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正岡貞雄のブログ一覧

2011年07月28日 イイね!

元祖「不死鳥伝説」(承前) ~ガンさんの「ドラテク塾」開講への道③~





約束の時間が迫った時、ぼくの携帯電話が震え、「黒沢元治」の文字が浮かび上がる。
――あぁ、ガンさんです。いま3号線(東名高速から首都高速で都心につながるルート)が混んでいまして、もうすこし、時間がかかると思います。お待たせしますが、もうちょっとです。

黒沢元治さんは、いつでも、どこでも、どんなに親しい間柄になろうとも、礼儀正しい人である。「ご相談したいこともあるし、そちらへ伺ってもいいか」とこちらから、箱根のガンさん宅に電話を入れたのが、7月18日(月)の朝でした。17日がフォーミュラーJAPAN戦だったので、月曜日なら在宅しているはず、と計算して……。

ところが、鈴鹿なんですよ、と黒沢夫人が申し訳なさそうに電話口に出たのです。なんでも、20年つづいているNSXオーナーズ・ミーティングがあるので、昨夜のうちに、いそいそと出かけたという。その様子が手に取るようにわかってしまうのです。
 

*ニュルブルックリンク北コースのパドックにて

その夕方、当のガンさんからきっちり、電話が入るところが憎い。こちらの要件を伝える前に、これから、北海道の鷹栖(HONDAのテストコース)へ行かなければならないが、週の後半か、次週の前半なら、こちらから出向きますよ、といってくれるのです。そこで改めて「お逢いしたい」意図を伝え、7月26日のお昼のランチをご一緒しよう、という約束が成立していたのです。
「場所は九段の《グランドパレス》か、東京タワー真下の《東京プリンス》のどちらにしましょうか?」「じゃあ、東プリにしますか」
グランドパレスは、富士スピードウェイの30度バンクの大事故のあおりを食ってレース界から遠ざかっていたガンさんが、血を吐くような真実の告白を、ぼくらにしてくれた場所。東プリは、とにかく便利。IC至近、パーキングエリアが地下に潜らずにすむ。それに五木寛之さんとレーシングチームを結成した時、会合を重ねた思い出深いホテルでもあったのです。

午前11時50分。東京プリンスホテル1Fのもっとも奥まった場所にある「和食処・清水」に、ガンさんが顔を見せた。この人が現れると、あたりがパッと明るくなる。信州蕎麦と海鮮丼を組み合わせたランチをオーダーしたところで、早速、会談、開始。

要点をまとめると、次の2点になります。

①ベスモ消滅によって、せっかく積み重ねてきた「ガンさんの走り映像」「ドライビング・テクノロジーに関するさまざまな映像」は、どうなるのか。生かしていく方向を明示してもらえないか。管理元(講談社)の意向を示してもらえないか。
②「ドラテク特訓道場」とか「ガンさん塾」をやるのなら、もちろん、全面的に、可能な限り協力するが、実は10年前にまとめた『ドライビング・メカニズム』(勁草書房刊)は、すでに10刷りを重ねており、今後はここに展開している内容をさらに噛み砕いたかたちで、伝えていきたい。



『ドライビング・メカニズム』の話になると、ガンさんのモチベーションはすこぶる高くなる。クルマの運転に興味があり、かつ上手になりたいと思うのなら、これまでのドライビング解説書が、技術論に終始していることに疑問をもってもらいたい、というのだ。ステアリングの握り方、正しい運転姿勢、シフトダウン、ヒール&トウ……そのテーマはいろいろあるが、どれもが「なぜ、どんな理由によりそうすべきなのか」の解説と、人間の生理的限界に関する言及が欠落している。分かりやすくいえば、電光石火のシフトダウンの技術を身につけたとしても、その必要がない場合には無用の長物で、なぜ電光石火のシフトダウンをするのか、その理由を知るべきじゃないか――ガンさんは、そう言い切るのです。いいなぁ、この熱気。

 そこのところを、もうすこし分かりやすく、自分の言葉で伝えていきたい。その想いが、年々、深まってならない、というのです。


*ポルシェ959の認証タイヤとしてRE71が認められるまでガンさんは、このニュルに何度通ったことか(『ドライビング・メカニズム』より)

そんな会話をしながら、甦って来る記憶があったのです。その「ガンさん本」に、五木寛之さんから以下のような一文をいただいたのを思い出していたのです。

黒沢元治さんは本能的な天才ドライバーである。
そして同時に卓抜な自動車理論の追求家でもある。すぐれたドライバーは、野生を秘めていなければならない。しかし、知性をもたぬドライバーは、車と対話することができない。黒沢さんはその両者をかねそなえた人間的ドライバーである。
黒沢さんのひと言ひと言に、長い豊かな経験と、思索が息づいていることに私は深い共感をおぼえさせられた。この一冊を読みこなしことで、車を愛する人たちは、より高次元で車との共同生活をスタートさせることになるだろう。(五木寛之)


*五木寛之監督のもと、マカオGPに遠征。ギアレースに出場。

ベストモータリングが消滅してから、逆に、黒沢さんのことを知りたがったり、一度でいいからその走りを自分の目で確かめ、出来ることなら特訓を受けたい、とか、さらにニュルブルックリンクを攻めるガンさんの走りを、コース全体を通して映像で見てみたいが、どうやれば手に入るのでしょか、などという若い人たちの声が、直接、ぼくの手もとに届くことが激増している。なかでも、当「みんカラ」ブログと関わりをもつきっかけとなった25歳の「霧島」君などは、ガンさんの「ニュル・スーパードライビング」の虜になって、以下のような、見事なレポートを、短時間に仕上げてしまったのです。ぜひ一度、読んでやって欲しい。将来、車メディアを舞台に(いや、ほかにもイロイロ活躍できるはず)、花を咲かせてくれることを期待させる、新しい才能です。

https://minkara.carview.co.jp/userid/509662/blog/

 ガンさん、71歳。視力、いまだ健在。駐車場での別れ際、一枚、その姿を収めるべくオリンパスの1眼レフのデジカメを向けたところ、そのガムテープは何?と訊くのです。バッテリーを抑え込むところのバネが壊れたのでボディと同じ色のガムテープで応急処置をしているのを、あっさり見抜かれたのです。ガンさんの視力、健在なり。そんなガンさんの不死鳥伝説は次回から、じっくりと書きこませていただきましょうか。
Posted at 2011/07/28 01:53:36 | コメント(3) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年07月23日 イイね!

「新・編サン」が懲りずに突入した茨の道!?




編集長になって4冊目のベストカーガイド5月号(1981年)は「ソアラ2800GT」の登場で大はしゃぎでした。

徳大寺有恒さんがヨーロッパ仕様のソアラで、アウトバーンを舞台にメルツェデスやBMWと熱闘した一部始終を誇らしげにレポートし、一方、国内では、谷田部テストとあって、竹平素信さんが、特にスピードリミッタ―を外して最高速計測に挑む。203㎞/h! なんと、この当時としては信じられない、ノーマル国産車による時速200キロオーバーの世界に突入したのです。

かと思うと、ジャーナリストの内藤国夫さんを起用して、当時の「日本一速い男」星野一義に、「F1チャレンジの夢」に失敗した苦い経験を告白させるなど、なんとも賑やかで、活気に満ちあふれていました。
そんな号だから、もう売れること、間違いなし。となれば、編集長の特権で、だれも読んでくれなくてもいいから、少しくらい、好きなことをやってもいいだろ?

というわけで、モノクログラビアページで3ページを使って、ぼくの「初めての富士スピードウェイ挑戦報告」をはめこんだわけです。それが、実は当ブログの滑り出し「ファーストラン」に次ぐ「青春のメッカ」でお見せした、徳さんからレンタルした「白の911ポルシェ」と小雪が舞っている「受付風景」に繋がるわけです。


*実は徳さんが海外取材で留守にする間、MTに慣れるようにと……。


*ベストカーサニーはなんと1100ccの排気量で他のマシンより100ccも小さかった

 タイトルやら、思いっきり関係者の「ガン首」を詰め込んだフロントページをめくると、「スピンをして初めて知った、サーキット走行のABC」という小見出しにつづいて、ぼくの独白調の文章がはじまります。

――人間、これで1巻の終わりっていうとき、どんな ことを考えるんだろうか? たとえば、具志堅用高がフローレンスにKOされたよね。 ポカスカ殴られて、マットに尻もちつきながら、何を思ったか? すごく興味があるんだけれど。

それというのも、編集部の連中におだてられて<日産レーシングスクール>に正式入学したのはいいが、ピットから飛び出したすぐの第1コーナーで大スピン。
あとで考えてみれば、タイヤもあたためないうちから全開で突っこめば、だれだってクルッといくよナ。 そんなこともわからず、3速から2速へヒール&トウで落としたら、あっという間にクルマは左にもっていかれ、「いけねェ」と思うだけで右足は金縛りさ。チョンとアクセルを踏んでやりゃあ、どうってことなかったのに、それができないから素人は悲しいよね。

 ほかのクルマにぶつからないように、ぶつけられないようにと祈ったね。あとはクルマに身を任せて止まってくれるのを願うだけだった。その時、なぜか「2月28日が編集長の命日!」ときめて、喜んでいた憎い編集部の奴らの顔が、一つ一つ浮かぶ。

 いやぁ、スクールの受講生はみなさん速いですな。スピンしたBCGサニーをたてなおしてコースに復帰したけれども、バックミラーに映る後続車がみるみる大きくなってくるんだからいやになっちゃうぜ。 ぼくはこの日のために、3日前から愛車のAT車(そう、あの悪名高きアルピナTAXI)に乗らず、マニュアル車に乗り換え、クラッチのミートタイミング、シフトワーク、ヒール&トウなどの練習をこっそりやっていたんだぜ。これで足慣らしは充分。
とはいうものの、やはり緊張していたんだな。東名を走りながら、音楽を聴くのに、ハードなやつか、ソフトな曲でいくか迷ったものだ。ジャニス・イアンかペリー・コモで行こうか?

ICを降りたら雪がチラチラ
 御殿場ICを降りたら雪。いやな予感がしたね。風にあおられて道から雪が舞い上がってくる。でも、FISCOの受付に着いたら、みんな熱心なんだね。40台近いクルマがすでに行列をつくっていた。
もっとも、次の日がフレッシュマン第1戦。予行演習にもってこいの機会だ。そのくらい、いれこまなければ強くなれないのだろうか。それにみなさん若い。20~24歳。45歳のぼくがマジにやるのも、なんとなく違和感があるけれど、レースも恋も年齢じゃない。要するに心の問題だ……と己れを励ましながら、ゼッケン46をもらって、ゲートをくぐったわけさ。



 さて話を直線1・5kmにもどそう。
「2周したらピットに帰ってきてくださいね。プラグをBP9EVと交換するから」当日のピットマンをつとめるメカ担当のマス坊の指示を思い出しながら、直線から第1コーナーへ。この時のブレーキングポイントを確認しながら。で、1周してピットに帰ると、マス坊の動きの生き生きしていること。レンチを巧みに操って、プラグを交換。「さあ行け!」と気合いをかけてきた。
 ところが、コースインしてもいっこうにエンジンがフケ上がらない。5000回転が精一杯。
「こりゃ、ダメだ」
 再びピットインして、点検したところ、1気筒が死んでいて、プラグがびしょびしょだった。なにせ、1年半前に組み上げてから、スリーテックに預けっぱなしだった。クルマの方だって、不機嫌になっちゃうよ。

エンジン快調、コンディションも最高なれど
昼休みを利用して、どうやら、わがBCGサニーは復活してくれた。午前中は3周しただけで終わってしまったが、さあ、これからが本番だ! いよいよタイムアタック開始だ。ストップウォッチ片手に、マス坊がいってくれた。

「局チョー、前の編チャンは2分20秒台でしたよ。負けちゃダメですよ」                        
 冗談じゃない。腕の違いを見せてやろうじゃないか。
1周目、アドバンHF-Rのすごいグリップに感嘆しながら、各コーナーをフルスロットルに近い状態で抜けたつもりで、直線へ。ピットを右にチラリと見遣りながら、グァーンと迫ってくる第1コーナーへの闘争心をかきたてるつもりで、もうこれ以上踏めないくらいアクセルを踏んづけてやる。
タコメーターは、7000回転のちょい手前、速度計は170km/hを越していた。4周したところで、再びピットイン。「調子はどうですか?」とやや興奮気味に近づいてきたマス坊、「直線のブレーキングをもっと遅くしなくちゃダメですよ。あと15mくらい、左の塀がきれるあたりまで我慢して!」
「おれを殺す気か!」
「みんながやっているんだからできないはずはないでしょう!」
「ところでタイムは?」と聞いて正直おどろいた。
 1周目、2分8秒75。2周目、2分7秒96。3周目、2分6秒79……と1周走る毎にタイムが1秒アップしているではないか。「よし、行くぜ!」
特に心を配ったのは、100Rから250Rにかけて車首をインにむけながらヘアピンに突っ込むときだ。TS、T、Pの3仕様のクルマが45台。ある時は競い合い、ある時はお互いをかばいながら、富士の裾野で一つに融け合う。これだよ! モータースポーツの愉しさは。
 結局、8周目に出した2分1秒64が最高タイムで、あとは2~3秒台をウロチョロしていた。無責任にもマス坊は「2分の壁を切りましょう」とハッパをかけてくれたが、緊張感がつづかず、ギブアップ。2分を切る楽しみは、次回のレーシングスクールまでとっておいた。
辻本校長が最後にマル秘テクニックを教えてくれた。
「第1コーナーに入るとき、どこを見ていますか? 奥を見ちゃダメ。路面を見ていれば怖くないはず。これだけでも1秒は短縮できますよ。あとはジムカーナなどでGをうけながらも、冷静にコントロールする技術を磨くといいですね」
この45歳、たとえどんな茨の道であろうとも、トコトン行ってみせようか。
*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
 このレポートを皮きりに、「45歳の挑戦」「どん亀奮闘録」「熱走報告」とか、その時の気分次第でコロコロとタイトルを変えながら、ぼくの「レース日記」を、秘かにベストカーに記憶させつづけてきました。その意図するところはなんだったのでしょうか。


*若者の間にまじって受講することからはじめた「茨の道」

 一つ、自信を持って言えることがあります。読者の真横にいて、言葉をかけあうのに素直に入れる機会づくり……ちょうど国道29号の戸倉峠越えでS君と知り合ったときのように。

 それともう一つ、クルマ雑誌の編集者は新車試乗の機会に恵まれている。そんな時、今のドラテクのままでは、いささか恥ずかしいじゃないか、と気づいていたことです。
そしてもう一つ、まさにそうした時期、不運なアクシデントによりレース界から追放されていた黒沢元治さんと、劇的に出会うことができたことでしょう。それはこの国のクルマメディアはもとより、自動車メーカーやタイヤメーカーの開発にも、大きな収穫だったのです。


*黒沢さんも心配してかけつけてくれた
Posted at 2011/07/23 23:27:07 | コメント(2) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2011年07月21日 イイね!

国道29号線 「わが闘走・ベストカー版」のはじまった日


*『ベストカーガイド』の創刊メンバー。右端が当時新入社員の勝股優君(現・社長)で、後ろに勢ぞろいのクルマが凄い!

もっとも直近にとどいた「ベストカー」(2011年8月10日号)の巻末を開いてみると『音羽の不夜城より』と銘打ったコラムが常設されています。編集スタッフの7~8行のコメントで構成された、読者への情報発信基地です。
ぼくの編集長時代は『音羽1丁目』でしたから、いまの編集長の、伝統を守る、健気な心遣いに感謝したくなります。

遡ること、30年。1981年2月号の『今月の音羽1丁目』は、やむなく編集長を兼ねることになったぼくの書いたものです。「編集長就任のあいさつ」のつもりが、こんなエッセイ風な呼びかけになっていました。編集の工程から逆算すると、どうやら80年の11月に書いたものでしょう。

――姫路と鳥取を結ぶ29号線は中国山脈を越える。だから、アップ・ダウンとカーブが適度で、走り屋たちが好んで挑むという。
1年半前、ぼくもその一人だった。BMWライト6エンジンのご機嫌な音楽に聴きほれていたら、そばをカローラLBが抜けていったのです。一寸見はキビキビした走りっぷり。で、うしろからマークしてみた。すぐに落胆してしまった。タコメーターなしの4速マニュアルシフト車の2ndをやたら引っ張る。(オーバーレブしたらどうするの?)コーナーの頂点でブレーキングする。(もっと手前で減速してやらないと、クルマが可哀想じゃないか)


*S君と知り合ったときはこのBMW320。アルピナまがいのストライプが今となっては恥ずかしい。  


*国道29号線旧道は鳥取県側から見ると3本あるように見える。(Pecker HPより) 
                          
 ブツクサ言いながら、いけるところでサッと前へ。それからはお手本気取りのクルージングをみせ、戸倉峠を下りたところで「お茶でも喫む?」とサイン。――こうして未知の青年と知り合ったのですが、コーヒーを喫みながら間違っている走法を指摘したところ、だれも教えてくれないから、あれでいいと思っていた、とのこと。

 1か月後、そのS君から便りがありました。あれから言われた通りを心がけるようになり、運転そのものが楽しくなった。実は、あの日、鳥取にいる恋人に逢いに行くところだったけど、最近はその恋人も安心して助手席に乗ってくれて、近く結婚できそうだ、という嬉しい報告。

 このたび、編集長を兼ねることになりました。難しい話は抜きにして、山のドライブインあたりで一緒にお茶でも喫むような気楽な雰囲気で、みなさんと誌面で交歓したいと望んでいます。ちょうどS君と知り合ったときのような感じで……。

* * * * *

 この《新・編集長》の抱負と方法論。今のぼくの想いと寸分、変っていないのがうれしいような、哀しいような。しかし、何の目的でぼくは姫路から鳥取へ単独走りをしていたのだろう。恐らく、関西関係の広告スポンサーまわりを済ませたその足で、鳥取の民窯・牛ノ戸焼の窯場へ向かっていたに違いない。青と黒の染め分け技法を見るために……。

77年の創刊以来タッグを組んでいた高橋克章君(すでに故人)を、講談社の専務だった久保田裕さんが「スコラ社」(この出版社もすでになくなり、久保田さんも2010年、彼岸へと旅立った)を興すにあたって、三推社(現在は講談社ビーシーと改称)には編集のプロが2人もいるから、と引き抜いていった経緯があって、専務取締役&編集局長でありながら、編集長を兼任する破目になったのです。だからそのころのサーキット仲間はいまだに、ぼくの立場がどう変わろうと、「局長」とよびます。さすがに最近はすくなくなりましたが……。

 改めて、現場を取り仕切ろうと心を傾けはじめて、変化があった。なにかがメラメラと燃えはじめたのです。そのひとつが「富士フレッシュマンレース」との関わりでしょう。やがて「ミラージュ・カップ」にステップ・アップし、そのなかから「ビデオマガジン創刊」というアイディアが生まれたと言い切っていいでしょう。

そのあたりの記録は、ぼくのパーソナルHP「正岡ワールド」に収録してきましたが、それらにいまの視点を加えるなどして、大幅に加筆していくのが、この『つれづれなるままに クルマ一代』となります。



創刊前夜――『ベストカーガイド』はこうして誕生した!
昨今の自動車雑誌はかつての勢いを失い、地盤低下が著しい。その中にあって「ベストカー」は業界首位の座を、熱い読者の支持とスタッフのたゆまない努力によって、守り続けている。創刊責任者として、感謝の意をこめて、30年前の誕生前後の「原像」を記すこととした。

こんなタイトルとリードコピーを添えて、ベストカー創刊30周年を記念して発行した『ベストカーCHRONICLE』に寄稿したものを参考にして、さまざまな出来事、関わりを点検し、いささか詳しく踏みこんだ記録として再生させてもいいな、と考えるようになりました。次の更新では、そこからはじめましょうか。
Posted at 2011/07/21 15:40:56 | コメント(1) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2011年07月20日 イイね!

『剣道』というキイワードの私的ドラマ






木剣を青眼にかまえた、ちょっと小柄な剣士。当時、19歳、剣道三段。1955(昭和30)年の秋、早稲田大学剣道部道場で撮ったものです。その時代のぼくの名札が、いまもなお、大学道場の壁板に、大事に掲げられたままで、それを去年の秋に見たときは、さすがに胸にキュンとくるものがありました。
この翌年の秋には四段に昇段。おそらく、この時代、20歳の剣道四段は数えるほどしかいなかったはずです。なにしろ、柔道と剣道は、太平洋戦争の終結後、連合国軍最高司令官総司令部により、禁忌の武道に指定され、柔道は昭和25年に、剣道は昭和28年に「格技」という名でやっと「禁」がとかれたのですから、そんな時代に秘かに剣道をやっていた少年なんて、ある意味ではたいへんな貴重品だったわけです。

これまでのぼくが「剣道」にかかわっていた話を、文章にするのははじめてだし、ましてや剣道着姿の写真を公開することもなかった。それが、なぜ55年も経ったいまごろになって? 自分でも不思議な気がします。べつに隠していたわけでもないのに。

きっかけは、ガンさんの「全国行脚・ドラテク特訓道場」開講への道に取り組んだことのようです。その主役・黒沢元治さんを、幕末の江戸三大道場主である、北辰一刀流の千葉周作に見立ててしまうところに、ぼくの生まれ育ち、習癖とかがつい覗いてしまうな、と感じ取ったからです。

「全国行脚」「特訓道場」「特訓塾」というボキャブラリーを好んで使うこと自体が、水戸のご老公とか、武者修行する武芸者を連想させたがっているわけですが、ドライビングテクニックを磨くなどということ自体が、つまりそういう匂いを、もともと背負っているわけでしょう、と言い訳しながら、この「プロジェクト」の相談相手、波田昌之さんが萩(山口県)在住と気づくと、そうだ、千葉道場のライバル・神道無念流(齊藤弥九郎)の「練兵館」からは桂小五郎、高杉晋作が輩出していたぞ、などと連想の翼が広がる。

剣道=ドラテク。その親密な関係によろこんでしまうのです。

ちなみに、幕末期に隆盛した江戸三大道場のもう一つは、鏡神明智流・桃井春蔵の「士学館」で、その塾頭が土佐藩の武市半平太だった時代があり、中岡慎太郎、岡田以蔵もここで剣を磨いています。「技」の玄武館、「力」の練兵館に対し、「位」の士学館とその特徴づけられていたそうです。


*いまはもう解体された「講談社剣道場」にて。左が正岡四段

そんなわけで、今回は剣道の話にお付き合いを。ま、これはこじつけかもしれないが、もしぼくが少年時代に剣道と触れあっていなければ、恐らくこの世に「ベストモータリング」は誕生しなかったろうし、そうなれば、「ガンさんドラテク・特訓道場」も存在しなかったかも、という「私的ドラマはいかが?」という次第です。

ぼくの「プロフィール」をご覧いただければ、そこに「北九州市八幡東区生まれ」と明記してありますが、その町で育つということは「八幡製鉄」(今の新日鉄八幡)と関わりなしには行かないのです。

高校1年になった春、「文芸部」に入ったその足で、八幡製鉄の剣道部の門を叩きます。進学した高校にはまだ剣道部はなく、ましてや正科の体育科目に柔道はあるのに剣道は入っていない。じゃあ、実業団の剣道部で教えて貰えないか、と。そのへんは、ちょっと変わった少年だったかもしれません。
最初はどうしたものかと、困った顔の剣道部の方たちも、自分から剣道を教えてくれとやってきた少年を追い返すわけにもいかず、なんとなく出入りするのを黙認する形になったのです。幸い、兄が中学校で使っていた剣道具、竹刀、剣道着があったので、それを持ち込む。
 
以来、3年間、週2回の稽古をこなし、3年生の夏には、北九州の高校生でただ一人の「初段」を頂戴したのですが、周囲では変ったのが一人いるな、程度の出来ごとでした。


*八幡製鉄の道場に入れて貰ったころ。高2かな?

1954(昭和29)年。早稲田大学教育学部に入学。体育の科目があって、どれかを選ばなくてはならない仕組みでした。
野球をやりたいな、と思いつつ学部の事務所に行くと、そんな人気科目はとっくに満杯、じゃあどうしょう、となったとき、「撓(しない)競技」という文字が目に入ったのです。訊いてみると、フェンシングの格好をして、袋竹刀で剣道らしきことをやる、との説明。大学にいってまで、剣道をやる発想はなかったが、授業のなかでやれるのなら、それもいいな、ということで手続きをし、後日、体育館の2階にある会場にいってみると、そこは剣道部とフェンシング部が相互に使う道場でした。ちなみに、昨今の早稲田大学剣道部は強い。平成22年度は男女とも、大学日本一の座を獲得しています。

さて、「撓競技」の授業も終わって、借りた用具を脱いでいると、剣道部のマネジャーと名乗る先輩学生がやってきたのです。さきほど、助手として撓を合わせてくれた方です。圧倒的にぼくの方が強かった。
「君は有段者か?」
はい、と答えると、そのまま剣道部室に拉致され、入部を勧められたのです。この時代は、有段者の新入部員は皆無で、大学に入ってから剣道をはじめるのが普通で、有段者の新入部員はぼくが第1号だったのです。すぐに1,2年生による関東学生新人戦があり、3位に。秋には2段の昇段試験に合格。3年の冬にスキーに行って、不用意にも左足首を骨折、それでも4段の試験はパスして、剣道部副主将の役割だけは果たしたものです。で、就職は出版界で唯一、剣道の道場をもっている講談社へ。つまり、「剣道」というキイワードが、ここで働いている。入社してみると、「お前さんは剣道で身体を鍛えているから、週刊誌勤務を命ず!」。
その年、講談社は「週刊現代」と「少年マガジン」の2誌同時創刊というヘビーな年で、その渦の中にいきなり抛りこまれたわけです。
そんな部署に配属されたのでは、剣道の稽古なんてほとんど出来るはずがない。それでも実業団の大会には狩り出され、関東実業団大会では中堅で出場、4勝してチームを3位にまで押し上げます。

後年、病に倒れられた野間省一社長をお見舞いにあがると、きまってこう激励されるのです。
「正岡、剣道、やってるか?」
野間社長にとって、ぼくはいつも剣道が強い若手社員だったのでしょう。
そのためもあって、作家の三島由紀夫、五木寛之さんが講談社道場で稽古をしたいと希望された時の相手は、決まって、ぼくが指名されたものです。


*昭和40年(1965)7月28日 自宅で(講談社刊 三島由紀夫短編全集6より)

三島さんには大学剣道部を舞台にした「剣」という作品があり、彼が渋谷警察署の道場で稽古する日には、ぼくが同行することもあり、その労にこたえてか、「朝の純愛」という短編を、「日本」に寄稿していただく。こんなこともありました。渋谷署での稽古の帰り、誘われて道玄坂をご一緒にぶらり歩き。途中の洋品店に立ち寄ると、これが似合いますよとアイリッシュのネクタイを選ぶのです。いつも稽古台になっていただくお礼です、とにこやかに破顔する三島さん。1年後、三島さんは割腹自殺。そのニュースに接した時、偶然にもその日のネクタイは彼にプレゼントされたものでした。深紅の色をした、その色合いが、今もぼくの目の奥に刷り込まれています。


*五木寛之さんとヨーロッパ迷走3000キロの旅をご一緒に(成田空港にて)

五木さんは、お父さんが師範学校の教師で、少年時代はよく剣道の稽古に連れて行かれたそうです。そのことを書いたエッセイにグラビアページを添えたいと言うので、道場で撮影。そのときの上下が白の剣道着姿は、まことに凛々しかった。

「週刊現代」「日本」「週刊ヤングレディ」再び「週刊現代」「月刊現代」の各編集部から「社長室秘書」を経て、関連会社を興し「ベストカー」「ベストモータリング」と45年間に及ぶ編集者生活。

それも考えてみれば、高校1年生で、禁忌の武道・剣道に惹かれたことからはじまったひと筋の道――実はそれと似たようなことを、ぼくは45歳になったところではじめてしまうのです。
それが、次のテーマと続いていくのですが、フルフェースのヘルメットをかぶってシートに縛りつけられる瞬間が、剣道の面をかぶって、いよいよ剣をまじえるために蹲踞(そんきょ)の姿勢に入った時とそっくりだ、と驚く日々がはじまるのです。


*剣道の面を被ったときと同じ締め付け感がいい。91年11月の菅生500㎞耐久を
大井貴之君と組んで参戦したときのもので、これが実戦レースでのラストラン
Posted at 2011/07/20 02:52:15 | コメント(3) | トラックバック(0) | つれづれ自伝 | 日記
2011年07月18日 イイね!

ドライビング・イズ・アート ~ガンさんの「ドラテク塾」開講への道②~





ベスモが船出してしばらくは、徳大寺有恒、黒沢元治の両大御所には創刊号から欠かさず出演願っていたものの、「ベストカー」との兼ね合いもあって、主軸はあくまでも専属キャスターに抜擢した若手の伏木悦郎と中谷明彦、というスタンスをとっていました。
だから今でも、創刊時の話になると、ガンさんから揶揄されてしまう。「あの頃、年寄りはいらねえって、冷や飯を食わしたのはだれだっけ?」と。

徳大寺有恒、黒沢元治、そしてぼく。昭和10年代前半生まれの3人は、「ベストカー」という自動車雑誌を舞台にして結ばれてきました。そのへんのいきさつはいずれ詳しく触れなければなりませんが、創刊して1年が経過したところで、内容の充実を目指してその3人が、改めて足並みを揃えて走り出したのが「ドラテク特訓合宿」という企画でした。それはこんなシーンから始まっています。(正岡註:以下は「べスモ疾風録・第3話」に詳述してありますが、ドラテクものの真髄にかかわるので、あえて再録します)

「ドライブというものは実に奥の深いもので、難しい。ま、ぼくについていうと、免許をとって35年にもなるのに、いまだにうまくドライブできない」
こう切り出しながら、傘をさした「徳さん」の語り口はなめらかで、ガンさんのことをしゃべるのが、いかにも嬉しくてしようがないらしい。
「今、わたしとガンさんは日本海間瀬サーキット(新潟県)にいます。これからそのガンさんのドライブを教材にして、みなさんに、ドライブとはどういうものかを、お見せしたい。ガンさんのドライブというのは、まるで一流のバレリーナが踊るように、荘厳で、無駄がなく、そして美しい。それはガンさんの長い経験と基礎をきっちり固めたことによる、と思うのですが、もう一つ、大事なことは、ガンさんはいつも考えながらドライブしている。もっとも美しくて、もっとも効率のいいドライブとはどういうものか、を。一つ、これからお見せするものを楽しみにしてください。ガンさん、よろしくお願いします」

 会釈する「徳さん」に、挨拶を返すガンさんの笑顔が、これまた初々しい。そしてタイトルが流れる。「徳大寺有恒からの熱きメッセージ 黒沢元治を目指せ!!」……それは新しい「ドラテク道場」の開設宣言でもあった。

この開設宣言に添えて、第1級のお宝映像が流れます。


*ガンさんのドライブするR382.伝説の最強GCマシン

*左がガンさんの後塵を拝した北野元選手

1969(昭和44)年の第6回日本グランプリ。舞台は富士スピードウェイ。ガンさんの日産R382は予選2位、ポールは同僚の北野元。37年前のFISCOの長いストレート、ヘアピン、そして伝説的な存在である30度バンクを疾駆するガンさんの若き日の勇姿。栄光のチェッカーを受けたのは、もちろんガンさん。このシーンを背景にして、二人の味わい深いやりとりがはじまっていますので、もう少し聴いてみましょうか。

徳さん「どんなことを考えて、ここまで30年間、やってきました?」
ガンさん「どんなことをしてもいいから、より前にクルマを持って行くこと」
徳さん「それだよね、ガンさんが今までやってきたことは。少しでも速く走る」
ガンさん「そうです。それがまた、裏返せば、一番安全にもつながる」
徳さん「普段の練習だよね」
ガンさん「第1に練習ですよ。たとえば小石や舗装の凹みがあったら、それをタイヤのどちら側でヒットするか。きちんと確かめて走ること。それで、サーキットに来たときに縁石をきれいに通るとか、日頃からある程度の訓練、経験を積んでおくことです」
ここで徳さんはガンさんのドライブで、スープラ3.0ターボに乗り込む。
「いま、この間瀬サーキットを相当のハイスピードで走っておりますが、一つのコーナーにこだわったドライブというのを、ガンさんはしない。(中略)ガンさんのステアリング・アクションを見て欲しい。少しもムダがない。最初のアクションで(ステアリングを切った)あとはスロットル・コントロールに任す、と。ぼくの知る限り、ガンさんのようなムダのないステアリング・アクションを使うのはガンさんと星野(一義)だけですね」



こうして聴いてみると、徳さんはガンさんの「最高の応援団長」である。ガンさんのドライビングに触れるのが楽しくてたまらないのだ。最終コーナーでガンさんの走りを外からチェックしたかと思うと、再びガンさんの助手席に座る。
今度はガンさんの方から想いを明かす。
「ご存じのように、今のクルマはどんどん高性能になっている。タイヤもそうです。もしクルマやタイヤに言葉が話せれば、もっとうまく乗ってくれれば、われわれももっと速く、もっと安全に走れる力を持っているのに、と嘆いているように聞こえる。若いドライバーが、少なくとも女のコに、あなた、運転がヘタね、といわれないようにしてほしい」
「うん、スターリング・モスがそれについてうまいことをいっている。現代の男にとって、もっとも屈辱的な言葉は、あなた、運転がヘタね、といわれることと、あなた、メイクラブがヘタね、これだって(笑い)」
「ぼく、その言葉、使わせてもらいます」
「じゃあ、もうひとつ、大事な言葉を贈ろう。ドライビング・イズ・アート。アートは美術でも、芸術でもいいんだけど、ともかく、きちっとスケッチして、基礎から勉強するとまあまあ巧くなれる。ドライビングも同じで、ステップ・ツー・ステップ。一生やれるんだから」
「確かに。奥の深いものがあります」


*特訓前夜、参加した読者代表と懇談するご両所 「ベストモータンリング」1989年5月号より

こうしてガンさんの「特訓合宿」そして「全国行脚・特訓道場」といったマン・ツー・マンに近い一連の「ドラテク」シリーズがスタートします。ポンと背中を押したのが徳さんであったのもお解りでしょう。
それがいま、プロ―モートの母体であるベスモが消えたのです。しかし、思い出のブログを拝見しても、このシリーズの復活を望む声が圧倒的です。はたして、それに応える方策とエネルギーがどこにあるというのでしょう。模索する日々がつづきます。


*左が波田昌之教官
そんなとき、ひと筋の光を見出したのです。以下、「消えたべスモBLOG」の項でそのコメントを紹介した波田教官とぼくとの、それからのメッセージのやりとりから、開講への道筋を固めるべく動き始めた、何かを感じ取っていただきたい。
 
○正岡より 日付 2011/07/13 22:13:23
その後、教習所のほうはいかがでしょうか。当方は、もう2回のシニア講習を受け、思うところあって、リアウィンドウにクローバーマークを装着して街中をはしっています。案外に、いい感じです。走りがよりマイルドになって。
ガンさんのドラテク道場の再開を模索して、2代目編集長の山本亨君とあってきたところです。中谷君も合流したいと言ってくれています。ま、もうちょっと煮詰めないとなりませんが。

●波田より 2011/07/13 23:59:32
ええ!  正岡さんがすでに高齢者講習を受講されているとは・・・・。ガンさんや正岡さんが高齢者講習にこられれば、大概の指導員は自分の無力さを思い知らされるはずです。
でも私は是非担当させてもらいたいと思いますが・・・・。実は私の運転姿勢の取り方は、ガンさんのATドライビングテクニックから引用させて頂いています。
「ハンドルを片手で一杯に切った時に肩甲骨がシートから離れない」
この言葉は、我々の指導要領や運転教本には決して書いてない素晴らしい表現だと確信しています。
最近、高齢者の事故が多いのは、間違った知識・基本がきちんと伝わっていないのではないかと思われます。だから、もっと基本的な事を順序立ててきちんと伝える本物のプログラムが必要だと感じています。
本当は我々指導員がもっときちんと教えて行かなければならいのですが、そこには検定と言う受験がありカリキュラムと言う縛りが邪魔をしてジレンマを感じています。

そこで私なりに考え、現在一般の方の企業研修でGセンサーを使ったジムカーナを教習所内で行っています。
教習所内では騒音とタイヤの問題で通常のジムカーナは出来ないので、0.4G以上になると室内のパトランプとブザーが知らせる装置を使い、スムーズな運転をするためのブレーキの残し方・ハンドルを切る速度・運転姿勢・アクセルワークを体験して頂いています。
テーマは「助手席の子供を酔わせない !」です。
これは私がBMから学んだ、私なりの安全運転への答えです。
以前、大井さんがガンさんのニュルのドライビングは他のどのドライバーより安定していて怖くないと言われているのを思い出し、出来ることなら今の若者に、間違いなく世界一であろうガンさんの究極のドライビングを一般公道の助手席で体験出来ればこれ以上の安全運転講習は無いと考えています。
ただ、その場合はまず一番バッターは私が行かせて頂きますが・・・・・。
高度なドライビングテクニックも、毎日の運転の中で意識して築き上げられるものです。
出来れば、ガンさんや中谷さんみたいな方が今一度、初めて運転する若者や免許を持っている方の多くの間違った知識をそれは違うよと、正しい方向へ向かう何かを残して欲しいと勝手と思いつつ、長文になりましたが書かせて頂きました。

○正岡より 2011/07/14 16:38:35
波田レポートは大変参考になりました。ガンさんも息子さんたちがそれぞれ通用するようになったので、安心して、これからの「残された人生」に、再び挑戦したいようです。
そこからがぼくらの仕事。どういうふうに「全国行脚」するのがいいのか、研究しましょう。ただ、べスモというメディアがバックにあるわけではないので、いろいろと難儀な点、多々あり。

●波田より 2011/07/15 00:23:01
ガンさん全国行脚、確かにBMと言う後ろ盾が無くなった今では問題が多いのは事実でしょう。でも何よりガンさんと正岡編集長が燃えているのが嬉しいです。そこで一つご提案ですが、もてぎ・鈴鹿・HSR九州では一般の人向けに車両貸出しによるHDS(ホンダドライビングスクール)が開催されています。
以前、山口県の指導員有志で大井さんを呼んでHSR九州で貸切スクールをやった事があります。結構好評で、若手指導員も感動していました。
これからは、そういった施設と車両の心配も無いスクールの仕方も一般の門戸を広げるためにも必要ではとないか思います。

○正岡より 2011/07/15 04:38:26
なるほど、一般人向け車輛貸し出しを利用した「ドラテク・ガンさん塾」ですね。ありがとうございました。なにごとも、手を付けてから育てていくくらいでないと前へ進みません。ただこれでは場所が限定されますので、いくつかの実現可能なパターンと組み合わせればいいですね。

●波田より 2011/07/15 12:19:03
「ドラテク・ガンさん塾」ぜひ実現したい現在の目標ですね。
人との繋がりが色々なアイデアを生み助け合って、現実のものになって行く過程は、まさにBM創刊当初の志と同じものを感じて、こちらもわくわくします。こうして局長(今後はこう呼ばせていただきます)とのやり取りの中で、やはり映像だけでなく言葉の大切さ(指導員の立場としては特に)をひしひしと感じており、学ばせてもらいたいと思っています。
でも局長、返信の時間帯にはびっくりです。今だに現役編集長ですね。
無理しないでと言うより、楽しんでいる局長の姿を思い浮かべながら、今から高齢者講習頑張ってきます。

○正岡より 2011/07/17 01:07:02
お尋ねします。ガンさんのドラテク合宿で波田さんが出演したのは、どの号だったでしょうか? ざっとさらってみたのですが、うまく拾えません。それとも、ぼくの記憶違いだったのでしょうか。バックナンバーを拾い出すと、はまってしまって前に進めなくなります。よろしくお願いします。


*中山サーキットの最終コーナーでやってしまった平尾忠士さん


●波田 2011/07/17 07:13:38
残念ですが、私が出演したのは清水さんのシリーズでガンさんシリーズは出演しておりません。この件に関しては、局長の記憶違いかと思います。ただ正直言うと、当時本当に出演したかったのはガンさんシリーズで、出演したいがため何度もハガキを書いていました。
ちなみに、中山サーキットでのガンさんドラテクでクラッシュした平尾君は直接話したことはないのですが、私の友人の親友でした。
また、ガンさんドラテクと言えば谷口信輝君。彼も、当時私がお世話になっていた広島のショプRiOの大西さんと共に、大井さんからホットバージョンGT-R特集に出演したのがきっかけでガンさんドラテクに出演が決まりました。大西さんとの昔話で、これも波田さんがベスモに出た縁があったからだよと言われたのが実は私のプチ自慢なんです。

しかしこうした人との縁の不思議さ、でもこれは自分の世界から飛び出さないと獲られないないチャンスだったのだと思います。
谷口君とは大西さんの結婚式でしか話せませんでしだが、あの容姿からはうかがえませんが局長が言われる通り、非常に礼儀正しくそして努力家で、以前レブスピードのドラテク編で、「ベスモ出演のプロの走りを何度も見て一つの気付い事がある。ハンドルを切る一瞬上手い人は拳一つ分切ったのちにバンドルを切っていて、要はためがある」と解説していました。
正直こうした具体的な意見を書いたプロは大井さんと谷口君だけだと思います。当然この部分の教習にも引用していて、生徒さんにも結構好評です。


*「特訓道場」が谷口信輝選手を生んだといいていいだろう。下が現在の同選手。

私の仕事は運転が上手いだけだけではだめで、ある意味お医者さんと同じであると考えています。それは、患者さんに合った正しい見たてとそれに合った薬を処方する事が共通点です。だから人にものを教えると言う事は、その人の悪い所を確実に理解し正しい対処方法を伝える事がポイントだと思います。
その意味でも谷口君の分析力と文章力は、新世代の子供たちにも共感できる可能性を感じています。さすがあのガンさんをうならせたこれまた本物です。
その宝物を手に入れる旅、私も今一度出かけて見たい。ついついそう思ってしまう企画ですね。

○正岡より 2011/07/17 07:45:55
さっそくのレスポンス、多謝。やっぱり、ぼくの勘違いでしたか。バックナンバーをあっちに行ったり、こっちに行ったり。お陰で半日を潰してしまいましたが、それはそれで、いろいろと収穫がありました。

谷口くんをはじめ、平尾君の話、とひとのぬくもりを伝えてくれる、佐野眞一さんのいう「小文字」によるレポートでした。とっても魅力があります。

そんな話をきくと、やっぱりガンさんは「千葉周作」だ、とするぼくの設定は悪くないと確信しました。山岡鉄太郎、勝海舟、坂本龍馬などを輩出した玄武館道場。みんなが入門したくなる特別の塾。ぼくもそこの弟子の一人だし、あなたもそう。大井もいる、谷口もいる、そのほか、ベスモを通してどれくらいの「弟子たち」がいるのでしょうか。

●波田より  2011/07/17 23:31:14
ガンさんは「千葉周作」、その通りだと思います。幕末から明治維新にかけて激動の時代を駆け抜けた先人たちの生き方を、我々も決して忘れてはいけません。どんなに素晴らしい車も、作るもの運転するのは人です。人との温もりが感じない所に感動は生まれません。この人はと言う、師匠の存在はいつもの世にも必要なのです。
こりゃ心引き締めて、師匠たちの足を引っ張らない弟子でいなければならないと感じております。               

さて、いよいよガンさんに逢いに行く。箱根の緑もいいなぁ。

 
Posted at 2011/07/18 01:37:29 | コメント(7) | トラックバック(0) | 新編ベスモ疾風録 | 日記
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1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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