130年前のこの国で「圧制・貧困」からの解放を旗印に闘った「凄い奴ら」のフィナーレ
「黄昏」は「たそがれ」と訓(よ)み、この国の古語で「誰そ彼」、つまり、あたりが暮れ落ちて、まわりの人の顔が定かでなくなり、「だれですか、あなた?」とたずねる頃合いのことを、そういいならわした、と記憶している。
因みに、夜明け前は「彼は誰」=「かはたれ」と呼ぶことから「かわたれ」となっている。
黄昏の信州・十石峠の午後5時45分。暮色がせまり、辺りの景色も光と色彩を失い、ひと気のないモノロームの世界へと惹き込まれつつあった。
と、わたしの心に強烈に焼きこまれている1枚の絵が、まるでたった今、眠りからさめたとでもいうように、はっきりと目の前に映し出され、白い鉢巻き姿の男たちの一団が、ザクッ,ザクッと足音を響かせながら、いま陽が墜ちて行ったばかりの西の方角へと行進する……。目をこらすと、先頭の二人が火縄銃を携え、しんがりの二人は竹槍姿の、それなりの武装集団らしい。
それは「十石峠」とタイトルされた60号の油彩画で、根岸君夫画伯が20年の歳月と情熱をかけて完成させた「秩父事件連作画集」1〜20のなかの15番目で、紅葉したカラマツ林越しに、明るく、低く、ゆったりと波打つ山並みを背負って6人の困民党兵士が大写しに描かれているものだった。
130年前の11月1日、西秩父の吉田・椋神社で蜂起した「山の民・自由の民」が、こと敗れ、改めて新しいリーダーを選び、信州に新天地をもとめてこの峠を越えて行く「秩父困民党」をモチーフにしたものだった。
いま、その絵には、秩父市下吉田町石間(いさま)の「石間交流学習館」(要予約)にいけば、「連作画集」全てと一緒に専用の部屋で鑑賞できるが、「十石峠」には、こんな解説文が添えてあった。
――11月6日、困民軍は上州・山中谷(さんちゅうやつ)を遡り、楢原村に達し、宿営した。
自警団との交戦で捕えられるものも出たが、村々で参加者を増やし、約300名となっていた。
翌7日。一行は信州との国境・十石峠を越えた。日に十石の米がここを通って佐久から山中谷に運ばれたのが、その名のおこりといわれるこの峠は、その眺望の雄大さによって、通る者にしばらし立ち去り難い思いを抱かせる。
この峠近くでは、捕虜の巡査殺害という,風景に似つかわしくない事件が起こっている。
しかし,農民たちは一変した風景の中を、佐久自由党が根をはった地へ想いを馳せながら進んでいった。
そうか、と得心した。敗走しているはずなのに、妙に明るい、彼らの表情。この段階でも希望を捨てなかった彼らを、根岸さんは描きたかったのだ、と。
が、実は根岸画伯の16番目の作品が「鎮台兵襲来(馬流)」となっていて、それからの彼らがどうなっていったのか、その暗転ぶりを発信してくる。
現実にもどったわたしは、慌てて広場に駐めてあったアウトランダーPHEVに乗り込み、彼らの後を追って、佐久へむかう武州街道(299号線)をくだっていくことにした。
まだ少しばかり明るさの残った一車線ギリギリの、下り一辺倒の道。右に抜井川の渓流が伴走しているのだろうが、それも気配が感じとれるだけで、なにも見えない。
発作的に、遅い時間に東京を飛び出してきたのを、いまさら悔いたところで、どうにもならない。回生ブレーキを多用しながら、ヘッドライトをたよりに、もう一つ、次の目的地を目指すしかなかった。
それにしても、このごろ、New Carに試乗する機会が増えたこともあって、ドライビング・スキルが少しは蘇ってくれたのかな。それとも、アウトランダーの低重心構造のバランスがいいのか。すこぶる快適に下っていくではないか。
やっと、道が開けた。右手に稲田越しに大日向の集落が近づいてくる。
根岸君夫画伯が「16 鎮台兵襲来(馬流)」で、簡潔に「それから」を伝える。
――11月7日、大日向村、竜興寺に宿営した困民軍は8日に高利貸ら数軒を襲い、軍勢を5〜600人に増大させながら馬流(まながし)に至り、井出家を本陣として宿営した。
この頃、高崎から急派された鎮台兵1中隊120名、長野警官隊90名は千曲川下流10キロの臼田に待機していた。
9日明けがた,弾圧軍は全面的な襲撃を開始した。
応戦もあったが、一方的な戦いで、逃げ惑う者を背後から突き刺すなどの官軍の暴圧ぶりが伝えられている。村の妊婦が鎮台兵の銃弾によって命を落としている。
困民軍は13人の死者、60数名を残し、海の口に向かって逃れていった。
* * * * * * * * * *
武州街道こと299号線を下りきって、やっと佐久から清里方面へ南下する141号線に合流した時、あたりはすっぽり、夜の帳(とばり)に包まれていた。
それでも、困民党の戦士たちが、最後の力をふり絞って、命をかけて抵抗し、散華していった戦場に、暗闇の中を手探りしてでも、この目で確かめなくては、という気力は萎えていなかった。
実は目指す馬流には、すでに土地勘があった。つい1週間前の9月5日に、わがプログレのドライビングを飯嶋洋治さんに委ねて、秩父から吉田、小鹿野の町を抜けている。
屋久峠越えで困民党軍の足取りを忠実にトレースしながら、神流川沿いに山中谷には入り、そこでは十石峠越えを後回しにして、霧の出た「ぶどう(武道)峠」の方角をあえて選んで、新しいリーダー・菊池貫平を送り出した信州・北相木村を訪ねることにした。そのあと141号線に出て、東馬流を取材しているのだが、このとき、「散華の地」を見逃してしまった。その後始末が今回の「発作的・十石峠アタック」であった。
時計の針が午後6時25分を指していた。左側を千曲川が南下している。「そろそろだな」と感じた瞬間、「東馬流」の標識と「秩父事件戦死者の墓」の案内板が同時に目に入った。まるで、だれかが案内してくれているみたいだ。
*R141から東馬流へ。「秩父事件戦死者の墓」とあるのは、この項では触れていない「暴徒鎮魂碑」を指す。
*困民党軍が最後に本陣を構えた井出家。
記憶のある橋を渡る。小さな集落の中を抜け、クルマが往き来する突き当たりの生活道路を左折。暗がりなのに1本の道がはっきり見える。
困民軍の首脳が最後の夜の本陣とした井出家の立派な家構えが右手にあらわれた。そうか、この道を真っ直ぐ行くとJRの小海線馬流駅があり、その先の「天狗岩」の真向かいに『秩父困民党散華(さんげ)之地』碑があるはずだ。
人家の絶えた田圃の道。頼りになるのはアウトランダーのヘッドライトだけ。「馬流」の簡素な駅舎を過ぎ、それらしい木造の立て標識を発見する。
「掛樋と棚橋跡 秩父事件戦跡」と読める。とすると、お目当ての「散華之地」は?
*JR小海線の馬流駅。130年前の激戦地に囲まれている。
アウトランダーを停め、辺りを見回すが、何も見えない。その時だった。左斜めの台地のような暗がりから、1台の軽4輪が賑やかにエンジン音を響かせ、こちらに近づいてきたと思うと、あっという間にそばを抜けていく……。地元のクルマに違いないが、なんだか、あなたの探しているものはこちらだよ、と告げに来た、誰かからの使者ではなかろうか。
よし、いってみよう。アウトランダーのノーズを、賑やかに消えていった軽4輪の方向にあわせたのである。
このあとは、暗闇から浮かび上がる「散華の碑」と、それと一緒の浮かび上がって来たふたりの男の不思議な像をご覧いただきたい。左が菊池貫平、右が井出為吉。どちらも地元・北相木村から、秩父事件の首脳として参画し、最後まで闘い抜いた男であった。
*真っ暗な闇の仲、アウトランダーのヘッドライトとnikonのフラッシュライトで、どうしてこんなに鮮やかに撮れたのか、いまでも不思議でならない。パワースポットと呼ぶ所以です。
午後10時25分、練馬の自宅に帰り着いた時間である。
この1日は、長かったのか、短かったのか。どちらにせよ、まだ心残りだらけの『散華之地』との対面である。そこで、今度の土曜日(10月4日)、改めて飯嶋洋治さんを誘って、再訪するスケジュールを樹てた。今度は途中でクルマを乗り捨ててでも、十石峠への旧道を探し、可能な限り、奴らの見たもの。感じたもの、そしてやってのけたことに、すこしでも近づけたら……と願いなが.ら。 (この項、終わる)