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正岡貞雄のブログ一覧

2012年03月28日 イイね!

押しかけカメラマンと秋山武史 ~FISCO熱走・EXA編⑤~

押しかけカメラマンと秋山武史 ~FISCO熱走・EXA編⑤~ FISCOのヘアピンで転倒虫になってから1か月後の夏の盛りに、富士フレッシュマン第6戦(1985年8月25日)を迎えた。
 そのころのわがベストカー・レーシングチームは、2年がかりで体制を整備したおかげで、いまや専属のカメラマンまでいる――といえば聞こえはいいが、なんのことはない、自前でビデオ機材を持ち込んでくれるありがたい大学生にめぐり逢えたからだ。なにしろ、実費に毛の生えた程度の謝礼しか出せないというのに、神奈川県平塚からやってくるというマツダは、毎戦メカ手伝いのかたわら、ぼくがコースインすると、ヘアピンやら第1コーナーへすっとんで行き、HOMEビデオを回すのだ。(星野選手との記念撮影で前列中央がマツダ青年)

  このマツダ青年、カメラマンとしての腕は悪くない。が、大きな欠陥がある。たとえばこうだ――。 

 ヘアピンで見事に転倒虫となった、あの忌まわしい富士500マイル前座戦のVTRシーンを、<現場検証>のために再現してみた。いい感じで100Rからヘアピンへアプローチする⑩。併走する⑫を抑えようと、いささか早めにINを狙った。と、左前輪が縁石にはじかれた。そしてゆっくり裏返しに――。

「あ、あ。ダメ、ダメ!」

 マツダが絶叫する。そして自分の目で⑩EXAの惨劇を確かめようとする。だからカメラは肝腎の亀の子⑩を捉えることはできずに、青い夏空を虚しく画面に映し出すだけである。
 要するに、マツダはプロのカメラマンには不向きな、心やさしい青年なのだ。(註:マツダ=松田昭広君は大学卒業後、2&4モータリング社に入社、ベスモの制作部門の責任者として活躍)


*編集部の片腕だった大井貴之君と制作責任者となってくれた「マツダ青年」

 さて、このマツダ青年の「傑作集」に、新しく、8月25日の富士フレッシュマン第6戦、P1600Bクラスの<興奮感動のシーン>が加えられた。

 ●マッチの乗ったマシンで頑張る



 マツダのカメラは、すでにコースインしたぼくをしつこく追っている。耐火マスクをかぶる。ヘルメットをつける。おっと、この日から、それまでのARAIのフルフェースをジェット型に替えているから、表情がはっきり窺える。で、シートに滑り込む。真っ黒いボディカラーの⑩。これもいつもと違う。それもそのはず。前戦で天井を潰したベストカーEXAは、まだ入院中で、ピンチヒッターとして、かつてマッチ(近藤真彦クン)も搭乗したあのマシン(ゼッケンは⑲だった)をレンタルしたものだった。エンジンはスクール用のものだから、この段階では壊れないように抑えてある。前日の走行練習でも2分8秒台を出すのがやっとで、足回りはぼくのものに比べてソフト過ぎる。100Rでポンとお尻を振ると、その慣性が坂上まで残っている感じ。ストレートも6000回転で頭打ちだ。戦闘力は期待薄。

「ま、練習の延長線だと思って気楽にやれば」

 監督のガンさんも、慰め顔でアドバイスしてくれたもんだ。ところが、である。

 決勝のグリッドについたEXA30台で、ぼくの前にいるのはたったの8台。つまり予選9位というわけだ。2分5秒69のタイムは出来すぎだろう。



 マツダのカメラは快げにぼくの後ろに並ぶ21台を舐めるように映し出していく。仲良しの①見谷敏行(今回は芽里ちゃんじゃない)は11位、⑪田中重臣は17位、初レースだといって前日の練習でぼくの背後にはりついて、ラインを盗んだと喜んでいた⑯勝股雅晴は18位と大健闘。もうひとつ新しい顔がいる。Taka-Qのスポンサードを得てNewmanカラーで登場の秋山武史クン(ああ、彼もすでに故人か)の⑳は20位に。

 予選9位ともなれば、初入賞も夢じゃない。まして、予選トップの98番、青木真は初めてのPP、こいつは第1コーナーが見ものだぞ。舌なめずりをしながら、ぼくは青ランプを待った。

 マツダのカメラはピット前の直線とヘアピンの2か所を抑えていた。青ランプ。ド、ドッと第1コーナーへ殺到するマシンの群れ。4列目から出た⑩の滑らかに加速する黒い姿。ややあって、ヘアピンにカメラはターン。

 まず白い2台が飛び込んでくる。③大久保と24番、岡部。間が空いて、③小笠原、31岡、33井田が来た。次に黒いマシンが2台、塊となって100Rを抜け出してくる。①見谷、そして⑩ではないか!(実は第1コーナーで予想通り98がスピンして、常勝の⑤佐藤と④加藤、88石井がすでに潰れていた)。

 1周終了。⑩は7位を維持していた。2周目、6位の①と⑩の間隔がひろがった。背後から襲いかかる⑪と27 金海。

 4周目、とうとう⑩は力尽きたように⑪の背後にへばりついて直線を通過(実は、このあたりから上り勾配にくるとエンジンがバラつき、とくにシケインの出口から最終コーナーにかけて先行車についていけない展開となりはじめていた)。

 5周目。ついに8位以下の7台のマシンは超団子状態となり、順位はくるくる替わる。マッチカラーの⑩は、観客の声援にこたえるべく、UMIMAXのブレーキ性能にすべてを託して、激しくコーナーに突入するが、先行車をパスするにいたらない。


*第2コーナー。エスケープゾーンに飛び込んでタイヤスモークをあげているのが秋山車

 VICICのクラブ旗がコントロールタワーに出た。最終周である。⑩は14位まで脱落していた。先行グループとの差はほとんどない。が、最終コーナーを立ち上がる姿に元気がない。

 チェッカーが振られた。
「畜生! いつものエンジンなら入賞だったのに!」
 チーフメカのヤマチャンが、心の底からくやしそうに喚いてくれる。

 いやいや、これでいいんです。10周のレースで、21分24秒台は上出来じゃないですか。6秒台で何周かしていることだし、次戦で頑張りますから。それにしても、5周目からぼくの前に出た 秋山(武史)ザウルスの走りは根性モノだった。コーナーへの突っ込みは特筆ものだし、少々よろけた姿勢でも確実に立ち直っていた。新しいライバル登場で、年甲斐もなく、闘争心が燃えあがったのを、今、懐かしく思い出す。


*ガンさんと一緒にメディア対抗のチーム戦に出場したときの「懐かしのアルバム」 左が故・秋山クン           
Posted at 2012/03/28 05:24:38 | コメント(3) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2012年03月26日 イイね!

けっ、景色が斜めになっていく! ~FISCO熱走・EXA編④~

けっ、景色が斜めになっていく! ~FISCO熱走・EXA編④~ EXAでデビューしたマッチが2戦をこなしてJSSにステップアップしていった1985年、ぼくはまだ富士フレッシュマンのEXAレースで修業中だった。

 7月14日の第5戦で、予選15位(出走31台)決勝13位という、まずまずの成績に気をよくして、2週間後の「全日本富士500マイル」の前座戦「ニッサンパルサーEXAレース」にエントリーするかどうか、大いに迷っていた。
 なにしろ、オートバイの「鈴鹿耐久8時間」と重なっている。この真夏のお祭りには作家・五木寛之さんと毎年ご一緒することになっているのだから、そちらを優先するつもりだった。ところが、この前座戦、土曜日(27日)開催だという。
 
 ならば、レース終了後、スッ飛んで鈴鹿入りすれば、なんとか間に合うじゃないか!


*今回はゼッケン⑩を頂戴したベストカーEXA。100Rを抜ける珍しいアングル。Photo by H.Yasukawa

 そんな虫のいい計算が、あとになって、大いに後悔する結果を招くのだが、ともかく7月27日のレースをぼくは心待ちにしていた。それには理由がある。ここ2年間、ぼくの〈成長〉をひたすらに楽しみにして、名古屋から毎戦チーフメカとして来てくれるヤマちゃんが、素晴らしい秘密兵器を、ぼくのために開発してくれたからだ。

 ブレーキパッドである。名づけて「UMIMAX」。耐熱効果のよさに、その秘密があった。
 ノーマルだとだいたい摂氏400度までしか耐えられない。が、こいつは700度までOKだと、ヤマちゃんが太鼓判をおしてくれた。

 使ってみて驚いた。第1コーナーのいつものポイントで車速を殺すと10メートルもブレーキングが余ってしまい、慌ててアクセルを踏み直す効きのよさ。同じ「UMIMAX」を装着した 田中重臣クンも同じ感想をもらしていた。だから、早くこの秘密兵器を使いこなせば結構いけるのでは、とぼくがほくそ笑んだとしても不思議はなかった。

 朝の予選は15分、快調に先行する2台をとらえ、NEWコーナーに入った途端、コクンとエンジンが停まった。あわてて、グリーンに待避して、マシンを点検すると、電気系のカット・スイッチがOFFに落ちている。どうやらNEWコーナー入り口で、縁石を利用してマシンを右に向けた衝撃で、スイッチがカット状態になったらしいのだ。

 で、タイムは伸びず15位に。いつもなら、まずまずと思うところだろうが、当方、いささかいれこんでいた。加えて、前戦で追い抜けた21番、星崎一浩クンや47番、金治芳隆クンがそれぞれ2、8位と好位置をキープしているんだものね。


*1周目の1コーナー。森岡車のスピンを切り抜けるが、この後、カメラマンは待ちぼうけ。


 決勝レースは午後2時20分スタート。真夏の太陽に灼かれた路面は、すでに60度近い。となると、タイヤは3周すぎればタレてしまう。で、序盤での位置がとても大事になってくる。秘密兵器のブレーキパッドを信じて、1周目のコーナーで思い切り攻めてみよう。

 さて、スタート。いつもより、早めにシフト・アップ。ひどくスムースに加速する愛車。2台ほどパスして第1コーナーへ。目の前を行く 森岡車が急激に右に切れ込んでスピンする。わずかにぼくの左前輪と接触したが、かまわず第1コーナーを通過。つづく、右回りの高速100Rを3速にシフトダウンしていい感じで征服、いよいよ、次の勝負どころであるヘアピンへ。

 先行する30番と⑫が右へ寄っている。しめた! ぼくは早めにINを攻めた。と、縁石に左車輪を乗り上げ、あっという間にぼくの視界は右へ傾き、ゆっくりと逆立ち状態へ移っていくじゃないか!あとはもう、ハンドルを握りしめたまま、この信じられない異様の世界が停止すること、そして他車に迷惑をかけないことを祈るばかりだった。


*ホントに亀になってしまったわがEXA.。マシン再生にいくらかかるのやら。


 亀の子になったぼくのマシンはコースを斜めに滑走して、なにごともなくグリーンでとまった。
逆立ちのまま、そこでぼくのやったことは左足でカット・スイッチを蹴るようにして切り、そして5点シートベルトをワンタッチで解除し、開けてあった窓から、正常の世界へ復帰することだった。
(註:このFISCOヘアピンでの「亀の子体験」を、2年後、もう一度ミラージュでやらかします)

 傷心の当方、鈴鹿へ向かう足取りは重かった。
 
 いや、重いどころではない。転倒して裏返しになったままのEXAを、コース員に手伝ってもらって元の姿に戻そうとした瞬間、EXAがぼくの方にしな垂れかかってくる。慌てて後ろに跳ぶ。と、カントのついたコース上のジャンプである。着地した瞬間、左のふくらはぎから、ポンと音がして、肉離れに見舞われたのである。
 歩くのもやっと。それでも、医務室で応急手当てを受けるのもソコソコに、鈴鹿へ急行したのである。


*ゼッケン⑩の黒のEXA。超ウエットのコンディションを味方に予選シングル!

 すぐに次戦が待っていた。しかし、天井をつぶしたベストカーEXAは入院中。さて、どうするか。ハタと膝を打つ。NISMOのガレージには、マッチ(近藤真彦クン)の搭乗した黒いマシン(ゼッケンは⑲だった)が眠っているはずだ。
 そこで早速、日産大森の責任者と連絡をとってみた……。

  これで、マッチとの「博多の夜」で「黒いEXA」について語り合ったことの背景がお判りいただけたと思う。そのマッチ専用EXAで、ぼくが予選9位で通過してしまった富士フレッシュマンレース第6戦の模様は、次回、お伝えしたい。
Posted at 2012/03/26 01:03:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2012年03月20日 イイね!

春近し 初めての外国車と蕗(ふき)の薹(とう)

春近し 初めての外国車と蕗(ふき)の薹(とう) 春の匂いを嗅ぎに、秩父までひとっ走りしてきた。もう蝋梅は盛りを過ぎていたが、風布というみかん栽培北限の山里では生き残っていた。黄色の花びらが早春の陽射しに目を細め、クンと鼻をつく、吐息のような香りを山あいの道に振り撒いていた。目を道ばたに落とすと、おお、ポッコリと蕗の薹が、土の中から頭をもたげている。まさに、春近し、だった。
秩父の街の手前で、皆野町から野巻に入り、破風山と札立峠をめざして、再び山側のワインディング路を行けるところまで、駆けのぼった。桜ヶ谷耕地で行き止まった。そこからの武甲山の姿。ちょこんと雪をかぶって、妙に可愛いじゃないか。


*風布の山里。蝋梅は散らずにまっていてくれた。

*桜ケ谷耕地からの武甲の眺めは、新鮮だった。

「秩父」と「蕗の薹」がコラボしたことで、一つの記憶が蘇ってきた。初めて所有した外国車、アウディ80との日々である。
        *      *
 ツィンキャブのカローラSLクーペを皮切りに、スカイラインGC10を45年、 47年、49年のそれぞれの年式を3台、自慢気に乗り継いだところで、自動車雑誌の創刊責任者になった。昭和52年の春だった。オイルショック、排ガス規制のダブルパンチで青息吐息のわが国の自動車業界。49年式のスカイラインGTも名ばかりのなんとやらで、アクセルをいくら踏んでも坂道の途中でシフトダウンを求めてきたものだ。だからといって誰が悪いわけでもないし、そんなものだと諦めかけていた。

「だったら、まだ排ガス規制の適応からはずされている外国車になさいよ。そうしよう。ぼくが選んであげよう!」

 やっと徳大寺有恒のペンネームが定着しかかっていた杉江博愛さんが、ぼくのぼやきに反応してくれた。

1ヶ月後、AT/右ハンドル仕様の淡いブルーのアウディ80が手元に届けられた。早速、そのころお気にいりだったひとに連絡をいれ、関越自動車道をひたすら北へ……。本来、左側にセツトされていたものを、無理矢理、右側に移植したペダルの位置には驚かされた。


*唯一手元に残っていたアウディ80の姿。後ろが徳大寺さんの280ベンツ

 咄嗟にブレーキぺダルを踏んだつもりが、つい真ん中寄りにあるアクセルペダルに右足が当ってしまう。おっと!という危ないシーンを何回が演じるうちに、こちらも慣れてくる。

 そうなれば、しめたもの。1.6リッターとは信じられないご機嫌な脚力に魅せられて、まだそのころは東松山までだった関越を降りてからも、東京へ引き返す気になれない。ステアリングを軽く切り気味にしてからアクセルをポンと放してやると、ひょいとインに巻きこむ不思議な挙動……これがFF車特有のタックインというやつだな!それに4本のタイヤがしっかり路面を抑え込んだこの安定感は、いったいどこからくるのだろう?運転席からのこの見通しのよさ!

 どうしてこんなにも国産車と次元が異るのか。目を洗われるとは、このことか。東秩父の岨道を駆けあがりながら、2万キロをすでに走破していて、160万円で届けられた、もうけっして新しくはないアウディ80の虜となることを、自ら志願してしまった。

 ブレーキパッドだけは頻繁にとり替えた。電気系のトラブルにも何回か見舞われた。それでもひどく満足していた。3年目に別れがきた。BMW3シリーズの新しい6気筒ものを購う羽目になったからだ。創刊した自動車誌も軌道にのった。ぼくにしては珍しく、スタッフに3日間の休暇を乞うた。このままアウディ80とすんなり別れるには、思い入れが深くなりすぎていた。

  クルマって、つくづく不思議な存在だと思う。そんなぼくの気配を察してだろうか、しきりとグズリはじめていた。よし、あんたをどこかへ連れてってあげよう。そう心に決めた途端にエンジンの噴けが蘇り、軽やかにハミクングするんだもの。

  あれは4月の初旬だった。桜前線もまだその北国には届いていなかったものの、そこここに春の気配が息づきはじめていた。蕗の薹がもっこりと、名もない川べで頭を擡げていた。山形から13号線を秋田方向へ上り、雄勝町で右折、仙秋サンラインを目指した。その季節は、まだ雪に閉ざされて鳴子へは抜けられない。それは承知していた。秋の宮温泉郷を通過。と、ぽっかりと山峽をきり拓いて、信じられないほど本格的な造りの温泉ホテルが…‥。稲住温泉だった。だれに教わったのか記憶にない。が、ともかくそこへ孤りで立ち寄りたかった。それでアウディ80との交わりに終止符をうつ。なぜかそうしたかった。

  つぎの朝、目覚めると、あたりは白い景色に様変りしていた。帰りは下りのワインディング。雪の道がうねる。別れにふさわしい舞台づくりに、ぼくとアウディ80が有頂天になったのを、なぜいまごろになって、鮮やかに想い起こしたのだろうか。


*試乗したB4アウディ80 Photo By C.Kitabatake


*定峰峠の杉林をオブジェにして Photo By C.Kitabatake

 思い出した。それから10年がたって、B4とよばれる新しいアウディ80が登場し、その試乗記をまとめるためにと3日間、一緒に暮らしてみた。
新しいアウディ80は大胆にいえば、そのクルマとしての本質を、なにひとつ変えていなかった。もちろんエンジンからサスペンションまで、何回かのモデルチェンジシを経て、当然進化している。しかし、ドアを開き、ドライバーズシートに座ろうとした瞬間に嗅ぎとった匂い、そして懐かしいエンジン音とか、10年前の馴れ親しんだ記憶が、ただちに蘇ってくるのを、凄いと思ったのだ。

そしてもうひとつ。あの、アウディ80を買い求めた環状八号線の店・JAXと、そこの社長であった松本高典さんのことが思い出された。そうだ、ベストカー創刊を一緒に推進してきた「環八」のヒーローたちはいま、どうしているのだろうか?

次回から、「環八水滸伝」を、もうそろそろスタートさせてもよさそうだな。
Posted at 2012/03/20 23:50:22 | コメント(2) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2012年03月18日 イイね!

マッチの本音が訊けた『博多の夜』 ~FISCO熱走・EXA編③~

マッチの本音が訊けた『博多の夜』 ~FISCO熱走・EXA編③~  80年代後半の九州・博多の夜は、いつも妖しく、そして弾んでいた。
 
 時季にもよるが、まず小料理「こけし」でフグ料理を楽しんだその足で、天神通りのスナック「シャンプー」へ、というのがお決まりのコースだった。そこへ行けば、白いロングマフラーを首筋からたらし、マイクを支えるポールを愛しげに抱き寄せながら、あるいはバトンのように振り回しながら、「時間よ止まれ」を熱唱する矢沢永吉の「そっくりサン」と逢えるからだ。ご本尊の「エイちゃん」も来店し、出くわしたこともあった。

 その夜は、前回「シャンプー」で遊んだときに「そっくりサン=マスター」に紹介された素敵なお嬢さん(信じがたい話だが、その若さで、この界隈でレストランやミニ・バーを経営していると聞かされた)が、新しくオープンしたという店を2軒、ハシゴするつもりでいた。まず「DEJA-VU」という、ちょいと洒落のめした高級なお酒の店のドアを開けた、と思いたまえ。

「正岡サ~ン」(いや、局長といわれたような気もする)
 いきなり、カウンターの椅子にすわっていた青年から、わが名を呼ばれた。目をこらすと、そこにマッチこと、近藤真彦クンの日焼けした笑顔があった。なんでも西日本サーキット(今ではMAZDAの専用テストコースに変身)でF3テストをすることになったので、こちらに来たところだという。それは奇遇というべきか。サーキット以外で、それも取り巻きぬきのマッチが、そこにいるなんて。

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 マッチとは、彼のサーキット戦士デビュー戦でそろって予選落ちした仲である。そのあと、マッチの参戦した富士フレッシュマン第7戦(1984年10月14日)でもEXAで一緒に走り、マッチは予選8位、決勝13位という結果を出している。予選タイムは前戦の2分08秒31から、2分04秒53にまで縮め、わずか4か月の間に相当、走りこんだことがうかがえたものだ。ついでながら、その第7戦のぼくはゼッケン32で出場し、予選16位、タイムは2分05秒29というところまでは、手元の資料で分かるのだが、決勝の結果については記録も記憶も見当たらない。まあ、記憶に値しない程度の結果だったに違いない。

 85年のシーズン、マッチは一気に2リッター・ターボのシルビアを駆ってJSSレースにステップ・アップ。正直、なにをそんなに急ぐの?という感想をもった。それが今度はフォーミュラーだという。フォーミュラーと発音するときのマッチの目の輝き。相変わらずのクルマ少年だった。 

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*1984年10月14日開催の富士フレッシュマン第7戦。⑲マッチのすぐ左脇の37番がぼくのEXA。Bコーナーを併走中。

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*JSSレースでシルビアターボ2000を駆るマッチ。

 さっそくカンパリのソーダ割りでグラスを合わせる。ちょうどいい機会だから、率直に訊くことにした。
「なぜ、もう少し、フレッシュマンレースに取り組もうとしなかったのか?」
 マッチにすれば、何度も何度も、同じことを訊かれたに違いない。
「確かに、もっとフレッシュマンでやればいいことも、判っていました。でも、待ち切れなかった。フレッシュマンレースを4回(註:EXAとパルサーでそれぞれ2戦)走っただけでJSSに出て勝てるか。それはNOですよね」
 そこでマッチは、句読点でもうつようにグラスを飲み干して、語りつづけた。
「早くステップ・アップして、恥をかいたのはボク。自分の土俵でもないのにわざわざ上がって行って、みっともなかった。マスコミに叩かれるのも判っていた。それはそれで、ぼくはいいと思った。我慢できていたら、今頃、まだフレッシュマンでやってるかもしれない。そして『JSSなんか、怖くて乗れないよ』なんて怖気づいた生き方をしてるんでしょうね」

 おっと思った。こいつ、レースという修羅場をくぐって男を磨こうとしているぞ、と。
「来年から、F3やるんだけど、今みたいに『再来月は時間が取れるから、レースに出よう』っていうんじゃなくて、1年間のレーススケジュールをきちんと立てて、やります。鈴鹿にも、西日本にも遠征する。そしていつか、F3000 にも乗る。レースを始めるときから、ぼくはフォーミュラーに乗らなきゃ嘘だと、思いつづけている。ぼく、思い上がってますか?」

 そのために、彼はこの年の初め、フロリダにあるレーシングスクールに入校、フォーミュラーに乗るための集中講義を受けて来たのだな。ピンときた。マッチの闘いの純度は高まった。が、その分、戦うべき壁も厚く、高くなる。

「ボクは今、ニッサンというスポンサーがついている。その恵まれた環境は、運がいいといわれればそれまで。でも、その環境は自分で作ってきたんですよね。歌手・近藤真彦についてきたスポンサー。歌の世界、レースとは違う別の世界で、ぼくは苦労してスポンサーを獲ってきたんです。努力もしないで、スポンサーをつけてレースをやってるわけじゃない。やっと男として、その念願のスタートラインにつけたんですよ」

 そうやって話し込んでいるところへ、この店の若くてあでやかな女社長が顔をみせる。
「サーキットの同窓会はいかがですか?」
 ひょっとして、このマッチとの出来過ぎた奇遇は、彼女の演出だったのかもしれない。
 
 別れ際、マッチがぼくを励ます。
「正岡さん、あれから、ぼくのEXAでフレッシュマンを走ってくれたんですって。あのクルマ、いま考えると足が柔らか過ぎたでしょう。いまはミラージュCUPですって。やっぱり、上へ行って頑張る。男ですねえ」

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*マッチのフレッシュマン2戦目 予選を8位で通過、決勝は13位。 

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*マッチがステップアップしたため、空いていたシートを一時期⑩のぼくが専有。この時、予選7位、決勝は?

 この20数年前の「博多の夜」の記憶があったからこそ、それからのマッチがサーキットの戦士として、何を目指しているのか判っていた。そのひたむきに情熱を燃やす姿を、何が起ころうと、胸を弾ませながら、安心して見続けることができたのだろう。で、いまではレーシング・チームを立ち上げ、代表取締役社長兼チーム監督として、レース界を支える立場にいる。それに引き比べ、マッチがF3やフォーミュラー・ニッポンで邪魔者扱いされたドライバー連中で、今のレース界でキチンと貢献しているものが何人いるのだろうか。

 そのマッチもすでに47歳か。本業の歌手の方もまだ現役らしい。加えて、彼のレース活動に打ち込んできた情熱が、いま高く評価されている。マッチ、いい人生を送ってるね。
Posted at 2012/03/18 01:02:54 | コメント(3) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2012年03月15日 イイね!

マッチ狂想曲 ~わが青春のFISCO熱走・EXA編②~

マッチ狂想曲 ~わが青春のFISCO熱走・EXA編②~ わが青春のFISCO熱走編は、「FUJIカセットGT-1」カラーのEXAに乗り替えたことで、サーキット通いに一段と熱が入ってしまったようで、そのころの様子が、結構、生き生きと「ベストカー・ガイド」の1984年9月号からうかがえた。もっとも、そのレポートの主題は、どうやら、ぼくではなくマッチの「レースデビュー狂想曲」。題して、『マッチのマーチで筑波を走り、EXAのマッチとFISCOを走る』であった。
*             *             *
「なんとも、ご熱心なことで。ま、がんばってくださいよ」
半ばあきれ顔のスタッフの声援におくられて、6月は2週連続、レースに出場した。 ともに主催はニッサンスポーツカークラブ(SCCN)。

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*こちらの黒いマーチは5速MTのスクールカーだった。

 1984年6月17日の’84レース・ド・ニッポン筑波は、年に一度のお祭りイベントなので、レースをはじめた一昨年から必ずエントリーしてきた。
この年は日産大森が、とくにマーチのスクールカーを貸与してくれるというので、いっちょ、マーチレースでやったるか、というわけだった。

 日産マーチレースは、その年から筑波サーキットのほか、岡山県の中山サーキット、山口県の西日本サーキット、それに宮城県のスポーツランド菅生の4つのサーキツトでワンメイクスレースとして開催されることになっていた。
で、レース前日の恒例日産レーシングスクールに臨むことにした。ともかく、マーチのP仕様には一度も乗ったことがない。どんなにパワーのないマシンとはいえブッツケ本番は、マーチに対して失礼じゃないか。

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*何台抜けるか、と大きなことを言ったものの、結果は15位でした。(23)がぼく。

「アクセルを閉じるのは、第1コーナーのブレーキングと、第1、第2ヘアピンだけ。最終コーナーも3速で全開ですよ」
 こう教えてくれたのは、星野一義選手とガンさんのどっちだったっけ。ここでアクセルはベタ踏みだぞ! そう絶叫しながら、100Rと90Rの複合コーナーに、ぼくのマーチは突入する。後輪はしっかり踏んばっている感じ。でも前輪はズルズルと外へ流れ、ほとんどグリーンのないスポンジバリアがグイグイと迫ってくる。でも我慢。ちょっとでもアクセルを戻せば、立ち上がりのパワーを失うことになる。そう自分にいいきかせるのだが、いつしか右足がだらしなくゆるんでいる。だから、タイムなんぞ、あがるわけはない。
 20周ほど練習してからピットへ戻る。ベストが1分22秒10。
「もう1台のほうに乗ってみますか?」
 と、日産大森の小室課長。ご好意に甘えて乗り替えることにした。前のマシンが4速ミッションまでしかないのに比べると、こちらは5速まである。
「いけそう!」
 なぜいけそうなのか根拠もないままコースIN。3周目で前車のベストタイムを出し、4周目には21秒台へ。気分をよくしたところで、ふと前を行く黒いパルサーEXAに気づく。このマシンこそ、次の週、富士フレッシュマンに初挑戦すべく、特訓中の近藤真彦クンではないか。さらに前方にはマッチをひっぱるべく走行中の星野選手のサニーTS。ストレートではグンとパルサーにはなされるぼくのマーチ。ところがコーナーでは追いつく。とくに最終コーナーあたりだと、パスできそうではないか。
「マッチはまだまだな」などと考えながら走行を終了。

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*国沢光宏クンの紹介でフレッシュマン時代のメカをやってくれた沼田クン。どうしてるかな。

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*中谷明彦君も居合わせて応援に来てくれていたんだ。

 あけて6月17日は生憎の雨。タイヤは? チェックしてみるとドライならなんとかいける程度だからさっそくNEWに交換した、とのこと。えッ!? 予選から皮むきしていないので行くのか!ガスは? と聞けば満タンにしましたという返事。それでなくとも50キロも重量オーバーなのに、どうしてくれるんだ、と嘆いたところで後の祭り。
 
 予選は26台出走で19位。レースは10周。前半はモタモタ。やっと9周目あたりから全開のまま最終コーナーを抜けられるようになってから順位をあげ、最終周は15位になったところでレース終了。
 このレースの結果を見て、実は新しい運命の糸で結ばれはじめていたことに気づく。なんと、3位に入賞しているのが、予選7番手からの田部靖彦という若いドライバー。もちろん、この時は顔を合わせた記憶もない。

■近藤真彦でFISCOは3万8000人の大観衆

 筑波の余勢を駆って6月24日の富士フレッシュマン第4戦(といっても、雪にたたられてのやり直し戦だから正確には第2戦にあたる)へ。
 もちろんFISCO入りはレース前日の6月23日。パドックはすでに同じ格好をしたローティーンの女の子であふれ返っていた。サーキットでこんな異常な風景を見たのははじめてだ。日産大森の関係者がぼくを手招きする。パドックの手前にある日産チームのガレージ控室へどうぞ、と。人垣を掻き分けて中へ。部屋の主は近藤真彦クン。19歳の若さが匂い立つ。ともかく、初めてのレース、誰かリード役をお願いしなくては、というので最年長のぼくに白羽の矢が立ったのだろう。
素直にレースに取り組んでいるのは、先の筑波で知っていた。でも、FISCOはどうなの?
「はい。ほかのレーサーに迷惑をかけてはいけないので、時間の許すかぎり走りこんだつもりです。そうですねェ、ここで230周はしました」
 じゃ一緒に走りましょうと、並走することになった。ところがこちらの方が、マッチの走る後ろ姿に見惚れて油断した。ヘアピンでクルリと後ろ向きになったのである。

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*1600‐B,EXAレースのドラーバーズ・ミーティング。異様な空気が支配した1日だった。

 そして1984年6月24日、マッチはサーキットの戦士として、その第1歩を踏み出した。

 当日の観客数は主催者側発表が3万8000人。サーキットが女の子の占領された、異変の日でもあった。パドックも人が溢れ、もうみんなが異常。せっかく早めに予選スタートできる位置にマシンを並べたのに、オフィシャルはなにを血迷ったのかマッチのクルマを中心に混雑している側から、どんどんコース・インさせてしまう。クレーム(文句)をつけようにも、こちらはヘルメットをかぶっているから大声もたてられない。やっとドン尻あたりからスタート。もう先頭に飛び出したグループに1周はハンディをつけられた勘定であった。

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*⑲がマッチ。ヘアピンコーナーへのアプローチ。

 ムカムカして1周し、ピットサインをみると、なんと、2分5秒台を知らせてくる(このタイム、トップクラスのもの!)。これは凄いぞ! おれもずいぶん速くなったもんや。あとはマシンを大切に……なんぞといい気分で予選15分を無事走破、予選結果の発表をゆったりとドライバーズ・サロンで待ったわけである。

1時間後、ライトグリーンの紙に刷られた予選結果をみて、わが目を疑う。なんと34位で予選落ちじゃないか!(出走40台)あの近藤真彦クンは2分08秒31で33位、ぼくは、それに遅れること0・04秒。ああ! なかよく、予選落ち。

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*哀れにも予選落ちしたゼッケン55。

 もっとも、マッチのほうはすべてがトレーニングとあって、P-1600Cクラスにパルサーでダブルエントリーしていた。そして予選29番手、決勝25位という厳しい戦いの洗礼を受けた。それは、つい先頃のぼくと、ほとんど同じ状況だった。

 まだ20歳になっていない彼だが、ひどく先を急がされていた。つまり、一刻もはやくステップアップしなければならなかった。このあと、フレッシュマンの第7戦で2レースを消化し、彼は富士GCのサポート・イベントのJSSレースへとステップアップしなければならないように、周りの準備が進んでいたのだ。

 第7戦 P-1600B 予選8位・決勝13位
      P-1600C 予選17位 決勝12位
 昭和60年 シルビアターボでJSSを4戦、グループA300キロ耐久と合計5レースを消化する。特に筑波のグループA耐久は、星野一義選手と組んでスカイライン・ターボで出走、69周目に消えている。トップを独走していた星野選手からマッチにバトンタッチしたところでフライホイールのボルトがゆるんでリタイアしてしまう。
 JSSは富士を3戦、筑波を1戦したが2回リタイア。最上位は、11位だった。9月のJSS予選ではマシンを大クラッシュさせてしまう。

 そうなると、マッチへの風当たりは厳しくなる。サーキットは、マッチ人気でとんでもない観客が詰めかけ、新しい騒ぎも起こる。JSSに出るのは、まだ早すぎる――そんな批判も出てきた。それからをマッチこと、近藤真彦はどう乗り越えたのだろうか。

 間違いなく、マッチはひたむきに格闘していた。こちらが「ドン亀ドライバー」だったからこそ感じ取れる、不思議な連帯感。それがあたらしい関わりを招く……。   
                           
           (以下、次回アップへ)
 
Posted at 2012/03/15 00:06:11 | コメント(2) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
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1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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