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正岡貞雄のブログ一覧

2011年11月29日 イイね!

炎上事故の現場見取図  ~事故から半年が経って③~

炎上事故の現場見取図  ~事故から半年が経って③~ 引きつづき『特集記事』からの引用である。

 コース内にもどったときの北野車は、ノ-ズをやや右前方に向けていた。そしてその状態のまま、きわめて速い速度でスリップしながら、コースを進行方向右斜めに横断したのだ。北野車がスリップ状態でコ-スを横断した時間はひじょうに短かく、1~2秒間くらいであったと推定される。
 コントロール不能な状態でマシン群に突入した北野車とは、つぎの順序で各車と激突、または接触した。
 ①高原車=北野車がラフに落ちてスビード・ダウンしたので、黒沢車の右斜め直後についていた高原車は、北野車の前に出た。
 その直後、スリップしながらコースにもどった北野車の右前部と高原車の左後部が接触。このため高原車の右リヤ・アッパー・アームが折れ、左リヤ・タイヤがバ-ストした。
 高原選手:「北野選手がコース内に飛び込んできて、自分のマシンの後部に激突した。このためリヤ・サスペンションが破損し、その時点でコントロール不能となってス、ピンをはじめた。そのままバンク下までスピン、グリーンでマシンはとまった」
 ②風戸車=北野車は、高原車の右後方に後続していた風戸車と鈴木車のあいだに割ってはいる力夕チとなり、まず北野車の右前部と風戸車の左後部が部か接触。第6図はそのときの各車走行位置だ。


*炎上する鈴木車に懸命の消火器で救助活動をする都平選手(「レーシングオン」2008年9月号所載)

 ③鈴木車=風戸車の接触とほとんど同時に、北野車を避けようとして急制動しながらステアリングを左に切った直後の鈴木車と接触している可能性がある。そのばあいの接触部分は、北野車の右後部と鈴木車の左前部だと思われ。る。
 津々見選手:「北野選手が横向きになってマシン群のほうに突っ込んで行ったとき、鈴木選手のマシンがなにかに突き当たったようにテールが上がった。左前部に衝撃を受けたような感じだった」
 ④米山車=北野車と風戸車の衝突を目撃した米山車は、ステアリングを右に切り、ブレーキングして回避しようとした。その直後、コース右側を走っていた川口車の右後部と米山車の右前部が接触。間髪を入れず、北野車のノーズが米山車のテールと軽く接触した。前後部を破損した米山車は、フロント・カウルを飛ばして逃げるようにショート・カットヘ移動。ショート・カット入口のアウト側グリーンに停止した。
 米山選手:「右へ逃げるとき、北野選手がボクの左サイドにぶつかり、ノーズ・カウルが飛んだ」
 ⑤漆原車=米山車と接触した北野車は、ノーズを右前方に向けた横すべり状態で漆原車の前に現われた。漆原車は回避が間に合わず、北野車のテールと漆原車のフロントが激突。北野車の上に前半車身を乗り上げたまま2車はもつれ合って右前方にスリップし、ショート・カット入口のコース・アウト側でストップした。
 漆原選手:「左前方でだれかが接触した瞬間、ボクはブレーキをこきざみに踏みながらマシンを右へよせようとした。そこへ北野選手が横にコースの左から右へ流れてきた。北野選手のマシンに乗っかった格好のまま、100メートルぐらいすべったようだ。ぶつかった時には火はもう噴いていた」
北野選手:「漆原選手のマシンをのせたまま、50mもすべっただろうか。そのときにはすでにボクのマシンは火を噴いていた」
 
 こんなにも精密で、映像に劣らないリポート。往時の久保編集長の情熱がひしひしと伝わってくる。


*「AUTO SPORT」1974年8月15日号と1975年3月に発売された「AUTO SPORT YEAR'75」に掲載された事故発生後のマシンの位置関係を示す手書きの見取り図

――話を数秒ほど過去にもどそう。北野車と接触した風戸、鈴木車は、その直後にどのような軌跡を描いただろうか?
その前に、第7図の事故現場見取り図で、事故発生現場の様子を確認しておきたい。
事故発生地点は、スタート・ラインから約650m進んだショート・カット入口付近。7番ポストと8番ポストの中間地点より、やや7番ポスト寄りである。ここからシ・ヨート・カット入口を越えた、スタート・ラインから930mまでの約280mが事故現場となった。700~830m地点のコース・アウト側は、ちょうどガード・レールの切れ目になっており、サブ・スタンド観客席のコンクリート壁がむき出しになっている。

北野車と左後部を接触した風戸車は、そのショックでマシンの向きを左に変えた。そしてコントロールを失った状態のまま、200km/h以上のスピードでグリーンに突入し、その先にあったバンクにつづくガード・レールに正面から激突。ガード・レールの支柱を2本引き抜き、最初の支柱をノーズに食わえ込んだまま高さ2~3mの空中へ跳躍。シグナル燈に激突して押し倒し、サブ・スタンドのコンクリート壁をこすりながら(地上高2m、幅4mにわたって風戸車が残しか擦過傷がある)、空中を約30m飛んで落下した。落下したときの状況は前後逆向きになっており、マシンは大破・炎上。風戸選手はステアリング・シャフトとロ一ルバーでヘルメットをはさみ打ちされながら炎に包まれた。

 ところで不思議なことがある。風戸車のブラック・マーク(全制動をかけたときにタイヤがロックして、コース上に残ったタイヤ跡のこと)が、コース上にもグリーン上にも確認されていないのだ。北野車と接触したときすでに気を失っていたのだろうか?
 いっぽう、ステアリングを左に切った鈴木車は、フル・ブレーキング状態でコース左端に進行。死のブラック・マークをくっきりと残しながら、あたかも風戸車のあとを追うようにコース・アウト。グリーンでスピンしつつ風戸車がガード・レールと激突した同じ地点に突っ込んだ。ガード・レールは直前に、風戸車によって根こそぎめくり上げられており、鈴木車は、めくれ上がったガード・レールの下に前半分を潜り込ませ、3本目の支柱に激突してストップ。風戸車がなぎ倒したシグナルにぶち当たったのだろうか、シャシーは中央バルクヘッド付近で折損し、〝くの字"に折れ曲がった状態で瞬時に炎に包まれた。

できることなら、風戸、鈴木の両車が炎に包まれ、ふたりのドライバーが命を奪われてしまう地獄絵図のような惨劇には触れたくはなかった。が、このあとの事故処理をめぐってのさまざまな状況を検証しようとするなら、やっぱり、そこを避けて通るわけにはいかないようだ。

リポートはこのあと、フェンスを乗り越えて、立ち入り禁止区域のガード・レール内側にいたカメラマンが、風戸車にはねられ、骨折し、顔面に火傷を負って、ヘリコプターで病院に収容されたことまでフォローしている。
さらに、コンクリート壁に激突したショックで、火のついたガソリンが風戸車から大量にばら撒かれて、フェンス内側で見ていた4人の観客がガソリンをかぶって負傷している、と伝え、さらに事故から運よく免れたドライバーや、観客の目には、この間の様子がどのように映っていたかを証言させていた。

寺田選手:「ピットの終わりあたりにきたら前方に土煙が見え、すぐにブレーキングした。マシンの破片がバラバラと降って来て、どこをどう抜けたかハッキリ憶えていない。現場のすぐわきを通過したとき、左右で燃えていたようだが、ハッキリわからなかった」
長谷見選手は漆原車を抜いた直後、目の前でなにかがガンときたので、右に寄って現場を抜けた、といっている。


*鈴木車が炎に包まれる。上方が北野車と漆原車(「AUTO SPORT YEAR'75』所載)  

 負傷した観客のひとりが語っている。
「スタートして間もなく、2~3台のクルマがガンガンと音を立ててぶつかったかと思うと、ガーンという轟音がして爆発した。熱風が吹きつけ、うしろむきになってよけたが、観客がいっぱいで逃げる隙もなかった」

第2ヒートのスタート直後から、北野車がグリーンに弾きだされた瞬間をカメラで捉えた稲田兄弟のひとり、健二さんのコメント。
「オープニング・ラップを撮影しようとして金網にへばりついて狙っていたら、ファインダーに風戸車の後部が浮き上がったような状態でこちらに向かって来るのが見え、一瞬観客席に飛び込むのではないかと思って慌てて逃げた。土手を這い上がろうとしたら、すぐうしろにマシンが突っこんできたような気配を感じた途端、上から白いものがたくさん降りかかってきた。あとからわかったのだが、マシンにつんでいた消火液らしい。振り返ると、黄色いマシン(鈴木車)がすでにオレンジ色の炎に包まれていた」


*折り重なるようにして炎上した北野車と漆原車(「レーシングオン」2008年5月号所載)

 コース上に舞い散る大小の破片、腹に響く衝撃音、事故の発生を知らせる場内アナウンスの絶叫、消防車や救急車のサイレン、けたたましく吹き鳴らされるポスト員のホイッスル、事故現場から立ち昇る3本の巨大な黒煙、総立ちの観客、われさきにと現場の駆けつける人の群れ――まさにあっという間の出来事だった。そして、あまりにも短い時間のあいだに、あまりにも多くのことが起こっていた。

「みんカラ」スペシャルブログ執筆陣の一人、20歳を迎える当時の伏木悦郎さんはお父上に、自分のレース活動を認めてもらうために、この日のFISCOの観客席で一緒にいて、この目を覆ってしまう事故を目撃したという。彼の人生もこの時に軌道修正を余儀なくされたに違いないが、このあっという間の出来事のもたらせたさまざまな影響を、もう少し掘り下げてみたい。
Posted at 2011/11/29 03:16:31 | コメント(2) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年11月25日 イイね!

ドライバーは証言する ~事故から半年が経って②~

ドライバーは証言する ~事故から半年が経って②~ 黒沢/北野の両車が接触したのは合計3回だった、それも約3秒の間に。その3回目の接触によって北野車がグリーンにはみ出してしまうのだが、それを目撃したドライバ―たちの証言を紹介すると、前回、約束してあるので、早速、そこからはじめよう。

 津々見(友彦)選手:〈バンクへ向かって行くとき、マシンの隊列は逆L字型になっていた。あれでバンクヘ突っこめるかなと思った。ボクの前は鈴木(誠一)選手。黒沢選手と北野選手がグングン左へ寄って行くのがわかった。その後、両車はつかず離れずの状態で2~3度接触し、次の瞬間、縁石ギリギリを走っていた北野選手が左2輪をグリーンにおとし、ついには4輪とも外へ出てしまった〉
 米山(二郎)選手:〈ボクはコースの左側を走っていた。その状態で北野選手のマシンが正常でないとみえた。ボクは反射的に右へ逃げる動作をしていた〉
 高原(敬武)選手:〈ボクの前左に北野選手。やや後ろに風戸選手がいた。黒沢選手と北野選手が数回接触するのが目にはいった。その瞬間、ボクは右へ逃げていた〉
黒沢選手:〈1回めに接触した時点から、ボクのクルマは蛇行しはじめていた。接触はたしか3回だと思う。その間、スピンしないようにマシンを立て直すことで精いっぱいだった。その間、北野選手がリードしたことはないと思う〉


*第1ヒートで4番手となった高原選手、2、3番手であった黒沢、北野の動きをすぐ後ろで目撃していた(『レーシングオン」2008年10月号所載より)


 北野選手:〈状況は前に高橋選手、右横に黒沢選手、真後ろに高原選手、後ろ右横に都平選手がいた。その瞬間、ボクの右横にいた黒沢選手の左側が接触した。とたんにボクのマシンの前カウルがあき、コントロールを失ったままコース左のグリーン地帯へ出てしまった〉

――フロント・カウルがあいたことは、ここで初めて提出された事実であった。その瞬間を記録した写真も映像もないから、いままでそのことに触れられていなかったのだと思う。
『1974.06.02――まだ振られないチェッカーフラッグ』の筆者・中部博さんは驚きの声をあげていた。この「特集記事」の存在を教示してくれたのも、中部さんである。
彼の考察はこうである。東京プリンスホテルで昼のランチを摂りながら、面談した際にも、黒沢/北野両車の接触状況の解析で、力を込めて語ってくれたのも、このカウルが開いてしまったことだった。

「北野元のマーチ735BMWは、改造がほどこされていなければマシンのノーズ側を支点として、ワンピースのフロント・カウルがそっくり前方に開くはずである。だとしたら北野元は一瞬にして視界を失ってしまう。そして間違いなく、どのようなドライビングをしようが、マシンは直進性を失う。フロン・トカウルが開くということは、そのような状態をつくる。
 だが何故、フロント・カウルが開いてしまったのか。もちろん、この特集記事は、精緻な状況分析をもって、その疑問に答えている――というのだ。

「特集記事」は、走行位置見取り図を用いて、微妙で重要なポイントの解説を試みる。

――第4図は、3回めの接触が発生した時の走行位置だ。風戸車の位置からは、黒沢車と北野車の接触状況は見えていたかもしれないが、鈴木車の斜め左前方には米山車と風戸車がいるので、見えないか、きわめて見えにくい状況だったことがわかる。
 前後3回の接触によって、黒沢、北野の両車は一部破損した。北野車の破損状況は、マシンが全焼してしまったので明確にはわからないが、1回めの接触時にボディ・カウルの一部と思われる破片が飛んできたことは、津々見選手が語っている。事故後の調査では、黒沢車のボディから破損・脱落した部分はなかったことからも、この破片は北野車のものと思われる。
 いっぽう黒沢車は、ボディ左横に白いペイントの帯(北野車のボディ・カラーと同色)が付着していたほか、左後輪ホイールの外側にボディでこすり合ったような跡があり、左前輪のエア注入バルブが破損していた。
 黒沢車の左前輪エア注入バルブ破損は、北野車と接触した時に発生したものと思われる。というのも、その後レースが中止されるまで、黒沢車のボディ左側面になに物かが接触した形跡はないからだ。ただし、前後三回にわたる接触のうち、何回めのときにエア注入バルブが破損したのか不明である。
しかし、いずれにせよエア注人バルブが折れるには、北野車のフロント右サイドか、あるいはボディ右側面に突出した突起物に当たったとしか考えられない。なぜならエア注人バルブの位置はホイール外面よりやや内側にあるからだ。
 黒沢車の左前輪エア注入バルブを破損させるような北野車のボディ右側面前部にある突起物としては、フロント・カウルを止めるために設けられている、前輪タイヤハウス後方の留め金が常識的に考えられる。“ボディ右側面前部”と限ったのは、後部の突起物に当たるほど、北野車が黒沢車より前に出ていた形跡がないこと。さらに三回めの接触直後、左前後輪をグリーンに落とした時に、北野車のフロント・カウルが持ち上がったこと――の二点が考えられるからだ。
北野車のフロント・カウルの留め金に当たって黒沢車のエア注入バルブが折れたとすれば、その時点で北野車のほうが、わずかながらもフロント・タイヤ1個分だけ黒沢車より前に出ていたことになる。が、多くの関係者が証言しているように、両車の前後位置関係は非常に微妙だ。ここでは、事実を挙げることのみにとどめておこう。》
 ここから恐ろしい多重クラッシュがはじまっていく。

 三回めの接触によって左前輪、ついで左後輪をラフに落とした北野元のマーチ735BMWは、左後輪が激しくホイール・スピンを起こして横向きになった瞬間、フロント・カウルが持ち上がって、前方の視界を失った。通常であれば、片方の留め金がはずれていても直進状態の場合、フロント・カウルは風圧に抑えられていて持ち上がらない。それが突然持ち上がったのは、恐らく横向きになったときに風圧の流れが変わったためだとも思われる。

 
 北野車がラフに落ちた直後の各車の走行位置は、第5図のようになっていた、と「特集記事」は推定している。このとき高原車は黒沢車の右斜め後方につけていた。

 高原選手:〈黒沢選手と北野選手が接触したのを見て、ボクは右に進路を変えた。瞬間に北野選手がダートに出てスピン。コース内に飛び込んできて、ボクとぶつかっている〉
一度持ち上がった北野車のフロント・カウルは、コントロールを失ってコース内に突入する前後までに、再び元の位置にもどった。これは北野車が風戸車と鈴木車の間をスリップしながらコースを横切っている瞬間の写真を見れば明らかである。

*ラフから跳ね返ってきた⑥北野車が、⑩風戸車と(84)鈴木車の間を通ってコースを横切るようなかたちでコースに戻ってきたのがよく分る。(「レーシングオン」2008年3月号所載) 第6図と照合すると、各車の状況が読みとれます。

 このあたりの状況を、中部さんは見事にまとめあげてリポートする。

――最初に接触したのは、黒沢元治の右後方につけていた高原敬武のマーチ745BMWであった。北野元がコースアウトしてスピンしている、ほんの1、2秒の時間で、高原敬武は北野より前に出ている。したがって北野のマーチの右前部が、高原のマーチの左後部に接触した。高原のマーチは左リヤサスベンションのアッパーアームが折れ、左リヤタイヤがバーストした。当然のことながら高原マーチはコントロール不能となってスピンし、そのまま第一コーナー三〇度バンクのイン側までスピンしていき、グリーンに飛び出して止まった。このスピンの最中にも後続車が第一コーナーヘ次々と突進してくるわけだから、再び接触事故が起きなかったのは不幸中の幸いというべきだ。高原敬武がマシンコントロールを失ってスピンしていった距離は案外長いのだが、第1コーナーのイン側、すなわち右方向へ向かってスピンしていったのが幸いしたのである。第1コーナーの走行ラインはアウト側つまり左側であり、右方向のイン側にはスペースがあった。
 この時の状況を北野元は、特集記事中でこう語っている。
 北野選手:〈コントロールを失ったまま、コース左のグリーン地帯に落ちて、リヤが流れた。マシンがコースに対して真横になり、カウルがあがっていたためか、抵抗で、再びコースに戻った。そして、黒沢車に後続していた高原車のリヤに、自分のフロントが当たった〉
 この特集記事に掲載されている北野元のコメントを読むと、のっぴきならない状況にあっても、周囲をよく見ていることが分かる。さすがとしか言い様がない。
 北野のマーチは、高原のマーチと接触した直後に、今度は後続の風戸裕のシェブロンB26BMWと鈴木誠一のローラT292BDAの間に割って入るように移動していく。ここで風戸シェブロンの左後部と北野マーチの右前部が接触した。風戸シェブロンは、その衝撃でコントロール不能になり、左方向へ飛んでいく。
 鈴木誠一は北野マーチを避けようとしてフルブレーキングしてステアリングを左方向に切った。その時、北野マーチの右後部と鈴木ローラの左前部が接触したかどうかは、確認されていない。その状況を後方から目撃した口-ラT290BDAの津々見友彦が、次のような発言をしていると特集記事は書くのだが、そのあと、予測もできなかった忌まわしい大惨事が起きてしまう……。(つぎのアップへつづく)
Posted at 2011/11/25 01:39:58 | コメント(3) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年11月23日 イイね!

『接触3回』迫真の現場報告 ~事故から半年が経って~



「AUTO SPORT」編集部は大事故発生から半年の冷却期間を置いて、改めて全体像を伝えようとしていた。それが1975年3月25日号臨時増刊『AUTO SPORT YEAR’75』に掲載された「ドキュメント〈6月2日・富士〉GC事故はこうして起こった!」の6ページにわたる特集記事である。

事故発生から1カ月半後に御殿場警察署は、ガンさんを静岡地方検察所沼津支部に業務上過失致死傷罪容疑で、前代未聞の書類送検をしていた。当初は、より刑の重い「未必の故意」を念頭に捜査に入っていた。このため、任意とはいえ、ガンさんは徹底的に事情聴取を受けているし、出場したドライバーはもとより、関係者も証言を求められていた。そのあたりのいきさつについては、黒井尚志さんが『レーサーの死』のなかで、情熱を持って追求しているので、機会があれば一読していただきたい。

「――1974年6月2日、正午の気温25.7度C,湿度57%、気圧947Mb、南の風5m、天候・晴。
5万6000人の大観衆と1万6500台の車両を呑み込んだ富士スピードウェイは、’74富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦〈富士グラン300キロキロ・レース大会〉・第2ヒートのスタートを待っていた。スタート時間は、午後2時に予定されていた」

高ぶるものを押さえて、できるだけ客観的にリポートしようとする編集部の姿勢がうかがえる。事故の直後の数カ月は、取材する側も、証言する側も、捜査・検証への配慮もあって、すべてが控えめになる。その分、舞台裏では様々な憶測、思惑が黒々と渦巻いていた。が、やっと、いやある程度、オープンにできる状況がやってきた。というのも、書類送検から7ヶ月後の1975年2月27日に、静岡地検沼津支部はガンさんの不起訴を決定し、事件そのものは終結する。該当記事は3月初めに発売されているから、恐らく、そうした検察の動きを把握した上での取り組みであったろう。目利きの編集者ならそれくらいは読める。ぼくはそう思う。

ここで誤解のないようにしておきたい。不起訴になったからと言ってガンさんがすぐにレースに復帰できたわけではなかった。以後、JAFからの処分をめぐって、ガンさんはさらに窮地に追いやられる。ガンさんのライセンスを永久停止にしようとする動きも蠢(うごめ)いていた。

 この「蠢き」については、すでに元・報知新聞運動部記者、中島祥和さんとの面談のなかで、その舞台裏をうかがっているので、参照されたい。それによって、これまで視界不良だった部分の霧も晴れた想いで、検証作業に取り組むことができたのです。

https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/24222023/

*    *    *    *   *
 忠実に、スタートの様子を再現しているので、こちらもそれに倣うとするか。

「――午後2時ジャスト。安友義浩競技長の指示にしたがって、ペースカーがリードしはじめた。17台の出場マシンが、2列縦隊の隊形を保ちながらこれにしたがう。ローリングが開始されたのだ。


*GC第2戦第1ヒートのローリングスタートで、240Zに先導されてヘアピンを立ちあがる。(「レーシングオン」2008年2月号所載)
 篠原孝道があやつるペースカーは、ラップ・タイム2分をやや越える、かなり速いペースでリードしつづけた。1周め、最終コーナーを立ち上がった各マシンの隊形は、まったく整然としていた。1台の脱落もなかったし、完全にペースに乗っていた。
 ペースカーはエスケープ・ロードに逃げず、そのままのスピードでさらに2周めのローリングにはいった。安友競技長の配慮により、1周めはドライバーの緊張感が強いため、2周ローリングしてドライバーを落ち着けさせようという作戦だったのだ。
ローリング1周めで隊形を確認し合った各ドライバーは、一矢乱れないフォーメーションを組んだまま、第1コーナー、ヘアピン、300Rを通過し、再び右150Rの最終コーナーを抜けてストレートに姿を現した。だれもがローリング2周めのスタートを確信していた。そのため各車の車間距離は、やや詰まり気味の状態だった。
2列縦隊の隊列は、延長約150m。そのテール・エンド・グループが最終コーナーを立ち上がりかけたとき、先頭のペースカーが右に逃げてエスケープ・ロードにはいった。セイコー・タワーに立つ安友競技長のイエロー・フラッグがグリーン・フラッグに変わり、激しく打ち振られる。午後2時05分44秒、第2ヒートのスタートは切って落とされた。
17台のマシンは、スピードが上がっても隊形を乱すことなく、あたかも“平行移動”のようなカタチでコントロール・ラインを横切った。そろったタイミングで全力加速に移った各車は、完全に前車のスリップ・ストリーム圏内にあった」


*第2ヒートがスタートした。バンクに向かって疾走する17台。(「レーシングオン2008年7月号所載)

 前回、骨太の先輩編集者として紹介した久保正明さんの、やっと読んでくれましたか、と相好を崩す顔を思い浮かべながら、ぼくは読む。富士の長いストレート。各車が前車のスリップに潜り込もうとして、駆け引きするドライビングぶりを思い描く。

「――トップに立ったのは、ポールポジションの高橋国光だった。コントロール・ラインから約35m地点のアウト・コース側にある、電気スタート信号機(通称クリスマス・ツリー)の横を、トップの高橋国光(⑧マーチ735BMW)が、アウト側1車線半の余裕を残して通過した。その背後を黒沢元治(⑤マーチ745BMW)と北野元(⑥マーチBMW)が、やや黒沢先行のかたちでつづき、黒沢のうしろに高原敬武(③マーチBMW)がつづいていた。
 クリスマス・ツリーを通過したあたりで、黒沢車はポジションをやや右に移した。が、すぐ元の位置に戻り、高橋車のスリップ・ストリームにはいった。黒沢選手も〈ボクは最初、高橋車を抜こうとして右にコースを変えたが、抜けないと見てすぐ高橋車に後ろについた〉と語っており、間違いないだろう」


*:スタート直後の各車の位置見取り図。「AUTO SPORT '75 YEAR」1975年3月25日臨時増刊号所載


*1974年『AUTO SPORT』誌8月10日号に掲載された。黒澤車と北野車の接触事故の瞬間を伝えた写真。
当日の観客であった稲田理人氏、健二氏より提供された貴重な写真であったという。(「レーシングオン」2008年4月号所載)


 このあたりの記述の丁寧さは、内容に自信がある証拠である。だから、シーンに応じて、それぞれのドライバーのコメントを挟むという手法を用いはじめる。
「――黒沢車が高橋車のうしろについたことにより、黒沢/北野の両車は再び並走状態となった。スタート・ラインから520mの地点・アウト側グリーンにある7番ポストに近づいたトップ・グループは、4速から5速にシフト・アップ。その直後、黒沢車と北野車の第1回目の接触が起こったようだ。
最初の接触が、4速から5速にシフト・アップのちに発生していることは、黒沢、北野両選手の証言で明らかになっている。
黒沢選手:〈コースのどの辺だったかは分からなかったが、横にドンッという音とショックを感じた。白いマシンが見えた。このときギアは5速にはいっていた。時速に換算すると230~250㎞/hの間だと思う〉
北野選手:〈ギアを5速に入れてから、いくらか時間がたっていた。スピードは220~230㎞/hと思う〉」

 両車の接触は合計3回あり、3回目の接触によって北野車がグリーンにはみ出してしまうのだが、それを目撃したドライバ―たちの証言がこのあと手短かに紹介されていた。次のアップはそこからはじめよう。


Posted at 2011/11/23 01:25:52 | コメント(3) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年11月19日 イイね!

原点に回帰しよう  ~骨太の先輩編集者に導かれて~

骨太で、モータースポーツ報道に情熱を燃やし続けた、先輩編集者がいた。久保正明さんである。すでに故人となられて4半世紀近くがたっている。健在なら78歳か。
ジャーナリストとしてのスタートは北海道の新聞社。上京後、三栄書房の「AUTO SPORT」編集部に。1974年の「多重クラッシュ事故」当時は編集長。その後、八重洲出版の「ドライバー」誌の編集長に就任。自動車雑誌編集者連盟の事務局長を務めていた頃、ぼくは久保さんと面識を得ている。

*情熱の人・久保正明さん

1980年、そのころ、三栄書房が、自社の「モーターファン」一誌で主催していた「日本カー・オブ・ザ・イヤー」を、10周年を機に発展的に解消し、ヨーロッパのカー・オブ・ザ・イヤーの例に倣って、主要自動車雑誌で運営する全国規模のものにできないか、と動きはじめていた。その根回しに動いたのが「モーターファン」の佐々木編集長の盟友である久保さんだった。当時、ベストカーの編集責任者であったぼくにも声がかかった。
指定された平河町の割烹料理店に行ってみると、当時の「CG」編集長の小林彰太郎さん、「モーターウィークリー」主宰者の渡辺靖彰さんの顔があった。
三栄書房社長の鈴木脩巳さんの熱い想いを聴いた。

いくつかの紆余曲折を経て、日本カー・オブ・ザ・イヤー実行委員会が発足する。当然のように、その実行委員会に久保さんが名を連ねた。それが火種となって、久保さんは八重洲出版を追われるように、その年の8月、退社した。八重洲出版は方針として「C・O・Y」には賛同しない立場をとっていたことから、酒井社長が久保さんの行動を認めなかったからである。


*第1回受章車のマツダ・ファミリア
*「ベストカーガイド」1981年3月号より。32回目を迎える「COTY」の実行委員会から、すでに「CG]も「ベストカー」も脱けてしまい、すっかり様変わりしている。

12月23日、’80-’81日本カー・オブ・ザ・イヤーは、マツダのファミリアが受賞した。この時の「ベストカー」の扱いをみると、辛うじて、モノクログラビアページの半分を使っているに過ぎなかった。それが今年は第32回目を迎える。下馬評では、日産のEV車、リーフが最有力だと伝え聞いているが、はたして――。
すでに最終選考投票も済ませ、12月3日の開票を待つばかりである。

八重洲出版を退社した久保さんを、「ベストカー」の編集顧問として招いたのは、多分、9月に入ってからだったろう。早速、署名入りで登場する。「問題提起レポート=ジャーナリスト(前「ドラーバー」編集長)久保正明 校長先生、ボクの免許証返してくれへんか!? ――高校生のバイク禁止をめぐるおかしなおかしな、この実態!」とある。これが80年の12月号に掲載され、つづく81年新年号では「ドキュメント・スピードに散って……福沢幸雄/あるテストドライバーの死後”11年“の意味」をまとめあげている。レーシングマシンの開発途上で事故死した福沢幸雄の訴訟事件が11年をかけて和解するまでをレポートしたものだが、それが次号で運命的な展開と変わる。



 *「ベストカーガイド」1981年1月新年号所載


81年2月号。「実録モータースポーツ」の連載開始である。『消されたレーサー・黒沢元治を探せ!』(内藤国夫)となっているが、黒沢元治、つまりガンさんと接触してぼくらの前に導いてくれたのも、レース事故の資料を提供してくれたのも久保さんだった。
その後、「モーター毎日」というクルマ業界情報誌を引き継ぎ、新しい活躍の場を求めて飛翔するはずだったが、不運にも病魔におかされ、急逝する。

なぜ、今回は久保正明さんなのか。中部博さんがそうであったように、あの多重事故の拠って来るところを検証しようとすると、当時の記録から洗い直すことが求められる。そのひとつが、当時のモータースポーツ専門誌の報道だろう。その中で、ここまで丹念に、冷静に追求していたのか、と唸らされ記事にめぐり会っていた。1975年3月に発行された『AUTO SPORT YEAR‘75』の特集記事「ドキュメント〈6月2日・富士〉GC事故はこうして起こった!」がそれ。そのレポートをまとめあげたのが、久保正明さんであることに、ぼくは注目した。それを中部さんは、こんな具合に読み抜いた感想を記述している。それは、今は亡き久保正明というモータージャーナリストへのメッセージでもあった。

「この特集を担当した編集記者は、つとめて客観的な現場報告をしようとしている。その気持ちが痛いほど分かるようになった。この事故でなくなられたふたりのレーシングドライバーは、それぞれに人生を賭けてレースに打ち込み、努力と研鑽をおこたらず、大きな夢を抱き、希望にみちていた。この事故について調べ考えるうちに否応なく、その人たちの魂を感じるようになった。さらに言えば、この事故の顛末を知れば知るほどに、文字通り九死に一生をえた人たちがいたと分かる。(中略)つとめて客観的な記事を書いた編集記者は、おそらく同じ思いを感じ、報道する立場からできるかぎりの客観報道を心がけたと思えた。特集記事を読みつづける」

 そこで「3回の接触」を、黒沢、北野両当事者の証言から明らかにして行くわけだが、ぼくが注目したのは、スタートから「事故現場見取り図」にいたるまでの7カットの各車の位置図である。次のアップでその7枚の位置図を紹介しよう。新しい発見が待っていた。

 *(「AUTO SPORT '75YEAR」所載より)
Posted at 2011/11/19 06:02:06 | コメント(3) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2011年11月05日 イイね!

箱根の黒沢邸訪問で始まった1週間 ~たまには「身辺雑記」を~



*10月31日の月曜日。東名高速を厚木ICで小田原厚木道路に乗り換え、一旦、小田原駅前で昼食を摂った後、そろそろ紅葉の目立ちはじめた箱根旧道をのぼって、箱根小涌園傍のガンさん邸へ。
約束の午後2時前だというのに、ガンさんはすでに玄関の扉を開き、表の道に出て、ぼくらの到着を待っていてくれた。
用件は、すでに了承をいただいている「新ドライビング・メカニズム」を、どう具体的に展開していくか、もっと煮詰めようというのだった。とにかく、ガンさんは大乗り気。
それについては、近々にプロジェクトの内容をまとめあげたところで明らかにしていくつもりなので、いましばらく、時間をいただきたい。

打ち合わせが終わったところで、37年前の「富士GC多重事故」を、ぼくなりに洗い直していることを、ガンさんに告げた。すでにぼくの動きをご存知らしく、柔らかい笑顔でぼくのいくつかの質問に答えてくれた。やっぱりそうだったのか、といういくつかの確信を得たので、これからの検証に役立たせたい。焦らず、ゆっくり取り組もう。
午後4時過ぎ、黒沢邸を辞す。

*11月2日の水曜日。約束より10分も前に東京プリンスホテルに着いたのに、珍しく駐車場が満車とかで、ゲートの入り口で待たされる。なにか大きなパーティでもあるのかな。午後0時に童夢の林ミノル社長とロビーで待ち合わせている。気が急くが、後続車がベッタリとくっついているから、どうしようもない。
0時02分。やっとゲートがあがって、駐車スペースへ。ロビーへ急ぐ。お、ロビーも人がいっぱいだ。林さんはどこだ? やむなく従来型のau携帯から切り替えたばかりのiPhone 4Sで連絡をとろうと取り出したところで、目の前で携帯電話にむかって声を吹き込んでいるミノル社長を発見。先方も携帯を使ってこちらを探しているところだった。

いつもの「和食処・清水」も混んでいて、やっとカウンターの席がとれた。
「ここに友だちを呼んでありますが、よろしいか?」と、ミノル社長。
当然、ガールフレンドを見せつけたいのだろう、と気を利かせたこちらは、
「どうぞ、どうぞ」と。
早速、現在地をしらせるべく、ミノル社長は携帯をかけている。さて、どんな「美形」がやってくるのか。今のうちにお互いの用件を済ませておかなくては。
ミノル社長に訊く。1974年6月2日の「富士GCの多重事故」のレースを見ましたか?
「いや。浮谷東次郎のことがあってからは、不思議と死亡事故のあったレースは見ていない」
やがてミノル社長の友だちの登場。なんと、今のレース界を牽引しているスーパーGTの運営母体、GTアソシエーションの坂東正明社長ではないか。つい先だっての富士スピードウェイでの「スーパーGT」取材で、お世話になったばかりだ。


どうやら、このあと、おふたりは新しいカテゴリーのレ―シングカーについて、密談するつもりらしい。なんだか、現役時代に復帰したような時間の使い方になってきたぞ。

*11月3日、文化の日。舘内端さんの主催する「Japan EV Festival」の取材で筑波サーキットへ。不思議な静寂が筑波サーキットと、その周辺を包んでいた。本来なら、ウィーン、ウィーンとレーシングカーの走行音やエンジン調整音などで、ああ、サーキットにいるんだ、と心を沸き立たせてくれるものがない。かわりにクラシック音楽が流れている。





パドックを歩くと、知り合いばかりだ。まず、国沢光宏君。次に元カーグラの熊倉重春編集長、桂伸一、松田秀士、小沢コ―ジらの各氏。どうやら、各メーカー提供のEVカー、ハイブリッド車によるサーキット同乗試乗の運転手を務めるため、狩り出されたらしい。
この日の模様は、別途、紹介するつもりだからここでは省略。
大きな収穫がひとつ。津々見友彦さんも見えていて、近く「1974・06・02」の記憶を改めて伺う約束をしたこと。「あの時のことは、決して忘れることはできない」と、はっきり言い切る津々見さん。70歳になっても、この日のようにサーキットを疾駆する素晴らしさ。
見習いたい。



*また一つ、同世代に生きた仲間の訃報に接した。
参院議長の西岡武夫氏が、11月5日の早暁、肺炎のため、東京都内の病院で死去したというニュース・テロップが、TV画面を流れていく……。同じ75歳だった。今の国会を体調不良で冒頭から欠席していたのは知っていた。


1954年(S.29)春、お互いに真新しい角帽をかぶって、都の西北にある早稲田の杜(もり)で顔をあわせた。教育学部社会科学科の教室だった。
初々しく、黒の詰襟姿のよく似合う、目元の涼しい青年が、きっちりと挨拶をしながら、隣りに着席する。アイウエオ順に席が決められていた。
「西岡武夫です。長崎から来ました」
こちらも、あわてて名前と出身地を告げる。
「あ、同じ九州出身ですか」
そのあと、どんな会話をかわしたのか、記憶にない。が、その後で、あの眩しいほどピカピカした同級生が、長崎新聞社社主の「御曹司」で、雄弁会に在籍しているという情報を、いつの間にか、キャッチしていた。雲の上の住人だろうが、なかろうが、ここに来ればみんな同じ学生さ。きっと、ぼくは身構えていたに違いない。
夏休みに入る直前、政治学かなにかの講義で一緒になったとき、
「夏休みで九州に帰るのなら、よかったら長崎に来ないか。案内するよ」
といって、ぼくのノートに住所と電話番号を書きこんでくれる。
「ああ、剣道部の合宿があるので、それ次第で、夏休みがどうなるかが決まる。そのときはお邪魔するかもしれない。連絡するよ」

そういいながら、結局は長崎には行かなかった。いつも他の同級生が彼のそばを取り巻いていて、もう一つ、付き合いたい気分になれなかったし、剣道やアルバイトなどで、その夏はあっという間に終わってしまったような気がする。

社会に出て5年目。彼は27歳で衆議院議員となる。それを祝って、同期会が新宿で開かれた。音頭を取ったのはTBSに入った男で、ぼくらの入った社会科学科からは、結構、マスコミ関係に進んだものも多かった。朝日新聞、共同通信、北海道新聞。そこで生きたはずの、あの連中、今はどうしているのだろう。
宴も酣(たけなわ)となったところで、西岡君の登場。たしか、東京オリンピックの開催年だったから、世の中も、まっしぐらに上昇機運にあった。何かあれば、みんなで応援しようと盛り上がった時代だった。

やがて、ロッキード事件を機に、西岡君は河野洋平氏を中心にして「新自由クラブ」を立ち上げ、保守革新の道を驀進した。そのころのぼくは「週刊現代」と「現代」に関わっていたから、なにかにつけ、西岡衆議院議員とは是々非々の立場で接触があった。

政治家として、西岡君は浮沈が激しかった。衆議院初登院で母親同伴を揶揄されたのを皮切りに、いろいろあった。一時は、政治の中枢からはずれて、落選もした。が、最後は民主党に鞍替えして、参院議長のまま、彼岸に旅立った。「是々非々」の立場は変えられないが、硬骨で、いつも筋を通し続けた西岡武夫という政治家の生きざまを、同級生の目線のまま、彫りあげてみたい気もする。まずは、お疲れ様でした、と哀悼の想いを綴ってみたわけです。またひとり、逝ったのか。この想いはまことにつらい。
ヒタヒタと聞こえはじめたあの足音を、ぼくも自覚しておかなければならない。時は秋。
Posted at 2011/11/05 23:54:45 | コメント(5) | トラックバック(0) | ちょっと一服 | 日記
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「3連休中日、富士フレッシュマンレースで青春を燃やした中・老年男の同窓会をFBで速報。今を支えるエネルギー源を確認。そのせいか翌24日のみんカラPVレポート欄の第1位は【還ってきた愛しのEXA】。FBレポート末尾でリンクした8年前のみんカラブログに未読の仲間が訪問してくれたわけか。」
何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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