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正岡貞雄のブログ一覧

2013年01月20日 イイね!

プリウス開発の「楽屋裏」 ~邪魔者扱いが今や救世主に!~

プリウス開発の「楽屋裏」 ~邪魔者扱いが今や救世主に!~ 「プリウス、販売ナンバーワンを維持!」「トヨタ、販売台数世界一を奪還!」とか、このところ、TOYOTAから威勢のいい花火がポンポンと打ち上げられている。それをきく度に、エンジニアから技術陣のトップとして副社長まで務めあげた、和田明広さんのことを思い浮かべてしまう。
 この人、なにをやっても、結局はその仕事がヒットしてしまう、強運の持ち主であるのは疑いようもない。その上、いつも明るくて、関わってくる周囲の人までをハッピーにしてしまうオーラの持ち主であった、と。

 個人的な話になるが、1995年の夏に、機会があって蓼科高原で、当時はすでに副社長であった和田さんとご一緒にゴルフをプレーできた時のことだ。あれは上がりの、距離の短い8番、ミドルホールだった。第2打地点にきても、のぼり傾斜のきついホールだからグリーンはもとより、ピンの位置を教えてくれる旗も見えない。



*常務時代の和田さん(《トヨタ自動車50年史》より)


 残り、120ヤード。和田さんはすでに第2打を打ち終えて、グリーンにむかって歩きはじめ、次にピンの方向に立つと右手を挙げ、9番アイアンを握ったわたしに「どうぞ」と第2打をうながしてくれる。その声のかけかたが絶妙のタイミングで、こちらも肩の力の抜けた軽やかなスウィングができた。打ち抜いた後も、なぜか奇麗に顔が残ったままだった。
「おおッ」と和田さんが奇声を発した。そして続ける。「入った!」
 わたしの第2打が、一旦、ピン奥に落ちてから、スルスルとあとずさりして、カップに吸い込まれたのである。その日のパーティで、和田さんはわざわざイーグル賞をもうけて、わたしの「幸運」を祝ってくれた。その心づかいが利いたのか、その年の秋、念願のホール・イン・ワンをわたしのホームコースで達成してしまう。ホール・イン・ワン記念で用意したクリスタルのワイングラスを、和田さんにもお届けしたのは言うまでもない。
 そんな風に、和田さんは関わってきた者たちに「いい思い」をさせてしまう不思議なエネルギーをお持ちだった。

 その代表例がいまや、TOYOTAの大黒柱となったプリウスではなかろうか。

 以下のストーリーは、和田さんご自身が語りつくした「オーラル・ヒストリー」の中から、ハイブリッド車=プリウスの開発の時期に焦点をあわせて、そのエネルギッシュな言動、モノ創りの哲学を切りとって、わたしが勝手にまとめたものである。



*初代プリウス

 1994年、技術、品質保証、商品企画の3部門を統括する副社長となった和田さんが、まず直面したのがハイブリット車の開発プロジェクトを軌道に乗せることだった。
「ハイブリットのケースは、だれも何台売れるかという予測のつかない異色のプロジェクトでした。多分、この車はそうたくさん売れないだろう、かといって数台では困る。最初は先ず、月に1000台で手を打とうかということになり、1000台の企画をつくって、全社的にGOをかけたわけです」

 最初のプロジェクト推進役は、TOYOTAに量産ツィンカム・エンジンを結実させた金原淑郎さんで、和田さんの前任副社長だった。
「新しいプロジェクトをやろう。ありきたりなモデルチェンジばかりやっていてはだめだ、新しい考え方の車をやれ!」
 リーダーに内山田竹志主査(現・代表取締役副会長)が指名されていた。金原さんにかわって和田さんが副社長として関わるようになる。

「私にかわってからは、ぎゃーギャー言ったのは、まず車というのは人を運ぶものだから、人はどういうものにお金を出すかといえば、運ぶ空間にお金を払う。空間の大きさが大きければ、多分たくさんお金を払ってくれるでしょう。コロナとカローラと比べればコロナのほうが空間は大きい、その分だけ高い。しかし、空間は同じでも何とかもっと小さい形状のものをつくったら、原価的には安くできるはずだ。重量も軽くできるはずだ。もっと画期的なアイデアで室内空間が大きくて外回りが小さくて、しかも当時は衝突安全が非常に厳しいプロジェクトだったものですから、衝突に強いアイデアはないのか、と」
 そのころ、ベンツから発表されたAカーが、衝突したらエンジンが下に潜っていくとか、何かと引き合いにされていた。そこで停滞しているチームにハッパをかける。
「ベンツはベンツでそうやって工夫しているじゃないか。お前ら、もっとアイデアはないのか」
 アイデアを練りこむ日々が続いた。デザインもつくってみないとわからない。前・後ろが短くて、そうかといって使い勝手のいい車というのはセダンでは無理なのか?
セダンである程度背を高くしなければならないし、エンジンを下に潜り込ませようと思えば床をあげなければいけないけれども、床を上げれば部屋はせまくなる。が、それは損だから、何とか部材の通し方でうまくやろうじゃないか……。

 エンジンそのものでも、考え方に問題はないか。例えばFFでもキャスターを増やしてハンドルを重くして、その分はPS(パワーステアリング)でねじ伏せるのか? そんな車はロスが多い。もともとPSなんか使わなくてたっていい車はあるはずだ。キャスターなんかゼロにしろとか、要するにハンドルが軽ければその分まで燃費はよくなるはずだ。つねにポンプを動かさなくて済むわけだ……などと出てくるアイデアを練りに練って、それなりの恰好ができ始めたが、それ以上に前へすすめるアイデアが出てこなくなった。空気は沈滞する。もう一つは、開発はずっと先のことで、いつプロジェクトから量産活動にシフトできるのかがわからないグループはだれてくる。
 
 そこで和田さんは量産に突っ込むことに舵を切った。すると、まわりの人の目が変わってくる。方向性もきまった。(ガソリンエンジンと電気モーターを組み合わせた)ハイブリットで行こう。ハイブリットをやれば燃費は50%よくなる、と。


*ハイブリッドガスタービン搭載のトヨタスポーツ800(『主査 中村健也』より)



*トヨタスポーツ800に搭載したハイブリッドガスタービン(『主査 中村健也』より)



*伝説の巨人・中村健也主査(『主査 中村健也』より)

 幸い、TOYOTAにはハイブリットに関して積み上げてきた技術があった。クラウンの生みの親で、TOYOTAの初代主査・中村健也さんが手がけたガスタービンハイブリッド開発であった。簡単に言うと、1軸ガスタービンで発電機を駆動するハイブリット方式で、これをトヨタスポーツ800とセンチュリーに搭載して研究開発を行っていた。1969年の話であった。が、この先見性の高いプロジェクトも、当時のバッテリーは性能が悪く、1983年に開発中止に追いこまれてしまった。それでも蓄積された技術は東富士に温存されていたのである。

 プリウスの開発ストーリーは、その後、「週刊少年マガジン」で連載されるなど、いろんなメディアで紹介されたが、そこそこ当たらずとも遠からず、和田さんはあっさり認めたうえで、肝心な視点が環境問題に振られ過ぎている、と釘を刺す。
「ハイブリッド技術は決して過渡的なものでなく、将来、環境問題に対応する技術として成長していくという確信はあったが、差しあたってプロジェクトを成功させる道筋は燃費にある、だからハイブリットをやれば燃費は50%よくなる、それを達成しようと檄を飛ばしました。ガソリン代が200円にでもなれば、ハイブリッドはお客さんに喜ばれる技術になるはずだ」

 面くらったのは、開発リーダーの内山田主査だった……。(この項、つづく)

Posted at 2013/01/20 12:41:46 | コメント(4) | トラックバック(0) | プログレSTORY | 日記
2013年01月15日 イイね!

TOYOTA《主査の親分》和田明広の『オーラル(口述)・ヒストリー』

TOYOTA《主査の親分》和田明広の『オーラル(口述)・ヒストリー』『続・プログレとの別れ話』の末尾に、和田明広という、ある時代のTOYOTA技術陣のトップだった人物を通して、改めてセリカ、カリーナEDというヒット作が生まれ、そしてプリウスという、新時代を切り拓いていった軌跡を検証してみたくなった、と書いている。

幸い、そのための絶好の資料が手元で眠っていたことに気付いた。これは2008年に行われた和田さんへのインタビューを、対談形式でまとめたもので、和田さんご自身が、オフレコという条件で話した内容があるけれども、後からレポートを読み返すと、オフレコの部分を除くと話が判らなくなってしまいそうなので、少々加筆してぎりぎりのところまで記録に残させていただいた、と断り書きのはいった対談集である。これから、自動車人を目指す有志には、とくにご一読願いたい重要な内容が、満載であった……。以下、そのエキスを抽出して、紹介していきたい。対談集の具体的な紹介は、この回の掉尾に収録したい。


*セリカ主査だったころの和田さん


*セリカ1600GT


*初代30型カムリ

 さて、和田さんが「主査の親分」である設計担当役員としての仕事を、こう語り明かしていた。
――1986年に取締役となった直後の仕事は、多分、FFの乗用車のグループの面倒を見ろというのがメインの仕事で(中略)上はカムリで下はスターレットですから、途中にコロナ、カリーナ、セリカ、カローラ系があって、ターセル、スターレット、そんなところです。

そして、「ワイドカムリ」を例にとって、主査と担当役員がどうやって『仕事』を練り上げていったか、明快に答えている。


*ワイドカムリとしてまず北米に送り出された40型カムリ

和田 例えば、ここにありますけれども、『トヨタ自動車五十年史』を見ると、ワイドカムリが出たのが92年と書いてあるのです。92年型からということは91年後半から出荷ですから、多分、87,8年のころには開発を始めていると思うのです。そのカムリを5ナンバーサイズ、全巾1695の枠で普通だったらいってしまうわけです。それはいかん、アメリカに出すのだからもっと幅を広くしろ、と。いや、工数がないとか言うから、そんなもの真ん中を切ってパッと伸ばせばいいのだと。

「それは和田さんが出されたアイデアですか」とインタビューアーが問う。

和田 そうです。真ん中を切って100㎜広げれば立派なカムリができる、ちょうど丸々っちいデザインだったですから、少し広がるとかえって堂々となりますので、やれと言いました。トップのほうには、「多分コンペティターのホンダが広げてくるだろうから、うちは先に広げましょう」と言って、広げたのです。だから、広げた後しばらく、私どもは大変有利に戦えました。

 もう一人の対談者が問う。
「真ん中で切って広げるというのは、技術的に言うとどういうことですか」

和田 設計的には簡単です。ただ広げるだけですから。技術的には、幅に関するものは全部作り直しです。ですから、お金はかかります。

 対談者がフォローする。
「いまおっしゃったのは、設計上のコンセプトですね」

和田 そうです。設計は簡単です。しかも、真ん中を切って幅を広げて不細工なクルマになる、それは一番いけないわけです。でも、ちょうど丸々っちいから広げた方が結構カッコイイ。だから、横に関係する部材は全部変わるわけですから、変るものはできるだけ知恵を入れて新しくしようと、このときに、クレードルと言うのですけれども、フロントのエンジンとか足とかいろいろなものを付ける、サブフレームとか、クレードルとか、井型フレームとかいろいろ呼びますけれども、正式な話ではクレードルですが、クレードルをソフトマウンティングしたわけです。車体に剛結合しないで、ゴムでマウンティングする。静かで、良い車をつくるために。

「それが静かな秘密ですね」
「幅を広げるというアイデアは、どういう理由から和田さんは思い浮かんだのですか」

和田 アメリカ人5人が乗るなら、日本の幅の車では乗れないというわけです。その通りだと思いますよ。広げたって、べつにアメリカ人が5人乗るとは思いませんけれども、いずれにしても広いアメリカの国で見ると、幅の狭い自動車はチンチクリンに見えて、もう一つパッとしないのです。幅が広く見える車がやっぱりよく売れるのです。



「日本のマーケット向けには、どうされたのでしょうか」

和田 まだ100㎜狭い、真ん中を切っていないものです。

「マーケットによっては設計自体も、相当車種を変えられるわけですか」

和田 そうですね。でも最近はエンジン規制(排気規制)が違いますし、安全規制も違いますので、細部になりますと、日本向けのもの、アメリカ向けのもの、ヨーロッパ向けのもの、それぞれ違っています。ランプでもそうです。それぞれのレギュレーションに合わせなければいけにですから。

「製品企画のほうでは、どこで生産するかまでは考えてされるわけではない。むしろデザインとかパーセプション(認識・理解)とかマーケットをにらんで、やられるわけですね」

和田 はい、ですから、せっかく真ん中で100㎜伸びるわけですから、ただシートポジションをそのまま50㎜外へ出せば、計器盤は真ん中でデレッとしている、それはおかしいわけですから、外形は完全に真ん中を切って100㎜伸びるわけですけれども、室内はそれぞれ、それにぴったりした内装にしなければいけないわけです。だから、サスペンションその他のフロントまわりはそれに見合ったシステムにしたということです。

 ここで和田さんが、部下である主査たちとの具体的なやりとりから「主査としての経験蓄積と能力形成」について、ズバリと言い切っているのに注目したい。

 対談者の一人が斬りこむ。
「さっき、主査が持ってきたいろいろな問題をまとめてあげて、それを担当役員が提案するとおっしゃいましたが、その担当役員というのは、今の場合は和田さんご自身ですね」

和田 そうです。

「どういう車をつくるかという神経を研ぎ澄まさなくてはいけないわけですね」

和田 そのぐらいならいいのですが、例えばクレードルをやるという時に、できません、成立しませんと、主査と設計担当の連中がワーッと大勢で何回私のところへ言ってきたか。だから、こうやればできるじゃないかと、しょっちゅうアイデアを出しました。そういうケースはいっぱいあります。それぞれの主査で違いますものね。経験の多い主査はいいけれども、経験が少ない主査はどうしても、頭が回らんと言っては失礼だけれども、非常に優秀な男でしたが、主査あるいは主査付きが調整するであろう業務まで担当役員でやっていました。

「いまおっしゃったようなたくさんの車種を親分としてまとめるというのは、すごく大変だったろうなと思います」

和田 大変は大変ですけれど、おもしろい仕事ですから、エンジニアとしてそんな幸せはありません。

「和田さんのお話しを伺っていると、主査というのは経験の積み重ねがすごく響くという感じに受け止められるのですけれども、そういう理解でよろしいでしょうか」

和田 経験が大切だと思います。(中略)それと、主査になる年齢の問題もあります、私ども若いときは先輩がいないわけです。だから、これ1回だと思えば、ある人はコンサバティブ(保守的)に行くかもしれないし、ある人はちょっとやり過ぎる方向へ行くかもしれないし、そういう問題が出てくる可能性はゼロでなないと思います。

 こうして北米市場に送り出されたワイドカムリは、TOYOTAの世界戦略車の先兵として大きく貢献する。そして「セプター」という名で逆輸入車となる。

 今回は「ワイドカムリ」の部分を切り取る形で、TOYOTAの製品開発システムがどのように発達し、引き継がれて行ったのか、その一端を紹介したが、ヴィッツ・デザインの内幕、プリウス創生期のエピソードなど、抽出には事欠かない『秘話』の宝庫となっている現物を、少なくとも自動車人を目指すなら、是非とも、手元に置いて欲しい。なにしろ、5回に及ぶインタビューは、速記録として掲載された分だけでも13時間に及んでいる。
最初が2007年の7月で、最後が2008年2月だと明記されている。

考えてみると、その時期は、一時は2兆円という天文学的な粗利益を上げていた会社が、あっさり大赤字を出し、TOYOTAの異変、混迷が取りざたされる、その前夜であった。そしてTOYOTAのモノ創りが大いに問われ始めた時期でもあった。次回は、プリウス創生期のライトを当ててみようか。
 
さて、お約束の『対談集』のデータです。




 「和田明広 オーラル・ヒストリー」 平成20年12月1日発行
 東京理科大学専門職大学院MOT専攻研究叢書2008
 編集 松尾 茂(法政大学経営学部教授)尾高煌之助(一橋大学名誉教授)
 発行 東京理科大学専門職大学院MOT研究センター
 森 健一  Tel 03-5226-3615 FAX 03-5226-3601
  http://most.tus.ac.jp/mot/
Posted at 2013/01/15 00:36:06 | コメント(4) | トラックバック(0) | プログレSTORY | 日記
2013年01月09日 イイね!

続・プログレとの別れ話 ~生みの親・和田明広さんのモノ創り~

続・プログレとの別れ話 ~生みの親・和田明広さんのモノ創り~「クリスタル・キーパー」の魔法の杖で、すっかり昔の輝きをとり戻したプログレがご機嫌に疾走している。もっとも、乗り味そのものは、3年前に一度、足回りを締め直してからは、わたしのもとへやってきた頃に劣らないしなやかな走りが復活している。ステアリングの動きにも、素直にシンクロしてくれる。こころがホクホクし出した。

 地下に潜った新しい環状8号線は、あっという間に光の溢れる地上に出て、旧来の往来の激しい環八に合流してしまった。そのまま、再び地下に潜って、荻窪の手前で青梅街道に合流するコースもあるが、はやく自宅へ戻って確かめたいことが浮かび上がってきた。このプログレの生みの親に関する資料に目を通したくなったのである。左の側道に逸れて、練馬に通じている千川通りに入る。逃げ足の速い冬の陽は、すでに西の地平線に沈み、行きかう対向車に、点灯を促していた。


*1998年、プログレがデビュー。早速、クリーム色のNC250を持ち出して北へ……。いっきに津軽半島まで。


*津軽・亀ヶ岡石器時代遺跡へ。この遮光器土偶に逢いに行く。そのお供がNEWプログレだった

 わたしの「愛車紹介」の書き出しは、こうだった。

――「NC」とは、ニュー・コンパクトの略と記憶している。当時の技術開発の責任者・和田明広副社長がこだわりつづけた「クルマ創り」の最終版。セルシオ、マジェスタと乗り継いできて、現役引退を機に、プリウスにしようかな、と迷った末にボディサイズ(全幅)が1700mmのFR車を選ぶ。操縦性と走行性に配慮しているというので、iRバージョンとした。いまでも正解だったと満足している。

 つまりプログレの生みの親である和田さんの「クルマ創り」に共鳴して、プログレを選んでいた。いろんな機会で親しくお話を伺うことの多かった和田さんの、豪快な笑顔と声が懐かしい。その和田さんはプログレを世に送り出した直後にTOYOTAを離れ、系列のアイシン精機の社長・会長を務めたのち、いまは顧問として後進たちを見守る立場にあるという。最近ではJAF MATEの連載ページ「車人が自ら語る人生ストーリー=だから、車と生きてきた」に登場し、熱いメッセージを披露されていたのを思い出した。改めて目を通したくなったのである。2012年6月号だった。タイトルは『大局的な視野に立てば、車のあるべき姿がわかる』。スペースが1ページなので、どうしても、語り足りない印象が残る。しかし、この時代に、ここまではっきり言い切れる自動車人がほかにいるのだろうか、と思えるくらい、内容が熱い!


*JAF MATE 2012年6月号に掲載された和田明広氏のページ Photo by 増尾峰明

 和田さんは1934年生まれ。56年に当時のトヨタ自動車工業に入社、主として技術開発、製品開発を担当し、セリカやカリーナED、プリウスといった、時代を先駆けたヒット作を手掛ける。(JAF MATE誌の経歴紹介から)

「(意外に思われるかもしれませんが、と前置きを入れて)私はトヨタに入るまで特に車に興味があったわけではないんです」と語り出す。配属がたまたまボディ設計になったのが幸いした。ボディにはあらゆる部品が組み込まれるので、全体の計画ができなければボディ設計はできない。つまり、車のことを覚えるのに最適の職場だった。そこで車両開発の醍醐味に魅せられた。
「(それからは)がむしゃらにモノ作りをしてきました。入社当時はトヨタもまだ小さい会社でしたから、人手が足りなくて新人の頃からいろいろな仕事を任されました」
 和田さんはその例として、クラウンをやっていた人が明日はコロナとか、ドアをやっていた人が明日はフロアだとか、フレキシブルに動いていた、と明かす。

「ですから、垣根を越えて皆で考えたり、よその部署の仕事にも良い意味で口を出す」
 お互いに切磋琢磨しながら各自のポテンシャルをあげていった、という。
「それと、当時は車に対して作るほうも買うほうも夢を持っていました。だから私も多くのことに挑戦しましたし、その代わりミスもたくさんしてきました。だからさまざまな経験ができてきたわけです」

 それが今はミスが許されない時代となってしまったではないか。分業化が進み、各自がわずかなエリアの仕事しかできなくなった。全体を見て物を判断できる人が少なくない、とはっきり言い切る和田さん。モノ作りにはこの大局的な物の見方が大切だと訴える。



*三陸海岸田野畑にて 


*津軽半島三厩の「伝・義経渡道の地」にて

「車は形となり発売されるまでに5年近くかかる場合があります。加えて、その車の使用が5年以上ということを考えて、10年先を見越してモノ作りをしなければいけないんです。それには、何に対してもアンテナを高くしていろいろな知識を吸収すること。そして、その広い視点から車のあるべき姿を考えていくしかないんです」
 プリウスがハイブリッドという新しい時代を切り拓(ひら)いたように……最後に和田さんは高らかにいい切っている。
「未来は技術者が創り出していくものなんですから」と。

 そうだったのか、と腑に落ちることが多すぎる。和田さんがTOYOTAのクルマ創りの責任者になってから、クルマ関係と限定するまでもなく、ジャーナリストとTOYOTAとの交流が活発になった。それまで「聖域」とされていた工場のラインや研究所の見学、テストコースでの試乗会も頻繁に催されるようになっていた。それをわたしたちはTOYOTAの自信のあらわれと受け取っていたが、和田さんのいう「アンテナを高くする」試みでもあったのか、と。

 残念ながら、このページではプログレについて、ひとことも触れられてない。しかし、プログレの発表された1998年から15年たって、5年ほど前の2007年に不人気車の汚名のもとに生産が終了されていることいついて、和田さんにも語るべきことがあるはずだ。文末に(談)というクレジットがある。「取材・構成」者名も明記されてあるからには、かなりの分量のコメントがあったはずだ。そこで、往時の和田さんとの交流のなかから、いくつかのエピソードやら、やり取りを思い起こしてみよう。たとえば、こんな話から……。


*常務時代の和田さん。BEST MOTORING1991年7月号「TOYOTA’91」より

「プログレは、マーケットはもとよりジャーナリストの皆さんからも、小さな高級車を作ってくれという声があり、私もその気だった。それを作らないとBMWの3シリーズが市場を牛耳っちゃうぞ、と。その作る条件として私が課したのは、絶対に5ナンバー枠を守ること。5ナンバーというとすぐに《ちょっとここカッコわるいからここ伸ばした方がいい》って、ついつい5ナンバー枠を超えてしまう。で、5ナンバー枠っていうのは使いやすさという点では非常にいいサイズだと思うんですよ。だから、絶対5ナンバー枠から出すなと。それ以外は何をやってもいいということでやったわけです」

 販売も好調だった。すると他の販売チャンネルからの要請もあって、同じプラットフォームを共有し、デザインをいじり、車幅を20mm広げた「ブレビス」を追加してしまう。

「ちょっとモールを変える程度で我慢しておけばよかったのだろうが、セルシオ紛いのものを作ってしまった。だしたのはいいが、あっという間にダメになる。そうすると、プログレまでもがダメになる」
 プログレは和田さんにとって、どうやら悔いの残る1台であったようだ。


*プログレの足を引っ張った?ブレビス

 そこで改めて、セリカ、カリーナEDというヒット作が生まれ、そしてプリウスという、新時代を切り拓いていった軌跡を検証してみたくなってくるではないか。幸い、そのための絶好の資料が手元で眠っていたことに気付いた。これは2008年に行われた和田さんへのインタビュー集で、和田さんご自身が、オフレコという条件で話した内容があるけれども、後からレポートを読み返すと、オフレコの部分を除くと話が判らなくなってしまいそうなので、少々加筆してぎりぎりのところまで記録に残させていただいた、と断り書きのはいった対談集である。

 これから、自動車人を目指す有志には、とくにご一読願いたい重要な内容が、満載である。それは次回にて。

Posted at 2013/01/09 15:37:37 | コメント(7) | トラックバック(0) | プログレSTORY | 日記
2013年01月04日 イイね!

プログレとの別れ話 

プログレとの別れ話   平成12年にわたしのもとにやってきて、以来8万7000キロを超す走行距離を刻んでくれたTOYOTAプログレNC300 IRバージョンの機嫌が、ひどく悪い。
 その挙句、駐車場にバックで入る際、コンクリート壁に左リアのバンパーをこすって白い擦り傷をつくったかと思うと、朝のエンジン始動で、イグニッションキーをひねった瞬間、ザザザッと不快なハミングをしてから、やっと目覚める始末。


*どこへ行くのも一緒だったプログレ。難転(=南天)の寺として有名な西秩父、宝円寺にて。和の景色がよく似合う。


*プログレ反逆の痕?

 どうやら、御多分に漏れず、クルマを手放そうかな、などとオーナーの心離れがはじまると、それを敏感に感じとって、愚図りはじめたにちがいない。身内のひとりが、にわかに海外へ転勤することになり、ブラックのLEXUS IS250 バージョンLを処分したいのだが、できれば私に引き取ってもらえたら嬉しい、と申し入れてきた。もちろん、グラリとこころが揺らいだ。車幅は90センチほど広くなっているものの、基本的にはプログレの発展型だ。セルシオからマジェスタ、そしてプログレとTOYOTAのFRサルーンに親しんできた。だから延長線上にある選択には違いない。


*LEXUS IS250(ガリバー店頭)

 ふた回りほど若いクルマ仲間のジャーナリストに、この選択はどうだ?と訊いて見た。
「それはいい。プログレのピンと胸を張った、アップライトなプロポーションは、もう古い。空気抵抗が大きくて、燃費に影響しすぎる。その点、IS250のデザインは、セダンでありながら、いかにも地を這った感じがあって、時代の新しさがある」
 そうかなあ。ぼくは最近の車のデザイン傾向が右へ倣えで、とくにフロントマスクが、いつも怒ったような顔をしているのが、気に入らない……。わたしなりの反論だった。

「いや、いや。ぼくらは新しいクリエーターたちのものを、実際に使っていかないと、その新しさの正体を見抜けなくなりますよ。プログレとか、プリウスには、萎れた感じがしてならないですよ」
 萎れた感じ。それは新しいテーマだな。その観点でわがプログレを見始めた途端に、プログレの機嫌が悪くなって、ついにはバンパーに白い傷痕をマークしたわけである。

 練馬・谷原のガスタンクのそばに、行きつけの給油所がある。そこに古い付き合いのH所長がいて、なにかと車の面倒を見てもらってきた。歳末、相談に立ち寄ったところ、年明けに時間をとるから、それまでにプログレ用のマイカカラーの同色タッチペン、下地塗り用のパウダーなどをカー用品店で買っておいてほしい、というのだ。なにやら秘策があるらしい。楽しみに、約束の1月2日の午後を待った。

 1月2日。朝から箱根駅伝をTV観戦。早稲田のエース、大迫が9人抜きを演じながら、区間賞に8秒足りなかったのを見届けたところで、近所の八幡神社に初詣で。やっと午後を迎えた。そろそろ、H所長の手が空いた頃合いだ。
  H所長の提案はこうだった。バンパーの傷は応急処置として、タッチペンで補正してみよう。プログレ全体の萎れ感は「クリスタルキーパー」というボディーコーティングで生き返らせましょう。さらにヘッドイトのカバーグラスを磨きましょう。それで相当にフレッシュアップされますよ、と。







 こうして、洗車、オイル交換を済ませたところで、バンパー傷の補修、そして『クリスタルキーパー』に取り組んだ。控室で待機する間、FBで「近況」を報告する。

「行きつけのGSで給油&洗車&メンテナンス。オイルが真っ黒。御免な、わがプログレよ」と打ち込んだつもりが、「わがプリウスよ」と誤記してしまった。これは、いかん。早速「いいね!」を寄せていただいたFBの仲間にお詫びをしなくては。とくに「みんカラ」仲間である元木久憲さんからは「プリウスは、シビアコンディションになりやすいので……」とコメントまで頂戴しているのに。

 2時間が経って……。目の前の登場したプログレは、はじめて手元に届けられた時のプログレかと見紛うあでやかな姿態を取り戻していた。バンパーの傷跡も、ほとんど気にならない程度に修復されている。
「うん。あとはエンジン、足回りのメンテナンスをすれば……」
 H所長も一仕事した満足感からだろう、いい笑顔でプログレを送り出してくれた。で、その料金は? クリスタルキーパーだけでも¥15,800。結構な出費だが、12年も連れ添ってくれているプログレへのお年玉と思えばいい。





 プログレを目白通りに持ち出した。すぐに環八の、かつてのバイパスだった路線が交差する。ちょっと走ってみるか。

 右へ折れると、練馬中央陸橋から荻窪方向への地下道が待っていた。交通量はまばらである。ちょっと失礼して加速してみた。お、いいね! プログレの機嫌は治ったらしい。IS250には悪いが、わたしのプログレを手放す気は、あっさり霧散してしまった。

 シートだって、本革仕様のISより、このプログレのジャカード織物仕様の方がお気に入りだったじゃないか。それに……和の風景に似合うのは、プログレを置いてほかにない、と常々いっていた癖に……。プログレの声が聴こえたのである。

Posted at 2013/01/04 01:05:31 | コメント(10) | トラックバック(0) | プログレSTORY | 日記
2013年01月01日 イイね!

ダイヤモンド富士と名酒「土佐鶴」~2013年元旦、光に満ちた朝が来た~

ダイヤモンド富士と名酒「土佐鶴」~2013年元旦、光に満ちた朝が来た~ 1月1日午前6時。パッと目が覚める。外はまだ暗いままだ。西の空に月齢20日とおぼしい白い下限の月が残っている。

 謹賀新年。みんカラの仲間たちよ、ことしもかわらない友情をよろしく。

 6時25分。NHKの「テレビ体操」の始まりを待つ。2012年はできる限り、このルーチンワークを守ってきた。体をほぐすのに、まことに好適なのだ。
 いよいよ、その時間が来た。タイトルが、この日だけだろうが『新春テレビ体操』と銘打って、3人の講師、6人の実演助手(それぞれタイプの違う美女軍団)、3人のピアニストが勢ぞろい、門松、獅子舞の獅子頭まで「共演」する華やかさ。
 呼吸を整え、音楽にあわせて、からだの各部を目覚めさせていく。10分間があっという間に終了。今では、これを欠かすと、なんとなく調子が出なくなった。

 普段なら、朝食をとる前にパソコンと向かい合い、「みんカラ」のチェックをはじめるところだが、元旦とあって、すでにおせち料理、雑煮、そして「土佐鶴」の封がきられ、屠蘇が用意されていた。家人と新年の挨拶を交わし、TVのモニターに目を移すと、おお、TBS系のチャンネルが、富士山頂からの初日の出を映し出している。さらに、ヘリコプターからダイヤモンド富士を捉えようと頑張っている。これはいい! と、カメラはパーンして、四国高知の桂浜から初日の出の様子を伝えてくる。



 

 なんという偶然。いま、封を切ったばかりの「土佐鶴」は、正確に言うと、大吟醸原酒「天平印 千寿 土佐鶴」。高知県の誇る、名酒中の名酒で、スコッチウィスキー風にクリスタルの角瓶におさまっている。その由来は、「土佐日記」の紀貫之が酒国土佐の俤をしのんだ歌にあるという。口に含むと、ふっと甘味を帯びた清水が体にしみてゆく……。そんな極上の世界を届けてくれた主こそ、昨夏、筑前の小京都・甘木の小さな旅を一緒した「FRマニア」君の父上である。わざわざ選んで送ってくれたお気持ちを、「土佐鶴」がわが喉をスッと通り過ぎたとき、理解できた。ありがとうございました!

 初日の出のドキュメントを確かめたところで、やっとPCをONにした。メッセージ欄が来信をしらせている。山口・萩の波田教官からの「年頭のあいさつ」であった。そこには、生涯現役をめざす、という決意が改めて、したためてあった。ひとを育てるには自分の生き方をみせること、言葉の大事さを知ること――これはぼくとの「みんカラ」交流から学んだ、とのメッセージ。そして、4月のスーパーGT開幕戦で再会できるのを楽しみにしている、とも。年の初めに、こうした交流のできる「みんカラ」に改めて謝意を表したい。
 2012年の「みんカラBLOG――つれづれなるままにクルマ一代」は75回しか更新していない。テーマも一種の日記代わりのスタイルをとってきたため、あちこちに、気ままに飛び回ってしまった、という反省がある。しかも、書きあげることなく、そのままになっていることが多すぎる。

 そんな反省をかみしめながら、新しく2013年も発信しつづけたい。





 そこでこの項の「締め」として1枚の写真を披露したい。2012年12月9日の筑波サーキットで、新ハチロクのエンジンフードを覗いておどろいた。エンジンカバーにTOYOTAとSUBARUのエンブレムをくっつけた理解不能の赤いクルマと対面した。エンジンにレガシーの3リッターツインカムを移植したという。
 いきなり土屋圭市クンが試乗を始める。滑らかにS字から第1ヘアピンを通過してダンロップ下を抜ける。その試乗レポートは、つぎのホットバージョンに載せます。これは本田俊也編集長のコメント。相当にいいらしい。



 そういえば、筑波を出るとき、入り口ロータリーに立っている「青春像」と、改めて対面したとき、2013年のわがテーマは「ふたたび、青春」で行こう、と自分に言い聞かせた。

 いよいよ、77歳の青春(1月15日に喜寿を迎えるわけか)が走り出した。みなさん、よろしく!
Posted at 2013/01/01 11:21:55 | コメント(6) | トラックバック(0) | 黄金の日々 | 日記
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何シテル?   02/25 09:59
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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