いわゆる「パイレーツ」がイメージされるかもしれない。しかし(当)展示室をめぐるとき。「海賊」と呼ばれた人々が、必ずしもマイナスイマージで語られなかった時代があったことに気づくだろう。





 ジャスト15時。宮窪瀬戸に着いた。海が光っていた。その向こうに小さな島影。あれが能島か。海沿いの道を少しばかり右へ。突き当たる。白い旗が爽やかにはためいている。「祝 日本遺産認定」の文字。一目でそれとわかる「村上水軍博物館」だった。甲冑をまとい、腰に刀をさした武将が腕を組んで、海に向かってに屹立した石像。しかし、全てが真新しく感じられたのが、気になった。ともかく、入館受付を済ませなくては……。 (以下次回更新へ」
Posted at 2016/05/23 17:03:36 | コメント(3) | トラックバック(0) | ルーツ探訪 | 日記
2016年05月19日 イイね!

日本最大の海賊衆『能島村上氏』の島へ!

日本最大の海賊衆『能島村上氏』の島へ!しまなみ海道と正岡氏最期の居城「幸門山」への「ご挨拶」旅

{左の陣羽織は能島村上氏の総帥、武吉、景親が着用したと伝えられる。村上博物館蔵}


 たとえば、急に思い立って、時間の都合もついたし、日曜日の羽田発の第1便で四国・松山に行き、しまなみ街道に点在する島に遺っている村上水軍の海城を見に行きたくなった、としよう。宿泊は「しまなみ海道」の四国側の玄関、今治にしよう。で、月曜日も一杯一杯使って、羽田へ戻る最終便にしなければならない、とする。火曜日はもう、所属する団体の総会に出席しなければならないという設定だ。


*能島と宮窪瀬戸の潮流。今回の取材ターゲットの一つ。

 さて、早速、ANAとJALの航空券の空席紹介と運賃をチェックする。どちらも午前7時25分に羽田を立ち、松山には8時50分ごろには着く。値段も優劣はなく、ANAの場合、最も安い「特割」で片道が26,490円。帰りは次の日の最終便、19時25分発で26,990円。合わせて航空運賃だけで53,480円という計算になった。

 これに宿泊代が1万円、レンタカーが二日分で、まあコンパクトクラスでも、1万円はだいたいかかる。ざっと加算しても、7万5000円か。う〜ん。高速通行料やもろもろの雑費で10万円コースは覚悟しなければならない。

 ところが、である。ま、そんな手もあったのか、という参考例として同じ検索ページから、ANA楽パック「格安航空券+宿泊パック+レンカー付き」(楽天トラベル)から、はいってみるといい。すでにあらかじめこちらで検索しているので、予定した日程で航空券が「予約OK」で表示されている。つぎに「レンタカー」もあわせて予約のチェックをいれ、宿泊地は愛媛県、1部屋ご利用人数を「1」とする。そして「検索」をポチっと捺す。



 現れたのは「宿泊する地域をお選びください」という「MAP」。今治の下に、温泉マークと一緒に「湯ノ浦」の誘惑的な文字が。よし、これだ! ダブルクリック。で、真っ先に登場したのが「ホテルアジュール 汐の丸」。スタンダード洋室、朝食・夕食ありの『四国巡礼お遍路プラン』が39,600円で用意されている……。そのギャップが歴然としている。

 実は、このやり方でこの2月はじめに筑前の「小京都」朝倉に赴いた。レンタカーとして登場したのがプリウスだったのと、ホテルのレベルも予想以上だったこともあって、5月15〜16日の「四国遠征」も、同じ手法を踏襲し、満足度も高かったので、旅をするときのヒントの一つとして、あえて紹介した次第である。このパッケージで4万円は有難い。で、すぐの予約をいれてしまった。加えてレンタカーでどんなクルマがお供をしてくれるのか、ホテルは温泉付きだという。それもまた、楽しみの一つであった。

 この前置きがあれば、『旅日記』がわりに「何シテル?」でMEMOと写真を意図的に綴り続けた意味も、おわかりいただけるのではないだろうか。改めて、その辺りをつないで見ると……。

05/05 20:01
あれ、あれ。いつの間にか、朝。ということは徹夜? 徳さんの【911偏愛学】に目を走らせながら【みんカラ】をアップしていたらAM7時に。午後からはTV桟敷で【阪神vs中日】戦を見ながら、7月の『正岡祭』に備えて【伊予河野氏と中世瀬戸内世界】を読む。しまなみの景色を思い浮かべながら。



05/09 17:56
GWは「働き過ぎ」の骨休み。とはいえ、心はすでに週末からの【四国遠征】。2月の福岡・秋月の取材から、ついにあぶり出した【島原の乱】出陣の『正岡衆』の故地探し。手掛かりはここ!瀬戸内しまなみ海道の宮窪瀬戸にある『能島水軍』の海城へ。『正岡一族2016』の中にこのルポを入れるために!

05/15 07:19
これより、四国松山へ。52番ゲート前のこのポイント。当然、一服してから、機内へ。



05/15 12:06
羽田を発ってから、ずっと雲海の上。折角の機会なのに、しまなみ海道の島々は見えなかったが、松山空港に向かって機首を下げた途端、忽那の島々がドーンと。ここも、いろいろと歴史の闇を抱いている。次の機会には!


*ANA584便が防予海峡側から機首を下げて松山空港へ向かって高度を下げる。怒和島、中島(忽那)、そして興居島。ここもいずれ足を踏み入れなければ……。その向こうが高縄半島。

 これらの「記述」はiPhoneから、手許の余裕を見計らって、「われ送信したものだが、15日の午前7時に羽田空港の出発ゲートで待機しているということは、練馬の自宅を出たのは少なくとも、2時間前には出ていなければならない。そう、実は午前4時に起床、5時にはノートパソコンを入れたリュックを背負い、資料を入れた小ぶりなキャリーカートを引きずりながら、羽田空港を目ざして西武池袋線に乗る。もちろん300mmレンズ付きのNIKONカメラ入りのバッグも肩に担いで……。

 こう書いていくと、4ヶ月前の「秋月行き」(2月10日アップの“ああ、「還暦+青春20歳」宣言はカラ元気か?”参照)と全く変わっていないのに驚く。ただ、その時より丸々1時間前倒しの行動である。それともう一つ、あの時は心身ともに最低の状況だったが、今回は「かなり好調」なのが、自分でもわかる。

 52番ゲートからの搭乗直前に「スタバ」でいつものカプチーノを味わったことを知らせる「何シテル?」を送信するのも元気の証か。

 松山空港、8時45分着。格安チケットだからといって、何一つ心配することはなかった。座席も窓側の『A17』を事前に予約できていた。さて、キャリーカートをピックアップして、空港からの出迎え小型バスで大型パーキング内の「平成レンタカー」へ。そして待ってくれていたのは黒いボディカラーのSUZUKIスイフト。



 逢った瞬間の印象はフロントグリルに装着された「S」マークが「VW」なら、POLOかな、いや踏ん張り具合いからいってGOLFかな、と錯覚したくなるくらい。この旅のお供、マル印じゃないかな。

 レンタルの手続きを済ませ、まず向かったのは、残念ながら「しまなみ海道」ではなく、松山市の中心部、道後温泉街のそばのホテルで午前10時から開かれる「正岡祭り」の準備実行委員会にひとまず出席しなければならなかった。これを済ませたら、まっすぐ「今治市村上水軍博物館」(大島宮窪)へ急行するスッケジュールを立てていた。なにしろ翌日は月曜日。こうした施設はすべて休館日に当たってしまう。それを踏まえた上での強行スケジュールであった。


*7月16,17日の2日間。4年に1度の「正岡祭」を記念して作成中の「正岡一族」。

 なぜ、戦国時代、海の大名と呼ばれ、海原を自在にかけめぐった海賊衆をテーマにした博物館に行きたがっているのか。その説明から、次回更新分はスタートしたい。
Posted at 2016/05/19 03:35:16 | コメント(2) | トラックバック(0) | ルーツ探訪 | 日記
2012年08月28日 イイね!

ミンミン蝉の歌う朝に 

ミンミン蝉の歌う朝に ~みんカラ仲間との「筑前の小京都・秋月行」②~


「ミ~ン」と、高らかに歌いあげてから、小さく息継ぎをし、「ミン、ミン、ミン、ミン、ミン」と確実に5回、「ミン」を畳みかける。そして「ミィ」とトーンを落として、一小節を完結させる。

「ミ~ン、ミンミンミンミンミン、ミィ」「ミ~ン、ミンミンミンミンミン、ミィ」
 ひとしきり、ぼくの耳を楽しませてくれる「夏の風物詩」。ことしなって、はじめてだ。蝉族のセレブ、ミンミン蝉は暑さに弱いことで知られる。だから午前6時半にはじまったこの「演奏」も、朝の太陽が東側の11階建マンション越しに顔を出した途端に、ピタリとやんでしまった。ぼくの住む練馬区も、連日、37度を越す炎暑の暴力に悩まされているが、今日もまた……!?

  いや、いや。ミンミン蝉が、そろそろ夏も終わりますぞ、自然の摂理に則って、メッセージを送ってきたじゃないか、と思い直す。と、少しはこの夏にめぐりあった出来事の、ひとつ、ひとつを吟味する元気がよみがえってきた。

 6月末から7月中旬にかけては、連日の国会図書館通い。4年に1回、発祥の地・松山市で開かれる「正岡祭り」の前夜祭でプレゼンテーションする予定の『全国正岡姓MAP』つくりに専念。その過程でいくつかの〈宝の山〉に遭遇している。その一つが、筑前の小京都と呼ばれる朝倉市秋月の郷土歴史資料館に秘蔵されてきた「島原の乱」を描いた屏風絵に、たいへんなヒントがあることを知る。
その資料集めの最終日、「平成生まれのベスモ育ち」の大学生と知り合う。「みんカラ」名が「FRマニア」。訊けば、大分の国立大学で自動車工学を専攻しているという。



 7月中旬、「正岡祭り」で3日間の松山滞在。最終日、「歴史の闇」を追って、正岡氏の秘密基地「渡瀬城館址」へ。お、まだ、この続編は書き上げていないぞ。

 8月中旬、九州へ。もっとも、新しい「みんカラ仲間」の「FRマニア」君に「秋月」まで一緒に行くかい?と。そこへ「TAKU V35」氏が愛車、スカイラインV35を駆って合流してくれるという。萩の「波田教官」にも声をかけたところ、生憎の事情があって、次の機会に。

 8月18日、TAKU V35氏のドライビングで、大分駅南口のロータリーで「FRマニア」君と、彼の仲間2人をピックアップして、大分自動車道に入った。で、顔合わせのミーティングのため、ひとまず、別府湾サービスエリアでコーヒーブレーク。それからの、甘木IC経由の秋月までの車中での白熱した会話は、いやぁ、一昔前のクルマ野郎のおしゃべりに負けないレベルであった。


*左から「販促ビデオ育ち」「ベスモ育ち」「チューニング派」とバラバラのトリオ

 秋月は坂の町だった。街並みの右側を野鳥川が走る。ぼくらのV35は、案内板に素直に従って、町営の駐車場に滑りこむ。容赦なく降り注ぐ真夏の日差し。なには置いても、お腹を満たしたい。すぐに目についたのが、どっしりとした蔵造りの蕎麦店。
 その店のローカル色を生かしたメッセージがなかなかだった。

「秋月にこんね。ほーんによかとこばい。うまからーめんば、たべてみんない。美味しかつば、つくって待ってちょるけん」
すらすらと読めたら、あなたはたいしたものだ。

 さっそく、自家製の手打ち「ちぢれ麺」を注文する。
「厳選した小麦粉を青竹で打ち、真心をこめた麺です」
 ここのご主人の技が、そう言わせたのだろう。
「秋月の澄んだ美味しい井戸水でコトコトとチキンをベースに仕上げました。あっさりとした醤油スープは、最後の一滴までいただける。秋月らーめん本舗秘伝の味」

「FRマニア」君が「コメント」でこう反応している。「細麺派の私も無言ですすりたくなる一品で大変美味しく頂きました」と。



 腹支度をすませたところで、「秋月郷土館」へ。野島橋を渡ると、桜並木がみごとな木蔭のアーチを設えて、ぼくらを導いてくれる。潜り門を抜けると、庭園越しに、茅葺きの武家屋敷が生き残っていた。代々、秋月藩の要職を務めた戸波家の屋敷跡で、そこに、この日の目的である『史料館』が『美術館』とともに併設されていた。

 東京からの電話の問い合わせで対応いただいた館長が、運よく在席していて、気軽に案内してくれる。真っ直ぐに「島原陣図屏風」の前へ。まず、圧倒された。右に秋月藩主・黒田長興の率いる武者行列。その数2000人。それを丹念に、一人一人を書き上げている「出陣図。左は籠城する一揆勢への総攻撃の模様を描く「戦闘図」。血なまぐさい風が、むっとたちのぼる。原城本丸を攻めおとそうと、石垣を登る秋月藩の軍勢と、すでに武器弾薬も、食料も底をついたにもかかわらず、それでも抵抗をやめない民衆。


*「島原陣図屏風」の「戦闘図」の一部。この中に3人の「正岡」氏の戦う姿がある。(『絵で知る日本史』25(集英社刊)より)








 ぼくらの目は、その中から、「正岡衆」の旗印を背負った戦士の姿を求めた。
 いた! 「出陣図」からは、馬上で胸を張る「正岡孫左衛門」と「正岡太兵衛」。そして「戦闘図」に目を移すと、本丸を目の前にした石垣にとりついた「正岡権三郎」を発見した。サッカーでいえば、トップ下の役割だろうか。上から一揆勢の投じる石が直撃しそうな、相当に危うい状況にいる。
 では、「孫左衛門」たちは!? こちらは戦上手らしい。石垣と土塁に間で、右手に生首を下げ、周囲を睨み付けている。「太兵衛」もいた。なんと彼は石垣を登りつめ、左手が「犬走り」と呼ばれる狭い隙間に手がかかっている。
 この3人が、戦いが収まった時、無事、秋月へ帰れたのだろうか。気になるではないか。

 帰り際、館長がコンピュータから刷り出した資料を一枚、手渡してくれた。「秋府諸士系譜」と見出しがつけてあり、そこには、秋月藩に召し抱えられていた「正岡氏」の名前が並んでいた。その中に「権三郎」があり、「亡家系譜」と添え書きされている。
「これは、どんな意味でしょうか?」
 ぼくが問うと、館長が口を濁す。
「何かの不始末を起こして、お家断絶とか?」
「そんなところでしょうね」

 消された男・権三郎。主家を亡くし、やっとたどりついた新天地でも、島原の乱で武勲を立てたにもかかわらず、結局は安住できなかったのか。またひとつ、テーマが増えたぞ。



 史料館を辞して、帰路に着く。野鳥橋の袂の茶屋で、トコロテンをいただく。他の4人はラムネを選んだ。あの日も暑かったなぁ。秋月の町を出たところを小石原川が横切っていた。川辺にクルマが駐められ、子供たちが川遊びをしている。犬たちも嬉しげに水浴びを楽しんでいる。久しぶりに見る、のどかな田園風景。それが妙に心に残る。

 この小さな旅を終えたところで、「FRマニア」君と「TAKU V35」との交流がふかまったようだ。「FRマニア」のもちかける「スカイラインV37像」に対し、小気味よく、欠けている視点を指摘する「TAKU V35」氏。この大学講師の実績に、若い「FRマニア」君が素直に頭を下げている。いいねぇ、こんなやりとり。

明日の朝、またミンミン蝉の歌が聴けるだろうか。耳を澄ますと、どこか遠くで、熊蝉が男性的な演奏をやっているのが、伝わってくる。
もうすぐ、9月1日。筑波のメディア対抗レースが楽しみだが、前回優勝の「みんカラチーム」は準備万端かい?。
Posted at 2012/08/28 16:39:52 | コメント(1) | トラックバック(0) | ルーツ探訪 | 日記
2012年08月20日 イイね!

筑前の小京都・秋月(朝倉市)へ!

筑前の小京都・秋月(朝倉市)へ!~みんカラ仲間との「黄金の夏」よ!~



 この夏のはじめ。国会図書館の食堂で、おずおずと声をかけてくれた大分の大学生「FRマニア」君は、いまや、わが「みんカラ友達」第64号に登録されている。

 ぼくの「みんカラ友達」は、この1年あまりで64人に膨れ上がった。だから、平成生まれの「FRマニア」君がもっとも新しい、年少の仲間ということになる。お父上が熱烈な(本人の表現)べスモ信奉者で、その影響下で育ったのだという。現在は大分にある大学で「自動車工学」を専攻している、と簡潔に自己紹介してくれた。そのくだりは、すでに当BLOGで7月12日にアップした『ご無沙汰した理由~あるいはその言い訳として~』で触れているので、よろしければ、そちらもご参照願いたい。


*島原陣図屏風(出陣図) 1637年の島原の乱に、秋月藩も出兵。その際の出陣の模様を描いたという。


*島原の乱での戦闘の模様を描いたもの。この中に「正岡」の名前の入った旗印が何本あるのだろうか。

 なにしろ、このところ、戦国時代末期、428年も昔に豊臣秀吉の四国征伐で滅ぼされ、山に潜み、野に散った「正岡一族」の足どりや消息を追って、「全国正岡姓MAP」つくりに専念して、BLOGの方も疎かにしがちな日々を送ってきた。その過程で、いくつかの〈宝の山〉に遭遇している。
その一つが、筑前の小京都と呼ばれる朝倉市秋月の郷土歴史資料館に秘蔵されてきた「島原の乱」を描いた屏風絵に、たいへんなヒントがあることだった。

 つまり、黒田秋月藩五万石が、藩命を賭けて「島原の乱」に、藩主を筆頭に2000人に及ぶ藩士が出陣し、戦闘した様子を、細密に描いた屏風絵の中に「正岡何某」の名前の入った旗印を背負った武士の姿がある、というのだ。

「そりゃ、凄い!」
 正岡一族・最後の首領、常政(幸門城主)の妹、桃女が晩年、娘の嫁ぎ先である黒田福岡藩士大矢某を頼った、という記録がある。なるほど、その亡命するお姫様に同行した正岡一族がいてもおかしくない。黒田秋月藩は、関ヶ原の戦いの功績によって52万石を拝領した黒田福岡藩主・長政が、特に三男・長興のためにつくった分藩である。
 
 さっそく、秋月郷土館に問い合わせた。館長が対応してくれる。
「間違いなく、正岡と名乗る武士はいます。それも家老クラスもいるし、戦闘の先頭に立って斬り込んでいる戦士もいます……ともかく、記録に忠実に」
「肉眼で、はっきりと読めるのですか?」
「もちろんですとも。ただし、この郷土館は今年いっぱいで、一旦閉館されます」



中央で右手に生首、左手に血ぬられた長槍をもつのが正岡孫左衛門。(提供 朝倉市秋月郷土館)クリックで拡大
 

「え!?」である。これで秋月に行かなかったら悔いを残す。
 ぼくの心はきまった。この夏は何が何でも、九州へ行くぞ、と。実は、もっともぼくらを大事にしてくれていた大正生まれの女性(1919年生まれ)の初盆供養で、この夏、大分県佐伯市まで帰省する予定が入っていた。そこで8月18日だけは終日、自由に使うということが許されて、秋月行きを宛てることができたのである。

 大分県には3人の「みん友」がいる。まず、佐伯の海に生きる男「YUSAKU君」。ぼくの「みん友」第1号、霧島くんの紹介で知り合って、すでに昨年の11月に顔を合わせている。
 
 二人目は、少年期にガンさんのファンだったのが、例の「富士30度バンク事件」に影響され、嫌いになっていたのが、当BLOGでの、ぼくのレポートを読んで、自分が勘違いしていたと気づいてくれた「TAKU V35」さん。驚いたことに出身地がぼくと同じ北九州市八幡東区の同じ町だった。大変な「自動車博士」で、いろいろ、教わることが多い50歳。

 3人目が「FRマニア」君。

 できたら、このメンバーと、初めての「オフ会」として、一緒に秋月までのドライブ行をやりやかった。考えただけで、胸が躍った。8月18日を、その日とした。

 結局、YUSAKU君だけは、当日は夕方まで、船の上。やむを得ない。そのかわりに、翌19日にこちらの体を空けて、お昼をご馳走しよう。で、よかったら、二万石の小さな城下町・佐伯の史跡めぐりをしようか、と。

 3人目の「FRマニア」君も異存なし、とのこと。その上で、再び、おずおずと申し出る。
「同じ大学仲間の二人が、どうしても同行したい、と言っているのですが、お願いできますか」

 で、ここは「TAKU V35」氏に相談するしかない。
「いいですよ。V35は5人乗りでも平気ですから」
 あっさり、引き受けてくれた。考えてみれば、彼とは「みんカラ」でのやりとりと、電話で話しただけで、面識はなかった。これが「みんカラ」の効用か。

 8月18日の朝が来た。このところ。九州地方は不順な天候が続いて、これから向かう朝倉・甘木地方も、山側に入る道路に支障が出ている、というコーションが……。だから、時間に余裕を持たせることにした。8時、トヨタレンタリースの送迎車が「大手前」と呼ばれる、この町の中心部まで来てくれた。ヴィッツを借りる。大分方面に向かう「東九州自動車道」に佐伯ICから乗る。トンネルの連続。時折、チラリと豊後水道の光る海が見えたと思ったら、すぐに山に遮られる。津久見、臼杵、宮河内。3つ目のインターで一般道へ下りる。「TAKU V35」さんのマンションへ、寸分の狂いもなくNAVIが誘導してくれた。
「やあ、やあ」
 握手をかわす。長いつき合いをしている友人と、しばらくぶりに逢った気分だ。お土産に、土屋圭市のサイン入りポロシャツを渡した。ヴィッツはTAKU氏の駐車場に置いていく。



*最初の休憩地「別府湾SA]にて、TAKU氏のV35と、わが大分の「みんカラ」フレンズの面々。

 さて、ここから大分の大学生トリオの待つ大分駅のロータリーへ。約束の時間は午前10時。海沿いの国道を大分へ向かう。TAKU氏のV35は、マニュアルシフト。しなやかなシフトワーク。いいねぇ。トルクもたっぷり。リア・シートが成人3人には、いささかタイトかもしれない。はじめて会う二人が、どんな体格か、気になったところで、改装されたばかりの大分駅南口のロータリーが見えてきた。

 ぼくのiPHONE 4Sに着信があった。「FRマニア」君からだ。
この先の旅の様子は、いつもの手口で、次のアップまで、となるのだが、今回は「FRマニア」君が素早くくわしくレポートをあげてくれているので、そちらへも「お渡り」いただけるとありがたい。こんな連携も、またたのしからずや、である。

題して「帰省~2012夏~」

https://minkara.carview.co.jp/userid/1562726/blog/27491302/

 ちなみに、秋月に着いて、真っ先に飛び込んだのは「秋月ラーメン本舗」。ここの自家製手打ち「ちぢれ麺」は、ちょっとよそでは味わえない「秘伝もの」だった。600円なり。





Posted at 2012/08/20 21:27:28 | コメント(2) | トラックバック(0) | ルーツ探訪 | 日記
2012年08月08日 イイね!

主家再興の秘密活動基地へ!~400年も語り継がれてきた秘話を紐解く~

主家再興の秘密活動基地へ!~400年も語り継がれてきた秘話を紐解く~「歴史の闇」に光を当てる、などと大見えを切ったばかりに、少々、肩に力が入ってしまい、敷居を高くしてしまったようだ。そこで気軽に、好きな歴史もののおしゃべりでもするような気分で、綴ってみようかな。

 日曜日のNHK大河ドラマ『平清盛』は、ロンドン五輪にふりまわされて、2週続きで、放映はいつもより1時間遅れて9時から、となってしまった。見せ場である崇徳(すとく)上皇の呪詛シーンも影が薄くなっていた。厳島神社へ経文を納めるための清盛の船を襲う怨霊。あれは凄かったのに、視聴率の低落が取り沙汰されているのだから、恐らくご覧になった「みんから仲間」も数少ないに違いない。


*讃岐に幽閉され、怨霊となった崇徳上皇(歌川国芳画) フリー百科事典 ウイキペディアより

 これまで、大河ドラマにはきまってヒットする定番があり、その一つが織田信長と豊臣秀吉の登場する、室町時代から戦国時代にかけて繰り広げられた、あの激動と殺戮のドラマであった。その大河ドラマの中で、狂言回しの役割できまって登場する個性的な人物がいた。室町幕府最後の15代将軍、足利義昭である。


*京都・等持院におさまっている足利義昭像

「流れ公方」「流浪将軍」ともよばれ、天下布武を目指して牙を剥く戦国大名たちを、口先一つで、つまり知力と毛並みだけでキリキリ舞いさせる、ある意味では痛快な男である。ドラマの中では、これまで玉置浩二や和泉元弥、三谷幸喜といった異色のタレントがそれぞれに演じてきているが、玉置浩二の義昭はよかった。手紙(御内書とよぶ)を乱発して、あちこちに紛争をもたらす妖しげな厄介者を見事に演じていた。

 それに引き替え、室町時代の終焉を象徴するシーンとして、烏帽子姿の義昭が謀(はかりごと)にやぶれ、畑の中で農民たちに打擲されつづける惨めな姿をさらしている和泉元弥扮する義昭は、すこしは歴史を齧っているものには、史実とは無縁の、噴飯ものの演出だった。

 発祥の地、四国・松山で、正岡一族の末裔たちが、4年に1度の「正岡祭り」の式典参加、史跡めぐりをすませた翌日、そのエキストラとしてレンタカーを調達してまで、歴史の正史からはうかがえない、正岡一族に語り継がれてきた「秘話」を確かめようというプロローグを紹介したが、その発火点がこの「足利義昭」なのである。

 足利義昭について、その波乱に満ちた行動の軌跡を整理するとこうなる。

 1537年(天文6・11・3) 足利義昭生誕。父は12代将軍・足利義晴、母は近衛尚通の女(むすめ)、兄が13代将軍義輝。5歳で出家。義昭、18歳の時、兄、足利義輝は松永久秀に殺害され、義昭も幽閉されるが、脱出して還俗する。幕府再興を宣言、従五位下左馬頭叙任されて義明と名乗る。

 1568 年(永禄11)、越前国、朝倉義景の一乗谷城で元服して、義昭と改名、9月、信長の岐阜に行き、信長とともに上京。14代将軍義栄死去。その11月,征夷大将軍となる。が、翌年には信長と対立し、信長は岐阜へ帰ってしまう。このころ毛利氏が勢力を拡大。その一方で大坂石山本願寺と信長が対立、合戦が起こる。
 1971年(元亀2)6月、毛利元就死去。
 1573年(天正元)7月1日、義昭、ついに挙兵したものの粉砕され、ここに足利幕府が亡んでしまう。義昭、京都を出奔し、地方豪族を頼る。その時、37歳。頼りの朝倉氏・浅井氏も亡ぶ。しかし、孤立した義昭を、信長と敵対する顕如上人が、大坂石山本願寺にかくまう。

 2年後、信長と顕如が和解。義昭は伊予水軍に迎えられ、大坂山を脱出、伊予国越智郡の島嶼より、備後国鞆ノ津黒木御所に入る。義昭40歳、このとき、伊予国河野左京大夫通宣の長女章子(18歳)、黒木御所に奉仕する。流浪将軍にたまゆらの平和が訪れる。


*流浪の果てに、義昭が毛利氏の支援でやっと定着した鞆ノ浦。 最初の居城となった鞆城址は今では歴史民俗資料館に。 

*「黒木御所」があったと想定される山田・常国寺の裏山にある「伝・義昭将軍塚」は崩れ落ちたままである

 1580年(天正8)、大坂石山本願寺合戦、終了。その翌年、河野章子の父、通宣逝去する。1582年(天正10・3)天目山の戦、次いで信長が中国征伐に乗り出す。が、本能寺の変により、信長自刃。襲撃した明智光秀こそ、信長と義昭を連携させた功労者だった。秀吉、と毛利氏が和す。
 1583年(天正11)毛利氏は豊臣氏に近く、伊予河野氏は土佐国、長曽我部氏に接近したため、秀吉は河野氏を快く思わなくなる。この年、義昭と章子の間に昭王丸誕生。
 1584年(天正12)昭王丸の父、義昭、秀吉にむかえられ、山城国槇島に1万石をもらって、上京。昭王丸、父と別れ、母章子と共に伊予に帰り道後湯月城に養われる。輔育役が越智郡竜岡・幸門城城主、正岡右近大夫経政であった。
 ところが、この章子・昭王丸母子について、義昭に関する歴史記述書のどこを探しても、見事なくらいに、なんの痕跡も残されていない。
   *    *    *     *
  国道317号を今治方向へ、レンタルしたカローラAXIOでむかっている。
車中、そんな「最後の流浪将軍」について、一応の講釈をしながら、最初の目的地、竜岡上・中村の渡瀬城館址を目ざしていた。

 松山市民のための水甕「石手川ダム・白鷺湖」の左岸をかすめると、いよいよ水ケ峠の真下を抜けるトンネルだった。全長、2800メートルあまり。四国では、寒風山トンネルに次ぐ長さである。


*大正13年(1923)作成の愛媛県図。水ヶ峠トンネルもなく317号線もない時代。

 このトンネルが完成したのは15年前の平成9年。それまではクルマだと、松山から今治へは海沿いの道で迂回するしかなかった。

「トンネルの真上にある水ヶ峠は、たかだか標高700メートル程度の古い峠ですが、正岡一族が栄えた時代に視点を巻き戻しますと、この峠があったからこそ、これから行く竜岡地域が、身を潜める格好の秘境であった理由がわかりますね。だから、こうやってトンネルを抜けて、下りに入った瞬間から、まったく別の世界に入っていくような、ゾクゾクッと来る、一種の霊気を感じてしまうのです」

*廃墟と化した竜岡木地
*廃校となった小学校分校

 これが、ぼくの率直な感懐だった。同行する正岡孝紹さんたちも大きく肯く。
「このあたりは、昔は山を渡り歩く木地師が住んでいたと聞きますが……」
  助手席に陣取った長兄の秀章さんが、うれしい質問をしてくれる。

「よくご存じで。この先、左手に《竜岡木地》というところがありますが、今は廃村状態で、観音堂と廃校となった小学校の分校址があるだけです。もう一つ、いま、ぼくらは蒼社川に沿って下っていますが、この川の分流である鈍川には《鈍川木地》があって、近年、住民が帰ってきていると聞きます。機会があったら一度、足を運びたいものですね」


*317号線を今治方向へ。「渡瀬」はこの看板を見たら、そろそろ右へ下がる道が現れる。見逃さぬよう注意!


*渡瀬城館址。どんな歴史の闇が刷り込まれているのだろうか。

 前方に一塊の集落が見えてきた。近年は317号が整備され、それがバイパスの役割をはたしているため、うっかりすると通り過ぎてしまうが、「理観山龍岡寺」の標識を確認してから、一旦、停止した。集落の中を貫通する旧道が、317号から分かれる手前で、蒼社川へ向かって1本の道が右側へ下っている。これが「渡瀬」へ通じる唯一のルートである。車でも十分通れる下り坂で、橋を渡ると「森建設」という建物にぶつかる。

 橋の下を、蒼社川が渓谷となって、玉川ダムへむかっている。橋の袂に石碑が建っている。この新しい道が開通した記念らしい。今の時代にとって、どれだけ重要な役割を果たしているのかわからないが、どうやら上流に新しい堰堤ができたらしいのだ。そのお蔭で、こうやって車で訪れることができる。

 南東側の斜面の杉林は、そのまま高縄半島最高峰の楢原山に続く。北西を望むと、北三方ヶ森の高峰があり、その奥が高縄山になる。
渓谷沿いの道を川上に向かう。一段低い一角に人家が一棟。誰も住んでいる気配はない。と、左手に石垣の列が見える。忍び返しのついた見事な石積み。高さが5メートル強か。まさに城壁そのものだった。よくみると、ここはだれかの屋敷跡だと気づく。それも、かなり昔の時代に。が、それらしき案内板、標識はなにひとつない。

 ぼくらはクルマから降り立った。夏の陽がヒリヒリと焼きつく。蒼社川からの瀬音だけが涼しく耳を打つ。なんとぼくらは全員帽子をかぶり、長袖に長靴を履き、マムシ除けのスプレーまで携行しなければならなかった。その理由は、いずれお分かりいただけるはずだ。


*ご一緒した「正岡虎三郎」さんのお孫さんグループ。なぜ夏の盛りにこんな完全武装をしなければならないのか?

*明治末期から大正にかけて竜岡村長を務めた虎三郎氏

 結論から言うと、ここが幸門城から分派して、首將・正岡経(常)政を補佐してきた弟の常為、その子の常貞が居館とした渡瀨城館址であった。明治中期から大正初期まで竜岡村村長として、里人の信頼と敬慕を集めていた正岡虎三郎さんの屋敷跡でもあった。
そして、ここへご案内した正岡秀章、孝紹の兄弟、長姉の巳奈子さん、従妹の伸子さんは、虎三郎村長の孫たちであった。      (以下、次のアップへ)
Posted at 2012/08/08 17:38:20 | コメント(4) | トラックバック(0) | ルーツ探訪 | 日記
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「3連休中日、富士フレッシュマンレースで青春を燃やした中・老年男の同窓会をFBで速報。今を支えるエネルギー源を確認。そのせいか翌24日のみんカラPVレポート欄の第1位は【還ってきた愛しのEXA】。FBレポート末尾でリンクした8年前のみんカラブログに未読の仲間が訪問してくれたわけか。」
何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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