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正岡貞雄のブログ一覧

2011年09月30日 イイね!

ついに登場 メルセデス300SEL 6.3

『疾れ! 逆ハンぐれん隊』の第1部で、五木寛之さんが最も書きたかったのは、このシーンではなかったでしょうか。まず、そこからはじめましょう。


*Photo by Chikara Kitabatake


*Photo by さいとう さだちか

「ヨコハネが静かになる午前三時。おれとミハルはBMWのB7で浜川崎から横浜方面へ、ゆっくりと流していた。ステアリングに白い指をそえて、うっとりとクルマを走らせているミハルの横顔。そのむこうに深夜の工場群の黒いシルエットがうずくまっている。鉛色に光る運河。赤黒い焔を二十四時間はきつづけている煙突。空気はなんだか刺すような変な匂いがする。美しい公園もない。洒落た高級住宅街もない。超モダンなアーケードもない。そんな横羽線の左右にひろがる風景が、おれは好きだった」
 


ミハルとジローが張り込みをつづける深夜の横羽線を、五木さんはうっとりと描写している。この道を、五木さんは路面の継ぎ目の数、コーナーの隠し持った牙の正体まで知り尽くしていた。それだけに、五木さんの「ストレス」は爆発寸前だった。

「いつも横浜から自分でハンドルをにぎって、東京のホテルの仕事場へ週に五日通う。
以前は深夜の二時三時に自宅へ帰るのに、三十分を何分切るかが楽しみだった。日中でも横浜―東京間を三十分から四十五分もあれば通うことができたのだ」
それが今では、一時間から一時間半は覚悟しなければならなくなった。そこへもってきて、横浜の港の向こうに今まさに完成しつつあるベイ・ブリッジができあがってしまうと、そこを通過するクルマが東神奈川の先の子安あたりへ合流することとなる。こうなれば、もう、横羽線は全身麻痺の状態だ。今から考えるだけでもおそろしい」

この一文は、ベストカー連載中に五木さんが「折々の消息」を、読者へメッセージする『ITUKI’S VOICE』から抜粋したものだが、外国車が飛ぶように売れ、新しいユニークなクルマがぞくぞく誕生するモータリゼーションの黄金期が、実は最も運転する楽しみと離れてゆくという皮肉な現象は、いったい、この先どうなるのだろうか、と当時の道路事情を嘆いていた。で、こう締めくくる。

「クルマで一時間半かかる横浜―東京間を、新幹線を利用すれば十九分で丸の内に到着する。こんな世の中どこか間違っている、と、ぶつぶつつぶやきながら、今日もクルマで出かけてゆく。なんとばかげた世の中だろう」


photo by Chikara Kitabatake 

 だから、ジローとミハルが、13日間もつづけた深夜の張り込みが限界にきたところで、ドーンと「怪物」を登場させる。その情熱をこめた「書きっぷり」は、たとえクルマ好きでなくとも、読み手を魅了してしまう……。怪物にやっとめぐり逢えた瞬間を、あえてピックアップしてみるので、もう一度味わってみてほしい。
 
ぜったいに目をあけてなんかやるもんか。おれはふるえるサスペンションの限界を尻で計りながら、わざと軽い寝息をたてるまねをしてやった。
 二〇〇キロだ。荒れた路面のショックが車体をつきあげる。エンジンはクヮーッと怪鳥のようなうなり声をあげてまわっている。このスピードでは、ステアリングを左右に切ったりはできない。カーブではわずかに首をかしげるようにするだけで充分だ。
 二〇〇キロ。ジェット・ヘリの飛ぶスピードだ。

ミハルは疾っている。おれも、疾っている。
 彼女がその緊張にたえかねてアクセルをゆるめるのか。それとも、おれが目を覚ましたふりをして彼女に降伏するか。お互いに無言のつっぱりあいがつづく。

〈もうやめよう〉
 おれが体をおこそうと目をあけたときだ。瞬間、ドーン、という音がした。風圧でB7のボディがかすかに揺れた。ミハルの注意が、それたせいかもしれなかった。
 黄色い光の玉が窓ガラスの横をかすめ、そのまま赤い尾灯に変った。二〇〇キロのB7の横を、なにかが通りすぎたのだ。
 おれは体をおこした。
「あれよ!」
 ミハルが叫んだ。
「とうとうあらわれたわ!」
 おれはフロント・ウィンドゥのむこうをすばらしいスピードで遠ざかっていく尾灯をみつめた。速い!ミハルは二〇〇キロをオーバーしかねないスピードでB7を走らせていたのだ。それをいっきに追い抜いて、もうそのクルマははるかかなたへ消えようとしている。
「追うわ!」
「やめろよ!」
 おれはおもわず叫んだ。
「あれはクレージーだ。追っかけたって意味がないぜ」
「いやよ!」
ミハルはすでに顎をひき、両膝で体を支えながらアクセルを踏みこんでいた。
(中略)
パトカーの屋根に、ふたたび赤いランプが点滅しはじめるのを、おれは見た。
〈もうだめだ〉サイレンの音。すぐうしろに白い覆面パトが追尾してくるのが見える。
 こっちのスピードは二四〇キロ。
「みてよ! やったわ」
 ミハルが叫んだ。前のクルマが急にスピードをおとしたのだ。
 おれたちはいっきに黒いセダンとならんだ。
「ベンツだ!」
「古いメルセデスね」
 300SEL6・3だとおれはおもった。なんのへんてつもない黒い乗用車。
だが、これがかつての怪物、グロッサーの血を受けついだ猛烈なクルマだとおれは知っている。五十一キロ以上のトルクをもつこの古いメルセデスの加速力は、無気味なほどである、とあのポール・フレールは書いていた。


この怪物と同じタイプを、五木さんが所有していた時期がある。今はほかのオーナーの手もとで、完璧のコンディションが保たれていて、時々逢いに行かれそうである。


*(『小説現代』1986年2月号より)


【MEMO】
300SELのボディに600用の6.3リッターV8ユニットを搭載したモンスターで、68年春に登場。最高速度220km/h、0-100km加速6.5秒という並みのスポーツカーをしのぐ高性能とハンドリング、そして大型サルーンの居住性を併せ持ったアウトバーン超特急。トランスミッションは4速ATのみで、車高自動調整式エアサスペンション、パワーステアリング、エアコンなども標準装備。ブレーキは全輪ベンチレーテッドディスクであった。

車輛寸法
全長:500cm 全幅:181cm 全高:142cm
種 類 :ガソリン 4サイクル
水冷 V型 8気筒:SOHC 排気量:6332 cc
最高出力:250ps/4000rpm (DIN)
最大トルク:51.0kgm/2800 rpm(DIN)
燃料供給装置 :燃料噴射
車両重量:1765 kg 乗車定員(名) :5

          (この項はつづきます)
2011年09月28日 イイね!

五木作品に登場するクルマたちよ!テスタロッサ

電子書籍版『疾れ! 逆ハンぐれん隊』の第1部である「深夜特送車NO.1」のPart.Ⅱからはフェラーリ・テスタロッサを「コーヒー・ブレーク」用にとりあげた。アルピナB7にひきつづいて、どうぞ。
フェラーリ・テスタロッサ
Ferrari Testarossa


Photo by さいとうさだちか

鳥のように自由に空が翔べたらならば――という、人間たちの憧れを、パブロ・カザルスは『鳥の歌』のなかでうたっているんだけど、クルマ社会とかモータリゼーションの根源をささえているものは、人間のそういった憧れだと、ぼくは、思っています。

――これは五木寛之さんが、創刊して間もない「ベストカーガイド」誌を舞台に『理想のクルマを創る』という大プロジェクトを立ち上げたときのメッセージ。1年がかりでTOYOTAのハイエースをベースに「浪夢号」と名づけた「動く個室」を創りあげるのだが、そのアドバイザーとして参画したのが徳大寺有恒さん。ふたりの交流が本格的に発展していくきっかけでもあった。


*「浪夢号」制作の頃 夜明けの谷田部テスト(1979年)

1984年10月、パリ・サロンでフェラーリの新しいフラッグ・シップとして、お約束のエンジン・カムカバーを赤く塗った「テスタロッサ」が発表される。
現地取材から帰ってきた徳さんが、パリのシャンゼリゼにあるキャバレー「リド」で催されたお披露目の模様を、うっとりとした口調で、こうレポートしている。

ご存知のように「リド」はブルーベルガールズというおっぱいの大きい、脚の長い女性を揃えていることで有名ですが、その胸もあらわな美女たちの間から、テスタロッサがシュッと現れたのには、感激したというか、度肝を抜かれました。きっとピニン・ファリーナもエンツォ・フェラーリも、世の中でもっとも美しいものは女性のからだと認めるのはやぶさかでないが、それと同じか、いやそれ以上に美しいものがいま誕生した。
それがテスタロッサだ……そういいたかったに違いない。しかし、あの演出にはまいりましたね。






この徳さんの報告に刺激されたのかどうかは、定かではないが、1985年初夏からはじまった『疾れ! 逆ハンぐれん隊』では、アルピナB7ターボにつづいてテスタロッサがさっそく登場する。ジローとミハルのスポンサーである売れっ子漫画家、バンドー先生とテスタロッサをからませて、その切ないまでの「カーライフ」を五木さんは描写する。

バンドー先生は、公道をクルマで走れない。広い庭にパイロンをおいて、まるで自動車学校みたいなスペースをつくって、そこをのろのろとフェラーリのテスタロッサをころがしてみたりするだけだ。

アウトバーンを三〇〇キロで走れる赤いシャチのようなスーパースポーツを、自宅の庭先でノソノソ時速五キロで動かすだけでもいいじゃないか、と五木さんはバンドー先生にエールを送る。そしてもうひとつ。地下駐車場で、ジローがはじめてミハルに引き合わされた夜の回想シーン。

ミハルのシャンプーテクニックの虜になったバンドー先生が、チップをあげようとするのだが、彼女はいつも受け取ってくれない。そこで、なにか自分にできるプレゼントはないか、と訊くと、いちどでいいから、フェラーリのハンドルを握ってみたい、と。お安いご用だ、とバンドー先生はすぐにミハルを自分のうちに連れて行き、入荷したばかりのテスタロッサのキーを手渡した……。

「あのときは感激して死ぬかとおもったわ」と、ミハル。「だって雑誌のグラビアでしか見たことのない、すごいクルマなんだもん」

徳さんはことあるごとに五木さんとの対談にかり出されたり、あるいはマカオGPへの遠征に帯同するなどと、交友が深まるごとに、文章表現の質がたかまり、その感性に磨きがかかっていく。その変化がそばにいたぼくには、間違いなく見てとれた。五木さんはいつも、徳さんに「暗示」をかけるように語りかける。

自動車は機械です。同時に時代を写す鏡であり、人間の夢の象徴でもある。だから自動車を語る人は、技術者の目と哲学者の魂を同時に持ち合わせていなければならない。さらに望むなら、詩人の心とエコノミストの視野も備えていてほしい。いわばモータージャーナリストは現代文明を語る「語り部」なのです。

いまはもう休刊してしまった自動車月刊誌「NAVI」の1991年1月号で、それからの徳さんはテスタロッサを、こんな語り口で表現するようになる。

テスタロッサのフラット12は、オクターブは高いけど量感が豊かで、モデナ出身のテナー歌手、パバロッティを思わせる。いいステレオ・サウンド・システムでフルヴォリュームにしてパバロッティの「星は光りぬ」などを聴いていると、彼の横隔膜の動きすら聞こえてくる。そのへんはフェラーリと一緒なのだ。

横隔膜の動き! すごい捉え方だと唸らせられた。そして、徳さんはこうしめくくる。

ボジョレーヌーボーの解禁の日に、ボジョレー村からロンドンまで1本のワインを運ぶのに、これほど相応しいクルマがあるだろうか。

あのころの五木さんがこの徳さんの一文を読んでいないはずがない。次の機会にそのへんをうかがってみようか。


Photo by さいとうさだちか

ビデオマガジン「ベストモータリング」〈1991年6月号〉の日本自動車研究所(JARI)での最高速テストによると、最高速は288km/hをマークしている。ドライバーは中谷明彦、車輛提供者は、あの「サーキットの狼」を描いた池沢さとしさんであった。車両価格は当時で2640万円。なお、欧州モデルが出力390hpであったのに対して、日本国内モデルは排ガス規制対応によって380hpに。また、初期型〈84〜85年〉のテスタロッサはイタリア法規によって運転席側ミラーだけがAピラーの中ごろに配置されていたのを、ご記憶だろうか。中期型以降は一般的なAピラー根元に位置を変更した。

車輛寸法
全長:451㎝ 全幅:197cm 全高:116 cm
フラット12DOHC 排気量 4942cc
最高出力 380hp/5750rpm(日本仕様) 最大トルク 48kgm/4500rpm
車両重量 1660kg

五木寛之著
『深夜特送車 No.1』第1回(全4回)の無料・電子書籍版はこちらからDownloadできます。
 
  http://car-eyes.jp/epub/index.html
2011年09月27日 イイね!

五木寛之作品に登場するクルマたちよ!

「30度バンク事故」をも一度見つめ直す試みは、引き続き、一歩一歩、前へ進めています。

それと同時に、もう一つ、五木寛之さんの痛快カーアクションロマン『疾れ! 逆ハンぐれん隊』の電子書籍版化に、ずっと取り組んでいました。



そう、1985年(S.60)7月から『ベストカー』が月2回化にステップ・アップするのを記念してはじまったあの連載小説を、iPad、タブレット、スマートフォンで、読んで貰おうじゃないか、というプロジェクトです。

さいわい、五木寛之さんからも快諾をいただきました。それも全15話のうち、第1話『深夜特送車 No.1』、第2話『凄春スピン・ターン』は「無料」で読めるようにして欲しい、という気を失ってしまうような嬉しい好意までいただいたのです。

そのことを、やっとパブリック・オープンできるところまで、到達しました。細かいことは、近日中におしらせしましょう。そのプラットフォームは『CAR EYES』という新しいスタイルの電子雑誌で、いまのところ、その「BOOKS」から「アンドロイドアプリ」としてダウンロードできる仕組みです。
徳大寺有恒さんの『間違いだらけの車クルマ選び・1990年度版』、三好礼子さんの『日本1周乙女の一人旅』が、同じ書棚に並んでいます。

【2017年3月に追記】
 その後、諸般の変転により、当プロジェクト継続のため、(株)ぽらりすを立ち上げ、iPressジャパン社の「CONTEN DO」の電子書籍専用書店で展開しています。是非どうぞ、お立ち寄り願います。こちらです!
●ぽらりすクルマ仲間「名作図書館」



そこでのぼくの新しい取り組みは、1話ごとの各パートに登場するクルマたちを素材として、その当時のエピソードを記録しておこう、というのです。たとえば、第1話『深夜特送車 No.1』を読みおわったところで「コーヒー・ブレーク」がわりに、引き続いて、ぼくのエッセイや、徳さんのインプレションやらで立体的な情報強化を提供するという試みです。以下、そのくだりを、すっぽり紹介しましょう。

●五木作品に登場するクルマたちよ!

アルピナB7ターボ クーペ1

Photo by さいとうさだちか

 1985(昭和60)年6月上旬の深夜。            
五木さんから、この「疾れ! 逆ハンぐれん隊」の第1回原稿をいただいたのは、街の灯が眼の下にひろがる、横浜のマンションの一室であった。
まさかご本人の目の前で原稿を読むわけにはいかない。逸る心を抑えて、そそくさとクルマで高台から下っていく。と、深夜レストランの明るい光。これ幸い、と駐車場を利用させていただき、五木さん実筆の(当たり前か)ナマ原稿を袋から取り出す。

「え!!」わが目を疑う。なんと、オープニングシーンそのものの状況が、そこにあるではないか!
「そうか、B7ターボのクーペ1ときたか」
五木さんほど、作品のなかでクルマを登場人物や物語の舞台と融合させ、躍動させる作家はいない。「ヘアピンサーカス」「風の王国」……数えはじめたらキリがない。

まっ黒にぬったB7が、ヌメッと光るボディがゆっくりと店の前に停止させた。ドアがあく。女の脚があらわれる。

ヒロインのミハルの登場シーン。それからはもう、「読者第1号」の余禄をたっぷりと堪能させていただいた。そして、そうか、と膝をたたく。五木さんは、何年か前に徳大寺有恒さんが、当時、『オートロマン』の手によって並行輸入されたばかりのアルピナチューン・B7ターボクーペのロードインプレッションを「ベストカー」(まだ当時は「ベストカーガイド」という誌名だったが)に発表したときから、B7に興味をお持ちだったのだ、と。

されば、徳さん(以降、こう呼ばせていただく)の興奮の一端を当時のレポートから抜粋すると――。

スターターを回すと、ほんの一瞬、スターターのクゥーという低い音が聞こえ(一般に私の経験では高性能車ほどスタータ―の音は低い)、次の瞬間、ビューンという軽やかな音とともに3リッター、ターボチャージャー付きストレート6が目覚める。
トランスミッションはゲトラク製だからローギアは左下にある。思ったより軽いクラッチをつなぎ、そろそろとスタートさせる。
ほんの1、2秒しか乗っていないのに、そのおそろしくスムーズなエンジンは私の心をとらえた。軽く、3000rpmぐらいまで踏み込んでサードまでシフトアップする。加速時にはヒューンというターボのささやきが聞こえる。そして、全体のノイズレベルはというと、なんとも信じがたいほど静かなのである。


Photo by さいとうさだちか

 このB7ターボ・クーペで恐れ入ったのは、この速さがたぐいまれなほどスムーズで静かなことなのである。B7ターボ・クーペの加速感はポルシェ911ターボとは少し趣が異なる。それは物理的な数字で表せば同じぐらいのものだから似ているといえようが、ドライバーの感じは少々異なる。
 ポルシェ911ターボの加速は一種の暴力でさえあると思うぐらいすさまじい。自分の目の前が空いている限り、スロットルを踏み、それにつれてタコメーターの針もビュンビュン上っていくので、忙しくシフトアップする。気がつくとスピードメーターは230km/h! 隣りに座るパッセンジャーは強力なGで身体はシートに金縛りといったものだ。
 B7ターボ・クーペはこれよりはこころもちマイルドだが、その振舞いはずっとエレガントで優しい。それは美しいプリマドンナのフットワークに似て軽やかなのである。

 徳さんの結論はこうだった。

 B7ターボ・クーペは私の知る限りでは最も速く、最もリファインされた4シータークーペといえる。クルマを返却して、私の633CSiに乗り替えると、日頃あんなにスムーズだと思っているストレート6がなんともラフに感じる。そして、やや遅いかなとも感じさせるのだが、少し時間が経過するとコンベンショナルエンジンの面白さを再認識させられたのも事実だ。   (「ベストカーガイド」1980年2月号所載より)

 因みに「オートロマン」のつけていた「正札」は1980万円であった。

【MEMO】車輌寸法  全長:475cm  全幅:172cm  全高:136cm   排気量 3430cc  乗車定員 4名

アルピナによりKKK製のターボK27を装着、最高出力330hp/5800rpm、最大トルク52kgm/2400rpm を発揮。最高速度は264km/hオーバー、200k m/hまでわずか19秒で到達するという性能は当時、世界一美しく、かつ速いクーペと熱い眼差しを集めたものだ。

このプロジェクトではふたりのカメラマンから多大な協力を得ています。

さいとうさだちか君 ベストカー時代、五木さんと徳大寺さんの指名で、彼にお願いすることが多く、今回も彼の作品をたっぷり鑑賞できます。最初の五木さんの肖像、アルピナB7、いいですねぇ。



北畠主税君 深夜の横羽線を撮って来てもらったり、秘蔵の300SEL 6.3のショットを写真庫からひっぱり出してもらったりと、わがままなぼくの注文をきいてもらっています。感謝、多謝。メルスィ・ボクゥ。
連載の各章の頭に彼の写真を用意していきす。

さて、「みんカラ」のわが友よ、感想、ご意見を、どんどんお聞かせあれ。お待ちしています。
2011年09月24日 イイね!

白のミラージュ「#37」がやってきた


*ベストカーの誌面に映りたいばっかりに小判鮫のようにくっついて離れない#37。
⑫がぼく。筑波第1コーナーへのアプローチ


台風一過。午前6時の西の空に、そこそこの青空が広がっていますが、いつ崩れ出すのか、と心配したくなるような黒い雲の気配。この頃の世相を映しとったような、落ち着かない様子です。

6月15日の当ブログのスタート以来、毎日がキビキビと過ぎていきます。
①新しい才能をもつ若い友人ができたり、②海の向こうでタイヤ開発に打ち込むベスモドラテク道場出身者との交流がはじまったり、③あるいはベスモの創刊前からの懐かしい友人が訪ねてきたり……。いやいや、それにもまして、自分から目的を持って心も体も、そして頭の中までもが積極的に、前向きに動き出したことを、ぼく自身が喜んでいる。

3連休の初日、③のパターンにあたる大阪在住の産婦人科医が、千葉の袖ヶ浦フォレスト・レースウェイに行くついでに、東京でぼくと逢えないか、と連絡があった。それも、25年前に「ミラージュCUPフレッシュマンレース」で、ぼくと一緒に筑波を走った時、医大生だった彼がアルバイトしていた出版社「光文社」の前にあるファミリー・レストランで午後4時に、と。

とにかく、突然に、面白いことを言ってくる「レース仲間」で、実はとても気に入っている青年(といっても、いまはもう47歳だとか)だった。

たとえば、2004年8月27日のぼくへの「メッセージ」。
――局長。あえてこう呼ばさせていただきます。偶然、このサイト(註:正岡ワールド)に流れてきたところ、局長の『わが闘走』をみつけ、懐かしさにいてもたってもいられず、書き込みいたします。
http://www.s-masaoka.com/HP_yamana/sakuhinn/act_30.html

 わたくし、ミラージュカップに出ておりました、白石隆です。
 と言いましても、おそらくご記憶になかろうかと思いますので、もう少し詳しく正体を明かしますと、局長のレース参戦の記事中、予選、決勝を通して、なぜだか局長とからみ、記事のなかでも、「この白いミラージュの#37、レースを始めたばかりという。若い人のなんと進歩の早いことか。」と書いていただいた。#37の白石であります。当時、レース後に局長のもとに走り、「近くを走っていたので、是非記事に名前を入れて下さい!」と無理なお願いをした、若僧をご記憶でしょうか!?
サーキットでの約束を律儀に果たしていただいた、写真付きのベストカーの記事をみて、小躍りしつつ友人に自慢したあの日が、きのうの事のように懐かしく思い出されます……。(学生の私は親に内緒でレースをやっていて、遠く大阪にいる母親にベストカーを、なぜか読まれて、バレるいうおまけもつきましたが……)
局長はもう車関係のお仕事からは引退されたのでしょうか? あのころの局長を(少しだけ)知っているだけに、業界から距離を置かれているご様子には、一抹の寂しさを感じます。






 私は、一昨年ほど前から、懲りずにレース活動を再開しており、今年は現役プロも参戦するカテゴリーで、ときにプロをやっつけて、既に3勝をあげ、たいへん調子のイイシーズンを送っております。そうそう、このあいだも、タコ坊(失礼!昔の大井サンのあだ名でした。)主催のレーシングスクールに参加してきましたよ!
あまりの懐かしさに、長いものになってしまいました。突然の失礼をお許しください。

早速、こちらからレスポンス。

#37の白石さん。憶えてますよ。本当に懐かしいな。あれは、1986年、ミラージュカップ第3戦でしたね。やたらとぼくの背後にからみつく白いマシン。確か、あの日は第1ヘアピンの出口で、あなたはコースアウトしたんだよね。そ、あのころのぼくは、アーチェリーで銀メダルをとった高校教師にまけない「中年の星」だった。そして、いまのあなた(もう40歳近くになったに違いない)も,レースを再開して、すでに3勝! 立派な「中年の星」じゃないですか! ヴィッツレースでもやっているのですか?

#37からの返事。

あれから、18年も経つのですね……。どおりで、頭が薄くなるわけです。そうです。今年40をむかえました。一昨年、各地のサーキットライセンスを取り直すため、当時の写真入のライセンスを、自分でも懐かしく見ておりましたが、今、参加してるカテゴリーのエントラントなどに自慢がてら見せますと、
「しらいしさんっ!人に歴史ありだね――!」
などと笑われます。FISCOの若い事務の方などは、「ライセンス更新の際は、本来旧ライセンスと交換なんですが、こんな時代の物を見たのは初めてです!記念に持っていてください!」と、言ってくれました!

今やってるのは、VW LUPO GTICup JAPAN というワンメークです。
昔のポカールみたいなもんでしょうか?
レギュレーション、車両管理がしっかりしていて、本当にウデ一本勝負を、プロに混じってできるところが、魅力です。(註:その年か、その翌年、彼はシリーズ・チャンピオンになっている)
話は変わりますが、正岡姓のルーツをたどる、貴サイトの内容にも興味津々です。
白石姓も確か愛媛がルーツのはず。(瀬戸内海、因島近くの岩城島の海賊と聞いております。)こんなところでも、ちょっとした縁を感じております。

それからまた、7年が経った9月6日――。
「憶えておいででしょうか? シライシ タカシと申します」というメッセージが。『みんカラ』で、ぼくの記事、文章が読めるようになって、毎日の更新が楽しみになった、と言って来てくれたのです。多分、「みんカラ」チームのメディア対抗ユーノス耐久優勝レポートを読んだからだろう。

だから、こんな返事を送信する。
「3日、筑波に行ってきました。みんカラチームのバックアップに。
雨がドカッと来て、第1ヘアピンでの各車の走りをチェック。その時、不思議と、自分の走ったラインや、その時、競り合ったライバルたちのことが思い出されました。もちろん、ぼくを後ろからつついた〈白いミラージュ〉のことも。
 すると、不思議だな、急に君から「メッセージ」が届く」

 それからは、適宜、交信があって、昨日(9月23日)の「音羽でデート」とあいなったわけです。その日の正午、ぼくの携帯電話が鳴る。東名高速、前に進みません。まだ、静岡の手前です、と。1時間後、また携帯が鳴る。すみません。タイヤが釘を拾ってパンクしてしまい、いま、下に降りて修理しています。会う時間を遅らせてください、と。
午後6時、時間を見計らって、音羽へ。久しぶりに、つい先日まで「ベストモータリング」編集部のあったビルへ立ち寄り、駐車場にわがプログレを置く。と、いまにもサーキット走行をしそうな扮装(いでたち)のVWポロがやってくる。「白いミラージュ#37」の2011年版がそれでした。無事、600kmを越す道のりをこなして、逢いに来てくれたわけです。

降りたった、少し以上に頭髪の薄い中年男性。憶えているような、そうでないような顔が、明るく破顔している。おお、あの#37の君か! 突然、記憶が甦った。



 談笑、3時間。彼の東京の仲間(カーマガジンENGINEで活動するモータージャーナリスト)まで合流して、富士フレッシュマンレースはなぜ消滅したのか、などを嘆き、再建策はあるのか、などを語り合う。久しぶり、音羽の不夜城の一角で、気炎を上げた次第であります。

で、25日は、東京近郊のサーキットとして、近年、注目を集めている袖ヶ浦フォレスト・レースウェイまで、視察に赴くこととなりました。

■追加取材分です。午前9時に東京・原宿からスタート。首都高、アクアライン経由(そう、あの「海ほたる」で東京湾を眺められます)で1時間足らずで、袖ヶ浦フォレスト・レースウェイに到着。森に囲まれた環境抜群のサーキット。1周、2436m、14のコーナー、10000本の杉植林。パドックも清潔で広々。とくにインフィールドをこなすのに骨が折れそう、とか、魅了満点。いずれ、走れる日があるはずだから、うずうずして来た。
さて、お目当ての「白石先生」とその愛車。いかがかな。


*メインスタンド前を抜ける直線は400メートル。

*下り勾配からのインフィールドは25R。ここはクリッピングをどこに置くのかな。



*帰りは「海ほたる」の下を抜けてスイスイと。
2011年09月18日 イイね!

痛恨のクラッシュ ~「あの事故」と同じ舞台で体験したあの瞬間~

■クラッシュ体験の一部を加筆し、写真を加えました。ぜひ確認してください。


*富士GC戦の前座サポートレースとあって晴れやかな選手紹介が。だから、張り切り過ぎて。

 1974年の富士GCシリーズ第2戦のレース中継録画番組の音声テープから、中部博さんが書き起こしてくれた第2ヒートのスタートの描写は、腰が抜けるほど、衝撃的だった。

磯部「さあ、17台のマシンが高速コーナーに消えました。最終コーナーをたちあがってきました。ペースカーです。さあ、今度はどうでしょうか。入りそうですか。左、赤いクルマが高橋国光です。安友競技長のイエローフラッグ。ペースカーは、右のウインカーを出しました。ピットロードにそれます。安友競技長のイエローフラッグは、いまグリーンに変わりました。いま、第2ヒート、一斉にスタートです!」

全開走行を開始した17台のレーシングマシンがかなでるエキゾーストノートに、エフェクト処理がなされ、リバーブ(残響)してたかまり、やがて静かに消えていく。砂浜に大きな波がおしよせ、ブレークして広がり、やがて引いていくようなイメージだ。

騒然とする観客の叫び声が聴こえる。場内アナウンスの声が響いている。叫ぶようなホイッスルの音がして、クルマのクラクションが連打される。数台の救急車と消防自動車のサイレンが入り交じって聴こえる。ふたたび複数のホイッスルがヒステリックに吹かれた。尋常でない雰囲気が伝わってくる。
場内アナウンスが「第1コーナー」と言っているようだが、サイレンの音でかき消されてしまい、聴き取れない。
「かなり激しく燃えております」と場内アナウンスが聴こえた。
「救急車がただいま向かっております」と言っている。クラクション、サイレン、ホイッスルの音が洪水のように聴こえてくる。(当ブログ『運命の第2ヒート』よりhttps://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/d20110825/)

それを読みながら、ぼくの個人的体験の記憶が、痛みをともなって甦ります。
あれはパルサーのニュープロダクションからEXAとステップアップして、一応のレース・スキルを習得したところでミラージュCUPに参戦した2年目、1987年のことです。それまでミラージュCUPでいったい何レースを体験したか、指折り数えてみた。


*86年からはベストカーミラージュで、2年間、合計17戦をこなす。

 86年度……フレッシュマン・クラスを4戦と、中谷明彦、清水和夫、横島久、真田睦明らのプロも走るエキスパート・クラスが2戦で、計6戦。
87 年度……フレッシュマンが5戦と、エキスパートが、これから走る最終戦を加えると6戦あって合計11戦か、と。2年間で合計17戦を闘い抜くことになる。改めて、己れの辛抱強さにおどろていしまう。

 その間、ミラージュに限っては、無事故、無違反……いや、フロントカウルを2枚割っただけで、マシンクラッシュは1度もなかったのが、ぼくの唯一の誇りだった。

 そして迎えた、10月18日の最終戦、嫌な予感がしてならなかったのは何故だろう? 前日の予選は豪雨の中で行われた。第1コーナーなんぞは、まるで赤城の氷上ジムカーナーみたい。それでもかすり傷一つ負わずに帰還できたというのに……。

ぼくの予選順位は24位。背後に5台もいるんだから、まずまず、といったところ。スタート次第では、第1コーナーまでに少なくとも20位あたりまで浮上できると読んだ。

天候は回復して、ドライ。GC最終戦の前座レースとあって、グランドスタンドも、第1コーナーもかなりの観客数。新しくキャビンブリッジが設けられて、スタートのシグナルもかなり見やすくなった。選手紹介も3人ひと組で壇上にあがってインタビューを受けるスタイル。華やかなことこの上なし。

ポールポジションはゼッケン33の清水和夫。予選が超ウエットだと、ラリースト組が上位にくるものだ。(28)金子繁夫が10位にいる。(29)D・スコットがだんだんFFに慣れて4位に位置したのは流石だ。注目の新人(55)田部靖彦は、6位に。上位をいつも独占する①伊藤清彦、⑧眞田睦明、③横島久は、中団からのスタート。決勝レースの激しさが、予感された。


*ストレートエンドから白煙が! 異常事態発生。スタンドから悲鳴があがった。


*ただちに救急車と消防車が急行する



*シグナルタワーから赤旗が出て、レースは中断。

スタートして7周目だった。15周の長丁場だから、前半は大事にポジションをキープして、後半に賭けよう――それがぼくのレース運びだったが、⑳金子や ⑱J・ブラッドリーとの競り合いに勝ち、18位あたりでグランドスタンド前を通過しようとした。と、右前方で、レイトンカラーのマシンが、ガードレールを飛び越え、なにやら禍々しい気配が視界に入った。すぐに赤旗が出てレースは中断。

ぼくのレースを8ミリカメラに収めつづけてくれている松田青年(昭広・のちにベスモ制作責任者となる)の撮った映像を見ると、ストレートエンドで⑩影山正彦と(38)金石勝智が接触して、影山はガードレールを飛び越して、右下の草むらヘ転落、金石は左のコンクリート壁に激突し、危うく大惨事となるところだった。



*モニターに映し出された事故現場。影山選手の弟・正美君が駆けつける



*ストレートエンドのコンクリート壁の餌食になった金石



*レースを中断してミーティング。右端から3人目が安友競技長。


その往時の記憶が、中部さんの描写が引き金となって、甦えり、さらにその後に巻き込まれる痛恨の出来事へとつながったのです。すぐにドラバーズ・ミーティング。あの日と同じように安友競技長が「熱くならないように」と注意をうながしているのも、偶然ではないにしても出来過ぎていた。

再スタート。ミッションが2速に入るのを渋った。その一瞬の遅れが、あとになって祟ってしまう。FISCOのTSレースで鳴らした⑪石川匡巳の先行を許してしまった。が、1周する間に15位あたりまで浮上できた。すべてがご機嫌だった。ブレーキングのタイミングも、いつもより鋭く反応できるし、ステアリングの切り込み量も適切らしく、ほとんどのコーナーで、それほど手を働かせないですむ。

 再開2周目のAコーナーで、先行集団の中へ割って入った。目の前で⑦奥山道子がコースアウトしていく。
100Rからヘアピンへ。55田部靖彦のプレッシャーに耐えかねて 石川がよろめく。
インが空いた。これぞ神の与えたもうた好機なり! ぼくにしては珍しく、強気にインに飛び込んだ。
と、なんだ!左へスピンした⑪の黒いノーズがぼくの右側ドテッ腹へ、直撃してきた。
あっと思った瞬間、ぼくのマシンは縁石側に押しやられ、そのはずみで横転してしまった。
フロントガラスに白い膜がかかる。天と地が逆転する。
左足でキルスィッチをOFF方向に蹴る。うまくいった。

 いつか、これと同じ光景を同じ場所で味わった記憶が蘇った。

 1985年の7月27日、「全日本富士500マイル」の前座戦「ニッサンパルサーEXA決勝レース」に出場していたのです。 
 スタートは午後2時20分。真夏の太陽に灼かれた路面は、すでに60度近い。となると、タイヤは3周すぎればタレてしまう。で、序盤での位置がとても大事になってくる。1周目のコーナーで思い切り攻めてみよう。 スタート。スムースに加速する愛車。2台ほどパスして第1コーナーへ。目の前を行く 先行車が急激に左に切れ込んでスピンする。わずかにぼくの右前輪と接触したが、かまわず第1コーナーを通過。つづく、右回りの高速100Rを3速にシフトダウンしていい感じで征服、いよいよ、次の勝負どころであるヘアピンへ。実はこの時、ぼくのEXAの右前輪のサスペンションは折れており、右回りなら、まだ大丈夫だった。
 先行する30番と①番が右へ寄っている。しめた! ぼくは早めにINを攻めた。右側に荷重がかかった。と、コクンと右膝が折れる感じで、縁石に左車輪を乗り上げ、あっという間にぼくの視界は右へ傾き、ゆっくりと逆立ち状態へ移っていくじゃないか!

 あとはもう、ハンドルを握りしめたまま、この信じられない異様の世界が停止すること、そして他車に迷惑をかけないことを祈るばかりだった。


*1985年のEXAレース。先行車のスピンを切り抜けるが、この後、カメラマンは待ちぼうけ。


*ほんとうに亀の子になってしまったわがEXA。マシン再生にいくらかかるのやら。

 亀の子になったぼくのマシンはコースを斜めに滑走して、なにごともなくグリーンでとまった。逆立ちのまま、そこでぼくのやったことは左足でカット・スイッチを蹴るようにして切り、そして5点シートベルトをワンタッチで解除し・開けてあった窓から、正常の世界へ復帰することだった。

 あの時と同じように、マシンが静止した気配。後続車も無事通過したらしい。で、ぼくは無事なことをアピールするため、勢いよく、散らばったガラスの上に立つ。観客の拍手を聴いたような気がする。右の後輪だけが、虚しくまわっていた。レースは2度めの赤旗中断となってしまった。

 最後の最後にきて、転倒虫となった⑫ベストカーミラージュは、そのまま廃車の運命に。


*急激にきれこむ石川車(黒のマシン)。ヘアピンの横転現場。

*クルリ、クルリと2回転してストップ。

*様子をうかがって窓から脱出。元気なことをアピールするため、ピョンと。
 
 レースのほとぼりを冷ますべく、ぼくはピット裏に特設されたラリーアートラウンジにいると、ぼくの横っ腹に飛び込んできた石川匡巳選手が、親分格の眞田睦明さんに付き添われて挨拶に来た。
一緒に8ミリカメラで「そのシーン」を検証する。どうやら100Rを駆けあがった周回遅れの田部車と石川車が張り合って、田部車がまず左に切れ込んで石川をプッシュする。で、石川がインにむかって急激に切れ込む。その時、ぼくのベストカーミラージュが、インを刺して、ヘアピンをクリアーしようとしていた。
 でも、簡単に横転するものだなぁ。映像を見ながら、ぼんやりと考えたのを思い出す。そして、直線でも影山と金石が接触しただけで右と左に飛び散るのだなぁ、と。
 それも、250km/hオーバーで2度、3度と接触すればどうなるか。それが判断できない彼らではない。一線を踏み越える異様な状況に、彼らを惹きこんだものは何だったのか。レベルは異なっても、同じサーキットで、それなりの「修羅場」を垣間見た立場で、今一度、問うてみよう。

 この時のミラージュ最終戦、優勝は横島久、中谷は3位、清水和夫は7位。

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何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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