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正岡貞雄のブログ一覧

2012年05月28日 イイね!

命運を決めた一言   ~環八水滸伝③ 藤崎眞孝の巻~

命運を決めた一言   ~環八水滸伝③ 藤崎眞孝の巻~ 貴重な資料を、幸運にも入手したので、今回はその紹介からはじめよう。

 ――昭和52(1977)年6月11日、F氏が突然私の家に訪ねてきた。
「ちょっと相談にのってもらいたいことがありまして……」
 F氏は中古車業界の大手販売会社と書店を経営しており、私の親戚筋にあたるが、彼の話は私を緊張させた。
 中古車業界の若手経営者が中心になって、自動車雑誌を出すことを計画、すでにそのための会社を作って動き出しているのだという。しかもこの計画は、銀行筋から二、三の出版社や有力新聞社にも流れ、タイアップを申し込んでいるところもあるというのだ。
 中古車業界としては、できれば自分たちだけで雑誌を出したいのだが、販売面など難しい問題があり、その点の力添えがほしい、というのがF氏の相談内容だった。

 この気配りのきいた簡潔な一文は、1981(昭和56年)4月に解離性大動脈瘤のための急逝した講談社副社長・足澤禎吉氏の没後1周年に当たり編纂された『追悼の足澤禎吉(たるさわていきち)』(足澤禎吉追悼集編纂会・非売品=全480ページ)の中から、とくに寄稿者の了解を得て、抜粋したものである。


*故・足澤禎吉講談社副社長の在りし日の姿(中央)と追悼文集

 タイトルは『命運を決めた一言』。寄稿者である井岡芳次さんは、『週刊少年マガジン』の2代目編集長を務めたのち1977年当時は講談社編集総務局の担当部長、ぼくの先輩編集者のひとりである。さらに言えば、『環八水滸伝②クルマ雑誌創刊の機運』の項で登場した西武モータース販売の藤崎眞孝社長の末弟・清孝さんの義父(つまり清孝夫人の父親)にあたる。

「ベストカーガイド社」(仮称)設立総会の席で、藤崎社長が「講談社と交渉をはじめたい。ルートはある!」と言い切って早速、井岡さんにコンタクトした経緯がみごとに証言されていた。井岡さんは、こう書き継いでいる。

――販売面ということになれば、私は専門外だ。やはり足澤専務(註:当時)に相談するしかない。F氏にもそのことを伝え、結論が出るまで他社との交渉をストップするように頼みこんだ。
 翌朝早速、専務の出社を待って、F氏からの相談内容を報告した。
「わかった。すぐにその人に会おう。きみから連絡して会社へ来てもらってくれ」
 話し合いはその日の午後、応接室で行われた。まずF氏から、自分たちが考えた自動車雑誌の企画の経緯と、中古車業界の現状について説明があり、足澤専務からも次々に質問が鋭い飛び、会談は1時間に及んだ。
「とにかく、ぼくに任せなさい。悪いようにはしないから……」
 専務のこの一言に、F氏もほっとして帰っていった。専務から私に電話があったのは、それから1時間後だった。
「いい企画だと思うので、ウチ(ヽヽ)でやらせていただく方向で検討するから、すぐにFさんに伝えてくれ」
 F氏は、講談社側の結論が出るまでに、少なくとも三、四日はかかるだろうと考えていたらしく、あまりに速い決断にまずびっくり。それに、頼りがいのある足澤専務の人柄にも強くひかれたようだ。

 この講談社経営幹部と井岡さんの動きを、そのころのぼくは至近距離で知ることのできる立場にいた。社長室秘書として、何度も井岡さんがあわただしく役員室に出入りしていたのを目撃していた。
しばらくしてから、足澤専務と、編集担当だった久保田裕専務に別室によばれ、そこで一連の動きの説明を受けたうえで、講談社が新しい自動車雑誌に取り組むに当たり、きみに編集責任者を引き受けて欲しい、と切り出されたのも記憶している。そのあたりの詳細はかなり複雑な背景があるので、改めて触れることにしたい。


*1971年3月当時の講談社本社と音羽界隈(奥田徹氏撮影)

*編集総務局担当部長時代の井岡芳次さん

 井岡さんは「追悼文」として、こう締めくくっている。

――中古車業界との話し合いは、その後も何回か続けられ、五か月後に「ベストカーガイド」が誕生したわけでが、もしもあの時、足澤専務の素早い決断と、“ぼくに任せなさい”の力強い一言がなかったら、この雑誌は、或いは他社から発行されていたかもしれない。
 毎月二十六日、新しい「ベストカーガイド」を手にする度に、足澤専務にF氏を紹介したあの日の光景が、私の脳裏にはっきりと甦ってくるのである。

 F氏。つまり藤崎眞孝さんはこのあと、自動車雑誌の立ち上げが一段落したところで、引き続き中古車のTVオークションシステムの構築に挑戦し、それも成し遂げる。が、残念ながら病を得て、51歳の若さで、この世を去る。だから、『環八水滸伝』というドラマの前半部で姿を消すことになるが、その存在感は計り知れないものがある。
 
 さきに「昆虫売りの少年」と題して、そのダイナミックな動きを伝えたJAXの松本高典社長を「動」の主役とするならば、藤崎眞孝さんは静かに松本社長と手を携え、目標へ向かって確実に集団を推し進めた「静」の主役だった。

 
*ベストカーガイドグループの推進役だった松本高典さん(環八・用賀陸橋にて)

 その頃の二人の関係を、松本社長はこう書きとどめている。

――藤崎君との出会いは、いまから20年にさかのぼる。
 中古車販売会社40社ほどがまとまり、自分たちの出版社をつくろうという運動を展開していた。やがてそれは三推社設立(註:「ベストカーガイド」発行元、現在の講談社ビーシー)となって結実するのだが、着実に店舗網を広げつつあった藤崎君を仲間にどうしても迎えたかった。
 いまだによく覚えているが、初めての電話で説得するのに1時間も費やした。「同じ土俵の上で同業者が競争しても、過当競争になるだけ」というのが、その反対の理由だった。何とか説得して、とにかく一度直接会う約束を取り付けた。初対面の印象は穏やかで、何より人の意見を聞く耳をもっていた。同じ世代ということもあったろうし、なんとなくウマが合うというのか、それからは同業の原信雄君を交えた3人で、週に1度は会って、飲みながら話をする間柄になった。(後略)――追悼集『眞諦録・藤崎眞孝をおもう』より。

なるほど、である。二人の結びつきがわかった。となると、ここでやはり『環八水滸伝』の主役の一人として、藤崎眞孝さんがどうやってこの業界と関わるようになったのか、そのあたりのエピソードからアプローチしてみたくなるではないか。

 昭和40(1965)年3月、東京理科大学を卒えた藤崎(敬称略)は、通産省の外郭団体、日本機械デザインセンターに就職する。バイクで通勤。ところが早速クルマと衝突して、骨折する。そこで母親が、これからを按じて当時18万円のコンテッサ900の中古車を買ってくれる。その愛車をやがて売りに出そうと考えた。そこで無料で掲載してくれるクルマ雑誌の投稿欄を使ってみた。すぐさま電話が入って「商談成立」。ところが、次から次へと電話が入ってくる。
「クルマ、買いたいんです。売ってくれますか?」
  が、コンテッサ900はもうない。さて、どうしたものか。最初は、「もう、買い手が決まって、売ってしまったんです」と答えていたが、引き続き電話が入る。
 ちょっと待ってよ。これはビジネスになるんじゃないか。閃くものがあった。手元にクルマがなければ、探してきて、売ればいい。――サラリーマン1年生の藤崎の頭脳にパッと広がった鮮明なイメージ、それが中古車専門の販売業であった。


*藤崎眞孝さんの人生を変えたコンテッサ900
 
 日曜日。藤崎は中古車屋さんを回って仕入れに精を出し、夜は車検に精を出した。1か月に20台~30台が藤崎の手からユーザーへ。サラリーマンのサイドビジネスとしては破格の収入が転がり込んだ。なにしろ、月給が3万円。そこへ毎月30万円の稼ぎが入ったらどうなるか。新しい脱サラ人生の船出が待っていた。資本金400万円の小船が大海に漕ぎ出したのである。
Posted at 2012/05/28 08:57:53 | コメント(3) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2012年05月24日 イイね!

還ってきた愛しのEXA ~FISCO熱走・EXA編⑦~

還ってきた愛しのEXA ~FISCO熱走・EXA編⑦~ 1986年はミラージュCUPに夢中になっていたのは事実だった。
 それでも、前年の7月にFISCOのヘアピンで裏返しになった「愛しのEXA」が、やっと修復され、カラーリングもコバルト・ブルーに塗り替えられ、スポンサーも「FUJIカセット」から、渋谷でクルマ好き世代の人気スポット「フリーロード」に鞍替えして届けられたのである。当方としても、ターボパワーのじゃじゃ馬との格闘で少しはスキルアップしたことを、還ってきたEXAで実証したい欲もあって、実は、筑波のミラージュCUP第3戦の2週間前に、久しぶりにEXAレースに参戦していた。



 ま、はっきりいって、レーステクニックを磨く環境に、ぼくは恵まれすぎている。その割にはちっとも速くならないね、といわれそうだが、口惜しいけど、その通りなんだ。で、8位に食い込んだ、5月18日のミラージュカップ第2戦のVTRができあがったところで、報告がてら、ガンさんに見てもらうことにした。少しは褒めてもらえるかな、という期待はみごとに裏切られる!

「なんだ、こりゃ! 1周目の1コーナーを失敗したのはいいとして、展開からいったら、3位、いや、局長の気のやさしさが災いしたとしても、4位になってなきゃ、おかしいよ。よし、今度、ぼくが講師をやってるBSのスクールに来なさい。徹底的に鍛え直してやるから!」




*講師はガンさんと中子修選手

 こういう時の本物のプロは厳しい。もちろん、喜んで受講させていただくことにした。
 ガンさんのスクールとは、ポテンザ・ドライビング・レッスンのことで、BSユーザーを対象にサーキット走行の基本を教えるイベントだった。
 5月30日(金)、ぼくはいそいそと富士SWへ赴いた。参加72台、大盛況なのだ。マーチにサニーのエンジンを積みかえたのやら(これ、違法車かな?)、角目4灯のZやら、いろいろ珍種がそろっていた。

 講師はガンさんと中子修さん。初心者対象とあって、ラリーアートのそれとは趣が異なる。それでもストレートでのフルブレーキング、パドックでのジムカーナーもどきのスラローム走行とメニューをこなしたあとで、待望のサーキット走行である。

 ガンさん直伝の第1コーナーへのアプローチ、100Rの進入アングルを、ぼくなりに牙をむきながら、習得しようとしたのだが……。

 わが「ベストカー/フリーロードEXA」は、実はフレッシュマン復帰に備えて、足回りすべてを洗い直している。フロントのディスクローター、リアのドラム、スタビからブッシュ類にいたるまで、そっくり新品にした。その陰には、名古屋のヤマちゃん一家と平塚のマツダ青年の献身的な作業があるのだが、そんな彼らに酬いるには、もはやぼくがお立ち台にあがるしかない。

■RS中春軍団サマ、よろしくお願いね

 6月1日。この日もFISCOは快晴。明るい陽光を浴びてレイトンカラーより深い青みをもつ、わがEXAのボディはひときわ美しかった。その上、ボディを新調した証拠に、ちゃんとドアミラーを装着している。

 予選は、手際よくRS中春軍団のなかに紛れこむ。④加藤隆弘、②小林里江と快適な周回を重ねた。足回りをリフレッシュしたせいだろう。コーナーでフロントが巻き込む挙動はすっかり消え、マシンは素直に立ち上がっていく。ピットから、2分6秒台をしらせてくる。チラッと先行する④加藤のピットサインを盗み見ると、彼は5秒台らしい。1秒差はどこからくるのかな、と首を傾げているうちに、15分間の予選は終了。



*RS中春軍団に適当に遊んでもらったのに「ついていけた!」と錯覚(100Rにて)

 すっきり予選を走行できたときの結果待ちは愉しい。ヒトケタ台はいけたかな? 煙草が旨い(そのころはかなりのヘビースモーカー)。

 午前11時25分。マツダ青年が嬉しそうに、予選順位をプリントした紙をヒラヒラさせながら、ドライバーズサロンに戻ってきた。なにしろ39台の出走だから、ちょっとでもミスをしたり、マシンが不調だと、簡単に予選落ちしてしまう。

「11位ですよ」
「まあまあ、か」

 その瞬間から、ぼくの頭の中は、めまぐるしく回転する。まず顔身知りのマシンの順位をチェックし、スターティンググリッドのポジションをイメージしながら、第1コーナーへどう入っていくかを、組み立てるのである。


*1周目の第1コーナーでダートに押し出され、最後尾から追撃を開始!

 午後2時44分20秒、10周のEXAレースがはじまった。
 スルスルと左前にいる⑥鈴木淳の黄色いマシンをパスし、右前にいた⑫土方高弘の左サイドにマシンをすり寄せた。
絶妙のスタートであった。100メートルの看板を過ぎても、ぼくはブレーキを踏まない。そのとき、多分、ぼくは6、7番手に位置していたようだ。アウトいっぱい、赤と白のゼブラゾーンの真ん中あたりでインへマシンの鼻をむける。インから攻めてきた ⑫土方のマシンは身をよじる。オット、そばに寄るな! そう叫びながら、ぼくはアウト側の縁石をたよりにマシンをコントロールしようとする。が、もう遅かった。左へタイヤひとつダートにはみ出したぼくのEXAはド、ドッと土煙をあげ、ダートのなかを大回りする。

 コースに復帰したとき、マーシャルカーがぼくを待っているだけだった。どん尻。はるか前方を29台のEXAが100Rへ消えようとしていたのである。

 それでいい。無理にコースに戻るのは、ほかのマシンに接触する可能性が高い。ならば、ミスした己れのペナルティとして、すべてがコーナーを通過してから、レースに復帰するのがぼくのやり方である。

 それから孤独なひとりぼつちの走行がはじまった。カラーリングが目立つだけに、いささか恥ずかしい。それでも、豆粒のようだった先行車がだんだん大きくなってくる。4周目、ついに#36山崎敏之を100R手前でパス。つぎは#78浅井健次だ。ところが予選30位のマシンなのに#78は頑張る。第1コーナーの突っ込みで、いったん抜いたはずなのに、抜き返された。が、シケインから最終コーナースピードが圧倒的に違うから、結局、突き放すのも時間の問題、と考えているうちに、100Rやらヘアピンで脱落するマシンが7台もあって、終わってみれば、20位までポジションを回復していたのである。

 予選でベツタリ走行した 小林里江ちゃんが3位、 加藤が4位という結果をみると、かなりいけたのに、と口惜しがりながら、わが愛しのEXAが、入賞する日は、もう近いぞ、などと予感する50歳だった。

 付け加えれば、このレースのウィナーは③田部靖彦(中春軍団)。後年、ぼくの片腕となって、ベスモを創りあげてくれた、あの田部クンである。

Posted at 2012/05/24 03:35:44 | コメント(2) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2012年05月21日 イイね!

Missサーキットヒーロー ~女豹のごときキミなりき~

Missサーキットヒーロー ~女豹のごときキミなりき~ ミラージュカップに勝るとも劣らないほど、華やかなワンメイクレースとして、その頃(1986年)のモータースポーツシーンでグーンと注目を集めているのが、VWゴルフの「ポカールレース」であった。
クルマ雑誌「ルボラン」で編集長を務め、引退後はVWゴルフへの熱い想いに磨きをかけていた小倉正樹さん(つい先ごろ、逝去。またひとり、昔からの仲間を喪った)が、関係するWebマガジンで「ポカールレース」について、こう解説しているので、引用してみると……。
(黒いミラージュ#30はステップアップしてきたときの松本和子)


*筑波でのポカールレース(先頭がゲスト出場したときの黒沢ガンさん)
――フォルクスワーゲン好きでモータースポーツ好きの方なら、ゴルフ2の時代にフォルクスワーゲン・ゴルフ・ポカールレースというのがあったのをご存知だろう。フォルクスワーゲンの輸入元であったヤナセがバックアップ、現在のコックスの前身であるコックススピードが企画運営を行なっていたワンメイクレースである。輸入車のワンメイクということで話題性もあり、有名人の参加もあって、興隆を極めたものの、バブル経済の崩壊や、フォルクスワーゲンの輸入元が現在のフォルクスワーゲン・グループ・ジャパン(VGJ)の前身であるフォルクスワーゲン・アウディ日本(VAN)に移行したこともあって、このレースは'90年代前半になくなってしまう。

 ポカールCUPレースのスタートは1985年。したがって、1986年6月15日のミラージュCUPフレッシュマン第3戦と仲良く共催された「ポカールCUP」は2年目に入ったところだった。
 ステージは筑波サーキット。ミラージュを走り終えたぼくはレポーターに早変わり。
この日の参加マシンは30台。予選で5台がふり落とされるという激戦区である。その中で一台、ヘンな女性ドライバーが登場した。ゼッケンは4。「死」を連想して、日本人なら避けたい数字をあえて選んでいる。なんという無神経さよ。おまけにスポンサーが「私はコレで会社をやめました」で一躍ヒット商品となった嫌煙器具。TVカメラがそんなドライバーをしつこく追いかけまわすから、目立たぬわけがない。


*向かって右に松本和子、左が林君枝さん。嬉しそうに肩に手を回すぼく。これ、役得! 
 松本和子――どこかで聞いた名前だな、と思ったら、なんのことはない、『ベストカー』の姉妹誌『ベストバイク』(当時はかなり売れていた)で″女性は巨きなものに惹かれます″なんて、意味ありげなタイトルでバイクの限定解除に挑戦したレポートを寄せている、あのタレントライターであった。

「はい。初レースです。岩城滉一さんに勧められて、チームイワキに入ったのよ。タイム?
1分20秒台がやっとだから、予選でサヨナラするかも、ね」

 OMPのチャコールグレイのレーシングスーツが、バッチリきまって、パドックの景色をもりあげてくれるのは上等だ。
 ところが、この松本和子嬢、なんと予選29位で見事、決勝進出をはたしてくれたのだ。タイムも1分18秒台と立派なもの。
 
出走直前「こわいよゥ」とぼくの胸にすがりついてくれた。これでは、なにがなんでも、ゼッケン4を応援せざるを得なくなるではないか。

レースは中谷明彦、清水和夫、小幡栄、古沢忠雄のプロ級ドライバーがテールtoノーズの死闘の末、中谷明彦が勝利した。なんとこれでポカールレース6連勝だという。岩城滉一、稲垣潤一も大健闘。もうひとり注目すべき女性ドライバ-がいた。この年のEXAレースでサーキット・フレンドのひとりとなった小林里江ちゃんである。彼女が3位入賞したレースレポートで、こんなコラムまでサービスしている。


*ポカールレースの予選8位から飛び出した#25の小林里江

その里江ちゃん、予選は8番手からとび出し、1周目のダンロップ下で、派手な土煙をあげてコースアウト、最後尾までドロップした。が、それからの追いあげはもの凄かった。トップグループと同じ1分14秒台で周回を重ね、なんと14位まで回復してしまった。やっぱり、ぼくが注目しただけのことはある。

で、肝腎の松本和子は?
レースの前半こそ慎重に教科書どおりのラインをトレースしていたが、慣れてくるとガンガン攻めるのである。タイムも17秒台とまずまず。ついには第1ヘアピンで2台をパスするなど、ともかく19位でゴールし、あでやかに観客やオフィシャルの拍手にこたえているのだから、たいしたタマだよ。ぼくも一度でいいから、ポカールに挑戦してみようかな、などと妄想するほど、魅力あるレースであった。
その願いは1990年5月の菅スポーツランド菅生での「VWゴルフ・ポカールレース第2戦」で叶えられている。

*90年5月、念願のポカールレースに出場
* *     *     *   *

このレースレポートは、今になってみると、深い意味合いがこめられていたのに、いまさらながら驚く。
 まず中谷君。このポカールレースでの速さに注目したコックススピードが、このシーズンからF3に中谷君を抜擢していて、そこから「ライジング・サン」となって、88年にはF3チャンピオンとなり、F3000にステップアップ、ついにはF1に乗る寸前にまで昇りつめる。
「ベストモータリン」創刊の前夜でもあり、キャスター候補として起用したらどうか、という想いが、ぼくの中で膨らみ始めた時期でもあった。


*ライジング・サンとして登場したころの中谷明彦クン

もうひとりは、小林里江ちゃん。ベスモの創刊時には制作スタッフのひとりとして参加してもらった。そして、松本和子嬢。次の年からはミラージュCUPにステップアップ。それもフレッシュマンのカテゴリーはなく、エキスパートクラスからデビューし、同じようにステップアップしたぼくの強烈なライバルとして、登場するのである。

あの時代、サーキットとは、そんな新しい、刺激的な交遊の場でもあった。

2012年05月19日 イイね!

筑波最終コーナーの極秘ライン ~ミラージュF第3戦に学習効果を問う~

筑波最終コーナーの極秘ライン ~ミラージュF第3戦に学習効果を問う~ 最初に、ガンさんと中谷クンから特別に伝授された秘法を、今回もまた生かすことができなかった、という情けない話から始めよう。

 富士SWにくらべると、筑波のように、ストレートが短く、Rの小さいコーナーが連続するサーキットは、予選の順位がレースの趨勢を、大きく支配してしまう。
 それもそのはず、スリップストリームを使う機会は少ないし、勝負を賭けるコーナーは、第1コーナー、第1ヘアピン、ダンロップブリッジ下、第2ヘアピン、最終コーナーの5つで、ワンメイクスともなれば、性能の差はほとんどないし、あとは僅かな技量の差で、特にコーナーの立ち上がりを大事にする以外にない――というのが、専門家の分析である。
 にもかかわらず、ぼくの場合、筑波での予選順位が、致命的に悪かった。


*スタート直後の第1コーナーはご覧のようなラッシュ状態

 ミラージュカップ・フレッシュマン戦は全部で5戦が用意されていた。そのうち、第2戦だけが富士SWで、残りの4戦はすべて筑波なのだ。すでに、ぼくが得意とする富士SWは消化済みで、上位入賞を念願するぼくは、ともかく筑波を征服しないことには話にならないのだが、どうにもうまくいかない。

 まず第1戦は、PPの秋谷幸彦が1分11秒20(決勝7位)だったのにくらべて、ぼくはほとんど4秒の差をつけられて15位(決勝12位)。まあ、新しいエンジンに当たりをつける時間もなく参戦した酬いだと言い訳できたとしても、なんとも情けない結果であった。

 ちなみに、富士の第2戦は、PP辻村寿和=1分54秒71、正岡=1分56秒39で、その差は、筑波とは2倍以上の周回距離にもかかわらず、1秒63に過ぎない。距離にして45メートルか。

 そして1986年6月15日の第3戦は、シリーズポイントで上位につけるためには、重要なレースであるのだが、予選順位は出走27台中、18位に低迷してしまった。

 PP福井守生、1分10秒51、ぼくは前回より2秒近くタイムを縮めて、1分13秒22。それでも2秒61の大差なのである。その差は、いったいどこから来るのだろうか?

 正直な話、この第3戦には大いなる自信をもって、予選に臨んだ。例のごとく、わが師、黒沢ガンさんにしつこくつきまとって、「筑波攻略」の秘訣を聞き出した上に、いまやハコのレースなら(いやいや、過日の鈴鹿JPSのF3でもシュアな走りを見せてフォーミュラーもいけると評判である)向かうところに敵なしの中谷明彦クンからも、とっておきの極秘ラインを伝授されていたのである。加えて、2戦を消化してエンジンは絶好調、足回りもテスト&サービスの宇賀神大先生の絶妙なセッティングでバッチリ、「これで予選上位に入れなければ引退ものだよ」と、周りの親衛隊にもハッパをかけられていた。にもかかわらず――。


*最終コーナーへ飛び込む武器は度胸ではなく、知性だった!

 予選出走直前のぼくは、コックピットにガッチリ縛りつけられながら、自分にこう言い聞かせていた。

「いいか、最終コーナー(100Rと90Rの複合で、立ち上がりポイントのグリーンが小さい上に、400mのバックストレートを全開で駆け抜け、いざコーナー突入となると、スポンジバリアの向こうが観客席で、まるで壁のように見えて、たいへん度胸のいるコーナーなのだ)は富士SWの100Rよりやさしいのだ。ガンさんが教えてくれたじゃないか。富士は下り勾配からのブレーキング、筑波はフラット。だとしたら、答えは簡単でしょ! 
 その通りだ。最終コーナー恐れるなかれ!」と。

 オフィシャルの誘導で、コースインがはじまった。と、左右2列、前から順番に並んだというのに、長い列となった左側のマシンを優先させているではないか。おい、それはちょっと困るじゃないか。予選時間はわずか10分間。せっかく右側の前列に並んで、素早くコースインできるよう構えた作戦は水の泡。つまり、走行時間が先に入ったマシンより1分近く少ない勘定になる。

 カーッと血が頭にのぼるのがわかった。とはいえ、耐火マスクにヘルメットをかぶったぼくの抗議の声がオフィシャルまで届くわけもなく、予選は開始されてしまったのだ。

 冷静さを欠いた男に、余裕などあるはずもない。コースインするや否や、先行車に少しでも追いつくべく、アクセルを踏む。#25下里吉浩と⑪秋谷がダンロップ下でゆっくり駆け引きをはじめたのを目にしながら、彼らを利用する計算もできずに、先行する黄色いマシン#32中田雅久のお尻を追いかけてしまった。


*第1ヘアピンで競う⑩井上弥生ちゃんと、われらがホープ、白石隆クン。フロントカウルを割ってしまったらいくらかかるか!?

 2周目、#32が第1コーナーのアプローチをミスしたのに乗じて、あっさり前へ。3周目、ダンロップ下でスピンした#37白石隆をパス。1台として、ぼくを追い抜こうとするものもいない。快調だ! ところが、ピットからのサインでは13秒台に過ぎない。他車はもっと遅いのかな? 暢気なことを考えているうちに、バックミラーに#37白石が大きくなり、さかんにコーナーの入り口で、仕掛けてくるではないか。

 もう、そうなると、中谷クンの教えてくれたラインも、ガンさんのアドバイスも、ぼくの頭の中からあっさり霧散し、#37とのバトルに夢中になってしまったのだから、どうしようもないね。

■レース2戦目の新人に追いまくられて

 午後1時30分。スタートの位置につくべく、ぼくらはパドックからマシンを押していた。あまりの予選結果のだらしなさからか、メカの坪井、高橋両君、手伝いのマツダ、粕谷俊二両青年のマシンを押す仕草に、力強さとか、弾みといったパワーが感じられない。
 さて――信号は青に! 第1コーナーで黄色いマシンが背後から襲いかかってきた。#32の中田だ! 前戦の富士ではぼくのほうが競り勝った相手だ。負けてたまるか。が、あっさり、S字でパスされてしまう。⑭保田薫がしつこくつきまとう。それでも第2ヘアピンからバックストレートで白いマシンを2台パス。

 最終コーナー。ぼくの視線は左側の50の看板を見る悪癖を出さないよう、インのある目標へむけられる。これは最終コーナーの壁を意識しないですむ大切なポイントである。 充分に、ミラージュのフロントに荷重をかけ、ぼくは100Rへ飛び込んだ。また1台、パスしたぞ。保田ははるか後方に退いたようだ。

*予選アタックで前を塞いでくれた27番の高橋一仁選手

*妙にウマが合った中年トリオ。左から照沼、後藤、そしてボク。
 
3周、4周。いつの間にやら、あの#37白石が背後にはりついている。こりゃ、予選の二の舞だ。果敢に#37がコーナーの入り口でタイヤをきしませながら、ぼくのインをとろうとする。それをがっちりブロックすることに気をとられ、マシンはアンダー気味に大きくふくらんでいく。が、パスされるまでにはいたらない。

 そんなやりとりで12周目に入った。残りは3周しかない。目標としていた⑨後藤政規の黒いマシンはコーナー一つ分、先行している。なんとかせねば!

 で、最終コーナー。いつものブレーキングポイントを変えることにした。アクセルオフを早めにし、ブレーキングはコーナーの奥に入ったところで、ガツーンと。37はぼくの動きが見えるわけがない。ぼくのマシンのブレーキランプがそれまでと異なるポイントで点いたから慌てたらしい。ハーフスピンを起こしてしまった。で、脱落。それにしてもぼくを追いまわした#37は、この日のレースが2戦目だという。若い人の、なんと進歩の早いことか。 

 15周のレースは終わった。どうやら14位までポジションをあげたものの、前戦ではぼくの後塵を浴びてくれた⑲鈴木哲夫が3位に入賞したのに比べれば、なんとも寂しい結果ではないか。

これで3戦を終了して、ぼくはシリーズポイント12位に(因みに10位になると賞金10万円である)。あと2戦でどれくらい順位をアップできるだろうか。やはり、もっと走りこんで筑波をマスターするほかなさそうだ。次戦のミラージュカップは7月20日、同じ筑波である。


*ミラージュCUP&VWゴルフ・ポカール、それぞれの正式結果
 それにしても、この筑波の1日くらい、晴れがましい「サーキット・ライフ」を堪能したことはなかった。なにしろ、ミラージュCUPとVWゴルフのポカールレース、二つのワンメークレースが一緒になって催されたのだから。コースのインフィールドにある芝生広場には、それぞれのテントが張られ、参加者も関係者もそこで食事をしたり、レース観戦をしたり、おしゃべりを楽しんだり……さながらモータースポーツ界の社交サロンのようだった。それだけ、自動車メーカーが力を入れていたというわけだ。


*筑波の社交サロンに顔を見せた徳大寺有恒と大川悠(元・二玄社/NAVI創刊編集長)の両氏

*女豹のごとき疾さでデビューした松本和子嬢、次の年からミラージュCUPへ!

 当日のVWポカールレースの模様を、ベストカーでは、特にページをさいてぼくがレポートしているので、次回はそれを紹介してみたい。なにしろ、改めてエントリーリストを見てみると、その顔ぶれがすごい。中谷明彦、清水和夫、小幡栄、岩城滉一、稲垣潤一、それに「みんカラ」SPECIAL BLOGでおなじみの吉田匠の各選手。
 それに混じって、小林里江、松本和子の名前も。おお、そうだ。あの日が松本和子嬢のデビュー戦だったはず。次回はタップリそのへんを!

2012年05月16日 イイね!

中谷直伝「しなやかに牙を剥け!」 ~ミラージュFISCO戦で開眼~ 

中谷直伝「しなやかに牙を剥け!」 ~ミラージュFISCO戦で開眼~  はじめて3日連続でエントリーしてみる。それだけ、ミラージュCUP のこととなると、熱く、噴き上げてくるものがある、というわけだろう。
 
1986年の春。そのころ、レース活動に関しては、いまイチ元気のでない、50歳であった。

 筑波も富士も、教科書通りのレコードラインを滑らかにトレースしているのに、なぜかタイムがあがらない。バックミラーに後続車がチラリと映るともういけない。腰がひけて、競り合うどころか「お先にどうぞ」と譲ってしまうのだから始末が悪かった。

 引退寸前の長嶋や王もこうだったのかしら。が、待てよ。こちらはONのようなご立派な、畏れ多い存在ではない。20歳代の若者たちにまぎれこんで、いい汗を流している実年に過ぎないんだから、気どっちゃいけないよ、と思い直した途端、なにやらポッとからだのどこかが熱くなって、近づいた5月18日のミラージュカップ・フレッシュマン第2戦が愉しみにさえ思えてきたから、なんとも単細胞なわけだ。

 が、精神論だけではレースには勝てぬ。なにか秘密兵器になるような技術的なキッカケさえ掴めば……と、好都合なことに決勝前日は、三菱車ユーザーならノーマル、レース仕様を問わず「ラリーアート・レーシングスクール」を受講できると聞き込んだ。


*ミラージュを駆る中谷明彦クン

 講師は浅岡重輝さん(そう、つい先だって、当ブログで紹介したばかり)。
「サーキット1周をひとつのコーナーだと思って、きれいなRをとって走るといい」と、かつて教えてくれた人である。インストラクターには、そのころ館内端さんを中心に立ち上げた維新軍団の清水和夫、中谷明彦の両君、これはもう顔馴染みだし、もうひとりはTSの武藤文夫氏だった。

 さっそく「ラリーアート・レーシングスクール」に潜りこんだところ、ミラージュカップ出走予定者のほとんどが出席しているのには驚いた。GCドライバーの米山二郎さんまでいるではないか。

 そんなわけだから、講義内容はかなりハイレベル。コーナーでの小さなミスが、長いストレートでタイムをあげるのにどれだけ響くか、までに話は及んだ。

 午前と午後の各1時間のスポーツ走行の合い間に、講師のドライブするミラージュに同乗できる<スペシャル・メニュー>が用意されていた。またとない機会である。前年秋のマカオGPのミラージュレースで優勝した中谷明彦君のドライブテクニックを味わうことにした。

 時間はたったの5分間だから、わずか2周にすぎないが、特に第1コーナーと100Rのブレーキング・ポイントに注目したかったのである。

「あれ! 局長ですか?」
 ヘルメットのなかで中谷君が目を剥いた。
「よろしく。遠慮しないで、本気で頼むよ」

 中谷君は本気でミラージュを各コーナーに飛び込ませた。違う! 明らかにブレーキング・ポイントもラインも違う。もっとも難関の100Rでは、その手前の260Rを過ぎたあたりから50メートルの看板にむかってアウトいっぱいにストレートのラインをとる。と、4速全開のまま奥まで突入すると見せかけて、軽くポンとブレーキングし、つづいてステアリングをひょいとインに切ってから、さらに100RのCPまで加速する感じである。そこで我慢するだけ我慢したところで3速にシフトダウンだ!

 ぼくは唸った。多分、中谷君の走りを外からみると、ひどく冷静でしなやかに映るだろうけれど、運転席の彼はやはり、そこで牙をむいていたのだ。
「これだ!」
思わずぼくは、膝をたたいていたのである。

 その中谷君、ぼくの次に80キロの巨漢・米山二郎さんを乗せて、やはり本気で第1コーナーに飛び込んだのはいいが、米山さんの体重を計算にいれてなかったからたまらない。ブレーキをロックさせ、コースアウトしてしまった。フロントカウルを損傷させた程度ですんだが、米山さんの心臓は無事だったろうか。

 さて、お待たせのレース報告である。時は1986年5月18日であった。


*#25の下里、#56、久保寺、⑱照沼を従えて予選に臨む

 予選は手際よく4番目にビットを飛び出し、ポテンザRE61Sが温まったところでタイムアタック。背後には筑波でバトルを演じた⑱照沼毅がピッタリとはりついている。バックミラーのなかで、ヘアピンや第1コーナーでは彼のマシンが大きくなるが、ニューコーナーからストレートでは少しずつ小さくなる。

 ピットサインは1分56秒台を知らせてくる。あとひと息だ。ストレートで1台スリップストリームを使ってパス、100メートルの看板を左右確認したところでブレーキング。タイヤが悲鳴をあげる。限界近いスピードで第1コーナーをクリアしたらしい。ヘアピンも、シケインもまあまあか。最終コーナーを駆け上がる。よし! 気が逸った。まだ左へのGが残っているというのに、なんと左腕が勝手に3速から4速にシフトアップしようとしたのである。ガ、ガーンとエンジンが炸裂するのではないかと耳を覆いたくなる異音。よくやるシフトミスだ! 幸い、ギアが3速に入った直後にニュートラルに戻したから、難は避けられたが、ぼくの予選はそこで終了してしまった。

 そんなぼくのミスをうまく利用して前に出た⑱照沼は、なんと1分55秒01で予選2位に、そしてこちらは8位、1分56秒39にすぎなかった。ま、それにしても、久しぶりに心が燃えた15分間であった。

 午後1時50分、12周の決勝、開始。

 メカの坪井君(筑波からぼくの担当)がそっと耳打ちしてくれた。
「スタートは2800回転でクラッチミートしてくださいよ。4000まであげると、タイヤが空転しますから」

 わかった。レーシング(空ぶかし)を2800あたりで停止させたまま、シグナルタワーをうかがう。赤が点灯した。青になってからスタートしたのでは遅い。5、4、3、2、1、0! そこで思い切りよくクラッチをつなぐ。ズルッとマシンが前進した。その瞬間、青ランプにかわった。

 アウトいっぱいに第1コーナーをめざす。前には7台のマシンがいるだけだ。シフトミスだけはするなよ!


*トップの座を争った⑰辻村と⑱照沼。飛び出したのは?

 先頭集団が右へ寄る。いい位置で第1コーナーのCPを抑えたいからだ。100メートルの看板が視界に入った。反射的にぼくの右足はブレーキペダルに移動した。ド、ドッと左右を後続車が通過する!

「いけねエ!」
なんという大きなミス。車速のない1周目に、ストレートを駆け抜けるときと同じブレーキングを、条件反射的にやってしまったのだ。一瞬、頭の中が真っ白になる。予選のトラブルから21番手からスタートしたゼッケン25の下里吉浩の黒いマシンが、もう横に並んでいる。

「よし、25にぴったりつくぞ」

 イメージがかたまったら、あとはその通りにやればいい。各コーナーを黒い弐拾五のあとから追走した。どうやら13番手に、ぼくはいるらしい。⑪秋谷幸彦を直線で捉えた。

 3周目、背後に⑲鈴木哲夫がはりついているのが気になりだした。どうやら、ヘアピンの立ち上がりで、間隔をつめられる。いったんは が先行するのを、つぎの周回でこちらが抜き返す。そんなやりとりをしている間に、マークしていたはずの黒い25は3台先を走っている。さすが筑波第1戦のウィナーだけのことはある。


*⑲鈴木哲夫クンとのバトルは今も鮮やかな記憶に。


*8位のぼくを後ろから攻めた#26羽田、#32村田の両選手。久々に闘争心が戻ったレースだった。

 9周目の300Rからシケイン入り口までの我慢くらべで、⑲は一瞬早くブレーキングしたのだろう、ぼくの左側の視界から後退したかと思うと、バックミラーの中で大きく車体をよじらせ、スピン状態に陥った。

 最終周、先行する61番、板橋徹の白いマシンのお尻を間近にみつめながらチェッカーを受けた。(おお、板橋徹さん、懐かしい名前が登場したぞ)

 8位。爽快だ。順位はどうでもいい。闘争心の湧かないモヤモヤが、この日、霧散してくれたことが、なによりうれしいかったようだ。
こうやって、当時50歳になったばかりのどん亀フレッシュマンは、一歩一歩、前進しようと、すくなくとも精進していることだけは、認めていただきたい。


*レース終了後、「走り」について話の花を咲かせる



 さて、改めて正式結果をみて、いくつかの発見があった。初戦5位の⑰辻村寿和クンは第2戦を制し、すっかりミラージュCUPのプリンスとなっていて、翌年には三菱ダイヤトーンのCMに起用されたほど。人形師辻村寿三郎の御曹司で、今は日本橋人形町の「ジュサブロー」館の館長をやっていると聴く。3位の福井守生クンはベスモがスタートした際には、いろいろ手伝ってもらった。4位の照沼君と5位の後藤君(真田睦明さんの弟子)とは、熟年グループとして、妙にウマがあった。

 そして21位の#37、白石隆クン。さきに「白いミラージュ、#37がやってきた」で紹介済み。多分この日がデビュー戦だったのではないか。予選でぼくより1周3秒32も遅かった。それがどうだ!?というのが次回にテーマになるのかな。
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何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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