わが青春のFISCO熱走編は、「FUJIカセットGT-1」カラーのEXAに乗り替えたことで、サーキット通いに一段と熱が入ってしまったようで、そのころの様子が、結構、生き生きと「ベストカー・ガイド」の1984年9月号からうかがえた。もっとも、そのレポートの主題は、どうやら、ぼくではなくマッチの「レースデビュー狂想曲」。題して、『マッチのマーチで筑波を走り、EXAのマッチとFISCOを走る』であった。
* * *
「なんとも、ご熱心なことで。ま、がんばってくださいよ」
半ばあきれ顔のスタッフの声援におくられて、6月は2週連続、レースに出場した。 ともに主催はニッサンスポーツカークラブ(SCCN)。
*こちらの黒いマーチは5速MTのスクールカーだった。
1984年6月17日の’84レース・ド・ニッポン筑波は、年に一度のお祭りイベントなので、レースをはじめた一昨年から必ずエントリーしてきた。
この年は日産大森が、とくにマーチのスクールカーを貸与してくれるというので、いっちょ、マーチレースでやったるか、というわけだった。
日産マーチレースは、その年から筑波サーキットのほか、岡山県の中山サーキット、山口県の西日本サーキット、それに宮城県のスポーツランド菅生の4つのサーキツトでワンメイクスレースとして開催されることになっていた。
で、レース前日の恒例日産レーシングスクールに臨むことにした。ともかく、マーチのP仕様には一度も乗ったことがない。どんなにパワーのないマシンとはいえブッツケ本番は、マーチに対して失礼じゃないか。
*何台抜けるか、と大きなことを言ったものの、結果は15位でした。(23)がぼく。
「アクセルを閉じるのは、第1コーナーのブレーキングと、第1、第2ヘアピンだけ。最終コーナーも3速で全開ですよ」
こう教えてくれたのは、星野一義選手とガンさんのどっちだったっけ。ここでアクセルはベタ踏みだぞ! そう絶叫しながら、100Rと90Rの複合コーナーに、ぼくのマーチは突入する。後輪はしっかり踏んばっている感じ。でも前輪はズルズルと外へ流れ、ほとんどグリーンのないスポンジバリアがグイグイと迫ってくる。でも我慢。ちょっとでもアクセルを戻せば、立ち上がりのパワーを失うことになる。そう自分にいいきかせるのだが、いつしか右足がだらしなくゆるんでいる。だから、タイムなんぞ、あがるわけはない。
20周ほど練習してからピットへ戻る。ベストが1分22秒10。
「もう1台のほうに乗ってみますか?」
と、日産大森の小室課長。ご好意に甘えて乗り替えることにした。前のマシンが4速ミッションまでしかないのに比べると、こちらは5速まである。
「いけそう!」
なぜいけそうなのか根拠もないままコースIN。3周目で前車のベストタイムを出し、4周目には21秒台へ。気分をよくしたところで、ふと前を行く黒いパルサーEXAに気づく。このマシンこそ、次の週、富士フレッシュマンに初挑戦すべく、特訓中の近藤真彦クンではないか。さらに前方にはマッチをひっぱるべく走行中の星野選手のサニーTS。ストレートではグンとパルサーにはなされるぼくのマーチ。ところがコーナーでは追いつく。とくに最終コーナーあたりだと、パスできそうではないか。
「マッチはまだまだな」などと考えながら走行を終了。
*国沢光宏クンの紹介でフレッシュマン時代のメカをやってくれた沼田クン。どうしてるかな。
*中谷明彦君も居合わせて応援に来てくれていたんだ。
あけて6月17日は生憎の雨。タイヤは? チェックしてみるとドライならなんとかいける程度だからさっそくNEWに交換した、とのこと。えッ!? 予選から皮むきしていないので行くのか!ガスは? と聞けば満タンにしましたという返事。それでなくとも50キロも重量オーバーなのに、どうしてくれるんだ、と嘆いたところで後の祭り。
予選は26台出走で19位。レースは10周。前半はモタモタ。やっと9周目あたりから全開のまま最終コーナーを抜けられるようになってから順位をあげ、最終周は15位になったところでレース終了。
このレースの結果を見て、実は新しい運命の糸で結ばれはじめていたことに気づく。なんと、3位に入賞しているのが、予選7番手からの田部靖彦という若いドライバー。もちろん、この時は顔を合わせた記憶もない。
■近藤真彦でFISCOは3万8000人の大観衆
筑波の余勢を駆って6月24日の富士フレッシュマン第4戦(といっても、雪にたたられてのやり直し戦だから正確には第2戦にあたる)へ。
もちろんFISCO入りはレース前日の6月23日。パドックはすでに同じ格好をしたローティーンの女の子であふれ返っていた。サーキットでこんな異常な風景を見たのははじめてだ。日産大森の関係者がぼくを手招きする。パドックの手前にある日産チームのガレージ控室へどうぞ、と。人垣を掻き分けて中へ。部屋の主は近藤真彦クン。19歳の若さが匂い立つ。ともかく、初めてのレース、誰かリード役をお願いしなくては、というので最年長のぼくに白羽の矢が立ったのだろう。
素直にレースに取り組んでいるのは、先の筑波で知っていた。でも、FISCOはどうなの?
「はい。ほかのレーサーに迷惑をかけてはいけないので、時間の許すかぎり走りこんだつもりです。そうですねェ、ここで230周はしました」
じゃ一緒に走りましょうと、並走することになった。ところがこちらの方が、マッチの走る後ろ姿に見惚れて油断した。ヘアピンでクルリと後ろ向きになったのである。
*1600‐B,EXAレースのドラーバーズ・ミーティング。異様な空気が支配した1日だった。
そして1984年6月24日、マッチはサーキットの戦士として、その第1歩を踏み出した。
当日の観客数は主催者側発表が3万8000人。サーキットが女の子の占領された、異変の日でもあった。パドックも人が溢れ、もうみんなが異常。せっかく早めに予選スタートできる位置にマシンを並べたのに、オフィシャルはなにを血迷ったのかマッチのクルマを中心に混雑している側から、どんどんコース・インさせてしまう。クレーム(文句)をつけようにも、こちらはヘルメットをかぶっているから大声もたてられない。やっとドン尻あたりからスタート。もう先頭に飛び出したグループに1周はハンディをつけられた勘定であった。
*⑲がマッチ。ヘアピンコーナーへのアプローチ。
ムカムカして1周し、ピットサインをみると、なんと、2分5秒台を知らせてくる(このタイム、トップクラスのもの!)。これは凄いぞ! おれもずいぶん速くなったもんや。あとはマシンを大切に……なんぞといい気分で予選15分を無事走破、予選結果の発表をゆったりとドライバーズ・サロンで待ったわけである。
1時間後、ライトグリーンの紙に刷られた予選結果をみて、わが目を疑う。なんと34位で予選落ちじゃないか!(出走40台)あの近藤真彦クンは2分08秒31で33位、ぼくは、それに遅れること0・04秒。ああ! なかよく、予選落ち。
*哀れにも予選落ちしたゼッケン55。
もっとも、マッチのほうはすべてがトレーニングとあって、P-1600Cクラスにパルサーでダブルエントリーしていた。そして予選29番手、決勝25位という厳しい戦いの洗礼を受けた。それは、つい先頃のぼくと、ほとんど同じ状況だった。
まだ20歳になっていない彼だが、ひどく先を急がされていた。つまり、一刻もはやくステップアップしなければならなかった。このあと、フレッシュマンの第7戦で2レースを消化し、彼は富士GCのサポート・イベントのJSSレースへとステップアップしなければならないように、周りの準備が進んでいたのだ。
第7戦 P-1600B 予選8位・決勝13位
P-1600C 予選17位 決勝12位
昭和60年 シルビアターボでJSSを4戦、グループA300キロ耐久と合計5レースを消化する。特に筑波のグループA耐久は、星野一義選手と組んでスカイライン・ターボで出走、69周目に消えている。トップを独走していた星野選手からマッチにバトンタッチしたところでフライホイールのボルトがゆるんでリタイアしてしまう。
JSSは富士を3戦、筑波を1戦したが2回リタイア。最上位は、11位だった。9月のJSS予選ではマシンを大クラッシュさせてしまう。
そうなると、マッチへの風当たりは厳しくなる。サーキットは、マッチ人気でとんでもない観客が詰めかけ、新しい騒ぎも起こる。JSSに出るのは、まだ早すぎる――そんな批判も出てきた。それからをマッチこと、近藤真彦はどう乗り越えたのだろうか。
間違いなく、マッチはひたむきに格闘していた。こちらが「ドン亀ドライバー」だったからこそ感じ取れる、不思議な連帯感。それがあたらしい関わりを招く……。
(以下、次回アップへ)
Posted at 2012/03/15 00:06:11 | |
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