
はじめて3日連続でエントリーしてみる。それだけ、ミラージュCUP のこととなると、熱く、噴き上げてくるものがある、というわけだろう。
1986年の春。そのころ、レース活動に関しては、いまイチ元気のでない、50歳であった。
筑波も富士も、教科書通りのレコードラインを滑らかにトレースしているのに、なぜかタイムがあがらない。バックミラーに後続車がチラリと映るともういけない。腰がひけて、競り合うどころか「お先にどうぞ」と譲ってしまうのだから始末が悪かった。
引退寸前の長嶋や王もこうだったのかしら。が、待てよ。こちらはONのようなご立派な、畏れ多い存在ではない。20歳代の若者たちにまぎれこんで、いい汗を流している実年に過ぎないんだから、気どっちゃいけないよ、と思い直した途端、なにやらポッとからだのどこかが熱くなって、近づいた5月18日のミラージュカップ・フレッシュマン第2戦が愉しみにさえ思えてきたから、なんとも単細胞なわけだ。
が、精神論だけではレースには勝てぬ。なにか秘密兵器になるような技術的なキッカケさえ掴めば……と、好都合なことに決勝前日は、三菱車ユーザーならノーマル、レース仕様を問わず「ラリーアート・レーシングスクール」を受講できると聞き込んだ。
*ミラージュを駆る中谷明彦クン
講師は浅岡重輝さん(そう、つい先だって、当ブログで紹介したばかり)。
「サーキット1周をひとつのコーナーだと思って、きれいなRをとって走るといい」と、かつて教えてくれた人である。インストラクターには、そのころ館内端さんを中心に立ち上げた維新軍団の清水和夫、中谷明彦の両君、これはもう顔馴染みだし、もうひとりはTSの武藤文夫氏だった。
さっそく「ラリーアート・レーシングスクール」に潜りこんだところ、ミラージュカップ出走予定者のほとんどが出席しているのには驚いた。GCドライバーの米山二郎さんまでいるではないか。
そんなわけだから、講義内容はかなりハイレベル。コーナーでの小さなミスが、長いストレートでタイムをあげるのにどれだけ響くか、までに話は及んだ。
午前と午後の各1時間のスポーツ走行の合い間に、講師のドライブするミラージュに同乗できる<スペシャル・メニュー>が用意されていた。またとない機会である。前年秋のマカオGPのミラージュレースで優勝した中谷明彦君のドライブテクニックを味わうことにした。
時間はたったの5分間だから、わずか2周にすぎないが、特に第1コーナーと100Rのブレーキング・ポイントに注目したかったのである。
「あれ! 局長ですか?」
ヘルメットのなかで中谷君が目を剥いた。
「よろしく。遠慮しないで、本気で頼むよ」
中谷君は本気でミラージュを各コーナーに飛び込ませた。違う! 明らかにブレーキング・ポイントもラインも違う。もっとも難関の100Rでは、その手前の260Rを過ぎたあたりから50メートルの看板にむかってアウトいっぱいにストレートのラインをとる。と、4速全開のまま奥まで突入すると見せかけて、軽くポンとブレーキングし、つづいてステアリングをひょいとインに切ってから、さらに100RのCPまで加速する感じである。そこで我慢するだけ我慢したところで3速にシフトダウンだ!
ぼくは唸った。多分、中谷君の走りを外からみると、ひどく冷静でしなやかに映るだろうけれど、運転席の彼はやはり、そこで牙をむいていたのだ。
「これだ!」
思わずぼくは、膝をたたいていたのである。
その中谷君、ぼくの次に80キロの巨漢・米山二郎さんを乗せて、やはり本気で第1コーナーに飛び込んだのはいいが、米山さんの体重を計算にいれてなかったからたまらない。ブレーキをロックさせ、コースアウトしてしまった。フロントカウルを損傷させた程度ですんだが、米山さんの心臓は無事だったろうか。
さて、お待たせのレース報告である。時は1986年5月18日であった。
*#25の下里、#56、久保寺、⑱照沼を従えて予選に臨む
予選は手際よく4番目にビットを飛び出し、ポテンザRE61Sが温まったところでタイムアタック。背後には筑波でバトルを演じた⑱照沼毅がピッタリとはりついている。バックミラーのなかで、ヘアピンや第1コーナーでは彼のマシンが大きくなるが、ニューコーナーからストレートでは少しずつ小さくなる。
ピットサインは1分56秒台を知らせてくる。あとひと息だ。ストレートで1台スリップストリームを使ってパス、100メートルの看板を左右確認したところでブレーキング。タイヤが悲鳴をあげる。限界近いスピードで第1コーナーをクリアしたらしい。ヘアピンも、シケインもまあまあか。最終コーナーを駆け上がる。よし! 気が逸った。まだ左へのGが残っているというのに、なんと左腕が勝手に3速から4速にシフトアップしようとしたのである。ガ、ガーンとエンジンが炸裂するのではないかと耳を覆いたくなる異音。よくやるシフトミスだ! 幸い、ギアが3速に入った直後にニュートラルに戻したから、難は避けられたが、ぼくの予選はそこで終了してしまった。
そんなぼくのミスをうまく利用して前に出た⑱照沼は、なんと1分55秒01で予選2位に、そしてこちらは8位、1分56秒39にすぎなかった。ま、それにしても、久しぶりに心が燃えた15分間であった。
午後1時50分、12周の決勝、開始。
メカの坪井君(筑波からぼくの担当)がそっと耳打ちしてくれた。
「スタートは2800回転でクラッチミートしてくださいよ。4000まであげると、タイヤが空転しますから」
わかった。レーシング(空ぶかし)を2800あたりで停止させたまま、シグナルタワーをうかがう。赤が点灯した。青になってからスタートしたのでは遅い。5、4、3、2、1、0! そこで思い切りよくクラッチをつなぐ。ズルッとマシンが前進した。その瞬間、青ランプにかわった。
アウトいっぱいに第1コーナーをめざす。前には7台のマシンがいるだけだ。シフトミスだけはするなよ!
*トップの座を争った⑰辻村と⑱照沼。飛び出したのは?
先頭集団が右へ寄る。いい位置で第1コーナーのCPを抑えたいからだ。100メートルの看板が視界に入った。反射的にぼくの右足はブレーキペダルに移動した。ド、ドッと左右を後続車が通過する!
「いけねエ!」
なんという大きなミス。車速のない1周目に、ストレートを駆け抜けるときと同じブレーキングを、条件反射的にやってしまったのだ。一瞬、頭の中が真っ白になる。予選のトラブルから21番手からスタートしたゼッケン25の下里吉浩の黒いマシンが、もう横に並んでいる。
「よし、25にぴったりつくぞ」
イメージがかたまったら、あとはその通りにやればいい。各コーナーを黒い弐拾五のあとから追走した。どうやら13番手に、ぼくはいるらしい。⑪秋谷幸彦を直線で捉えた。
3周目、背後に⑲鈴木哲夫がはりついているのが気になりだした。どうやら、ヘアピンの立ち上がりで、間隔をつめられる。いったんは が先行するのを、つぎの周回でこちらが抜き返す。そんなやりとりをしている間に、マークしていたはずの黒い25は3台先を走っている。さすが筑波第1戦のウィナーだけのことはある。
*⑲鈴木哲夫クンとのバトルは今も鮮やかな記憶に。
*8位のぼくを後ろから攻めた#26羽田、#32村田の両選手。久々に闘争心が戻ったレースだった。
9周目の300Rからシケイン入り口までの我慢くらべで、⑲は一瞬早くブレーキングしたのだろう、ぼくの左側の視界から後退したかと思うと、バックミラーの中で大きく車体をよじらせ、スピン状態に陥った。
最終周、先行する61番、板橋徹の白いマシンのお尻を間近にみつめながらチェッカーを受けた。(おお、板橋徹さん、懐かしい名前が登場したぞ)
8位。爽快だ。順位はどうでもいい。闘争心の湧かないモヤモヤが、この日、霧散してくれたことが、なによりうれしいかったようだ。
こうやって、当時50歳になったばかりのどん亀フレッシュマンは、一歩一歩、前進しようと、すくなくとも精進していることだけは、認めていただきたい。
*レース終了後、「走り」について話の花を咲かせる
さて、改めて正式結果をみて、いくつかの発見があった。初戦5位の⑰辻村寿和クンは第2戦を制し、すっかりミラージュCUPのプリンスとなっていて、翌年には三菱ダイヤトーンのCMに起用されたほど。人形師辻村寿三郎の御曹司で、今は日本橋人形町の「ジュサブロー」館の館長をやっていると聴く。3位の福井守生クンはベスモがスタートした際には、いろいろ手伝ってもらった。4位の照沼君と5位の後藤君(真田睦明さんの弟子)とは、熟年グループとして、妙にウマがあった。
そして21位の#37、白石隆クン。さきに「白いミラージュ、#37がやってきた」で紹介済み。多分この日がデビュー戦だったのではないか。予選でぼくより1周3秒32も遅かった。それがどうだ!?というのが次回にテーマになるのかな。