ここでちょっと一服、と一休みするつもりが、嬉しいことに、そう簡単には行かせてくれないようです。
「筑波バトル」の舞台裏として、「リトルマガジン」の存在と、映像からはうかがい知れない編集部、技術部の「情熱」を紹介したところ、いろんな反響を頂戴し、こんなに愛情と共感と、親しみをたっぷりいただいたメディアがほかにあったろうか、と改めて認識させられたところです。
そんななかで、かつてはぼくの片腕(本人は両腕以上の存在と自負していたに違いない)大井貴之君から、緊急メッセージが入ったので、その内容からはじめます。当然、本人の了解は得ていませんが……(笑)。
――筑波バトルの原稿に赤入れさせてもらいます(笑)。
筑波バトルの第1回は89年3月号ではありませんよ。
いま、締め切り真っ最中で正確な号を調べている時間がありませんが、最初のバトルにオレは出ていません。提案者であるにも拘わらず田部、福井どころか小林里江ちゃんまで出ていて、オレは見学。かなり不満を感じていたので間違いありません(笑)。
確かスタリオンが出ていて、……ピアッツァも居たような。
ドライバーは中谷、伏木、田部、福井(守生=ミラージュCUPドライバー)、小林(べスモの経理ながら、ミラージュ、GOLFポカール出場)……黒沢さんも出ていなかったと思いますよ。是非調べてみてください。
バトルの元祖はギャランVR4 vs レガシィの対決。
1台ずつ走らせていては尺ばかり食ってしまう上、映像としての表現力に欠ける。
月刊の『ベストモータリング』がそんなことをやっていては、隔週でアップデートされていく『ベストカー』に太刀打ちできない! どんどん結果を出していくこと。そしてそれを映像化しなければビデオである意味がない。ということで新しく登場したレガシィをライバルのギャランVR4と直接対決。
その後の企画会議で複数台数による「バトル」を提案。というか、正確には「広報車でレースすることは出来ないけど、そういった感じのことが出来ればいいんですけどねぇ」と提案。すると「やればいいじゃないか!」と正岡編集長が答えたんです。
そして最初のバトルに漕ぎ着けたわけですが、最初のウチは車載カメラを載せるのは主役のみ。
「そんなにカメラを増やしても繋がらない!」とディレクターに却下され、積んだとしても準主役まで。ああ、ベストモータリング創生期はディレクターとの戦いでもありました。
――というわけで、第1回バトルの号を探してみてください、という依頼。
大井君の発信時間は午前5時49分。で、こちらから返信したのが、午前6時57分。
(ぼくから大井へ)おはよう。随分と早起きですな。
うん。ぼくも書きながら、前にチェックした時、カタコトの日本語でしゃべれる外人さん(名前が出て来ん)、里江ちゃん、それにぼくの出たやつがあったはずだが、あれは、バトルとよべるレベルじゃなかったし、真似ごととして、ノーカウントにしてきました。
(大井からぼくへ)おはようございます。
いま、DVDの締め切りが迫っているので会社です。相変わらずな感じでw。
この件はどうしようかと思ったんですが、間違いを指摘することが第三者の目にどう感じるか……とりあえずメッセージを送ることにしました。ちょっと大人になったんですよw
そういえば正岡選手も走っていたんでしたね。たぶん外人はデーブスコットだったような。懐かしいですね
いろいろ思い出してきますね。伏木悦郎さんが「ドリフト入門」の企画を提案し、オレが黒子ドライバーを務めました。それが4月号。88年の1月末、オレがベストカーからベストモータリングに移ってすぐのロケでした。
●「ベストカー」から移籍してきて最初の仕事が撒水車の運転だった大井君
場所は筑波のジムカーナ場。ソアラとAE86が現役だった時代です。まあ、それはいいんですが、彼はドライバーとして中谷さんを妙にライバル視していましたね。、それは勝手なんですが、問題はコメント。とりあえずでも何かしゃべってくれれば編集できたんですが、完璧にしゃべろうとして延々と最初の部分を繰り返して……。(正岡註:人はそこから成長する!)
いろいろなことがありましたが、オレ的にはビデオマガジンが生まれ、そこから変化(進化)していく様を見せても良いんではないか、と。後半になるとドロドロし過ぎて書けることは少なくなってきますが、だからこそ創生期のピュアな試行錯誤はネタになると思います。
(ぼくから大井へ)今、チェックがおわりました。
伏木君が自分のブログで、書いている(ぼくのレポートに触発され、当時の反省をこめて)けど、早いクルマが一番ということで、谷田部のテスト、筑波の実戦バトルロイヤル、というかたちでやっていました。中谷がメインテスターというスタイル。
創刊して10号目の1988年9月号でした。題して「ニューカー・バトルロイヤル 無差別級王座決定戦」(筑波はウエット)。ドライバーは中谷、伏木に土屋、黒沢琢弥、それに当時F3レースに参戦していたD・スコット、田部と小林里江ちゃん。MCが田中律子。ぼくが走ったのは、もっと前の号でした。
●最初の1周目、ダンロップ下を伏木スタリオンがトップを快走。ドライバーにF3参戦中のD・スコットの顔が見える(BM1988年9月号より)
クルマはカペラ・アンフィ二に中谷。ドリドリがスカイラインGT-S。琢弥がシルビアK’s。これを再生してみると、一応バトル形式だが、あれは模擬レース。これでは意図は悪くないが、(ベストカーの企画と大差ないと反省したよね)およそ緊張感に欠ける。そして練りなおして「筑波バトル」に進化していったのかな。
つまり、それからの伏木君には企画ものに専念してもらい、「走りの企画」はきみがリーダーシップを発揮して行く。そんな経過ではなかったかな。もうちょっと精査して、この後に生かします。ともあれ、べスモ消滅でガッカリしている全国の仲間に、新しい元気を送りましょうよ。この号が、ぼくにはとって、記憶にないのはそれなりの理由があった。
それよりも89年新年号でやった《宿命の対決》。土屋と中谷がエビスサーキットでやった真剣勝負。これを筑波でやったら、とそのとき、膝を叩いたことの方が、大事でした。特に土屋くんの気迫あふれるドライビングとしゃべりの絶妙さ。失敗したら、ヘルメットの上からポリポリと掻いてみせるユーモラスなセンス。車載カメラあってこその、新しい魅力がそこにあるじゃありませんか。
いま、改めて1989年3月号をチェックしていました。この月にフェアレディ MX-5、NSXが登場。そこから、スポーティカーブームにターボがかかってきたんだね。なお、きみが「バトル」の元祖として指名したギャランVR4 vs レガシィの対決の号は、その次の号、1989年4月号でした。
さて、もう一人。べスモの「バトル」企画についての発言者がいました。中谷明彦君です。
べスモの休刊が公になり、べスモBLOGで「思い出」を募ったところ、中谷君が寄稿してくれました。
――ベストモータリングの創刊を準備されていた初代編集長の正岡さんからお話をいただいた時に、ついに待望の媒体ができる!と胸が躍った。
それ以前に僕はカートップ誌の編集部員として筑波サーキットで市販車の比較テストをする時にレース形式で競いその行方をレポートする「CTグランプリ」なる企画を手がけていたのだけど、写真と記事だけでは伝えきれない事象がたくさんあって動画媒体でなければ事実を正確に表現できない、と考えていたからだ。
ベストモータリングでは「バトル」という名でその願いは実践され多くの真実を伝えることができた。
しかし後年、映像媒体の持つ危険因子である「編集」や脚色、脚本による「情報操作」が生まれ娯楽性は高まったと思うけど真実を正確に映し出せなくなってきていたことに大きな不満を抱いた。そんなことを僕の好きなファミレス(^^;でベスモ編集部スタッフと7時間も論じたこともあった。
僕は妥協も迎合もしないことを理念としてベスモを去った。正岡さんからは「将来レースを引退したら貴方が編集長をやればいいんだよ」と言葉をいただいていたが、そのベスモがなくなってしまうのでそれも叶わなくなってしまったね。
でもここに寄せられている読者の皆さんの言葉を見ていると、やはり動画で事実を伝えることの必要性もまた強く感じている。
そして、その結びとして、中谷君はこう書いています。
結局、ベスモ休刊を知らせてくれたのは田部君だけだった。最後のロケを見に行ったけど、帰りに正岡さんが「こんなベスモなら無くなって当然。毎月見てくれていた読者に申し訳なかった」と言われたのが象徴的だったね。
どうやら、「ファイナルバトル」について、ぼくの真意を書かざるを得なくなったのです。当ブログを引き受けたのも、そのつもりが出来ていたからです。
「筑波バトルの言いだしっぺ」については、前からぼくはこう明らかにしています。
「筑波バトル」の起源について、当時のかかわった人には、それぞれの思い入れがあって、それが自分の提案から生まれた、と言いたい気持ちはよくわかります。創刊時のふたりの専属キャスター、伏木悦郎、中谷明彦の両君は、当然、提案者になりうる立場にいたわけです。が、取り組んでみて、それをシステム化し、進化させ、それらしい形に育て上げたのは、誰でもない、当時、べスモを何とか「クルマメディア」の盟主にしたいと燃えに燃えていた、編集部、技術部の連中です、と。