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正岡貞雄のブログ一覧

2011年10月30日 イイね!

童夢・林ミノルさんの『20歳、夢のあとさき』


 あの「運命のレース」を黒沢元治と共有したレーシング・ドライバー、北野元のプロフィールを、彼自身が語った『怖いものなしだった20歳の頃』で紹介したのには、ぼくなりの仕掛けがあった。ホンダの強烈なバックアップがあって高橋国光と北野元はオートバイを駆って世界の桧舞台で大暴れできたあと、日産側からの強い要請で、今度は4輪に転向し、多額の契約金をもらって日産の専属となった背景を、北野本人の言葉で伝えたかったのです。

 つまり、国さんとキタさんは最初からスター選手。それに引き替え、2輪のレースを経て、日産のドライバー・オーディションに合格して、俗にいう2軍待遇の大森組に組み入れられた「叩きあげ」のガンさんとは、好むと好まざるにもかかわらず、何かにつけ、水と油の関係にあったことを念頭に置く必要があったのです。

 1969年、ガンさんが日産R382を駆り、720キロもの長丁場を一人で走り切り、日本グランプリで優勝をしてしまう。このへんから、何かにつけ日産ワークス内部で、もうひとつしっくりしないものが蠢きはじめるわけで、そのあたりにアプローチするつもりで準備をはじめていると、二つのメッセージが届けられたのです。
 
 最初のひとつは、ブログをアップした4時間後の午前7時37分に「正岡兄。原稿を書いたには私です。Kunisawa34」というコメントが入っている。

 そうだった。あれは国沢光宏君の担当で、一緒に川越街道のタイヤショップ『モト』へ赴いたような気がする。さっそく、電話。
「随分、早くから起きしているね」
「はい。朝から仕事していますから。あれ、ぼくが書きましたよ」
すぐに明るい大きな声が帰って来た。そうか、君だったね。じゃあ、近く、メシでも食おうよ。


*最近の国沢光宏君。林ミノル氏がボディサイドラインをデザインしたベストカーパルサー。
よく見ると黒沢元治監督の姿があるし、わがレーシングスーツはガンさん着用の日産レーシングチームのものだ。
 

 国沢光宏君は、ベストカーが創刊して3年目、やっと軌道に乗り始めた頃、徳大寺さんから、面白い青年がいるので編集部で使ってみませんか、と紹介されたのがきっかけで、それからのぼくの人生にさまざまな「変化」をもたらせてくれた人物の一人です。もっといえば、45歳にして、ぼくを富士フレッシュマンレースにのめりこませてくれたメフィストファレスのような「ありがたい火付け役」であります。

 もう一つ。そろそろブログの続きを書き上げなくては、とPCを開いてみると、これまで交信のない人からのメッセージが1通、届いていたのです。それも、午前2時近い時刻に送信されているではありませんか! ちょっと、間を置いて京都のある人物の懐かしい顔が浮かんできた。
「ご無沙汰! 正岡さんのブログを発見しましたがどうしてもメッセージがおくれないので、みんカラの会員に登録しました。お元気そうでなによりです。私はしょっちゅう東京には行っていますので、機会を見つけて飯でもくいましょう」

 これはもう間違いない。京都の童夢・林ミノル社長からのものである。恐らく、前回の「手記発見!」のなかで、新連載企画の第1回は童夢の林ミノルにお願いして、と前置きしていたのが、どういう形かはわからないが、ミノル社長に伝わったに違いない。そうだ、その当時、鈴鹿のFFスーパーシビックに出場した「五木シビック」のボディデザインも、そのあと富士フレッシュマンで2年間、何度もあちこちを損傷しながら、いつも不死鳥のように甦ってくれた「ベストカー・パルサー」のそれも、ミノル作品だった。まだ、お礼も未払いのままだ。

 ここはやはり、ミノルさんに敬意を表して『青春オフロード派への伝言』を改めて読ませてもらうことにしようではないか。で、『ベストカーガイド』の1983年1月号を手元に取り寄せてみた。何かにつけ、交流は細々とつづいているものの、こうやってお互いの書いたもので心の内面をコツンとノックし合うと、結構、いい響きが帰ってくるものだ。


さて、該当号を手にして、まず表紙に、つくづく時代の流れを感じてしまう。4色カラーに特色としてゴールドを奢って、新年号らしい雰囲気を出しているが、いまでもこの手法は生きているのだろうか。表紙モデルは斎藤慶子。目の輝きと歯の白さがいい。
「創刊5周年増ページ特大号」と謳っているので、目玉は「スカイラインRSスペシャル」か、と思いきや、どうもクルマ雑誌の週刊現代版らしく羊頭狗肉のきらいがある。
 客寄せは83年度に続々登場のNEWカー衝撃の完全スクープのイラストかな?


本物のクルマ好きの眼はこちらの方に吸い寄せられたに違いない。「’82世界耐久・富士6時間レース」で総合5位に食い込んだトムス童夢セリカCの独占試乗。あの徳さんが決死の覚悟でオーバー400馬力の世界を体感した時のカラーページと、試乗記は、今、読んでもその興奮と緊張が伝わってくる。特に生沢徹さんとのやりとりがいい。

そのくだりの一部を紹介すると――。

「いつもながらレーシングカーに乗りこむのは嫌な仕事だ。特にクローズドボディは難しい。ちょうどこの日、友人の生沢徹もやってきており、なにかと私の不安をかきたてるようなことをいう。
 私がマシンに乗り込むのに苦戦していると″ホラホラ、だからもうムリなんだよ。こんなのに乗るのは″という。″うるさい″と一喝し、やっとこ乗り込むと、今度は″スタートできんの″という。
 そこで″お前さんとはもう20年ものつき合いだけど、これが今生(こんじょう)の別れとなるかもしれないんだぜ″といってやった。さしもの徹もこれで黙り、私はドアを閉めてもらって、スターターを回した」

ここからスタートをしくじりたくない徳さんの気持ちが、よく伝わるのだ。



「徹のヤツが見ている。ストールしてなるものか。私はトムスの専務でチーフメカの大岩さんのゴーサインを待ちつつ、クラッチを踏んだ。
 大岩さんがゴーサインを出した。私はしっかりとレブカウンターをにらみ、右足のガス。ペダルに神経を集中し、4000~ 4500回転を保ち、左足をもどすというより、ほんの少し足の力を抜いた。
 ガクッとマシンは動きだす。同時にクラッチを踏む左足に再び力を入れるような気持ちで右足に少し力を加える。
 マシンはスムーズに前進をはじめた。こうなればしめたものだ。右足にもっと力をこめると同時に、今度はややラフに左足の力を抜いた。
 同時に右手のピットはビュンビュン後方へ走りはじめ、右のガードレールも白い帯となった。カーン、レブカウンターは一瞬の間に9000回転に達し、セカンドヘシフトアッブ。
 とても自動車とは信じがたい加速でサードまでシフトアップしたところで第1コーナーのブレーキ。ブレーキを踏むということがこんなにありがたいこととは知らなかった」

 無事、徳さんは時速240kmの世界をくぐり抜け、無事帰ってくる。

「私の予定ラッブはアッという間に終わった。もっと乗りたかった。あの加速も慣れてくれば快感そのものだ。それにしてもレーシング・ドライバーという人たちは尊敬に値する。徹が近づいてきて”踏んでたじゃない″。彼にしては珍しいお世辞であった……」

あの時代の男たちの交わりの一端が覗けるような一文だった。

このトムス童夢セリカのデザイナーが林ミノル。ともかくルマン24時間に4回も参加し勝利を得ることに情念を燃やす男である。その彼の「20歳の青春」を切りとった一文が、同じ号に寄稿されていた。出来過ぎというべきか。
「(前略)軽4輪の免許が取れ日から、自動車に狂って今日に至る。自動車に狂ってからは、同級生であった元トヨタワークスの鮒子田(ふしだ)と、毎日毎日あきもせず夜中まで山道を走りまわった。タイヤとガソリン代のために昼はアルバイト。ときどきのぞく学校は、まるで興味がなく、すぐ飛び出しては、山道めぐりをくり返していた。鮒子田は、その頃よりはっきり自分の将来の目標は、レーサーになることだと明言していたが、私は迷っていた。私が18歳の頃のレースといえば、ツーリングカーのみ。雑誌で見るフォーミラや、レーシングスポーツカーは、まるで遠い世界の話であった。レーサーにはなれそうでも、自分で設計したレースカーを作ることは、不可能だと思えた。半分あきらめながらも、日々その思いはつのり、しかたなく紙の上で、自分のレースカーを作り出し、関連する本を読みふける毎日が続いた。
 しかし、チャンスは意外と早くやってきた。20歳に近づいたとき、鮒子田といつものボロ車で、鈴鹿サーキットに練習に行ったとき、浮谷東次郎と知り合った。急速に親しくなった我々は、お互いの夢を語り合い、東次郎のレースにかける情熱を知り、私も自分のなすべきことが見えてきた……」
といった具合で、やがてミノルさんは、浮谷東次郎との共同プロジェクトを発展させて行くのだが、そのくだりと悲しい結末は次のアップまでお待ちあれ。
Posted at 2011/10/30 13:34:38 | コメント(5) | トラックバック(0) | ベストカー時代 | 日記
2011年10月27日 イイね!

手記発見!北野元の『青春オフロード派への伝言』



珍しい「手記」というか、「エッセイ」を発見した。
北野元さんが「ベストカーガイド」の1983年3月号に、『青春オフロード派への伝言』と題して、自分の「怖いものなしだった20歳の頃」を寄稿している。
ぼくがちょうど兼任していた編集長の椅子を、若手の勝股優君に押しつけたころで、そういえば、そんな企画を立てて、最初は童夢の林ミノル氏の書いてもらい、それを北野さんにバトンタッチした記憶がある。川越街道沿いでタイヤショップ『MOTO』をやっていて、たしか『ウルフ』というバイクショップを隣接させて、トータルなバイク造りを目指していた北野さんを訪ねた記憶がある。
改めて読んでみると、北野元というレーシング・ドライバーだったひとの青春の香りが、クンと匂い立つ。このままでは記憶の底に埋もれてしまうので、この際、全文を記録しておこう。見開き2ページのものだから、テンポはいい。ご本人が実際に書いたのか、編集部側の聞き書きか。そこのところも、今となっては、記憶にない。

 さて、この「青春オフロード派への伝言」。通しタイトルのほかに、いろいろと飾り文句が用意されている。まあ、全部、並べてみようか。よく見ると、写真の真ん中が北野さんで、左が生沢徹さん、右がガンさんじゃないか!



「世界選手権で初めて日の丸をあげたレーサー」
「汚れた英雄のモデルのひとり」
「怖いものなしだった20歳の頃!!」

そして小見出しも。曰く、デビューレースはぶっちぎりの1位!

18歳のとき、面白半分で第1回全日本モトクロスに、ホンダのドリーム号で出場して優勝!この時から私の宝石のような時間がはじまった。

 16か17の時、初めて乗ったオートバイは、それからの私の人生を完全に変えた。京都の農家で昭和16年の1月1日(元旦生まれだから親は元とつけたんだろうと思う)に生まれて以来、とにかく機械とスピードが好きで毎日自転車に乗ってばかり……。その時までは、まさか自分が5年後にはヨーロッパのGPに出るとは思ってもみなかった。
 一度オートバイの味を覚えてからというもの、もうガマンができなくなりオートバイ屋に入りびたり。そこでしつこくアルバイトをして、やっとホンダドリームの300∝を手に入れてからは毎日がレース。もういたるところを走りまわった。自分でも不思議に思うほどうまくて、気がつくと前に書いたモトクロスレースにエントリー。無我夢中で走ったら優勝というわけである。
「こりゃいけるぞ」と9月頃だったか浅間火山レースにエントリー。この時私は125㏄と250㏄クラスだった。生沢君はたしか15か16歳かで、オーツキダンディに乗ってたし、高橋国光君もBSAで350㏄にエントリーしていた。レースは私が125㏄と250㏄でぶっちぎりの優勝。高橋君と、か細い生沢君もクラス優勝した。

世界選手権マン島でいきなり5位!!


*手前でひとり低い姿勢でいるのがのちにHONDA社長になった河島氏で、北野さんは左端。
 

その年の暮れにホンダに入った。19歳の時だったか……で、いきなり「マン島に行ってくれ」という。当時ジェット機が初めて日本に飛んできてた頃で(BOACのコメットという世界初のジェット旅客機)、気分最高。今は(1983年時)ホンダの社長だけど、当時課長だった河島さんなんかと5人で、なめられちゃいかんとばかり胸張って乗り込んだ。マン島TTといえば、当時一番の人気レースだ(今のF1GPなど問題ならないくらい)。それに出る私はオンロードのレースは初めて、それでもがんばった。この当時は怖いもんなんかないから、ガンガン走る。125㏄は1周目で5位、2周目(1周60kmもある)、「さあ行くぞ!」という時にマシントラブル。
 次の250㏄でも、デグナー(鈴鹿のデグナーカープで転倒した、あのデグナーです)やヘイルウツドを相手にまわして全開!!

とにかく私は乗れてるから速いわけで、気がついたらロードレース初体験の19歳のガキが、世界の5位に入ってた。もう有頂天になって、「俺より速いやつはいないが」と信じ込んだ。
続いてオランダGP(マシントラプル)、ベルギーGP(予選4位、これはFIGPの予選4位だと思ってくれればいい。決勝はブレーキトラブルでリタイア)と転戦し、翌年2月のデイトナではとうとう優勝した。この時はすごかった。トップを走っていて転倒、それでもマシンを起こして走りだし、ゴール前でヘイルウッドをかわしての優勝だからたいしたもの。3年前まで京都の山の中でベンリーに乗ってたのが信じられない毎日だった。

女の子にも人気あった。私は恥ずかしがり屋だったので、だいそれたことはあまりしなかったが、国光君なんか相当楽しんだ。ヨーロッパなどはモータ―スポーツの地位が高いから(日本での野球よりすごい。原タツノリも真っ青なくらい)、女の子の目つきが違う。

調子に乗り過ぎるのが私の欠点だ
次の年のマン島も行った。2度目とあって自信満々。ちょうどホッケンハイムで日の丸あげた国光君(FIで優勝したようなもの)とマン島で合流し、練習。ところがここで大失敗、一巻の終わりとなってしまう。ライバルのMVアグスタを追っかけて、軽く抜きさってカッコよくコーナーに入っていったのはいいが、いきなりズルリ! そのまま帰国で病院が家となってしまった。
 この時のダメージは相当なもので、その後、走りはイモみたいなものと化した。そんなある日4輪のレースに出ないかとさそわれたのだ。実はなにを隠そう4輪に乗ったのはその時が初めて。4輪はおもちゃだと私は信じていたようで、まったく興味がなかった。
 ところが練習で走ってみると速い。まだ誰も3分をきっていないコースで、生まれて初めて4輪に乗った北野選手……は2分57秒をだしてしまう。3分きったら5万円も小づかいがもらえて、それを何回かもらった覚えがある。浮谷東次郎君も3分はきれなかったから、我ながらたいしたものだ。
 ところが練習最後の日、またしても調子に乗った私は、高速コーナーでアクセルを戻す誘惑にのらず、そのまま全開でつっこんでしまった。気がつくとガードレールの上に乗っていて、当然ながらレース本番では思うように体が動かない。それでも1位のバックナム(当時のFIドライバーで、今でいえばアルポレートというところ)にそう差をつけられず、2位でゴールした。



「こりゃ4輪もおもしろい」と思っていたところに、日産から話があり、そっちに転身。滝進太郎のロータスエランを向こうにまわし、フェアレディの1600で勝負をいどんだ。その後2000㏄になり、エランとは勝負がついたが、とにかく当時 のレースはごっちゃでおもしろかった。生沢君はスカイライン、浅岡君がベレット、コンテッサとかが入りみだれての大レース。津々見友彦君もその時のレギュラーだった。

 この時代もおもしろくてしかたがなかった。毎日がクルマ、クルマ。第1回モトクロスレースから24、25歳までは一息だった。
 その後フェアレディZ(432から始まって240、最終的には3リッターまでいった)や名車ニッサンR380にも乗ったけど前ほど楽しくはなかった。1968年のグランプリではR381(ウイングのついたおばけグルマ)で優勝。その次の年にも6000cc12気筒700PsのR382に乗ったのだが、RC162でマン島を走った時の感激はなかった。            ( 「ベストカーガイド」1983年3月号所載)

 北野さんの文章はここで終わっている。往時の様子がまるで文字によるDV録画のように再生されてきます。青春オフロード派、つまりちょっとルートからはずれかかっている若者へのメッセージという形の、青春告白。まっすぐな人柄のよさ、温かさが改めて、思い起こされます。やっぱり、近々、お逢いする機会をもうけなくては。
Posted at 2011/10/27 04:33:04 | コメント(3) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年10月25日 イイね!

事故直後の津々見友彦レポートを読む  「2度と思い出したくない!」


9月3日の『メディア対抗4時間耐久」に第1回から欠かさず出場の津々見友彦さん


 このブログをスタートさせたのが、6月15日。4歳の時のぼくの「ファーストラン」にはじまって、それから数えてみると、129日。その間、ブログをアップすること、56回。打率、0.4341か。多いのか、それとももっとテンポよくアップさせた方がよいのか。いろいろと悩んでおります。でもたくさんの「みんカラ友達」に恵まれ、励まされ、75歳の青春をたっぷりと愉しんでいるところです。

 悩んでいるといえば、例えば前回の「君のいないサーキットの秋深し! 風に消されたトオルは(Ⅱ)」などは、今にして思えば、2度に分けた方がよかったのかな、と反省しています。たとえば、誘惑の章、別れの章ときたら、その回は、「ヘアピンには、まず星野がきた。続いて高橋国光の赤と黒のマシン。徹がいない!」で止めておいて、すぐ次の日に、「赤旗が出た。レース中断だ。マーシャルカー、救急車、レッカー車が禍々しいサイレンを鳴らしながら最終コーナーへむかった。ぼくも駆けた。バドックの金網フェンスに沿って。」からはじめてもよかったな、とも。

恐らく、つづく「鎮魂の章」、2冊の著書や、彼の事故に巻き込まれて命を落とした観客の遺族が富士スピードウェイと徹の両親を相手に起こした民事訴訟と、その結末まで一気につき合わせてしまって、申し訳なかったとさえ考えています。率直な感想、ご意見をいただければ、おおいに、今後の参考にさせていただきます。どうぞよろしく、というところで、今回は津々見友彦さんの話から。

 津々見さんのことをマカオのモータースポーツファンは「チュンチュンキ」(この発音、違っていたかな?)と親しみをこめて、こう呼ぶ。マカオGPには早い時期から出場し、カウボーイ・ハットに、チャールス・ブロンソンばりの口髭をたくわえた風貌、いかにもテクニシャンらしい走り。マカオでの彼の人気は、嫉妬したくなるほど熱かった。

その津々見さんと、久しぶりに筑波サーキットでお会いした。当年70歳で、まだメディア対抗ユーノス耐久に出場していたのです。さっそく、この日の津々見さんのチーム・メートである桂伸一君(愛称、コボちゃん)も加わって、肩を組んでの記念撮影。津々見さんには、大昔、スペイン・バレンシアでのカペラ海外試乗会に招かれた際、一緒になる機会があって、タック・インの使い方を教わったことや、ベストカー創刊号で作家の村上龍さんをフォーミュラーカーに同乗させる企画が持ち上がり、FISCOで津々見さんに無理をきいてもらったことなど、数え上げたらキリがないほど縁のある人物。

 その人が『1974・06・02』の証言者の一人だという。中部さんの記述からも冷静で丁寧な対応と、筋の通った論理がうかがえ、いずれこちらから時間を頂戴するこころづもりをしているが、さすがにサーキットでその約束をとりつけるのも憚られた。

 そうやって、モタモタしているうちに、貴重な津々見さんの寄稿記事を発見した。
『投稿「テレビで事故を見た!」消えた記録映像をめぐって』で紹介した読者の声と同載の「AUTO SPORT」8月1日号に、強烈なアピール力をたたえた内容だった。

「2度と同じ”あやまち”は繰り返さない」というタイトルがつけられていた。
 以下、ともかく、この一文をよんでいただきたい。

ぼくのレース歴のなかで思い出したくないことがあるとすれば、6月2日に行なわれたGC第2戦である。もちろんレースにアクシデントはつきもの。そんなアクシデグントを乗り越えてわれわれは、ここまでやって来たのである。
 しかしわれわれは、貴重なわれわれの宝であるビッグ・ツーを一度に失ってしまった。風戸君はわれわれのカンバン男であった。あのノーブルなキャラクターは、多くの若いレース・ファンの心をとらえ、育てていたのである。そしてもうひとり、ベテラン鈴木誠一さん。この人はぼくの育ての親でもある。彼の存在はちょうどレース界の重鎮ともいうべきもので、まるでいぶし銀のような花やかではないが、鈍く力強く光る底力があった。彼の人生こそ、まさにモーターススポーツそのもので、次の彼の仕事は、この愛すべきスポーツをもっと力強く花咲かせることであったのである。将来、彼にどんなに、底辺の育成に貢献し、また安価なマシンを提供してくれたことかと思うと、思わず目の前がまっくらになってしまう。


プラクティス走行中にクラッシュしたため、ローラT212から急遽ローラT290のコクピットにすわる
「レーシングオン」2008年6月号所載より
 

さて、このふたりのアクシデントはまったくのもらい事故であった。前方を走る2台のマシンの接触。そしてアウトに飛びだしたマシンがスピンし、後続の群の中に突っ込んだのである。そして数台のマシンが入り乱れて飛び散り、不幸にもこのふたりのマシンはガードレ一ルに激突、もっともひどい結果となったのだった。
 われわれはこのさい謙虚に、ふたつの反省をせねばならない。そのひとつに、ドライバー自身のレースに対する受けとりかたである。

 いくら勝つためとはいえ、必要以上のヒートは許されないのだ。そこには暗黙のうちにある約束ごとが、マナーという言葉で存在するはずある。たとえば、バンクの入り口で、2台のマシンがまったく並進していたような時には、あきらかにアウト側のマシンに優先権があり、このばあいイン側のマシンは進路をゆずるというのが原則なのだ。
 なぜならばイン側のマシンはそのラインでは速度を落とさずに、バンクを通過することはできないからである。

 しかし逆にヘヤピン・コーナーではまったく反対になる。2台のマシンが並進してとび込んだばあい、イン側のマシンに優先権が与えられる。なぜならイン側のマシンがターンした時、わずかに鼻先を出すことになるからである。つまり先ほどのバンクの例では、すでに直線のアプローチで、アウト側を取った者のほうが、有利なポジションをすでにつかんでおり、この時点ですでにイン側のマシンは負けているわけだ。
ヘヤピンの例もそれで、アプローチで、イン側のほうがそれだけ勝っていることになる(いずれの例も並進しているばあいで、つまり頭はまったく同列にあるばあいをいう)。
もしこの原則を無視して、そのまま2台のマシンがラインをめいめい進んだとすると、
必然的に接触してしまうことになるだろう。接触するレースは最低といえる。なんらかのトラブルで、やむなく接触したのは別として、追い越しのテクニックに、接触させるなどとんでもない。
うまいドライバーは紙一重で接触をさける。だからこそ神技と呼ばれるわけで、接触させてしまうことなんか、免許取りたてのドライバーなら誰でもできる。レースはメンタルなテクニックで戦うべきもので、互いに心理的なかけ引きや、あっというまにスルリと抜きさるのが、ハイテクニックであろう。ドタドタとした重トラックのぶつかり合いじゃない。互いに相手をいたわって最後の一線は残してやるのが真のレーシング・ドライバー・スピリットだろう。

ぼくが予選の日の朝、横山コーナーで自分のオイルを踏んでスピン、ガードレールにクラッシュした時、すぐに止まって助けようとコクピットから出たふたりのドライバーがいた。僕はとても嬉しかった。同じレースにすべてをかけあっている者にしかわからぬ友情をひしひし感じ取ったからなのだ。そのふたりのドライバーとは黒沢選手と北野選手だったのである。

 さて、いっぽうマシンのほうも、安全対策をほどこすべきである。なんといっても、クラッシュするとすぐに火がつく。鈴木さんのマシンもコース上で、クラッシュしたとたん火を吹いてしまったのである。
 セーフティ・フューエル・バツグも、ボディ両サイドにあったんじゃたまらない。なにしろクラッシュするとまず、この側面が真っ先きにふっ飛んでしまい、ガソリンがキリ吹きみたいに吹き出し、一種のキャブレターになってしまう。あとは空気中の酸素を得て大爆発! つまりセーフティ・バッグなど、クソの役にも立たない。中野選手の事故も、ガードレールに激突したとたん、火につつまれてしまっている。もう絶対に火を出すべきではない。火さえ出さなければ、中野君も、風戸君も、そして誠さんもたすかっていたにちがいない。いや絶対に助かっていた。

 だからタンクの位置を、中央部に移動すべきなのだ。理想的なのはエンジンとシートとの間だが、手取り早くはコ・ドライバー・シートにタンクを置くことだろう。ここであればまず、99%、タンクが破裂することはなかろう。もし、ここまでシャシーのダメージがあるのなら、残念ながらドライバーはあきらめなければならないだろう。つまり、どちららにしてもだめな時だ。しかし過去の例で、ここまでダメージを受けたことをぼくは知らない。(中略:この後、消火器について提言している)
 
 とにかく、われわれはこのあやまちを2度とくりかえしてはならない。ふたり、いや3人の死をむだにしないためにも、安全で楽しいレースにするのがわれわれに課せられた使命であろう。
Posted at 2011/10/25 02:08:58 | コメント(6) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年10月22日 イイね!

君のいないサーキットの秋深し! 風に消されたトオルへ(Ⅱ)


『たった一度のポールポジション』(講談社刊)の裏表紙より


ピットでトオルを待つメットとスーツ

*誘惑の章/群がるサーキットGAL。クラッシュ、リタイアの試練。

 5月の鈴鹿JPSレースは、高橋徹の話題でもちきりであった。公式予選でコースレコードを叩き出したからだ。1分56秒46。そのころ絶好調の松本恵二はうめいた。
「予選用タイヤで57秒10。こらいけると思うたら、トオルが簡単に同じタイヤで56秒や。まいったネ。本番ではコーナーを深く突っ込んでからブレーキングでブロックしてやるか!」

 これほどベテラン勢の心胆を寒からしめたヤングタイガーがほかにいただろうか。中嶋悟にしても、決勝レースで徹を背後から脅かしたものの、シケインで接近しすぎ、カウルを飛ばしてしまう始末。

が、夏場に入ると徹の勢いがとまった。7月のゴールデントロフィーはスプーンでクラッシュ。ピットにたどりついたときには完全な脱水状態に陥っていた。

「まるでマラソンを完走してきたときのように、心臓はドキドキするし、やっぱり体力を鍛えなければ……」

 徹は謙虚だった。が、このころから、女性問題もチラホラしはじめた。
久しぶりに現われた<若々しいタイガー>に鈴鹿のレースクィーンたちはもとより、いろんなタイプの女性が徹の周辺を賑わしていたのは事実だ。

 こんな話もあった。東京の私立大三年生、岸本加世子と斉藤ゆう子を足して2で割ったような活発なお嬢さんの告白。

「JPSの表彰パーティの席だったかしら、トオルから小さな紙切れを渡されたのよ。白子のアパートの電話番号が書いてあったわ」
何度かのデート。が、徹が四日市の女子高生とつき合っているのが露見して、一時は完全に冷たい仲に――。

「あれほど積極的にいろんな女性に求愛されるとまいるよね。トオルは根がやさしいものだから、一つ一つ誠実にこたえようとした。で、いろいろもめて」
徹の相談役として、いつも行動をともにした伊藤章裕(ハヤシレーシング・設計担当)は、むしろサーキットギャルたちの異常なフィーバーぶりに顔を顰(しか)める。大藪春彦の『汚れた英雄』の主人公・北野晶夫なら、大物女性だけをクールに狙い撃ちして自らを大きくしていったけど、現実のヒーローはその程度にあどけなかった。

*別れの章/10月23日 pm l・30、星野を追ってキミは疾駆した
10月23日がきた。富士スピードウェイ、GCの最終戦である。来年の契約もある。徹がここで一発勝負を狙うかもしれぬ。そんな予感がした。が、FISCOは徹にとってあまりゲンのいいサーキットとはいえなかった。GCは第1戦で6位に入賞しただけで、あとの2戦は完走できないでいる。予選5位。スタート前のセレモニーに入る直前、徹との短い最後の会話。

「どう? 走りこんでるかい?」
「シーズン中はなかなかそうもいかなくって。考えてみると、シーズン前に6回も自主トレで走りこめたのがよかったし、ワークス用のBMWエンジンもよく回ってた……でも、ここへきていい調子ですよ」
「そう。こんどの鈴鹿グランプリのとき、またメシでも」
「はい。たのしみにしています」
「タイヤは?」
「ソフトでいきます」
じゃあ、と軽く右手をあげて微笑した徹。とくに気負いもなく、いつもどおりだった。

 午後1時30分、スタート。コントロールタワーの下でスタートを見てから、ヘアピンを見届けるべく、駆け足でパドックを横切る。
星野がトップできた。その背後に白いマシン、徹だ!
そして2周目、再びヘアピンで星野に追いすがる徹。星野の序盤でのもの凄くハイペースな走りは定評のあるところだ。
徹よ、ムキになっちゃいけない。星野は完走を計算してハードのタイヤを選んでいる。ソフトのきみの方がグリップはいい。それを錯覚して今日はいける、と思ったら大間違いだぞ。
後続集団はグーンと遅れている。さあ、3周目のヘアピンまでどう来るか?

 と、そのときだ。ピットの様子が異常だ。総立ちで最終コーナーあたりを凝視している。異変がおこったらしい。一瞬のうちにGCマシンの轟音が、ストレートを駆け抜ける。だれがやったのか。

 ヘアピンには、まず星野がきた。続いて高橋国光の赤と黒のマシン。徹がいない!

 

 赤旗が出た。レース中断だ。マーシャルカー、救急車、レッカー車が禍々しいサイレンを鳴らしながら最終コーナーへむかった。ぼくも駆けた。バドックの金網フェンスに沿って。
 行き止まりは救急室だった。遠くから救急車のサイレンが近づく。ふらりと幽鬼のように降り立ったのは、レーシングスーツ姿の中子修だった。

「あ、高橋徹は無事なのか」
一瞬の安堵。が、次に担架がかつぎこまれた。耐火マスクをつけたその下の顔は、紛れもなく、高橋徹のものだった。
苦痛に耐えながら、歯をくいしばり、目を閉じている――ぼくにはそうとしか見えなかった。何かの拍子に、ピクンと下半身が跳ねた。

 ほんとうにきみが強運の持ち主なら、そう、つい先日、同じ場所で翔んでいる松本恵二のように、不死身でなければならない。ほら、そこできみを病院へ運ぶべく、ヘリコプターが待機しているじゃないか。

*鎮魂の章/キミのコース記録が鈴鹿から消える朝が訪れた……。

20分が経った。その間、ぼくはひたすら待った。黒いスーツの女性が担ぎこまれたとき、彼女の白く凍りついた目を見て、これは駄目だと直感した。付添いのボーイフレンドらしい青年の号泣する声が外まで洩れてくる。かれらは観客席にいて受難したらしい。そこまで、徹のマシンは翔んでいったのか。

 やがて、救急隊負のひとりが出てくるなり、ヘリコプターにむかって、両手を交差するサインを送った。
その瞬間、いつでも飛び立てるように回り続けていた羽根がピタリと止まった。
一つの死を知った。なにものにも換えがたい、若くてでっかい星が消えた。
やがて、レースはなにごともなかったかのように、再開された。日没は近かった。
*     *     *     *     *

1983年11月6日、鈴鹿サーキット・F2の最終戦――JAF鈴鹿グランプリ決勝レースがはじまろうとしていた。
高橋徹の5歳上の実兄・邦雄と話しこんでいた。


トオルにレースを教えた兄・敏雄と話し合った(右・鈴鹿サーキットで)

「あいつをレースに惹きこんだのはぼくですよ。免許のとれたその日に、ぼくのスカGXを譲ってやった。それも2・4リットルにポアアップしたノンスリップデフつきのシャコタンや。ところが徹はその日のうちにフェンスに貼りついた。そんなやつがみるみるうちにうまくなって、F2にまで乗って、あっという間に遠いところへ逝ったんですよね。葬式には、星野、松本、中嶋さんもお越しいただいたし、盛大でした。彼の故郷の西条ですか? 広島駅から大阪方面に戻る感じで、賀茂鶴と造園が名物、水の美味しい町ですよ」

 その日の朝まで、鈴鹿サーキットのVIP室の壁面には、コースレコードを表彰する高橋徹のカラー写真と記録板が飾られてあったが、さっさと中嶋悟のものにとり替えられてしまった。発泡剤でできた白いボードが、部屋の片隅に、ポツンと。拾い上げると、軽くて頼りない。断って、ぼくがいただくことにした。後日、人を介して、高橋家に届けてもらった。実兄の敏雄とあっているとき、そのことは忘れていた。だから、トオルのボードが消えたことだけを伝えたに過ぎなかった。

「そうですか。寂しいですね」
兄の邦雄はポツリといった。
「これから徹のアパートに寄ってから、あいつのシルバーメタのファミリアを受取り、広島まで運びますわ。だれか大事にしてくれる人がいたら、譲ってもいいなあ。あいつ、すごく綺麗好きだったから」

 ぽっかりの穴のあいた鈴鹿の秋。サーキットを吹き抜ける風に、冬が近づいたことを告げる冷たさが加わっていた。風が吹き消していった代償の大きさに気づくのは、これからだろう。

§このあと、トオル君と同じ世代の萩原光、アイルトン・セナと巨きな星が消えていった。

*     *     *     *     *

『ベストカーガイド』1984年1月号が発売された直後、ブリヂストン・タイヤのモータースポーツ部門を統括していた西川室長から、丁寧な電話をいただいた。「クルマ雑誌」でこういうレーシングドライバーの捉え方をされたのを、初めて読んだ。近く会って、トオル君を偲ぶ時間を持たないか、というお誘いだった。



高橋徹という天才ドライバーについては2冊の著作が、その後、発表されている。
1989年3月、「たった一度のポールポジション」(講談社刊)というタイトルで、一志治夫という若い(当時33歳)ルポライターが、トオル君の23年を詳細に記録してくれた。あとがきを読むと、ぼくが1974年から77年まで編集長を務めた「月刊現代」の取材記者で、出身大学の学部も学科も全く同じで、まるで自分の経歴を見せられたような不思議な偶然に、なにかの絆を感じ取ったものです。

もう一つは、黒井尚志さんが『レーサーの死』(双葉社刊・2006年6月発行)のなかで「天国のチェッカーフラッグ」の章をもうけて、高橋徹の速すぎたヒーローぶりを描いている。その中で、黒井さんはマツダスピードの統括者だった大橋孝至監督から「徹には好感を持っていました。若くて爽やかな雰囲気のある徹をぜひとも起用したかった。が、話が具体化する前に彼は逝ってしまいました」というコメントを引き出してくれている。
徹が逝った8ヶ月後、彼の事故に巻き込まれて命を落とした観客の遺族が富士スピードウェイと徹の両親を相手に民事訴訟を起こしている。損害賠償額は1億5万円だった。
「原告はドライバーに対して過失責任を問うという、一般公道上の交通事故と同じ論理を持ち込んでいる」
 黒井さんの著作は、ぼくらの知らなかった訴訟の内情を的確に伝えてくれる。
「その訴状には最終コーナーをヘアピンと誤記するなど、いくつかの間違いが記されていた。
だが、それは大した問題ではない。より重要なのはレース関係者が誰ひとりとして高橋家を弁護しようとしなかったことだ。それが間接的に原告の主張を肯定することになることに気づく者さえいなかった。レースにおけるドライバーはクルマやタイヤと同じく、競技を開催するうえで必要なコマでしかない。だが結果的にレース関係者はそのとき、死んだひとつのコマにすべての責任を押し付けようとしていたのだ」

一志治夫さんも、「あとがきにかえて」のなかで、この訴訟の成り行きを伝えてくれる。
「裁判は、この訴提起から1年9ヶ月にわたって続いた。
訴提起から1年5ヵ月後、西村国彦ら高橋家側の弁護団は、レース公認団体の日本自動車連盟、所属チームの有限会社ヒーローズ・レーシング・コーポレーション、GCマシンのカウル設計者、由良拓也並びにムーンクラフトに対して「ともに裁判に参加して戦わないと高橋家のみならずあなた方にもふりになりますよ」と呼びかける訴訟告知を行う。そして、この訴訟告知により状況は一変する」
原告側の弁護士が裁判所の和解勧告に心を動かし、高橋家に対する請求を放棄することになる。和解内容は、富士スピードウェイは原告に対し4千万円を支払う。原告は高橋家に対する請求を全額放棄、というものだった。高橋徹に責任なし、となったわけだが、結局事故原因は解明されなかった。

黒井さんはもうひとつ、書き加えている。高橋家に訴訟の方向を大転換させた西村弁護士を高橋家に紹介したのが、中部博さんだったということです。また一つ、見えざる一本の糸に結ばれている.。
Posted at 2011/10/22 02:00:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | 局長の仕事 | 日記
2011年10月21日 イイね!

風に消された23歳・高橋徹の光と影

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 ベストカーガイド1984年の新年号。カラー2ページと活版4ページをあてて、その頃からすでに編集長だった勝股優君(現在は講談社ビーシー社長)が、「局長、思いっきり、好きなように書いてください」と、83年10月23日、富士スピードウェイの最終コーナーでスピン、風に舞いあげられて消えていった高橋徹のヒューマン・ストーリーの執筆を求めてきた。否も応もない。その前年から、黒沢元治さんのレース復帰をサポートするという名目で、鈴鹿サーキットでの「スーパーCIVIC」に入れあげていたのは事実である。その弱み(?)を勝股君に、うまく衝かれたわけだ。

「シリーズひとつの顔」という通しタイトルが用意されていた。祭りの夜の打ち上げ花火のようにあざやかな光と色を残して……。そのイメージは、いま考えてみれば、はなはだ通俗的で、赤面ものだが、サーキットという「生きた現場」には、編集者として、それだけの「宝石」が無尽蔵に埋め込まれていたのを伝えるいい機会だ。書き出しもすぐに決まった。キザにいこう。高橋徹君にはそれが似合っている、と決めつけて……。

「もしも――あの富士スピードウェイ最終コーナーの不運な惨劇がなかったなら」と書きはじめた。そう、トオルがルマンを走るはずだったのだ! いわゆる特ダネというやつで、マツダも本気で取り組んでいたし、そのアイディアの火元は、知る人ぞ知る。もう言っていいだろう。実は、このぼくだった。

だから、こう書けた。以下、ベストカーガイドの誌面をしばらく、忠実にひき写してみたい。

もしも──あの富士スピードウェイ最終コーナーの不運な惨劇さえなかったなら、高橋徹・23歳は、84年ルマン24時間耐久レースのドライバーとして、ミュルサンヌの長いストレートを晴れやかに駆け抜けていたかもしれない。
その可能性はひどく濃かった。そのことを、本人は知る暇もなく、祭りの夜の打ち上げ花火のように、鮮やかな光と色で周囲を楽しませながら、あっさりと消えていってしまった。

「ご存じのように、東洋工業はルマンに挑戦しています。83年は完走してクラス優勝もした。いまは片山・従野・寺田といったベテランドライバーが中心ですが、それに、若くって可能性のある高橋徹を加えてはどうか、という狙いでした。天性のドライブテクニックは、この1年で磨きがかかってきたし、あの甘いマスク、スターになる要素は充分ですよ。それになによりも、彼は広島の出身。力の入れ甲斐もある。で、社内で意見もまとまり、提示する条件面もふくめて交渉を開始しようかなという時に……気の毒な事故でした」

徹クンの死を悼みながら、東洋工業広報室・島崎文治主任は意外な事実を明かしてくれた。

10年前の石油危機以降、自動車メーカーのモータースポーツへのかかわりは、消極的の一語につきた。が、ここへきて間違いなく「雪解け」しはじめている。なかでもホンダに続いて東洋工業が本格的に取り組もうとしている。その一環が「高橋徹獲得作戦」だったわけである。トヨタも日産も、エンジン供給はしてもドライバーにまで目をむけてはいない。それだけに東洋工業の動きには新しさがあった。

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83年夏、トオル親衛隊に囲まれて(鈴鹿・白子海岸)

*夏の章/稼ぎは5ヵ月で100万。走って勝ってナンボの世界です
 
 本人は知る暇もなく、と前に書いた。厳密にいえば、高橋徹はぼんやりと予感していた。それは、鈴鹿耐久8時間オートバイレースのあった翌日、真夏の昼下がりであった。
サーキットの外で初めて高橋徹と会った。ハヤシレーシングの事務所で待ち合わせ、鈴鹿サーキットのレストラン「プラタナス」で昼食をとることにした。この夏はウインドサーフィンで足腰を鍛えているという。だから、真っ黒に陽焼けしていた。
ズバリ、訊く。
「収入は?」
「F2の賞金の20パーセントだけです」
「契約金なし?」
「はい。ステップアップして、名門のヒーローズレーシングで走らせてもらえるだけでハッピーです。勝ってなンぼ、すっきりしてて、ええですわ」

白い歯をみせる。なんと爽やかな雰囲気をもった、あどけない青年だろう。
すばやく計算してみた。F2にデビューして以来の戦績は、3月の鈴鹿2&4が2位で250万円、富士GC第1戦が6位で65万円、4月の富士F2は途中リタイア、5月になって、GC第2戦はリタイア、西日本F2が6位で60万円、そして29日の鈴鹿JPSは3位入賞で150万円、7月は鈴鹿ゴールデントロフィーでリタイア.となると獲得賞金総額は524万円で本人の手取りは105万円にすぎないじゃないか。

「5ヶ月間で100万円ちょっとか? レーシングドライバーって見た目は華やかだけどゼニにならない商売だね」
うなずきながら、高橋徹は薄く笑った。それでも、広島の工業高校を卒業しないままレーサーを志し、親から買ってもらった鴻ノ池スピードのFLマシンを鈴鹿にもちこんだ3年の苦しさにくらべると、いまの環境は夢のようだという。

アルバイトの連続だった。街頭にならぶコカコーラなどの、自動販売機に缶を入れ替える仕事のかたわら、新人登竜門である鈴鹿シルバーカップに挑む。FL550部門チャンプとなった。同じアルバイトをするならウチに来いよ、とハヤシレーシングが誘ってくれた。

「FL550をハヤシ712で走れるようになったうえに、FJ1600をハヤシ410Jの開発テストもかねて走らせてもらったんです。成績はソコソコやったけど、次の年にF3にステップアップできました。懐ろはいつもピーピーですわ。こないだも電話代が落とせんいうて、銀行から怒られました」
「走らないときは、アルバイトすればいいじゃないか?」
「いや、監督(注・田中弘氏)に怒られます。F2ドライバーはどんなに苦しくても、それだけに賭けろいうて。それにタイヤテストなんかで結構、忙しいことはいそがしいんです」
そんな雑談を交わしているとき、ふと、東洋工業関係者が高橋徹に強い関心を示しはじめたことに思いがいたった。
「実際に決まるまでには、いろいろ障害があるかもしれないが、もし東洋工業がワークスドライバーとして誘ってくれたら、どうする?」
「えっ! 東洋工業ですか? トヨタか日産が来てくれませんかね」

そのときだけは、ふてぶてしい素顔をみせた。その夜、鈴鹿のカラオケ・スナックで、高橋徹の友人を交えて飲むことになった。アルコールはほとんどやらない。それでいて、元気よくマイクを握った。よく透るやさしい声で、渡辺徹のヒットナンバー「約束」を歌ったあとで、本音をチラリ。
「ぼく、ファミリアに乗ってます。ええ脚をしたクルマです。東洋工業の人、いつ会いに来てくれるんやろ」

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星野にくらべてトオルの首が右へ傾き過ぎるのが、よくわかる

*萌える章/底辺の若者がF2を乗りこなした!

  高橋徹ほど、強運を背負ったレーサーはいない、とレース関係者は信じていた。82年末のF2ストーブリーグは例年になく派手な火の手をあげた。中嶋悟をうしなったⅠ&Ⅰの生沢徹はNo,2ドライバーに高橋徹をもってくるつもりだった。
「オーディションをやっても断然光っていたものね。どこがいいっていうより、ステアリングを握ったときのフィーリング、あれはタダモノじゃなかった」
と、今でも生沢徹は、高橋徹を思い出しては目を細める。
「ウチに任しといてくれれば、もっとじっくり育てたのに」

 しかし、高橋徹はヒーローズレーシングの田中弘監督に身柄を預けた。ところがヒーローズのエース星野一義が独立を宣言してしまった。
「あのときはあわてた。でも割り切って1年間我慢してこの新人を育てるしかない」
と、田中監督は腹をくくった。ところがその新人が公開練習でベストタイムを叩き出し、予選でも4番手の位置を握った。

 3月13日の鈴鹿F2第1戦は朝から雨、コースのいたるところに水溜まりと川をつくっていた。レースは30周から24周に短縮されたとはいえ、ルーキーには厳しすぎる条件だった。高橋徹のユニベックス・マーチ832が水煙で全く前方の見えない第1コーナーへ突進。
1周目は6位で帰ってきた。9周目、4位。12周目にリースをとらえ3位に浮上、なんと前を行くのはヒーローズの先輩、中嶋と星野である。その日本を代表する二人のレーサーのラインを盗める最大の機会がやってきたのだ。そして21周目、大波乱が起きた。2番手の星野の右リアタイヤからエアが漏れ、極端にスピードが落ちはじめたではないか。最終ラップ、ヘアピンで徹は星野をパスした。

「運も実力のうち。徹はポテンシャルがある。あとは本人の努力次第さ」(田中弘監督)
「こら、えらいこっちゃ。モータースポーツの底辺からF2をこなせる若いドライバーが生まれたわけやから」(ハヤシレーシング林将一オーナー)

 これだけのことをやってのけた高橋徹に「十年にひとり出るか出ないかの逸材だ!」
といった賛辞が寄せられたのも自然のなりゆきだったかもしれない。そんな中で、ぼくの知る限りでは黒沢元治だけは、厳しい目をむけていた。

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ガンさんのアドバイスを素直な笑顔で受け止めるトオル
「レースはそんなに甘いもんじゃない。たしかにエジェ・エルグ(3位)に追い上げられてもミスをおかさなかったのはたいしたものだが、1レースだけでは判斬できない。これから夏場にむかって体力を消粍するときに最後までコンスタントなタイムで持続できるかどうか。コックピットの中の暑さは殺人的だ。それとコーナーで徹は首を曲げすぎる。あれは横Gに耐えるだけの鍛練ができていない証拠。本人のために、周囲がチヤホヤせず、厳しく育てれば素晴らしいレーサーになると思うよ。クラッシュしたり、スピンしたりしながら、彼が何を掴むか、だ」

 こうして、若い、いまでいう「イケメン」のスター・ドライバーが誕生した。すると何が起こるか。つぎのアップまで、お待ちあれ。

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Posted at 2011/10/21 00:08:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | 局長の仕事 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「3連休中日、富士フレッシュマンレースで青春を燃やした中・老年男の同窓会をFBで速報。今を支えるエネルギー源を確認。そのせいか翌24日のみんカラPVレポート欄の第1位は【還ってきた愛しのEXA】。FBレポート末尾でリンクした8年前のみんカラブログに未読の仲間が訪問してくれたわけか。」
何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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