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正岡貞雄のブログ一覧

2013年05月26日 イイね!

ルマンに恋した男たちへの報酬

ルマンに恋した男たちへの報酬~『鎮魂の1冊』第3章~

 1986年。萩原光が菅生サーキットで逝ったその年は、日本から3チームがルマンに挑戦した。ルマンの常連、マツダスピードがマツダ757を投入することを宣言し、NISMOもルマン参戦のラインアップを明らかにし、そしてTOM’S&童夢も名乗りをあげるなど、「ルマン熱」はますますヒートしていた。
*アルナージュを行くマツダCカー Photo by Chikara Kitabatake


*「ベストカー」1986年7月26日号 『ル・マン Watching!』より

『鎮魂の1冊』(5月26日号)から1か月半後の「ベストカー」は7月10日号(6月10日発売)、7月26日号、 8月10日号と3号続けて、ルマン一色だった。なかでも7月10日号の巻末7ページを割いて、6月1日午後4時に幕を閉じた「ルマン速報」を、それもカラーページで掲載している。まだ、画像はフィルムに限られていて、インターネット通信もなかった時代である。どんな裏技を使って印刷に間に合わせたか、想いをめぐらせてほしい。編集者の情熱とこだわりがなければできない綱渡り的テクニックが、そこにあった。
 

 思い起こしてみると、あのころは、みんながルマンに恋していた。
ヨーロッパがもっとも美しく映える季節。花々がいっせいに満面の笑みを浮かべて、妍を競いあいながら、腕をひろげて旅人を迎えてくれる……。
 昼間がもっとも長くなる6月初旬になると、パリの南西、250kmに位置する田舎町ルマンに、世界中のモータースポーツファンが押しかける。サルテサーキットを舞台に繰り広げられる24時間自動車耐久レースに吸い寄せられて、いわゆる「ルマン詣で」がはじまるのだ。2013年は6月22~23日にかけて開催されるという。

 そのころの日本のクルマ社会は、たしかに目覚ましい発展を遂げていた。が、なにかが欠けている、とだれもが感じ取っていた。それがなにか? クルマ文化? 果たして、そんな簡単な答えでいいのだろうか。クルマ・メディアも模索していた。そこで取り組んだのが、クルマ先進国にあって、こちらにないものは何か、を追ってみることだった。


*Photo by Chikara Kitabatake

 その一つが「ルマン24時間耐久レース」。スティーブ・マックイーン主演の映画『栄光のルマン』の影響もあったかもしれない。暗闇のなかを、おのれのヘッドライトをたよりに手探りで疾走する。そんなレースは、この国のどこにもありやしない。せいぜい、鈴鹿のオートバイ8時間耐久レースのフィナーレがそれらしい雰囲気を伝える程度じゃないか。

 それに、ルマンほど危険な牙をむき出しにするレースはない、と教えられていた。1955年、ジャガーDタイプとメルセデスベンツSLRが接触して観客席に飛び込み、レース史上最悪の83名の犠牲者を出した舞台であり、テアトルルージュを右ターンすると、全長4kmにおよぶユノ・ディエールストレートが待ち受けていて、そこでの最高速は、時速370㎞に達するという。そして、ミュルサンヌ、アルナージュと、まだ見ぬ魔界のコーナー名を諳んじたほどである。

 そのルマンにこころを奪われた代表のひとりに徳さん(徳大寺有恒)がいた。その24時間レースがどういう風に、どう行われるかも知る以前から、彼は「ルマンを見て死にたい」と憧れた。それが実現したのは1967年。もちろん、徳大寺有恒という自動車評論家はまだ存在していない杉江博愛(ひろよし)の時代である。当時のルマンは名勝負として知られるフェラーリvs.フォードの真っただ中。フォードの7ℓに対し、フェラーリは4ℓ、V 12、それに極めつきの美しいボディであくなき闘いを挑んでいた。

 徳さんはルマンに教えられる。クルマという奴は人間が造り、人間が動かしている。いかにクルマのレースでも、そこに人間が介在する以上、人間のドラマが展開されないワケはない、と。それを感じ取ったとき、彼はクルマを走らせる側から、ジャーナリスト志望の若者に変身した。そして、売れっ子になったのちも、ルマン詣でだけは欠かさなかった。
 

*Photo by C.Kitabatake 「ベストカー」1986年8月10日号所載

 もうひとり、紹介したい男がいる。同じ1986年、家中の金を掻き集めて、「撮り続ける自分を証明する」ために、まだ無名のカメラマンだった彼はヨーロッパに飛んで、レースを追った。モナコF1、ポーF3000、スパF1、ルマン……。

 その年のルマンは曇天が続いた。しかし、予選の最中、一瞬だけ夕陽が射した。
「ルマンの夕陽は午後10時、観客の数もピークに達します。あのときぼくはフォード・シケインを走るポルシェ961を捉えようとしていました。そこへ夕陽のシャワー。その一瞬が幸運にもぼくのカメラに飛び込んできた。無意識にシャッターを押しました。あれはぼくの作品というより、自然界の贈り物だと思っています」

 色彩派カメラマン・北畠主税の誕生だった。……男たちの闘いの場も、パリで見たモネの絵に似て、燃えるような自然の弾みに包まれている。歌があり、詩がある。それにマシンの咆哮音、速さ、ルマンの観客。それが一体となって醸し出す現代のハーモニー。
『My shot ルマンがルージュに染まる時』と題して「ベストカー」8月10日号に、カラー4ページが掲載され、大きな反響を呼んだ。恋してくれた男への、ルマンからのプレゼントだった。


*ルマンの申し子・北畠カメラマン(通称タンボちゃん) Photo by S..Masaoka

 ここで、改めて『鎮魂の一冊』から読み取った萩原光と、鈴鹿サーキットでの日産Cカーが炎上した不運の連鎖関係をトレースしなければならない。これもことの始まりが、ルマンにあったからである。
 
 何ごともなければ、萩原光は、星野一義、松本恵二と一緒に、この年のルマンにはじめて出場していたはずであった。NISMOはルマン参戦に備えてNew Cカーをマーチから購入、R86Vと呼んで、まず4月6日の鈴鹿で開かれる耐久選手権で実戦テストをしてから、ルマンに乗りこむプログラムを組んでいた。
 ところが、アラスカのオーガスチン火山の大噴火により、アンカレッジ空港が閉鎖されたため、マシンを乗せた貨物機が足止めを食ってしまう。そこで、次善の策として、パッセンジャー便なら飛ぶことに目をつけ、一度、マシンをバラしてモスクワ回りに乗せることにする。
 バラバラにされたNewマシンが日本に到着したのは、レースの週の火曜日。徹夜でサービスを行ったがセッティングを完全にするまでにいかなかったという。



 そして、不運に不運が重なる。決勝当日の公式練習(午前中)のときに、アキラの運転していたR86Vから火が噴いた。幸い、モノコックまでは火が回らず、カウルなどを燃やしただけで、決勝での出走を断念せざるを得なくなる。このため、アキラは耐久レースのスタートを見送ったところで鈴鹿を後にして、一旦、小田原の自宅に立ち寄り、マネージャー役である任(まこと)君の東京のマンションで仮眠をとったあと、早朝、菅生へ。





 そして4月7日の午前10時30分、アキラの駆るMB190‐2.3は第2コーナー沿いの山肌に激突、炎上してしまった。

 アキラが逝って、その代役に選ばれたのは、鈴木亜久里であった。
 日産が初めて挑んだルマン。エースとして期待されたニチラR86Vの予選順位は25位、決勝では星野がスタート後4時間18分8秒後に力尽きてリタイア、と記録されている。もう1台のアマダR85Gの方は長谷見昌弘、和田孝夫がドライブして完走を目指して16位でフィニッシュしている。


*Photo by Chikara Kitabatake



 そして、わたしのルマン。可能な限り、スタッフやライターを送りこみ、1999年になって、やっと念願のルマン行きがかなった。片山右京、土屋圭市、鈴木利男組がTOYOTA・GT-One TS020で総合2位になったあの年であった。 

 もうすぐ、またルマンの季節がやってくる。が、今年のルマンの主役がなんなのか、余り心が躍らなくなっている。それより、セパンのスーパーGTの方が気がかりだ。
  (この項、おわる)
Posted at 2013/05/26 21:43:37 | コメント(9) | トラックバック(0) | 黄金の日々 | 日記
2013年05月16日 イイね!

もう一度『鎮魂の1冊』の不思議について 

もう一度『鎮魂の1冊』の不思議について  ~ベストカー1986年5月26日号~

 濃密だった4月6日から3日間にわたる「岡山の旅」は、まだ「とば口」を紹介したに過ぎない。その上、『風になったプリンス』への鎮魂の1冊としてとりあげた《「ベストカー」’86年5月26日号の不思議》も、122P目に、三推社(いまの講談社BCの前身)から、その3月に出版したばかりの萩原光の「俺だけの運転テクニック」が遺稿のかたちで広告されていた、という程度のつっこみ具合で、あわただしく締めくくってしまった。


*発売されたばかりのレパードの広報車をパドックに持ち込む。OKサインの星野、コクピットを覗き込むアキラ。絶妙の師弟コンビだった。

 この「俺だけの運転テクニック」は、別冊ベストカーの赤バッジシリーズとして定着しており、生沢徹、星野一義、松本恵二、片山敬済、中嶋悟、ジャッキー・イクスの順で刊行されていた。ここに新しく萩原光が選ばれ、いわばレーシングドライバーとして、一流へのパスポートを手にしたばかりだったのだ。そうした注釈もおろそかにしていたのだから、お恥ずかしいかぎりである。

 それもこれも、この5月6日からの入院加療(冠動脈カテーテル治療)が待ち受けていて、せめてそこまでのまとめだけはしておこうという想いでやっとたどり着けた、というのが正直な楽屋裏だった。

 幸い、「第1期工事」を無事終えて、一旦解放される身となった。5月14日の午前5時。いつものように、仕事部屋の窓から臨めるしらしら明けの西の空を眺めてから、わが胸に手を当てて、主動脈を快適にかけめぐる「命の営み」に感謝しながら、改めて、そのつづきにとりかかることができた。

★         ★         ★

 4月7日、pm2:00。スーパーGTの決勝レースがはじまった。300クラス、予選11位のゼッケン62、LEON SLSの第1ドライバーはガンさんジュニア―の治樹選手。その走りを確かめるために、空港からずっとサポートしてくれる波田教官とわたしは、Bパドックから陸橋をわたって、高台となっているCパドック側へ移動していた。



 レース前半の観戦ポイントはここに決めていた。そこからなら、スタート直後のファーストコーナーのやりとりから、つぎの逆バンクに近いウィリアムスコーナーの脱け方がモロに見えるし、少し場所を移してガレージの裏手にいけば、今度はバックストレッチからヘアピンコーナーへのアプローチ、そして右ターンしてからはじまる、岡山国際名物のインフィールドの闘いが展開される地点を、間近に見下ろすことができる。

 つづくリボルバーコーナーで左ターンすると、ドライバーはネット越しに、鈴なりの観客と間近に正対し、アクセルコントロールで、さらにつづくパイパーコーナーから、オーバーテイクをしていくためのキーコーナーとなるレッドマンコーナーに飛びこむ。







 マシンと観客が一体化して熱狂する観戦ポイント。ここではマシンも、ドライバーも、そのポテンシャルと技術が、みごとに丸裸にされてしまうのだ……。特にこの日は気温も低く、タイヤが温まるまで、決して無理をしてはならない状況だった。
フォーメーションラップで、各車がはやる心を抑えながら、目の前を通過していく。1台だけ「ヒューン」と魔女の笛のようなエンジン音を残して、インフィールドでは最後のコーナーとなるホブスコーナーを右ターンしていったのはどのマシンだろうか。


 
 この地点からは見えないが、メインスタンドの前を咆哮するエンジン音の塊りが、左から右へと疾駆する。次の瞬間、コントロールタワーの右脇から、500クラスのトップ集団が飛び出して第1コーナーへなだれ込んだ。1台が、グラベルベッドに飲みこまれている。こうしてガンさん監督の、開幕第1戦の闘いが、やっとはじまった。


*無事レースを終えた直後のガンさん監督。健闘したメカニックをねぎらう。目頭を抑えている。



*一つが終わり、また新しく一つが始まる。ガンさん、73歳、毎日が新しい。


 結局、第1戦の結果はクラス6位に終わった。同じメルセデスベンツSLSは5台が出走して、その中の3番手だから、いくら初戦はデータ収集が大事、と言い訳してみても、それはお互い様。セカンド・ドライバーの加藤正将選手が、マシンを壊さずに無事、後半をまとめたのは評価できるとしても、次戦からはもっとアグレッシブに攻めることができるのだろうか。ガンさんの心中は決して穏やかではなかった。

 さて、その日、このインフィールドに立って、あ、と思い起こすものがあった。東北・菅生サーキットのインフィールルドの佇まいを連想したのである。萩原光が炎上事故を起こした時の菅生は、まだインフィールドもない、1周、2.7kmくらいの高速サーキットではなかったろうか。たしか、第1コーナーから真っ直ぐ山側へ昇っていき、いまのハイポイントに結ばれる設計だったはずだ。光はそこで右ターンをすることもなく、真っ直ぐ山側の岩盤に吸い込まれて行った……と。

 その記憶は間違いなかった。「鎮魂の1冊」の150Pに「菅生サーキット3.7kmに延長。国際公認サーキットに変身だ!!」とタイトルしたコラムから、往時の様子を知ることができたのである。参考までに、その頃のコース図(1周、2665m)と翌年4月にオープンする改修後のコース予想図が掲載されていたので、ここで引用しておこう。もっと早く、改修されていれば、光の悲劇は恐らく避けられていたに違いない。




 そして、ひょいと対向ページを見て、さらにもう1回、あ、と思い起こすものがあったのだ。なんとわたしが参戦した「ミラージュCUP フレッシュマンレース」の初レースを、2Pにわたってレポートしているではないか。


*1986年4月6日のミラージュカップ・フレッシュマンシリーズ第1戦。筑波サーキット。初参戦のスターティンググリッドにガンさん監督とともに向かう……。

 4月6日の筑波サーキット。あの日のガンさんは、わたしのミラージュ初レースを見てくれた後、その足で仙台のホテルへ向かったのを、はっきりと覚えている、そして、翌日の菅生での出来事。何か、見えざるもの構築した禍々しいストーリーが、この「鎮魂の1冊」から読み取ることができる。それが、同じ4月6日朝の鈴鹿サーキットでの日産Cカーのエンジン炎上のアクシデントという伏線なのだが、それについて、改めてトレースしてみると、なんという不運の連鎖か、と絶句してしまった。
(以下、次の更新まで)

2013年05月06日 イイね!

『風になったプリンス』への鎮魂の1冊

『風になったプリンス』への鎮魂の1冊 ~『ベストカー』'86年5月26日号の不思議~

 なには措いても、約束通りにガンさんの追悼文『東北・菅生で萩原光(あきら)が風になった日』をつづけよう。1986年4月7日の朝、菅生サーキットのウィナーズサロンで、《レイトンハウス》のチームメイト、萩原光と冗談を言い合いながら、テスト走行の準備をしていたところまでは、紹介済みだった。

 着替えがすむと、ぼくたちはピットに入った。
 グループA第1戦(西日本サーキット)でスカイラインとデッドヒートを演じてくれた本番車と、4月5日に購入したばかりのニューカー、MB190-2・3が並んでいる。
「どっちに乗るんだ?」
 ぼくが訊くのに、光はすかさず、答えた。
「本番車でたのみます」


*’86年度GrA第1戦、西日本サーキットにて。ガンさんのドライブで7番手から出て、2位まで上がったのだが……。右端の光のソックリさんが任(まこと)マネジャー

 彼はチームのファーストドライバーだ。ニューカーのテストは「当然、ぼくの仕事です」と、その目が語っている。
「よっしゃ」
 ぼくはMBに乗りこむと、先にコースに出た。7、8周したろうか……。59秒台が出たのでいったんピットインすることにした。スプリングとギアのレシオがいまいちでもあったから。
 その間、光は走っていた。聞くところによると、彼は一度ピットインしたらしい。
 だが、その走りっぷりは攻撃的で、しかも、繊細。ニューカーとの入念な対話がうかがえて、テスターとしても満点だ。《本番車》の調整のために、メカニックが部品を探している。
 レイトンハウスの赤城社長が「部品が届くまで乗ってきたい」という。ギア比の問題点をちょっぴりレクチュアして、ぼくは赤城社長の乗る《本番車》をピットから送り出した。


*GrA第1戦、西日本サーキットを沸かせた、長谷見昌弘との大バトル

 コースでは光のMBとトッペイちゃん(都平)のスカイラインがテール・トゥ・ノーズで周回している。快調に飛ばしている。
「やるじゃないか」と、ぼくは思わずニンマリとしたものだ。
 光のタイムが上がってきた。トッペイちゃんのスカイラインを引き離していく。

 突然、サーキットからエクゾーストノートが消えた。しかも、全車とも戻ってこない。おかしいなあ……ピットで誰かれとなく、つぶやきはじめたとき、コースの管理者がすっ飛んできて叫んだ。
「誰か、赤旗を降ってくれ! たのみましたよ!」
 と、消火器をもって彼もピットを飛び出していった。メカニックの若者が赤旗をもってコースにでたもののそれはなんの意味もなかった。1車たりとも戻ってこないのだから……。クラッシュだな、いったい、誰だろう――。

 レイトンカラーの16番が全開でピットロードを突進してきた。赤城社長が運転する《本番車》だ。
「消火器! 消火器を出してくれ! 光らしい。光みたいだ」
 クソ! ちっぽけな台所用の消火器しかない。ぼくとメカニックはMB16番に飛び乗って《現場》に飛んだ。

 すごい風だ。吹き荒んでいる。
 火が舞い上がる。もう、恐ろしいほどの火だ。クルマの中の黒い陰影、あれが光なのかっ!
 はやく! はやく火を消せ!
――ところが、消火器程度で消えるシロモノじゃない。まったく、手がつけられない状態である。光を包みこんだ炎が風にあおられて、右へ、左へ!

……30分ほど経過しただろうか。やっと鎮火した。火は消えたが、光は、サーキットの風になった。

 つい先刻まで、満開の桜のように輝いていた青年が、炭化して、真っ黒な物体に変っている。狂ったような炎に包まれて光は悲鳴ひとつあげることもできず、コクピットの中で、孤独な最期を迎え、あげく、無残な遺体になった。
 ★      ★      ★      ★      ★

もっていきようのない怒りがこみ上げる。がンさんは心の中で光に、詫びながら、誓っていた。

「強風と、なんの役にも立たなかったちっぽけな消火器。光の若い命を救えなかった原因は多々ある。けれども、なによりも先に、光に詫びなければならない。プロフェッショナル・レーシング・ドライバーと呼ばれるぼくたちが、それを仕事としたときから実行しなかった安全対策、ドライバー間の相互連絡機構など、先輩としての《やり残し》が次から次に、ぼくの頭に浮かんでくる。光、聞いてくれるか。きみの死を無駄にしないためにも、モータースポーツ界の矛盾を掘り起し、まず第一に取り組まなければならないのは、レーシングドライバーの安全対策だ。せめて飛行場にある化学消防車を各サーキットに配置してもらうよう運動したい」

 ガンさんには、あの富士スピードウェイでの多重アクシデントをはじめ、不幸な過去がある。彼自身が死に直面したレーシング事故もある。星野一義、松本恵二らと語らって、それからのガンさんが精力的に動いたのを、わたしは記憶している……。

 その前後の記憶を確かめるために、ベストカーのバックナンバーを洗うことにした。そして、驚いた。1986年5月26日号(発売は4月26日)、この1冊に「風になったプリンス」にかかわる、確かめたかったものがゴッソリ、集約されて掲載されているではないか。
その時の編集関係の総責任者は、わたしだった。表紙は当時、カネボウのCMで売出し中だった浅香唯さん。



いきなり巻頭のカラーグラビア6ページを割いて『ニュルブルクリンク発 ポルシェ959世界初試乗』。ドライバーズシートには徳大寺有恒が……。締め切りの時点でフィルムと原稿はまだ空の上。担当の宇井副編集長が絶望の悲鳴を上げていたのを思い出す。

そんな綱渡りも日常茶飯事だった。そのポルシェ959に魅せられて映画まで創ってしまったのが「レイトンハウス」だったという絡み合い。



活版ページは51Pから始まる。そこは「目次」が当てられていて「萩原光炎上死、その時何が起こった!?……115P」というタイトルが、わたしを誘ってくれている。が、ペラペラとめくっていく途中、見覚えのあるページが待ち受けていた。

「FRI・フォーカス」としゃれた題をつけ、見開きで萩原光の告別式の模様を伝えたのは、このページだったのか。アキラ専用だったF2マシンに花々を供え、アキラのパネル写真が飾られている。この葬儀は、あたかも鈴鹿・富士のパドックを再現したかのようだった。

「光にレースを許したとき、いつか、この日のくることはわかっていた。覚悟はしていたけれども、親として、この子だけはと……。お世話になった皆さんにご恩返しもできないまま、光は死んでしまった。でも、恩返しは弟の任(まこと)が光に代わってやってくれるでしょう」



 4月12日、告別式のあいさつで父、萩原本之さんが痛恨の胸中をのぞかせていた。

そうだった、この記事は、葬儀に出席したわたしが書いたものだと、記憶が蘇えってきた。小田原市の小高い丘に並ぶ墓標のひとつに、若い石肌をみせる光の永眠の場がある。光を弟のように可愛がっていた星野一義は、その墓石に水をかけたとき、はじめて「光の死」を実感したと漏らす。そして、菅生の事故の前日にも、光は鈴鹿でマシンが燃えてしまうアクシデントに見舞われていて、不吉な予感がしてならなかったと明かしていた。



「信じる、信じないじゃなくて、いっぺん神社へ行った方が……」

 エエ、と光は肯き、弟の任もウンウンという具合に首を縦に振ったという。
 そんなくだりを、「連載・シリーズ闘う男」のなかで、触れている。そして、モノクロのグラビアページ(157P) で、鈴鹿のピットロードで燃えているニッサンR86 Vを見せている。もちろんドライバーは光である。

 115ページ。「闘う男」の中で、ドキュメント風にこう記されている。

*4月6日(日)=鈴鹿*朝のウォーミングアップでアクシデント発生。アキラの駆っている日産グループCカーが炎上した。ちょうどストレートのオーロラビジョンの前に並行するピットロードでストップ、火を噴いた。レース出場は断念。耐久レースのスタートを見送る。スタート直後、マネージャー役でもある弟の任くんの運転で小田原の自宅へ。PM1時着。PM10時、東京。任君のマンションで仮眠をとる。

*4月7日(月)=AM5時*白のMB500を駆って一路、菅生へ。レイトンハウス取締役の八島正人氏、レーシングドライバーの影山正彦くん、それに任君の3人が同乗、交替でハンドルを握る。

▼AM8時45分▼菅生着 モーニングコーヒーを飲みながら、スタッフと雑談。そこへ黒澤さんが仙台から到着。ウィナーズルームで、ふたりで着替える。

 ここでやっとガンさんの追悼文とドッキングできたわけだが、ふっと気がついた。4月7日の命日は過ぎてしまったが、近く、小田原の萩原光クンの眠るあの高台の墓標を訪れてみようと。

あの笑顔が、今でも鮮やかに甦ってくる――。

「シリーズ 闘う男」のMEMO風ドキュメントをもう少し、つづけよう。

▼AM10時▼コースイン ガンさん《本番車》で周回。アキラはMB190-2・3のニューカーに搭乗。
▼AM10時30分▼MB190-2・3、第2コーナー沿いの山肌に激突、炎上。テール・トゥ・ノーズでアキラを追っていた都平選手の目前で火花が散った。駆けつけたレイトンハウス社長、赤城氏はホイールの色でアキラのクルマと判断。3月末到着したばかりのニューカーはカラーリングも白のままだったが、ホイールだけはチーム用を履いていた。

*4月8日(火)*AM1時、遺体となったアキラ、小田原の実家に着く。
*4月9日(水)*火葬。
*4月11日(金)PM7時、通夜。戒名・曹洞宗=新帰元超雲光徹居士。レース関係者が続々詰めかけて、アキラの死を悼む。そこはまるでパドックの再現だ。1昨年事故死した高橋徹選手の母の姿も……。
*4月12日(土)*本葬。桜の花が散る中、アキラ天に昇る。
▼PM6時▼忌中祓いの席上、あいさつに立った星野、慟哭、無言。

 ベストカーの122P、出版したばかりの萩原光の「俺だけの運転テクニック」が遺稿のかたちで広告されていた。わたしたちが、どれほど彼に期待していたか、一緒に夢をみようとしていたか。それがうかがえる。

Posted at 2013/05/06 02:29:37 | コメント(8) | トラックバック(0) | 黄金の日々 | 日記
2013年05月03日 イイね!

『レイトンブルー』は悲しい色やねン

『レイトンブルー』は悲しい色やねン~「GT開幕戦」&「ベスモ同窓会」への道・第3回~

 ハッと気がついた。30年ほど前には一世を風靡したその色を見て、30回目の誕生日を目の前にして、桜花が散るように、菅生で逝ったあのレーシングドライバーの命日が、今日であった、と。そしてこのことを、その日一日は黙っていよう、と心に決めた。

 4月7日の朝、8時。岡山国際を舞台にしたスーパーGT開幕戦が決勝の日を迎えていた。
 雨にたたられた前日が嘘のように、穏やかな日差しのふりそそぐ瀬戸内・中国地方は平和な佇まいがよく似合う。すでにサポート役の波田さんは、駐車場から山口ナンバーのHONDAストリームをホテルの玄関へ回してくれていた。その後ろに高知ナンバーのハイエースが控えている。


「おはようございます」
 朝の挨拶をしながら、目の覚めるような、派手な色のブルゾンを羽織った青年が近づいて来る。前夜、同じ駅前のホテルで合流し、近くの串焼き割烹で夕食を一緒にした小松青年(みんカラHNはFRマニア)である。彼に関してはすでに2012年7月12日の『ご無沙汰した理由~あるいはその言い訳として~』の章の後半と、8月20日の『ミンミン蝉の歌う朝に~みんカラ仲間との「筑前の小京都・秋月行」②』で紹介済みなので、そちらを参照願いたい。


「黒澤さんに見てもらおうと思って、局長からいただいた《レイトンブルー》を着てきました」
「うん、きみなら似合うね」
 若々しさと、明るさが匂い立つ。小松君も満足そうだ。何回か、わたしが袖を通したことのある、レイトンハウスカラーのサーキット専用ブルゾンであった。

 去年の秋、九州オートポリスでのスーパーGT第7戦に大分に在住する大学生、小松道弘君にわたしの代理でガンさんの応援に行ってもらったのはいいが、薄着の彼は雨と霧、そして寒さにすっかりやられてしまった、という。その御苦労賃として、同じ大分にある妻の実家で保管してあったブルゾンを進呈していたのである。

「レイトンハウス・レーシングチーム」。
 ひところのわが国のレーシングシーンを賑わせたばかりか、F1チームまで運営した「時代の寵児」だった。アパレル事業もヒューゴ・ボスと提携するほどの勢いで、ついにはホテル事業まで手がけた。それが、バブルの崩壊と同時に金融不祥事を問われて、消滅して行った記憶も、いまではすっかり薄れていたはずが、そのエメラルドグリーンを連想させるパステルカラーの色彩に出会うと、「レイトンハウス」に関するさまざまな記憶が悲しげに蘇えってくる。
 ちなみにファッション誌ライターであった徳大寺有恒さんは、その色を「ミントグリーン」と呼んだ。そのほうが、色にこめられた儚さが伝わってくる。


*岡山での3日間をサポートしてくれた波田ストリーム

 岡山市内を抜け、山陽自動車道を東へ。追尾してくるハイエース(高知からやってきた小松青年のお父上、健一氏がハンドルを握っている。なにしろベスモ創刊からの愛読者だというから、運転にも年期がはいっている)に気配りしながらのカリスマ教官、途中で追い越し車線を、団子になって「ドーン」と疾走していったポルシェ911の軍団の無作法さに、ピクリとも反応しない。
「ああ、スーパーGTのサポートレースでポルシェのカレラカップがあるんで、その関係者が先を急いでいるんだろうね」
 助手席に陣取ったわたしから声をかけた。
「そうでしょうね。全車が特注ナンバーの911をつけていましたから」
 さすが波田さん、しっかり観察していた。
 
 和氣ICで下の道に降りた。このあたりは古代、大和王朝をバックアップしてきた和氣一族の発祥の地である。物なりのいい田畑が広がり、山と川がそれをそっと包み込んでいるこの盆地は、明日香の里を連想させる「何か」が感じられるのだ。JR山陽線を跨いだあたりから、波田さんはサーキットへの裏道にコースをとる。昨日、岡山空港からアプローチした時に、田部君に教わったルートが、NAVIに記憶されているから、迷いもなく、桜が満開の和氣の里を抜けて、日置川ぞいに山間の道へ入ろうとしていた。







*和気清麻呂像。奈良朝末期、称徳天皇(女帝、孝謙天皇の重祚=2度目の即位)の寵愛を受けて朝廷をほしいままに動かし、ついには天皇の座をねらったといわれる弓削道鏡の陰謀を阻止したものの、天皇の不興を買い、薩摩に幽閉された硬骨の高官として知られる。



「ちょっと、停めて。川のむこうに見える、あの神社に寄って行きましょう!」
 指さしながら、わたしは波田さんを制した。「和氣神社」の立て標識が目に入り、ひらめくものがあったのだ。パワースポット特有の人を招きよせる磁力が、そこにはあった。和氣清麻呂を祀った神社だったのだ。
「そうだ。ガンさんチームの戦勝祈願をしていきましょう!」

 11時25分、小松青年の待ちに待った「ピットウォーク」の時間が来た。彼は入場観戦券(7350円)とは別に3000円のパスを買い込んで(もちろん、支払いは同行した父上だろうが)いそいそと、マッドブラックで統一されたLEONチームのピットへと人垣をかき分けていた。


 
 ガンさんが、目ざとく小松青年に気づいてくれた。
「おお、よく来てくれたね。それにしてもそのレイトンブルーのブルゾン、全然、色が褪せてないね。よく目立つよ」

 ガンさんも記憶をまさぐっていた。1986年の秋、作家の五木寛之さんらと「風の仲間」を結成して、MACAOグランプリのギアレースにGr.Aシビックで出場したが、その時のチームスポンサーが「レイトンハウス」だったこと。それも元をただせば、その年からガンさんは萩原光(あきら)をファーストドラーバーとして、「レイトンハウス」のメルセデスベンツ190E-2・3-16で Gr.Aに参戦した縁があってのことだった。





 その流れのなかで、どうしても消すに消せない悲しみの記憶があった。それがその頃〈モータースポーツ界のプリンス〉として注目を集めていた萩原光の炎上死である。もちろん、サーキット場でそのことに触れることは、お互いにしなかった。

 27年前のその記憶。レースが無事に終ったところで、一度、まとめておこう、と思った。なぜなら、あのプリンスが菅生のコース・インを最後に見送ったのが、ガンさんだったのだから。ご本人も、「追悼 東北・菅生で萩原光が風になった日」と題して、こう記していた。

――4月7日早朝、ぼくは仙台市のホテルを発って菅生サーキットに向かった。寒い朝だった。桜の季節なのに、真冬の寒風が狂ったように吹き荒れていた。
菅生に着くと、すでに光(あきら)がいた。冗談のいえる男じゃないのに、なぜか、いつになく明るい表情の光だった。
「早く着いたんだね」
 ウィナーズサロンで光とレーシングスーツに着替えながら、ぼくは光の到着の早さを意外に思って、話題にした。
「ええ。きのう(4月6日の鈴鹿耐久レース)、やっちゃって走行不能になったものですから」
 鈴鹿の午前中のウォーミングアップでクルマ(日産グループCカーR86V)が炎上、本番に出場不可能だったということだ。その分、予定が繰り上がって、ぼくより早い菅生入り……。
「あっちにいても出場は無理だったでしょうね」
 光はちょっぴり照れたような顔で、鈴鹿での経緯を話した。それは攻撃性にあふれていて、まさに光の今年の走りを象徴するかのようだった。



 ぼくと光は、レイトンハウス・レーシングチームのメイトとして、今年はグループAに参戦し旋風を巻き起こすべく、意欲を燃やしていた。特に光は、チームのファーストドライバーであったから、その張り切りようはすごいものだった。
 菅生サーキットにやってきたのは、だから、チームのMBのテストのためであった。
 それにしても、光は陽気であった。コースに渦を巻くような寒風をものともせず、時にヘタなジョークを飛ばし、自分で笑いころげた。
 その笑顔はまさしく満開の桜だった。


*この笑顔が、今でも心に残っていて、それがまた悲しみを誘うてしまう。
 
  この後も、ガンさんの追悼の記は続くのだが、それは次回更新まで。

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1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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