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正岡貞雄のブログ一覧

2012年02月28日 イイね!

浅岡重輝さん、衝撃の証言  ~ちょっと一服のつもりが~

浅岡重輝さん、衝撃の証言  ~ちょっと一服のつもりが~ この日は、時間の都合をつけて、なんとか国立国会図書館へ行くつもりにしていた。
 その前に、ちょっと息抜きを兼ねて、MAZDAの新型『CX-5』の発表会に顔を出すことにした。2月16日の午後1時30分開会、と招待状に記してある。場所は東京プリンスホテル「鳳凰の間」。誰か、懐かしい顔に会えるかも知れないし、「マツダの未来が、この車から始まります」というコピーも気になった。いま評判の「SKYACTIV(スカイアクティブ)技術」をガソリンエンジン、ディーゼルエンジン、ボディ、シャシーのすべてに採用し、気持ちのいい走りと、優れた燃費性能を両立させたSUV、という触れこみのグローバル戦略車。デザインも東京モーターショーで目を引いた《鼓動》の流れが生きているはずだ。

 ま、お披露目の日には、できる限り足を運ぶようにしてきたぼくなりのルールを、今回も守ることにした。結果、それが新しい展開を呼び寄せてくれるきっかけとなるのだから、気になったときには、やっぱり「足を運べ」にかぎる。

 20分前に着いてみると、会場は半分ほどが埋まっていた。係の人に中央のゾーンまで案内され、着席してみると、左隣から期待通りの懐かしい顔が、笑顔でこちらへ挨拶を送ってくれる。浅岡重輝(しげあき)さんだった。


*右端のサングラス姿が浅岡さん。中央は津々見友彦選手。

 どちらからともなく、「久しぶり」と声を掛け合ったものの、ぼくにしてみれば、ついさっき会ったばかりじゃないか、という気分だった。だから、浅岡さんに、「実は……」と断って、このところ取り組んでいる「1974年6月2日の富士GC第2戦第2ヒート」の「多重事故」に関する映像を、朝から検証していたのだが、そのエンディングシーンで、あなたと津々見友彦さんが燃えたマシンの残骸を前にして、深刻そうに話しこんでいるところを見たばっかりなもので……なんだか「天の配剤」の気分ですよ、と伝えてしまった。

「あ、そうだったの。あの時、ぼくは選手会長でコントロールタワーにいた。そしてあの事故が起きて、ともかく事態を把握して、矢面に立たなくてはなんなかったのよ」
「じゃ、例の接触シーンも後日、見せられたの?」
「見ましたよ。細かいことをどこまで記憶しているかは別にして……」


*F1GP前座有名人レースに招待されたときの記念すべき1枚。


*スターティンググリッドについた⑪S・Masaoka選手。前座レースとはいえオーストラリアF1グランプリですぞ。

 浅岡さんとは、不思議な縁で昵懇がつづいている。1985年11月1日~3日の3日間、オーストラリア・アデレードで開催された「F1グランプリ」の前座レースに招待された夢のような記憶。なんでも三菱が冠スポンサーとなって、「コルディア」のワンメークレースをやるから、ぜひエントリーしてほしいという要請があった。元プロのレーシング・ドライバーとアマチュア現役の有名人が二人一組となって、ジャック・ブラバムやバーン・シュパンといった世界的な名ドライバーと、新設された市街地コースで競うというのだ。
 その時の日本人チームのプロ代表として招待されたのが、元いすゞのワークスでいまはモータージャーナリストで活躍中の「S・Asaoka」と、富士フレッシュマンレースで奮闘中のクルマ雑誌の編集局長である「S・Masaoka」。「M」を削れば全く同じ名前じゃないか。
 これでは現地TV実況アナウンサーが混線してしまうのも無理ない。帰国して見せられた中継録画で、いいポジションで、コーナーを綺麗に抜けていく日本人ドライバーを絶賛している。
「ジャパンから来たジャーナリストのエス・マサオカがファンタスティックなドライビングをしているぞ!これは速い!」と。

 ミラージュCUPにステップアップしたときも、講師であった浅岡さんは丁寧にアドバイスをくれたのを、いまでも感謝している。

「いいですか、特定のコーナーで頑張ってはダメ。この富士スピードウェイを一つのコーナーだと思って、丸く、円を描くように走ってくださいよ」

 いつの間にか、周りの席は、取材に来た関係者で埋まっていた。『CX-5』の発表会がはじまろうとして、一瞬、会場のライトが絞られた。
「じゃ、来週初めのお昼、ご一緒しましょう。電話します」
 小声で約束を確認したところで、ちょうど、マツダの山内孝社長が登壇、新型車のアピールポイントを落ち着いた口調で説き始めた。



 発表会終了後、国会図書館へ急行。即日複写の受け付けは午後6時に締め切られるという。予期したように時間が足りない。「朝日」「読売」「毎日」「中日」4紙の1974年6月3日の朝刊を洗い出すのがやっとであった。

 2月21日。浅岡重輝さんとお昼のランチを、恒例の東京プリンスホテル1F『和食処・清水』でご一緒した。約束の時間ギリギリに着くと、浅岡さんは30分前からロビーで待ってくれていた。そんな躾の良さはどこから来たものだろう。以前から興味を持っていたから、ちょっと探りを入れてみた。
「浅岡姓のルーツを聞かせてくださいよ。まさか、徳川家の旗本だったとか」
「祖父の代まで美濃藩の家老の家だからって、いろいろ面倒だったらしいけど、親父が次男で、冶金の研究者、大学の教授だったもんで、結構自由な空気で育ったんですよ」
「だから、ヨーロッパ車に通暁した早熟少年に……?」
「そうですね。大学時代からスポーツカークラブを創設して、鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリを始めるにあたって、レギュレーション創りに指名で狩り出されたくらいですから」
 
 この後、モータースポーツ草創期の秘話や内幕、いまだから明かしてもいいエピソードを、いろいろ訊き出したが、それはいずれ、ご本人の了解を得てから、明らかにしたい話ばかりだった。ま、ここは、こちらの本題を。

 持参したiPadをONにした。つぎに「あの瞬間」とタイトルをつけておいた映像ファイルを開いて、浅岡さんに見てもらうことにした。
 一通り見終わったところで、スローモーションのかかった正面からのショットを改めて点検する。そして意外なコメントが、浅岡さんの口から飛び出した。
「違うな。ぼくが見せられたのはこれじゃない。これはTV録画放映された分。ぼくが黒沢車と北野車の接触シーンとして確認したのは、もっとカメラアングルがグリーンゾーンから向けたもので、映像はもっとシャープで鮮明だった」

 また一つ、新しい課題が飛び出した。どうやら5万6000人の観衆の中から、「その瞬間」を撮影した観客を探し出し、警察側がガンさんに突き付けたと伝えられる、映像がそれだったのか。では、その映像はどこにあるというのか。
 
 ちょっと一服どころではなくなった。


 
Posted at 2012/02/28 01:00:46 | コメント(2) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年02月26日 イイね!

標的にされた「速すぎる男」  ~それからのドス黒いドラマ②~

標的にされた「速すぎる男」  ~それからのドス黒いドラマ②~ この朝日新聞の記事(7月5日付け)の書き手は、恐らく6月3日の事故第1報を執筆した「山下記者」ではないだろう。その内容に、モータースポーツに疎い読者に対しても、なんとか理解が届くようにと心を砕いた、あのジャーナリストの情熱のかけらも感じとれないからだ。有態にいえば、静岡県警捜査一課と御殿場署が、黒沢元治選手を「業務上過失致死傷」の容疑で静岡地検に書類送検する、とスクープしようと急ぐあまり、その容疑内容について警察側の資料をそのまま引用している、といえるからだ。それでも社会に与えるインパクトは強烈過ぎた。



*1974年7月5日の朝日新聞社会面(クリックで拡大)


 なにしろ当日の社会面を開くと、「特等席」といわれる左上欄5段スペースの半分を費やして、大きな3本の見出しと記事が踊っている。加えて、ガンさんの顔写真まで添えて……。
「富士スピードウェイ事故 黒沢選手を書類送検へ」
「規則を破り接触」
「競技事故 初の刑事責任追及」

 これでは、あたかも黒沢選手が事故を起こした罪により、いまにも逮捕されるような印象を与えるではないか。そして、その記事の内容がお粗末そのものだった。37年が経過した今になって「TV放映録画」をつぶさに見ることができたからこそ指摘できることだが、黒沢/北野車が接触した直後の様子を相変わらず、こんな風に間違ったまま、書いているのだ。

「これまでの調べでは、6月2日午後2時5分ごろ、1周6キロのコースを参加17台が2列縦隊で2周ローリングし、メーンスタンド前からそのまま一斉にスタートした直後、右回りの第1コーナーの手前200メートル付近で事故が起きた。先頭の高橋国光選手のすぐ後ろをほぼ並んで走っていた黒沢選手の車と北野元選手の車が数度にわたって接触、はずみで北野選手の車が左側ガードレールに衝突してはね返り、コースを横切って右側のフェンスを突き破った」

 確かに、それは一瞬の出来事で、黒沢車と北野車の接触が引き金となって、忌まわしい惨事が起こったのは分かるにしても、詳細は不明のままだった。だからこそ、新聞報道には正確な事実確認が望まれる。にもかかわらず、実際には北野車は黒沢車との接触でグリーン側に押しやられ、左の前後輪が抵抗の大きい芝生にはみだし、そこから右前のカウルが持ち上がり、次にカウルが元の位置に収まった瞬間イン側に切れ込んでいったのを、ガードレールに衝突してはね返り、と全く事実にないことを書いている。



 これは6月3日の「毎日」「読売」が同じような記述をしている。グリーンにはみ出す接触と、弾き出されてガードレールに当たり、そこから跳ね返されてコースを横切るのとでは、えらい違いようである。それに接触事故のあった地点の左側はコンクリートの壁で、ガードレールが設けられているのは、鈴木・風戸の両車が炎上した地点からである。

 そうした情勢を朝日の記者が確認・取材できないはずがない。記者自身がこう書いているではないか。

「同県警は、事故発生直後から約1か月間、参加15人のレーサー、大会責任者、観客など数十人から事情を聞く一方、レースを中継していたテレビ局のビデオテープ、観客席のアマチュアカメラマンが事故寸前まで撮った8ミリフィルム、燃えずに残った黒沢選手の車の傷痕などを調べた結果、黒沢、北野両選手がコーナーに入る寸前まで数度にわたって接触していたことがわかった」

 ジャーナリストとして、この事故原因の真実を突き止めようという気持ちさえ持ち合わせていたなら、この過程で映像をみるくらいのことは、できないはずがない。事情を聞かれたレーシングドライバー、関係者のなかの何人かは、映像を見せられたと証言している。もし、記者が見ていた側の一人なら、「ガードレールに衝突してはね返り」などというありもしない出来事を書くわけもない。だからぼくは、捜査側の資料から書き取ったものではないか、と失礼な言い方をしてしまった。

 しかし、この朝日の記事によって黒沢選手がますます窮地に追いやられた。3日後の7月8日、ガンさんはJAFに競技ライセンスの返上を申し出てしまう。その際、JAFスポーツ委員長に提出した文書はこうだった。

「今般、私に因を発する新聞を媒体とした社会批判は、モータースポーツ界に多大な悪い影響を及ぼし、とりわけ貴連盟、ドライバー諸氏、関係役員の方々、その他モータースポーツを応援して下さっているスポンサーの方々、ファンの方々にご迷惑をおかけいたしましたことは遺憾であり、申し訳ないことと、お詫び申し上げます。
 ここに謝罪と反省の意を表し、その証として貴連盟発行の競技運転者許可証を返上し、自身へのいましめとする次第です。      黒沢元治」




 このことを当時のCG誌が「国内スポーツ」欄で紹介していた。そして、こう伝える。

「(前略)すなわち、日本最速のレーシングドライバーの一人、黒沢元治が、そのレーシングドライバー生活からひとまず身を退くことを決意したのである。その数日前のA新聞に発表された“書類送検か”という記事が、彼の決意に少なからず影響を与えているといわれるが、結局彼は7月17日、静岡県警および御殿場署により業務上過失致死傷の疑いで静岡地検沼津支部に書類送検されてしまった。(中略)亡くなられた二人に続いて、日本のモーターレーシング界は、また一人、惜しむべき人材を失ったことになる。そしてある意味では、黒沢は第3の被害者といえるかもしれない。なお、現時点では、彼に対するJAF側の態度は決定していないといわれる」
 
 7月17日、CGの記事にあるように、ガンさんは「書類送検」される。
静岡県警がガンさんに過失があるとしたのは、なんと「安全無視の幅寄せ」だというのだから、驚きである。
「富士グラン・チャンピオンレースの特別規則書の安全規定に、周囲の安全を確認したうえで進路変更しなければならず、故意であるなしを問わず、幅寄せをしてはいけない、と定められているのに、黒沢が高橋選手の車のスリップストリームを利用し、コーナーを有利に回るため、すぐ左を走っている北野選手の車に注意せず、急激に左外側に進路変更した点。初めこれを否定していた黒沢も、その後の調べに対し過失があったことを認めた」(朝日新聞7月18日の記事より)

 それからさらに7か月後の1975年2月27日、静岡県警沼津支部はガンさんの不起訴を決定。事件はここで終結したはずである。が、ガンさんの泥沼でもがくような苦闘はこのころから、さらに深刻化していった。レース界に復帰するには様々なハードルが待ち受けていたし、家庭崩壊、新しく始めた事業の失敗。あっという間に、ガンさんは大切にしていたものをすべて失った。なぜガンさんだけが、それほどまでに人権を無視され、社会的な制裁をうけてしまうことになったのか。「ドス黒いドラマ」には様々な背景、思惑があるようだ。
Posted at 2012/02/26 05:05:34 | コメント(5) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年02月24日 イイね!

多重炎上事故・それからのドス黒いドラマ

多重炎上事故・それからのドス黒いドラマ 封印されていた「秘められた映像」を、確かに解凍できたのではなかろうか。あれだけ「中継録画」にこだわっていた中部博さんにも、直接に見てもらうこともできた。それでも、もう一つすっきりしない。要するに消化不良なのだ。そこで次に動き始めたのが、国立国会図書館に赴いて、マスコミの反応を検証する作業であった。

 実は、6月3日の各紙の報道ぶりに触れる前にとりかかったのは、あの映像はその内容からいって、間違いなく12チャンネルから放映されたものであるのは疑いようもない。それなら2週間後の「テレビ・ラジオ欄」を洗ってみればいいではないか……。そしてそれは確かな痕跡として残されていたのだ。



 1974(昭和49)年6月17日の「朝日新聞」朝刊。テレビ番組表の午後8時の欄。東京12チャンネル。54分間の枠で《富士グラン300キロスピードレース「グランチャンピオンシリーズ第2戦」解説・田中健二郎 辻本征一郎》とあった。加えて、すぐそばの別枠で、内容紹介まで、丁寧に用意されている。

――去る1、2日の両日、静岡県の富士スピードウェイで開催されたレースの模様を、1日の予選と2日の決勝の前半を中心にフィルム構成で送る。
このレースの決勝日2日の後半レースで、若手人気レーサー風戸裕とベテラン鈴木誠一の両選手がスタート直後のアクシデントで事故死した。

 これではモータースポーツファンのみならず、事件の匂いを振り撒く出来事として、あの炎に包まれた惨劇が茶の間の話題をさらってしまったのも、当然の成り行きといえた。



 このテレビ放映の前々日、東京・青山葬儀所で風戸裕選手の葬儀がしめやかにいとなまれ、人気レーサーの死を悼んで3000人を超す会葬者のあったことが報じられた。その上、7月7日に開催できるかどうかが危ぶまれていた富士グラチャン「第3戦」の中止決定のニュースも加わって、改めて「多重事故」が注目されてしまう流れが読み取れた。

 空気は悪い方向へと流れていた。この葬儀に出席しようとした黒沢元治選手に対して、一部の選手グループが、お前なんかくる資格はない、と門前払いをしようとした話も伝わっている。それほどまでに同じレーシング・ドライバー同士が憎悪の牙をむくとは!



 その憂うべき状況を、すでに事故の翌日という早い段階で、それも「報知新聞」第1面のど真ん中のスペースに、中島祥和記者が署名入り原稿を書きあげているので、ぜひご一読いただきたい。それは、このあとの「黒沢元治・魔女裁判」の背景を読み取る上での、一つの参考材料としていただきたいからである。

●〈異様な高ぶり〉レーサーは知っていた   中島祥和(前パリ特派員)

 1年ぶりに富士スピードウェイへやってきて、私はレーサーたちの異様な高ぶりを奇妙に感じた。F1、スポーツカーなど、ヨーロッパのレースとは明らかに異なったムードだった。第1ヒートの激戦と、チェッカーフラッグを受けた後まで尾を引くレーサーたちの興奮。F1レースでは決して感じられない異様なものである。
「おっかないよ。もっと走る方で考えなきゃ」(生沢)「ヘタすると殺しっこみたいになっちゃう」(黒沢)「フェアプレーの精神がないと、レースほどおっかないものはない」(高橋)これは事故が起こる前の談話である。レーサーたち自身が、ある種の危険性をすでに予期してコースへ入っていたと考えられるのだ。

 案の定、第2ヒートのスタートは、いわせてもらえばあまりにも“ムチャ”な競り合いで始まった。ペースカーが遅いとか・車の隊列が乱れているとかが、もしあったとしても、スタートの危険性をドライバー自らが意識できなかったとすれば、それはもう自滅といわなければならない。

 つい最近、私はF1のスペインGPを見た。雨のスタートだったが、走り出したとき彼らはちょっと拍子抜けするほど間隔をとって走った。スポーツカーのル・マン24時間で、同じF1のフランス、ベルギー、オランダGPでも、世界のトップレーサーたちは抜きにかかってくる車には道をあけて先に行かせ、もし相手の進路を防ぐにしても、スピードの落ちたコーナーに限る。これはトップレーサーとしての当然のマナーであり、常識であり無言の約束である。

 それでも事故は起こる。ことにスタート直後は危険なので、スタート方法も最も安全といわれるローリング方式に次々と切り替えられている。
 しかし、スタート直後、各車がいっせいに加速している最中、トップグループが先を争って“ぶつかり合い”まがいの行為をしたのでは、いかなるスタート方法も無力だろう。日本のドライバー個々の腕が悪いというのではない。

 しかし、レーシングマシンのもろさ、そのスピードによる危険性。なによりもレースは一人で走っているのではなく、ことにスタート直後には“直接の争い”とは無関係の多くのレーサーが続いているということを再認識しない限り、日本のレースは永久に進歩しないだろう。

 昨年10月、アメリカGPで死んだフランスの名手、F・セペールはこういっていた。「スピンしたら、あとは神様に祈るだけ。始まったら安全と勝つことを考えるだけ」その用心深い男ですら、無言の約束を守りながら死んでいたのである。
* *    *                        
スポーツ新聞としての使命を果たすべく『報知新聞』は、どこよりも、この多重事故報道に、紙面を割いていた。6月3日の第1面は、この中島レポートと事故の詳細で埋め、第2面で事故死した両選手の紹介と関係者の談話で、記事の内容をさらに濃いものに仕立てていた。
たとえば、安友競技長から、こんなコメントをひきだしている。
「第1ヒート(午前)以来、ドライバーの諸君がエキサイトしているようなので、第2ヒートはペースカーに隊列が乱れるようなら、スタートまでローリングを2度してもいいと伝えておいた。1周したとき隊列は第1ヒートの時よりはるかに整っていたが、さらに慎重を期してもう1周させた。その数秒後に事故が起きてしまった。私としては発生当時、直線なので火は消せる、ドライバーも安全だろうと信じていたのだが」



 さらに7番ポストの橋本主任のコメントまで用意していた。
「2台の車がもつれ合うように左サイドいっぱいを走ってきた。ナンバーを確認しようとして下を向いて再びコースを見たとき、事故が起こっていた。1台が火を吹き、つづいてもう1台とび込んで、あとはわからない。ベテランなのでコースからとび出すとは思えなかった」

 月が替わって、「朝日」が動き出した。静岡県警が黒沢選手を業務上過失致死傷の疑いで、静岡地検に書類送検すると「スクープ記事」を書いたのである。
 
 自動車レースの事故で刑事責任を追及するのは、わが国ではじめてのことだった。
                      (以下は次のアップで)
Posted at 2012/02/24 03:01:34 | コメント(3) | トラックバック(1) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年02月20日 イイね!

翌日の「朝日新聞」を読む  ~運命の第2ヒート・再び⑤~

翌日の「朝日新聞」を読む  ~運命の第2ヒート・再び⑤~「2日、富士スピードウェイで、二人のレーサーが死んだ。風戸裕選手は国際経験も豊富な「慎重派」。鈴木誠一選手は、オートバイとストッカー(市販車)で鳴らした筋金入りの「超ベテラン」。事故原因は調査中だが、よりもよって、なぜ、この二人が死んだのだろうか。

 この日のスタートは、ペースカーが先導し、隊列をととのったのを見て、いっせいにスピードをあげて走りだすという《ローリング方式》。これまで停止したままエンジンをかけ、競技長の合図でいっせいに走り出す方式だったのが、昨年秋の死亡事故にこりて、ことしから安全なローリングに切り替えた。
 だが、安全なはずのローリングが安全でなかった。事故の起こった午後の第2決勝ではペースカーが中途半端な走り方をしたため、ローリングを2周も回ってスタートの「緑旗」が振られ、正面スタンド前を通過した時は、17台の車がしりと鼻を突き合わすように1団となって、ばく進した」

 

 これが、あの多重事故の起こった翌日、1974年6月3日(月曜日)、朝日新聞スポーツ面に掲載された記事の書き出し部分である。スペースは4段組みに、いわゆるベタ記事と呼ばれる地味な扱いであった。が、注目度は高い。プロ野球では巨人や阪神が圧倒的な人気を集めた時代だし、東京六大学で早慶両大学が競り合っていた。そんな華やかな記事に挟まれて、写真こそ付けられていないが、かなりエキセントリックな見出しが4本、踊っていた。


*事故発生翌朝の「朝日」スポーツ面

“魔のバンク”の先陣争い
密集したまま殺到
ペースカーの不手際も
富士スピード惨事

 それにしては、「山下」とクレジットを入れている記者のトーンはきわめて冷静である。モータースポーツという特殊な世界になじみのない読者を、相当に意識しているのが読み取れる書き方であった。

「旗が振られてからの直線コースは約1キロ。それから右へ大きく曲がる“魔のバンク”下り坂、しかも右さがりで30度もの傾斜がある。ここが富士スピードウェイの難所であり、みどころでもある。遠心力を利用して高速で走りぬけるためには、バンクの上部を走らなければ損。ここでの先陣争いはすさまじい。時速250キロをゆうに超す猛スピードと爆音だけでなく、そこでのきわどい密集には身の毛もよだつ。

 

 事故はそのバンクにはいる直前に起こった。原因が究明されれば分かることだが“諸悪の根源”はこのスタートにあった。1周目は車の間隔もルール通りにあいている理想的な隊列だったのに、なぜ2周目を回らせたのか。そして2周目を終わって《緑旗》を振る前に密集が予想されながら、なぜもうひと回りさせなかったのか」

 新聞記事というよりは、雑誌ジャーナリズムに近い「心情」がこめられているのに、実は驚いてしまう。一歩踏み込んでいえば、獲物の動きをジーッと監視している不気味さがある。
 さらに記述を最後まで続けよう。

「第2決勝はスタート前からエキサイト気味だった。午前の第1決勝ではローリングする2列のうち、インコースの車がフライング気味だった。損をした選手は怒って抗議したが却下された。『こんどこそは』というエキサイトぶり。これも原因のひとつだろう。

 事故後、クラッシュに巻き込まれながら命びろいした選手同士が、目をつりあげ口論していた。『このバカが』『オレのせいじゃねぇ』。ここには、紙一重で『死』と背中合わせで走る危険な職業レーサーとしての良識も知性のかけらもなかった。
 死んだ風戸選手は、この日、親しい仲間と昼食をたべながら『日本でのレースはこわくてしょうがないよ』といっていたという。勝つことよりも安全をねがうのが彼のモットーだったそうだが、慎重派のかれがなぜ危険から逃げ切れなかったのだろうか。3日には欧州転戦のため出発する予定だった。

 事故は運営の不手際と選手同士のエキサイトとちょっとしたミスで起こったに違いない。日本で自動車レースが始まってから10年余。いまだにこんな幼稚さを繰り返すとは……。それにしても選手たちの乗っている外国製の車は勝手によく走る。(山下)」

 黒井尚志さんのいう「偏見に満ちた記事」の正体にしては、いささかあっけない内容である。前回のブログで「毎日」の紙面を紹介したが、例えば「東京中日」「読売」はどうだったか。考えてみれば、6月3日のあの日は、どの新聞を開いても、富士スピードウェイの惨事が写真入りで紙面を飾ったのだから、その衝撃度は増幅されたに違いない。そこへ、この朝日の妙に冷静な「眼」が気になる。山下記者について、元・報知新聞記者の中島祥和さんに問い合わせの電話を入れてみたが、
「たしか、学生時代は水泳選手だったな」
詳しくは記憶していなかった。しかし、気になる。さて、どこからアプローチしてみようか。





Posted at 2012/02/20 23:27:04 | コメント(3) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年02月18日 イイね!

奇跡の生還/北野元と漆原徳光  ~運命の第2ヒート・再び④~

奇跡の生還/北野元と漆原徳光  ~運命の第2ヒート・再び④~ グランドスタンド上部からのカメラアングルで捉えた貴重な「バトルシーン」はわずかに22秒ほどで終わってしまった。
 最終コーナーを立ち上がり、ペースカーがピットロードへ逸れはじめた時、全車がアクセル全開状態に入る。高橋国光車を先頭に、黒沢、北野、高原、都平、風戸、米山(二郎)、生沢徹、鈴木誠一、従野、長谷見、川口吉正、津々見、漆原、寺田(陽次郎)、竹下憲一、竜正宗の順で「クリスマスツリー」の前を通過する。

 もちろん映像では、それも一瞬のこと。バンクに向かって猛獣さながらに疾駆してゆく彼らの後姿を追って行くしかない。と、右サイドに設けられているピットロードと白いガードフェンスが切れるあたりで映像は凍ってしまう。わずか22秒足らずの「記録」に過ぎない。が、目を凝らすと、この時、トップを行く国光車の背後で、黒沢、北野車に加えて、高原車までが異常にくっつきあっているのがわかる。





 実は、そこからが、ずっと封印されつづけている「核心」だというのに。あまりにも不自然な録画編集ではないか。かえって疑惑を生んでしまう強引な処理の仕方だといっていい。

 この時の各車の走行見取り図は、『AUTO SPORT YEAR’75』所載のものと照合すると、ぴったり重なり合う。が、それも「第2図」と「第3図」までで、「第4図」から「第6図」の分には重ね合わせる映像はない。ただし、まるでそれを補うためだろうか、正面から捉えているシーンにスローモーションをかけて、じっくりと何かを伝えようとしている。
 

 2月12日にアップした『「秘められた映像」の封印を解く』で紹介している第1コーナー奥からの、あのアングルのものだが、これなら各車の挙動がある程度、読み取れる。恐らく、ここで引用させていただいた「第5図」「第6図」がちょうどそのシーンに該当するのではないか。ここで、フイと気づいた。ひょっとしたら、この走行見取り図の作成にあたって、担当編集者は何らかの形で、断ち切られた映像の続きを見ることができていたのではないか、と。それなら、この先、まだ「めぐり合う」可能性が残されているかもしれない。






*「レーシングオン」2008年4月号で紹介された「決定的瞬間」は稲田理人氏が撮影したものだった。


*グラスゾーンからいきなりイン側に切れ込んできた⑥北野車が⑩風戸車と(84)鈴木車の間を通ってコースを横切ろうとしているのが判る(「レーシングオン」2008年3月号所載 撮影・稲田理人) 

 再び、iPadの画面に戻ろう。カウントは17分58秒。胸騒ぎを増幅するような効果音とともに、一塊でこちらへ向かっていたマシンたちがパッと左右に散った。右端の白いマシン(北野車)がグリーンにはみ出し、次の瞬間、白い風船を吐き出すように、右側がぷっくりと膨らむ。そこで、画面は3秒ほど静止したままだ。ドラマの最高潮時に聴くようなオーケストラ音が奏でる不思議なシーンが用意されていた。と、ひょいと白い風船のような球体(じつは接触によって留め金が壊れ、フロントカウルが持ち上がったのである)が消える。その瞬間、北野車のノーズがインに切れ込んだ。スローモーションだからわかる、突進ぶりだった。土煙を跳ね上げ、黄色いマシンとヒットしたのがわかる。さらに、白いマシン(これが風戸車)の鼻づらを削って、さらに加速するように、何台かと絡み合う。黒いパーツが空に舞う。カメラはさらに滑走する北野車を追って行く。クルリとリアからショートカット・ゾーンへ流れ出した北野車に、漆原車が覆いかぶさるように激突した。









 それはもう地獄図としかいいようのないシーンが連続する。北野車と漆原車の絡み合いに巻き込まれて⑪米山車が物凄い勢いでエスケープゾーンへ弾かれた。と、漆原車が火を噴いた。その手前で、30度バンク方向へ崩れ落ちるようにスピンしながら、リアから叢にと飛び込む川口車。そのそばを、白煙を上げながらすり抜けていく高原車の姿。

カメラがズームアップする。炎を上げるマシンに中からすっくと立ち上がるドライバーの姿。黒いヘルメットがジャンプしながら、難を逃れようとしている。が、一瞬、何かに気づいたように身をかがめた。そして再びジャンプする。と、その腕は、なんともう一人のドライバーの腕をつかんでいたのだ。転がり出るふたりの姿。漆原と北野の両選手の奇跡的な生還だった。

――アコースティックギターの奏でる哀しげなアルベジオが流れてきた。

 これは中部博さんの「悲しみのラストシーン」と謳った章の書き出しである。画面での磯部アナウンサーの神妙な語り口が、事の重大さを訴える。

「ご覧いただきました富士グラン300キロ。第2ヒートにおきまして、たいへん大きな事故が起きてしまいました。ただちにレースは中止となりましたが、ローラT292に乗ります大ベテランの鈴木誠一選手と、シェブロンB26に乗ります若手のホープ、風戸裕選手が亡くなりました。田中さん、辻本さん、惜しい選手を失いましたね」

田中健二郎解説者が応じる。
「まったく、そのとおりです。実はね、鈴木君は2日前に、どうもいまひとつ乗れない、と。健さん、ボツボツ引退してね、若手の今後の、その指導をしたいと。彼は実は言っていたんですよ。それから、風戸君。昨年の第4戦で優勝し、涙を流しながら喜んでね。これから日本のレース界の第1人者に育っている最中。もうね、残念だね」

 磯部アナも痛恨の想いを隠さない。が、そこは健さんに話題を振る。
「田中さん、とにかくあの、風戸選手が、いろいろ田中さんからレクチュアをうけていましたね」
「そうそう、予選の前に、どうしてもS字が乗れないと。田中さんね、。ちょっと見てくれと言ってね。私は約2時間ぐらい見ましたけれどね。いやーっ、この次はもっと研究しますという、あの笑顔が、いまもそこに何かあるような気がしますね」
ここで磯部アナが静かに結ぶ。
「残念です。亡くなられた、おふたりのご冥福を、心からお祈り申し上げたいと思います」

 中部さんは、こう同調していた。田中健二郎の語りがいい。悲しみに負けじと、精一杯の声を上げている。それが亡くなったふたりのドライバーを心底から追悼する振る舞いなのだと言いたげだ。生き残った者が、天命を終えたふたりへの最高の儀礼をもって語っている、と。

 映像は、そうした鎮魂の想いをつたえながら、焼け崩れた鈴木車や漆原車を見守る選手たちの姿を映し出す。そこにはレーシングスーツからカジュアルなスポーツシャツに着替えた北野元選手や、その頃、選手会長だった浅岡重輝選手と津々見選手が沈鬱な表情で語り合っている様子を捉えている。そして走行路に黒々と刻まれたタイヤ痕を大写しにしたところで終わっていた。





「題名のない映像」は確かに終わった。が、ここからさまざまな問題が噴出していく。その一つが新聞報道である。「レーサーの死=封印された魔の30度バンク」のなかで、黒井尚志さんも「それは事故ではなく事件扱いとなっていた」と指摘していた。

――事故は新聞で派手に報じられ、朝日新聞は中野雅晴が死亡したときと同じく、偏見に満ちた記事を掲載した(後略)。その影響もあって、事件の翌日、ガンさんは任意の事情聴取といいながら、はだか電球のぶら下がった取調室に通されたというのだ。

 さて、それがどんな報道ぶりだったのか。過日、ぼくは国立国会図書館に赴き、朝日新聞だけではなく、ほかの新聞の扱いも同時に検証した。確かに朝日は、読売、毎日の事故現場写真をあしらったレポート記事と異なり、「山下記者」のクレジットの入った、いわゆる署名記事となっていた。     (その内容は次のエントリーで)



*事故を報じた1974年6月3日の毎日新聞社会面

Posted at 2012/02/18 04:09:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
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何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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