『たった一度のポールポジション』(講談社刊)の裏表紙より
ピットでトオルを待つメットとスーツ
*誘惑の章/群がるサーキットGAL。クラッシュ、リタイアの試練。
5月の鈴鹿JPSレースは、高橋徹の話題でもちきりであった。公式予選でコースレコードを叩き出したからだ。1分56秒46。そのころ絶好調の松本恵二はうめいた。
「予選用タイヤで57秒10。こらいけると思うたら、トオルが簡単に同じタイヤで56秒や。まいったネ。本番ではコーナーを深く突っ込んでからブレーキングでブロックしてやるか!」
これほどベテラン勢の心胆を寒からしめたヤングタイガーがほかにいただろうか。中嶋悟にしても、決勝レースで徹を背後から脅かしたものの、シケインで接近しすぎ、カウルを飛ばしてしまう始末。
が、夏場に入ると徹の勢いがとまった。7月のゴールデントロフィーはスプーンでクラッシュ。ピットにたどりついたときには完全な脱水状態に陥っていた。
「まるでマラソンを完走してきたときのように、心臓はドキドキするし、やっぱり体力を鍛えなければ……」
徹は謙虚だった。が、このころから、女性問題もチラホラしはじめた。
久しぶりに現われた<若々しいタイガー>に鈴鹿のレースクィーンたちはもとより、いろんなタイプの女性が徹の周辺を賑わしていたのは事実だ。
こんな話もあった。東京の私立大三年生、岸本加世子と斉藤ゆう子を足して2で割ったような活発なお嬢さんの告白。
「JPSの表彰パーティの席だったかしら、トオルから小さな紙切れを渡されたのよ。白子のアパートの電話番号が書いてあったわ」
何度かのデート。が、徹が四日市の女子高生とつき合っているのが露見して、一時は完全に冷たい仲に――。
「あれほど積極的にいろんな女性に求愛されるとまいるよね。トオルは根がやさしいものだから、一つ一つ誠実にこたえようとした。で、いろいろもめて」
徹の相談役として、いつも行動をともにした伊藤章裕(ハヤシレーシング・設計担当)は、むしろサーキットギャルたちの異常なフィーバーぶりに顔を顰(しか)める。大藪春彦の『汚れた英雄』の主人公・北野晶夫なら、大物女性だけをクールに狙い撃ちして自らを大きくしていったけど、現実のヒーローはその程度にあどけなかった。
*別れの章/10月23日 pm l・30、星野を追ってキミは疾駆した
10月23日がきた。富士スピードウェイ、GCの最終戦である。来年の契約もある。徹がここで一発勝負を狙うかもしれぬ。そんな予感がした。が、FISCOは徹にとってあまりゲンのいいサーキットとはいえなかった。GCは第1戦で6位に入賞しただけで、あとの2戦は完走できないでいる。予選5位。スタート前のセレモニーに入る直前、徹との短い最後の会話。
「どう? 走りこんでるかい?」
「シーズン中はなかなかそうもいかなくって。考えてみると、シーズン前に6回も自主トレで走りこめたのがよかったし、ワークス用のBMWエンジンもよく回ってた……でも、ここへきていい調子ですよ」
「そう。こんどの鈴鹿グランプリのとき、またメシでも」
「はい。たのしみにしています」
「タイヤは?」
「ソフトでいきます」
じゃあ、と軽く右手をあげて微笑した徹。とくに気負いもなく、いつもどおりだった。
午後1時30分、スタート。コントロールタワーの下でスタートを見てから、ヘアピンを見届けるべく、駆け足でパドックを横切る。
星野がトップできた。その背後に白いマシン、徹だ!
そして2周目、再びヘアピンで星野に追いすがる徹。星野の序盤でのもの凄くハイペースな走りは定評のあるところだ。
徹よ、ムキになっちゃいけない。星野は完走を計算してハードのタイヤを選んでいる。ソフトのきみの方がグリップはいい。それを錯覚して今日はいける、と思ったら大間違いだぞ。
後続集団はグーンと遅れている。さあ、3周目のヘアピンまでどう来るか?
と、そのときだ。ピットの様子が異常だ。総立ちで最終コーナーあたりを凝視している。異変がおこったらしい。一瞬のうちにGCマシンの轟音が、ストレートを駆け抜ける。だれがやったのか。
ヘアピンには、まず星野がきた。続いて高橋国光の赤と黒のマシン。徹がいない!
赤旗が出た。レース中断だ。マーシャルカー、救急車、レッカー車が禍々しいサイレンを鳴らしながら最終コーナーへむかった。ぼくも駆けた。バドックの金網フェンスに沿って。
行き止まりは救急室だった。遠くから救急車のサイレンが近づく。ふらりと幽鬼のように降り立ったのは、レーシングスーツ姿の中子修だった。
「あ、高橋徹は無事なのか」
一瞬の安堵。が、次に担架がかつぎこまれた。耐火マスクをつけたその下の顔は、紛れもなく、高橋徹のものだった。
苦痛に耐えながら、歯をくいしばり、目を閉じている――ぼくにはそうとしか見えなかった。何かの拍子に、ピクンと下半身が跳ねた。
ほんとうにきみが強運の持ち主なら、そう、つい先日、同じ場所で翔んでいる松本恵二のように、不死身でなければならない。ほら、そこできみを病院へ運ぶべく、ヘリコプターが待機しているじゃないか。
*鎮魂の章/キミのコース記録が鈴鹿から消える朝が訪れた……。
20分が経った。その間、ぼくはひたすら待った。黒いスーツの女性が担ぎこまれたとき、彼女の白く凍りついた目を見て、これは駄目だと直感した。付添いのボーイフレンドらしい青年の号泣する声が外まで洩れてくる。かれらは観客席にいて受難したらしい。そこまで、徹のマシンは翔んでいったのか。
やがて、救急隊負のひとりが出てくるなり、ヘリコプターにむかって、両手を交差するサインを送った。
その瞬間、いつでも飛び立てるように回り続けていた羽根がピタリと止まった。
一つの死を知った。なにものにも換えがたい、若くてでっかい星が消えた。
やがて、レースはなにごともなかったかのように、再開された。日没は近かった。
* * * * *
1983年11月6日、鈴鹿サーキット・F2の最終戦――JAF鈴鹿グランプリ決勝レースがはじまろうとしていた。
高橋徹の5歳上の実兄・邦雄と話しこんでいた。
トオルにレースを教えた兄・敏雄と話し合った(右・鈴鹿サーキットで)
「あいつをレースに惹きこんだのはぼくですよ。免許のとれたその日に、ぼくのスカGXを譲ってやった。それも2・4リットルにポアアップしたノンスリップデフつきのシャコタンや。ところが徹はその日のうちにフェンスに貼りついた。そんなやつがみるみるうちにうまくなって、F2にまで乗って、あっという間に遠いところへ逝ったんですよね。葬式には、星野、松本、中嶋さんもお越しいただいたし、盛大でした。彼の故郷の西条ですか? 広島駅から大阪方面に戻る感じで、賀茂鶴と造園が名物、水の美味しい町ですよ」
その日の朝まで、鈴鹿サーキットのVIP室の壁面には、コースレコードを表彰する高橋徹のカラー写真と記録板が飾られてあったが、さっさと中嶋悟のものにとり替えられてしまった。発泡剤でできた白いボードが、部屋の片隅に、ポツンと。拾い上げると、軽くて頼りない。断って、ぼくがいただくことにした。後日、人を介して、高橋家に届けてもらった。実兄の敏雄とあっているとき、そのことは忘れていた。だから、トオルのボードが消えたことだけを伝えたに過ぎなかった。
「そうですか。寂しいですね」
兄の邦雄はポツリといった。
「これから徹のアパートに寄ってから、あいつのシルバーメタのファミリアを受取り、広島まで運びますわ。だれか大事にしてくれる人がいたら、譲ってもいいなあ。あいつ、すごく綺麗好きだったから」
ぽっかりの穴のあいた鈴鹿の秋。サーキットを吹き抜ける風に、冬が近づいたことを告げる冷たさが加わっていた。風が吹き消していった代償の大きさに気づくのは、これからだろう。
§このあと、トオル君と同じ世代の萩原光、アイルトン・セナと巨きな星が消えていった。
* * * * *
『ベストカーガイド』1984年1月号が発売された直後、ブリヂストン・タイヤのモータースポーツ部門を統括していた西川室長から、丁寧な電話をいただいた。「クルマ雑誌」でこういうレーシングドライバーの捉え方をされたのを、初めて読んだ。近く会って、トオル君を偲ぶ時間を持たないか、というお誘いだった。
高橋徹という天才ドライバーについては2冊の著作が、その後、発表されている。
1989年3月、「たった一度のポールポジション」(講談社刊)というタイトルで、一志治夫という若い(当時33歳)ルポライターが、トオル君の23年を詳細に記録してくれた。あとがきを読むと、ぼくが1974年から77年まで編集長を務めた「月刊現代」の取材記者で、出身大学の学部も学科も全く同じで、まるで自分の経歴を見せられたような不思議な偶然に、なにかの絆を感じ取ったものです。
もう一つは、黒井尚志さんが『レーサーの死』(双葉社刊・2006年6月発行)のなかで「天国のチェッカーフラッグ」の章をもうけて、高橋徹の速すぎたヒーローぶりを描いている。その中で、黒井さんはマツダスピードの統括者だった大橋孝至監督から「徹には好感を持っていました。若くて爽やかな雰囲気のある徹をぜひとも起用したかった。が、話が具体化する前に彼は逝ってしまいました」というコメントを引き出してくれている。
徹が逝った8ヶ月後、彼の事故に巻き込まれて命を落とした観客の遺族が富士スピードウェイと徹の両親を相手に民事訴訟を起こしている。損害賠償額は1億5万円だった。
「原告はドライバーに対して過失責任を問うという、一般公道上の交通事故と同じ論理を持ち込んでいる」
黒井さんの著作は、ぼくらの知らなかった訴訟の内情を的確に伝えてくれる。
「その訴状には最終コーナーをヘアピンと誤記するなど、いくつかの間違いが記されていた。
だが、それは大した問題ではない。より重要なのはレース関係者が誰ひとりとして高橋家を弁護しようとしなかったことだ。それが間接的に原告の主張を肯定することになることに気づく者さえいなかった。レースにおけるドライバーはクルマやタイヤと同じく、競技を開催するうえで必要なコマでしかない。だが結果的にレース関係者はそのとき、死んだひとつのコマにすべての責任を押し付けようとしていたのだ」
一志治夫さんも、「あとがきにかえて」のなかで、この訴訟の成り行きを伝えてくれる。
「裁判は、この訴提起から1年9ヶ月にわたって続いた。
訴提起から1年5ヵ月後、西村国彦ら高橋家側の弁護団は、レース公認団体の日本自動車連盟、所属チームの有限会社ヒーローズ・レーシング・コーポレーション、GCマシンのカウル設計者、由良拓也並びにムーンクラフトに対して「ともに裁判に参加して戦わないと高橋家のみならずあなた方にもふりになりますよ」と呼びかける訴訟告知を行う。そして、この訴訟告知により状況は一変する」
原告側の弁護士が裁判所の和解勧告に心を動かし、高橋家に対する請求を放棄することになる。和解内容は、富士スピードウェイは原告に対し4千万円を支払う。原告は高橋家に対する請求を全額放棄、というものだった。高橋徹に責任なし、となったわけだが、結局事故原因は解明されなかった。
黒井さんはもうひとつ、書き加えている。高橋家に訴訟の方向を大転換させた西村弁護士を高橋家に紹介したのが、中部博さんだったということです。また一つ、見えざる一本の糸に結ばれている.。