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正岡貞雄のブログ一覧

2012年06月24日 イイね!

懐かしの「同乗体験企画」 ~新着Hot-Version 116号を賞味する①~

懐かしの「同乗体験企画」 ~新着Hot-Version 116号を賞味する①~   雑誌メディアに携わって半世紀余……。
 創刊1周年、5周年、10周年……20周年、30周年と、それぞれの節目ごとに、そう謳ってメディアは心を奮い立たせ、あるいは読者・広告対策のイベントとして、アピールしてきたものだ。

 が、残念ながら近ごろのCARメディアの低迷は、恐ろしく速いスピードで進行し、いくつかの関わり深い、それなりの歴史を紡いできたはずのメディアも、あっさり退場させられている。わが「ベストモータリング」も、2011年4月には消滅してしまった。

 その前後の複雑な心境をバネにして、新しくとりくんだのが、当BLOG『つれづれなるままにクルマ一代』。「ファーストラン」と題して、ブガッティまがいのブリキ自動車のステアリングに、両手を添えてカメラに収まった、ぼくのクルマ坊や時代の古い写真を披露したのがスタートだった。


*ぼくの「ファーストラン」


 それが2011年6月15日。だから今回のエントリーがちょうどスタート1周年記念の回に当たるわけである。

 数えてみると、その間、なんと123回にわたってエントリーしている。つまり3日に1回は、何らかのテーマで「みんカラ」仲間にむかって発信しつづけた計算だ。テーマはその時々で入れ替わっているが、それにしても、それらの日々の交流が、なんとも充実していて、ぼくに新しいエネルギーを回生してくれた。この際にあらためて感謝したい。




*「懐かしの同乗バトル」(ベスモ1996年3月号より)
 そんな気分でいるところへ、6月8日リリースの「Hot-Version」Vol.116が届けられていたのだが、体調を損なっていたこともあって、封を切ったものの、その内容について想いを深めるには至らない。そのまま、10日以上が無為に過ぎてしまった。そんな時は、改めて「Hot-Version」と向き合って、最初から見せてもらうに限る……。

 この号の「目玉企画」は、「史上最大の激戦!」と銘打った峠派マシンvs.サーキット派、ストリートチューニングカーによる夢の「バトル・ロワイヤルin筑波」なのだが、前菜代わりに用意してあった同乗体験企画にも、おおいに食欲をそそられてしまった。

 HV編集部と「アミューズ」の呼びかけに賛同した有名ショップが、それぞれの威信をかけてチューニングアップしたデモカーの助手席に、2000円で同乗できるというのだ。ドライバーも荒聖治、織戸学、谷口信輝といった顔ぶれだから、これはもう、極上のボーナス。
 すぐにピンと来た。編集長は「ベスモ100号記念イベント」(1996年3月号)で大ヒットしたあの企画の再現を狙っているな、と。思い出されるのは、イベントのフィナーレを飾った「ロードスターワンメーク大運動会バトル」と、迫りくる夕闇のなかで催された「同乗走行会」。あの時のキャスターと読者と編集部が一体となった至福の世界。ご記憶の「みんカラ」仲間も少なくないはず。

 同乗できるマシンは、このあとのバトル・ロワイヤルに投入されるとあって、顔ぶれは多彩というか、ここでしか体験できない部類の「スーパー・チューニングカー」ばかりである。参加者の感激、興奮ぶりを拾ってみようか。





 650馬力のR35GT-Rが赤い矢となって裏のストレートを疾駆する。
「凄いとしか言いようがなかった。ありがとうございました」
 助手席から解放された同乗者の声は、喜びにふるえていたし、480馬力のインプレッサの助手席に、「とても楽しみです」と言いながら、志願して縛りつけられた女性の緊張と不安を、カメラは丁寧に捉えていた。

 350馬力にチューンアップされたS2000を希望した参加者はまことに研究熱心。
「勉強になりました。車の旋回のさせ方とか、タイヤのグリップの出し方とか、まあ、流石って感じです」

 荒聖治クンはスプーンシビックFN2を担当していた。それを同乗者が解説してくれる。
「タイヤもブレーキもつねに限界まで使っているって感じで、それでいていつも安定している。やっぱり凄いな」


*250psのスプーンシビックを駆る荒聖治組

*800psのトップシークレットGT-Rを駆る織戸学組

「谷口さんの横に乗りたくて……」とハンディカメラを持ち込んだ熱心な青年のうっとりした表情もまた、秀逸だ。アミューズの370Z(380ps)はやわかく第2ヘアピンに進入する。そのポイントでしっかり、彼はドライビングのツボを質問している。
「2ヘアのコーナリングでは、アクセルワークとブレーキングで、慣性を左へもってゆくんですか」
「うん、ちょっとかけて、曲がっていく感じだね」
 谷口クンもさりげなく説明しながら、コーナーを立ち上がり、筑波での最高速を試せる裏のストレートへ。人とクルマと心が一つになっている。見るものの心が和らぐ、いい場面だなぁ。

 トリは織戸学クンというよりは、1番人気の800psのトップシークレットGT-R。
「路面が冷えているから、結構、どこへ行くかわからないよ」
 こう言い残してピットを出ていく織戸クン。アクセルを踏むと、エンジン音が吠える。
 それが、タイミングが合えば、赤のMCR-GTRとバトルを演じるのだから、もう同乗者は昇天寸前。興奮のあまりグローブボックスを蹴り落としてしまう。それでも「楽しいです」と、細い目をますます細めている。

 で、そのまま、この前菜コーナーがメインディッシュであるバトル企画に移っていくのか、と身構えたところで、グループリーダーの土屋圭市が、アシスタントのSATOKOを従えて、登場する。5日前に納車されたばかりのTOYOTA86を、3つのステップでチューニングUPテストを試み、どんな走りの変化をみせてくれるのか、精密にレポートしている。これは必見。


*右端がアミューズの松井社長


*ステップアップチューニングの主役NEW86 

 まず、ノーマルのままでアタックする。1分11秒394。それがハイグリップのタイヤに交換しただけで、2秒以上もタイムを削ってしまう。あとは、車高調整式のダンパー交換によってサスペンションを強化するとどうなるか、などと86ファンならずとも惹きこまれる真面目企画が用意されていた。

 さて、1000馬力のトップシークレットGT-Rまでエントリーした筑波バトルの検証は、次回に譲るとしよう。



Posted at 2012/06/24 01:02:43 | コメント(4) | トラックバック(0) | ベストモータリング | 日記
2012年06月12日 イイね!

あ!? 朝日の第1報記事が剥ぎ取られている ~国会図書館での不祥事報告~

あ!? 朝日の第1報記事が剥ぎ取られている ~国会図書館での不祥事報告~ 中部博さんの『炎上』(文藝春秋・刊)が書店の棚に並ぶ頃合いを見計らって、感想やら収穫を紹介するのがマナーというものだろうから、と執筆を差し控えていた。

 それでも、このノンフィクション作品の主題となる「1974年6月2日」が、突然やってきたのではなかった、という視点で、その「前夜」の出来事や世相を、幕が上がる前の「序奏曲」として記しておこうと思い立って、1973年11月23日に発生した「富士グランチャン最終戦の惨事」を解析した。主にこの死者まで出してしまった「多重事故」を引き金として、主要全国紙がどう報道していったのか、を伝えたつもりである。

       https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/26228665/

 手元に届けられた『炎上』は、自動車専門誌「Racing on」2007年11月号から2009年4月号まで、18回にわたって連載されたものを、著者が改めて2年の歳月を費やして、加筆・再構成した、ノンフィクション作品である。それも、さすが、文藝春秋刊とあって、ハードカバーの四六判360ページ。装幀も、つい手にとりたくなるような、緊迫感でこちらに迫ってくる。使っている現場写真は、あの「稲田理人」氏のものだ。表紙カバーに巻かれている帯のコピーも、いささか煽情的ではあっても、許される範囲で盛りあげを図っている。ここも、さすがだ、というべきか。



●モータースポーツ史最大のタブーに挑む!
●マシン4台が爆発炎上、選手2名が焼死、観客関係者6名が重軽傷を負った大事故
●封印された真相が、38年目に明らかになる
●生き残ったレーサーたちが語る38年目の真実
●1974年6月2日、富士グランチャンピオン・シリーズ第2戦。スタート直後の多重クラッシュから始まった事故は、レーサー1名が書類送検、という意外な展開を見せる。
●接触事故は故意か、過失か?
●モータースポーツの光と影を描く傑作ドキュメント

 中部博さんとは、この単行本の執筆活動中に面談している。最初は執筆中、2度目はちょうど『炎上』が書きあがったばかりで、出版社側からゲラ刷りが届くのを待っているところだった。そのとき、ぼくが入手したばかりのDVDによる「問題の映像」をお見せした。
さて、どこを、どこまで書き込んだのだろう。心弾ませて、ぼくはページを開いた。

 定石通り、筆者は「事故の現場」にむかってクルマを走らせる。予備知識のない読み手にも、いまの「富士スピードウェイ」のロケーションがわかるように、丁寧に誘導する。
 東名高速の御殿場インターチェンジに着いた。出口料金所はふたつ。ひとつは御殿場駅を中心とした市街地に出る第1料金所で、もうひとつは国道138号線バイパス側にある第2料金所。富士スピードウェイへむかうクルマは、ほとんどがこちらを選ぶ。レース事故の発生した1974年当時は、このバイパス・ルートは建設中で、その料金所はまだなかった。

 料金所を出ると左折。国道246号線へむかう。晴れた日には前方に富士山が見える。246号線との立体交差点で、一旦、東京方向へ右折。しばらく直進。やがて静岡県小山町の交差点。ここからは、サーキットまでの道案内看板に従えばいい。雑木林を突っ切る一本道。急に風景が広がり、高級霊園として知られる富士霊園の参道にぶつかる。そのT字路を右に曲がると、すぐに富士スピードウェイである。その富士霊園には、その1974年のレース事故で夭折したレーシングドライバーの墓がある。その人の墓参をしてから、富士スピードウェイの事故現場を検証したい、と筆者は考えていた……。

 非業の死をとげた二人のレーシングドライバー、鈴木誠一と風戸裕について、筆者は鎮魂の想いをこめて、丁寧に紹介する。その上で、事故がおきたレースに出走していたレーシングドライバー17人について、手際よくまとめている。
 
 生沢徹と高橋国光は、レースに興味のない人でも名前を知っているほどのスター選手であった。とくに生沢はもっとも人気があった。レーシングドラーバーといったら彼の代名詞であるほどの知名度があった。
 高橋国光はオートバイライダー時代にはホンダ・レーシングに所属してオートバイ世界GPに挑戦し、1961年(昭和36年)の西ドイツGP250ccクラスで勝ち、モータースポーツの世界選手権で初めて優勝した日本人。このレース事故があった1974年当時は、日本最強のレーシングチームといわれた日産自動車のワークスのエースドライーバーと目されていた。

 そのほか、68年日本GPで優勝した北野元、69年日本GPの勝者である黒沢元治、このほか高原敬武、津々見友彦、長谷見昌弘などといった当時のトップクラスのレーシングドライバーが出場していた。

 ここで筆者は、前置きの声量を一段と高める。

――こうした当代一流のレーシングドライバーたちのすぐれた運転技量と豊富なレース経験を疑う余地はないだろう。だからこそ限度をこえた鍔迫り合いになって、二人のレーシングドライバーが死亡するほどの事故になったのか。それとも最上級のスポーツドライビング・テクニックの持ち主でも避けることのできない、想定すらできない事故だったのか――。


*6月3日付けの『朝日新聞』朝刊(東京版)社会面のトップ記事

 そのようなレース事故が、1974年6月2日に富士スピードウェイでおきた。
 翌日、6月3日の『朝日新聞』朝刊(東京版)は、社会面のトップ記事で報道している。「レーサー2人焼死・富士スピードウェイ・時速200キロ、一瞬の惨事・フェンス激突、炎上・観客ら6人重軽傷」の大見出しで、社会面の半分ほどをしめる9段抜きだ。

 他の全国紙である『毎日新聞』と『讀賣新聞』の朝刊(東京版)は、社会面トップに首都圏の国電(現JR)停電事故をもってきているが、このレース事故の報道はどちらも社会面の約4分の1をさいた9段抜きの記事である。

 このように、中部さんは全国紙も異例の報道ぶりだったことを取り上げているのだが、ぼくにとって、違和感がありすぎた。ご記憶のかたもいらっしゃるに違いない。2月20日にアップした当ブログは≪翌日の「朝日新聞」を読む~運命の第2ヒート・再び⑤~≫というタイトルで、こう検証していた。

<2日、富士スピードウェイで、二人のレーサーが死んだ。風戸裕選手は国際経験も豊富な「慎重派」。鈴木誠一選手は、オートバイとストッカー(市販車)で鳴らした筋金入りの「超ベテラン」。事故原因は調査中だが、よりもよって、なぜ、この二人が死んだのだろうか。
この日のスタートは、ペースカーが先導し、隊列をととのったのを見て、いっせいにスピードをあげて走りだすという《ローリング方式》。これまで停止したままエンジンをかけ、競技長の合図でいっせいに走り出す方式だったのが、昨年秋の死亡事故にこりて、ことしから安全なローリングに切り替えた。
 だが、安全なはずのローリングが安全でなかった。事故の起こった午後の第2決勝ではペースカーが中途半端な走り方をしたため、ローリングを2周も回ってスタートの「緑旗」が振られ、正面スタンド前を通過した時は、17台の車がしりと鼻を突き合わすように1団となって、ばく進した>
 これが、あの多重事故の起こった翌日、1974年6月3日(月曜日)、朝日新聞スポーツ面に掲載された記事の書き出し部分である。スペースは4段組みに、いわゆるベタ記事と呼ばれる地味な扱いであった。が、注目度は高い。プロ野球では巨人や阪神が圧倒的な人気を集めた時代だし、東京六大学で早慶両大学が競り合っていた。そんな華やかな記事に挟まれて、写真こそ付けられていないが、かなりエキセントリックな見出しが4本、踊っていた。「山下」という記者のクレジットが付されていた。

 率直にいって、他紙に比べてこの朝日の妙に冷静な報道ぶりに、「おや?」と感じていた。しかし、間違いなく、国立国会図書館で縮刷版を閲覧した際、6月3日付けからは当該記事以外、見当たらなかったのである。

 それが『炎上』では、スポーツ欄からのものではなく、社会面からの9段抜きの報道が紹介されている。狐につままれる、とはこのことだろうか。中部さんはこのあと、細密に朝日の第1報社会面記事を引用している。う~ん。これはもう一度、国会図書館に行ってみるしかない。


*国立国会図書館二景


 5月中旬の水曜日、クルマで赴いてみると、駐車場に「休館日」の張り紙。出足をくじかれた。そして6月5日、やっと国会図書館へ。手続きをすませると、まっすぐ、新館4Fの新聞閲覧室をめざした。縮刷版はフロアーのもっとも奥にあって、自由に閲覧できるシステムになっている。もう何度も通ったコーナーだ。1974年6月分を取りだし、閲覧テーブルでページをめくる。

 スポーツ欄には例の4段組の「山下レポート」はおさまったままだ。さて、最終見開きとなるべき「社会面」を探す。が、やっぱり、ない!! ページナンバーが、74でプツリと終っていて、左のページは77に飛んでいた。状態がよく飲みこめない。

 見開きページの喉元を見る。と、何者かの手によって、75、76に該当する裏表の一枚が、無残にも剥ぎとられた形跡がある。綴じ代の糸がみえた。何者かのドス黒い意志か。それとも、単純な悪戯なのか。

 確実にいえるのは、ぼくが初めて該当縮刷版を手にした2012年2月16日の段階で、すでに剥ぎとられていた、ということだった。

 
 早速、図書館側に不祥事を報告する。幸い、マイクロフィルムが別途所蔵されていて、当該ページの内容は閲覧することはできたが、一体だれが、何の目的で、過去の記録の宝庫である新聞縮刷版から、「そのページ」をむしり取ったのか。

 この悲しむべき事実を、早速、中部さんに伝えた。間違いなく、中部さんが閲覧した2年ほど前には「そのページ」は、縮刷版のなかで安らかな日々を送っていたことが確認できた。                                                            
                                            (この項、つづく)

Posted at 2012/06/12 16:38:28 | コメント(4) | トラックバック(0) | 実録・汚された英雄 | 日記
2012年06月09日 イイね!

 スクラップ&ビルド計画 ~環八水滸伝 藤崎眞孝の巻③~

 スクラップ&ビルド計画 ~環八水滸伝 藤崎眞孝の巻③~「ひな壇展示」を皮切りに、藤崎眞孝グループの「業界常識の壊し屋」ぶりが加速する。西武モータース販売時代からの苦楽をともにしてきた盟友、福島友利さん(㈱マツダアンフィニ横浜西・代表取締役)が、『眞諦録』に収録された座談会「フレックスグループ創業のころ」で、こう証言する。
――自動車雑誌への「実車の写真入り広告」というのは、実はある雑誌が、「こういうのをやってみたいが協力してくれないか」と話をもってきた。どこも乗らなかったが、うちだけ「面白い、やってみよう」と食いついた。二、三の親しくしていた環八あたりの業者さんにも声をかけた。雑誌社側はテストケースだから無料でいい、と。ところが雑誌が発売になったその日から、電話が鳴りっぱなしだった。

 1日に70本の電話は信じられない反響だった。眞孝は疑う。
「これは雑誌社が掲載料を、次から有料にしたいからサクラを使って電話させているのかもしれない」
 しかし、現実には客が来た。他社にきいても電話が凄いといってきた。こうして「写真入り広告」は、それからの業界の常道と化していく。

「藤崎一家」の常識破壊へのチャレンジはとどまることはなかった。失敗もあったが、ひるまなかった。
「頭金ゼロ」のローン設定は大きな賭けだった。最初は36回払いからスタートして、それが48回に増え、ついには60回にまでになる。
「いまでこそローン会社がすべて代金を回収してくれますが、昭和50年代の初めのころは自社のローンでしたから、リスクもあった一方で、督促のノウハウのいろいろも習得したものです」(福島さん)
「頭金ゼロ」方式のインパクトは強烈だった。クルマが目に見えて売れ出した。 


*「ベストカーガイド」創刊号に掲載の西武モータースの広告ページ

 それ以上にヒットしたのが、18項目の部品をすべて新しくして売るという「18項目リフレッシュ」だった。自動車雑誌の広告が出た月は、来客数が目に見えて違って来た。

――「創業期」の記憶を、出席者3人は誇らしげに回想する。
福島 「18項目リフレッシュ」は最初、現場の連中がみんな反対した。そんなことをやったら利益が出ないといってね。なにせ18種、2万7千円分もの部品をとりかえるんだから。
山下〔慶一・㈱フレックスオート東埼玉社長〕 バッテリーは全部新品にしちゃうし、要するに使えるものまで外して新しいものにしようということだから、何もそんなムダをしなくてもいいじゃないかと。
藤崎 〔孝・フレックス自動車販売㈱社長 眞孝次弟〕 ほとんどの現場の者が反対したけれど、結局押し切られてしまった。でも、ベルト類なんかそう高くないし、一番値の張るバッテリーなんか、大量仕入れをするので、市価1万円以上するものが、3、4千円で手に入った。
山下 5千円はしなかった。あのへんも、車を売ればバッテリー上がりでしょっちゅうクレームが来るといった、現場の苦労を、会長(眞孝)は見ていたんだと思いますよ。それを見ていて、ピーンとアイディアが浮かんでくるからすごい。

(正岡註:ベストカーガイド創刊号=発売1977年11月26日=をみると、「おもいきり新品部品と交換してしまうシステム《リフレッシュ18項目》」を正面に押し立てて商品広告を展開しているのが、5年後には「安心して乗っていただける《リフレッシュ車・厳重32項目》へとサービスを拡大している)

 社名も「西武モータース」から「フレックス」に改める。3人は、グループが業界の中では中堅クラスのスケールから、年を追って膨れ上がっていく様子を語り合っている。昭和49(1974)年ころは3拠点、4センターで、月に120~130台を売っていたのが、51年に町田店ができたあたりから、毎年1店舗から2店舗ずつ増えていく。

藤崎 当時、中古車業界は大規模1拠点というやり方と、小さな拠点で数を多く増やすフレックスのようなやり方と二つあった。
山下 うちの会長は、今後は人口のドーナツ化現象が出てくるとみていた。都心にある店がだめになれば、それを潰して郊外に新しい店をつくって、スクラップ&ビルドを繰り返す計画だった。だからそれほど大型店をつくらないで数を増やそうということで来た。
福島 そうして新店舗を出しても、会長の場合、だめだと思ったらスパッと引く。無理の取り戻そうとしないし、メンツなんか考えていない。そのへんの割り切り方はこっちが戸惑うくらいクールでしたね。

 こうした激動の時代を、展示場センターでクルマ磨きをしながら、身近で目撃していた中学生がいた。眞孝の10歳下の末弟で、ベストカーガイド・グループが講談社とのコンタクトをはじめる機縁となった清孝さんである。
 その体験が後年、フレックスグループのそれからに何をもたらせたのだろうか。それを検証したくて、この国の中古車TVオークション取引システムのパイオニア会社「オークネット」の秘書室にインタビューを申し入れた。末弟の清孝さんが、そこの代表取締役社長なのだ。折り返し、OKの連絡が入った。

 5月下旬の風が心地よく頬を撫でる。千代田区三番町にある東急ビルを目ざした。「オークネット」はその5階にある、と教わった。皇居や英国大使館に面した千鳥ヶ淵通りから、大妻女子学院のあるあたりの谷間へ折れてみると、そこはかつて「ホテル霞友会館」のあった場所にみごとなオフィスビルが聳えたっていた。それが東急ビルであった。

 5階の応接室へ通されると、すぐに藤崎清孝さんが現れた。もうすぐ60歳を迎えるはずなのに、どこか初々しい。そのわけを、次回、ご紹介しよう。
 

*10歳年上の長兄の命令は逆らえない。「クルマ磨きの少年」だった清孝氏
Posted at 2012/06/09 21:19:29 | コメント(1) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
2012年06月03日 イイね!

業界常識の壊し屋  ~環八水滸伝 藤崎眞孝の巻②

業界常識の壊し屋  ~環八水滸伝 藤崎眞孝の巻② ちょっとしたサイドビジネスのつもりで創めた藤崎眞孝の中古車売買。さっそく大きな壁にぶつかってしまう。いつしか在庫車も30台に。初めのうちこそ、近所の空き地や、神社の境内やその脇の道路に並べておき、夜中に駐車違反にならないように移動させていたが、昼間は通産省の外郭団体に勤務する身には何ともつらい。その上、風邪をひいて寝込んでしまい、車の移動ができないときがあり、ついに警察の取り締まりに遭い、大目玉を食らう。限界だった。
 この1件を契機に、昭和42(1967)年、勤めを辞めて中古車販売に専念する。24歳だった。
 まず、その頃は東京の郊外だった調布の甲州街道沿いに中古車展示場を設け、西武モータース販売(のちのフレックス自動車販売)の看板を掲げる。

 51歳で急逝した藤崎眞孝の追悼文集『眞諦録――藤崎眞孝をおもう』は、短かったが鮮やかに生きてきた男への鎮魂の想いを、関係者が精一杯、書き綴った珠玉の1冊である。その中から、この時期の秘話を明らかにしてくれた、いくつかを紹介したい。

 まず、斎藤定三郎さん。鎌倉幕府に仕えた斎藤一族の末裔で、調布市在住の大地主。

――「こんばんは。おじゃまします」。夜になるとたずねてこられた若い人。それが藤崎眞孝さんだった。まだ学生に見えたが、通産省の出先機関に勤めているということだった。勤め人だから昼間は働いている。だから、そのため、夜の到来となったわけだが、「中古車の販売をやりたいので土地を貸して下さい」ということだった。
 私は百姓の倅で調布市内に土地はたくさんあったので、一時使用の形で、間組や、トヨタカローラやマツダ南オートなどの会社にお貸ししていた。地代はみな、半年間の前払いという契約だった。
 当時の藤崎さんは、お金はなかったが情熱にあふれ、何より熱心だった。土地を貸したからといって、トラブルの起こるような人でないことはよくわかった。だが、広い土地を借りたら、そこにたくさんの車をおかないといけない。金利だけでも大変だ。藤崎さんの印象がよかっただけに、どちらかというと、失敗させたら可哀相だという気持ちが本当のところだった。最終的に120坪の土地を、1か月ごとの前地代ということでお貸しした。特例だった。



 藤崎が小さな船で大海に乗り出したときの、このエピソード、どこかで聞いているぞ、とお思いに違いなない。そう、ベストカーガイド・グループの講談社首脳との接触時と同じ波長が伝わってくるからだろう。巧みなセールストークより、着眼点の良さとそれを成し遂げようとする情熱。それに人柄の持つ誠実さ。恐らく、それが藤崎のなによりの武器だったのだ。

 斎藤さんはさらに書き継ぐ。
――その後、藤崎さんは毎月ご自身で地代をもってみえ、一度として遅れたことはなかった。あるとき、ゴルフの会員権の仕事をはじめたいといわれた。なんと藤崎さんは昼間、会員権売買をしている会社に就職してしまった。半年間のことではあったが、夜は社長業をこなすわけで、相当きつかったと思う。
 ある時、藤崎さんが関西から年配の経営者を招いたことがあった。都内のホテルに部屋をとって。食事をしたり、お茶を飲んだりしながら、まる一日、経営上の参考になるいろいろな話をしてもらう。お礼が100万円ということだったが、私に「一人で聞くのも二人で聞くのも同じだから一緒に話を聞きましょう」と誘ってくれた。いつの間にか、経営上のアドバイスを受けるのに、100万円をポンと支払う実力を身につけられていた。
 やがて、オークネットを創業され、私などよりずっと大きな会社を経営されるようになったが、些(いささ)かも態度は変わらない。毎年、忘れずに声をかけてくれるし、昼食をごちそうになった時、わざわざ迎えの車を寄越して下さる。初対面から男が男に惚れ込むような人物だったが、その人柄は最後まで変わらなかった。



*GT車専門の柿の木坂センター。往時の藤崎眞孝社長の姿がある貴重なショット

 藤崎の目配りは、自分に利を運んでくれる対象ばかりではない。1歳年下の悪ガキ時代の相棒からのメッセージに彼を慕う心情が溢れていて、とくに中古車販売創業期での藤崎の行動規範を生き生きと伝えてくれる。
「競争」と題した加藤嘉利さん(元・オニキスコーポレーション代表取締役)の一文がそれである。

――(藤崎さんとは)子供のころから家が隣近所で、小学校は私より1年先輩でした。5年生か6年生の頃、彼と二人で隣町の小学校のプールへ行き、地元の子とケンカをして負けて帰ってきたことなど、いまも頭をよぎります。(中略)
 私は21歳から1年半、スナックを経営していました。なにか他の仕事を考えようと家にいたころ、藤崎さんから「よっちゃん、そうやっていても収入がないから、ぼくのやっている車のアルバイトをしてみないか」との誘いを受けたのがはじまりです。アルバイトに精を出し、一時期は毎晩のように藤崎さんの家に顔を出して指導を受けていました。先行き、車の販売会社をやろうという話になって、私は本格的に中古車販売を学ぶために、ディーラーの中古車部へ入社。彼は勤務先を辞め、会社を設立する準備に入りました。会社の登記は、費用がもったいないので自分で勉強して司法書士には依頼せず。名称も、西武とつければ誰もが知っているだろうから、西武モータース販売と。

「加藤のよっちゃん」のこの回想には、どこにでもある男たちの青春が匂いたっていて、愛嬌がある。会社の名前を決めるのに、西武なら誰でも知ってからと、堂々とパクる才覚。社員はアルバイト時代から手伝っていた藤崎のすぐ下の弟・孝さんと、「よっちゃん」の弟・竹四郎さんが加わって、計4人。営業所は藤崎が見つけて交渉してきた。例の大地主・斎藤さんから借りた国領店(調布センター)である。展示場をオープンするに当たっては、整地、砂利敷き等を藤崎抜きの3人ですませた。スタートから、営業はすこぶる好調だったと、「よっちゃん」は嬉しそうに書き添える。

 国領店オープンから4、5ヵ月が経った頃、藤崎が「もう一店出店しよう。よっちゃんが国領店をやってくれれば新しい店を出せるから」と、いい出した。間もなく練馬区関町に土地を見つけ、すぐに契約。国領店のオープンの時と同じ3人で、関町店も整地から砂利敷きまで仕上げた。藤崎が関町店と全体の経理を見て、よっちゃんが国領店を担当、売り上げ競争に熱中した。楽しんで仕事ができた時期だった。

――あの頃のことは、いまでも思い出します。子供というか青年というかの時代に、藤崎さんと一緒に会社のヨチヨチ歩きの時を過ごせたことは私の心の財産で、いまも感謝しております。 

 この「よっちゃん」とは面識があった。ベストカーガイド・グループ立ち上げのときのメンバーですでに「日昇自動車」の経営者。環八水滸伝」「の共演者のひとりである。 


 こうして船出した「藤崎丸」は、次々と新しい中古車販売の方式を生み出し快走をはじめる。業界常識の壊し屋の異名をとる、いくつかのアイディアを生み出す。まさに右に出るものはなかった。

「ひな壇展示」
「写真入り広告」
「座席シートのビニールカバー」
「頭金ゼロ」
「18項目リフレッシュ」

 その「ひな壇展示」について、すぐ下の弟・孝さん(現・フレックス自動車販売社長)がこう証言する。

――昔のディーラーは、車の展示場は塀で囲っていた。その柵を取り払い、ひな壇にしてお客さんに見えやすいようにした。聞いてしまえば、コロンブスの卵だけれど、それをやっていたところはなかった。始めたのは調布からだけれども、そのあとの関町、柿の木坂、世田谷の各店舗も、みんなひな壇展示形式にした。

2番目の「写真入り広告」などの藤崎流アイデアにあふれた新機軸については次回、詳細を紹介するつもり。だんだんと『べストカー』創刊の核心に近づきつつある。
Posted at 2012/06/03 09:52:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | ベストカー創刊前夜 | 日記
スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

プロフィール

「3連休中日、富士フレッシュマンレースで青春を燃やした中・老年男の同窓会をFBで速報。今を支えるエネルギー源を確認。そのせいか翌24日のみんカラPVレポート欄の第1位は【還ってきた愛しのEXA】。FBレポート末尾でリンクした8年前のみんカラブログに未読の仲間が訪問してくれたわけか。」
何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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